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Posts Tagged ‘integration’


『資本主義からの逃走』
「ようやく、『メディア・インテグレーション』の到来!」


   


     8月 12th, 2010  Posted 12:00 AM

マルチメディア
1990年代はじめは「マルチメディア」という言葉一色でした。
私は、直感的に「マルチ」という言葉に抵抗がありました。
マルチタレント、マルチ商法など「マルチ・multi-」という冠詞的な英語は、
ただ「多数の、多量の、複数の」などという言い方に過ぎず、
核心的意味は拡張していて曖昧なまま拡散しているだけでした。
当時はバブル期であって、特に東京の喧噪さが異様でした。
けれども私はApple社と契約をしていて、いくつかのプロジェクトに関わっていましたので、
この異様喧噪さを傍観し観察することができました。
「マルチメディア」という言葉も、コンピューティングの「中心相」でした。

「相」です。これは二つの意味があります。
aspectとphaseです。
aspectは、語源がロシア語(スラブ語系)であり、phaseは物理的な術語系からの言葉です。
ここから私のある意味では、他人から見れば誇大妄想に入っていきました。
つまり、自分には、道元の華厳経解釈につながっているというほとんど直感で、
マルチ化するメディアとメディアのマルチ化をaspectとphaseに配置してみると、
それはintegrationに至るのでは、ということに辿り付いたのです。
integration
簡単に言い切れば、multi-の拡散性よりは、
複数のことが結合したり統合したり総合化に秩序がなければ美学的なデザインではないということです。
それは道元の言う「総相・別相・同相」にヒントがあるはずだと直感的に納得したのです。
ただ、私にはどうしても道元はやはり宗教家という一般的認識があるはずです。
ところが、コンピューティングは科学であり、技術、社会基盤です。
私自身は、道元は哲学者であり、超宗教論者、超科学者と思っていましたが、
これらは風評=オカルト的評判をまともに受けることが予想されました。
したがって、「デザイン」の下敷き、
その基盤的考え方に、そのようなイメージは絶対に与えたくありませんでした。
「デザイン」は、ある局面をとらえると、
「直感」があり、「哲学」が歴然と在るわけです。それらを美学性で統合化しているのです。
そこで、「マルチメディアではない、メディアインテグレーションです」と、
様々な場で発言してきましたが、全く質問どころか反論も受けずに、
《まぁ、能書きつけてる》という気配を受け取っていました。
それでも必ず「時」が来るという自信がありました。
メディアインテグレーション
大学人となって、「メディアインテグレーションの研究」と掲げても、
美大卒・デザイナーの戯言扱いだったと思います。
今もそのイメージに包囲されていますが、「作品」=「商品」実相は歴史が裁決するでしょう。
その自負心があります。
大学人や研究者の、「学際性無き、貧相さ」は虚相だということが現実相では無分別です。
その後、「マルチメディア」の流行語の後には「ユビキタス」が来て、今は「クラウド」です。
私もこうした時流言葉は多用していますが、
根底には、「華厳経」があり(これも風評を招きます)、
aspect・phaseで論理化できる「相」があり、
そして「メディアの統合的な秩序としての美学性」に至るというmedia integuration、
その時代的諸相が時代・社会化が確実にスタートしてきました。
この「相」無き人は不運です。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・5」


   


     5月 7th, 2010  Posted 12:01 AM

度量衡

人の心が広いことを「度量が大きい」と言います。
「度量衡」の中で、「量」という概念が、
日本には無かったのでは、ということから、
私は、徹底的にこの「尺度」=これも大きな疑問でしたが、
調べまくった記憶があります。
無論、こうした尺度観は、中国から朝鮮を経て入ってきましたが、
日本では、私はやはり、「度・衡」だったという思いが強いです。
度・量・衡は、度=長さ・量=体積・衡=質量ですが、
さらに、度・量・権・衡で、権=重さを量る分銅を表していると言われています。
そして、この概念と実務は「国家制度」の根幹です。
なぜなら、「税」はこの尺度制度そのものの「政治体制」だからです。
したがって、度量衡とMedia Integrationはやがて、
「社会制度」へ展開することは間違いないと断言しておきます。

さて、度量衡の概念と実際、この基本的な発想は、
「度」という概念をわが国が理解して「量」ということへ
つながっていったのではないかというのが私の独断的な結論になっています。
つまり、「度は長さを測る」ことから始まったと考えることができるからです。
これは、私が「音」からスタートしたデザイナーだったから、
その印象に囚われていたのかもしれませんし、確信しています。
なぜなら、「長さ」を測る基準が何だったか、ということになります。
中国で「黄鐘」=「律管」という笛に心惹かれたからです。

世界的には、「長さ」は、ほぼ五つに分類することができます。
1・「人体から」・腕の長さ、身長、指など
2・「自然物から」・穀物、アワやキビの長さや幅など
3・「道具から」・鋼や糸、結び目など西欧の言葉に残っている
4・「人や家畜の速度から」・日の出の最初の光を見て歩く距離など
5・「物理的なモノから」・ここに私が推測し、現代につながる長さの基本

律管と光

こうしたことから、「度」は長さであり、
長さが分かってから
やっと「量」への概念が生まれたものではないかということです。
なぜなら、私流には、黄鐘=律管で「音」が違えば、
基準を決定する上で、
もっとも、「性能的な尺度観」ができると考えます。
現代、光の速さ=光速というのが長さを決定する基本ならば、
おそらく、「光」はMedia Integrationの基準ですから、
「度」は重要な概念として、
情報の度数は、「光」だと断言できます。
「光」の国家管理・国際管理が制度化するのでしょう。
やや乱暴な記載ですから、
「度量衡」はさらにメモを重ねていくべきだと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・4」


   


     5月 6th, 2010  Posted 12:01 AM

Qというアルファベット、
その文字としての変遷は、とても興味深くて、
変遷しながらも意味が普遍だったことに注目すれば、
QuantityやQuality、そしてQuestionにつながっている。
無論、ヒエログラフでは砂丘の斜面であり、
発音もローマ字q(ku)と同じだったらしい。
精子や水が形態的には、テールに表れています。

この発音はシュメール語に由来があるのかどうかは不明。
しかし、ヘブライ文字、フェニキア文字、エトルリア文字では、
斧であり、「切断」の概念を意味していると言われている。
切断は、人間が叡智に到達するために、
自己がどれほど自らを孤立させ、
その孤高さを受け入れるかという象徴性があります。
この「叡智」を意味することから、
IQ=Intelligence Quotientに明快に表れています。
それでは、なぜ、
QuestionやQuantity =量・Quality=質に至っているのかは、
量と質は、「度・量・衡」に集約しています。
度・量・衡
qがquintalという重量単位であったり、
Q-ValueやQメーターなどの名称とその機能性の中核は、
明らかに、人間の叡智だと考えます。
たとえば、すでに伝統的な映画「007」での
Qという人物は、発明家として重要な登場人物です。

Mediaにとって、「度はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「量はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「質はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「衡はどのようなIntegrationなのだろうか?」

以上を、私は念頭において、
「度量衡」がデザインにとっての叡智尺度であることへ
私の思考を続けていきたい。


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『資本主義からの逃走』
「 Media IntegrationはTool Integrationを励起している・7」


   


     4月 29th, 2010  Posted 12:05 AM

Media?Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。

ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。

価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationは「述語論理」だという確信・6 」


   


     4月 27th, 2010  Posted 12:01 AM

オブジェクト指向
「概念記法」が書かれた時、
日本はようやく明治維新への時代だろうと思います。
これは、おそらく「オブジェクト指向」を示唆した最初の記述であり、
なおかつこの記述が、
100年後には、コンピューター言語が生まれ始めるわけです。
私が、コンピューターに出会って初めて
機械との「対話」に言語が必要だと知りました。
対話
それはMacintosh128Kで、
「bit map」と「object oriented」に触れるのです。
そして、これが「絵」を描く対話と「図」を描く対話になります。
ソフト的に言えば、MacPaintとMacDrawというアプリケーションでした。
そして、確実にMacDrawが「図解」というオブジェクトであり、
円、四角形や多角形というオブジェクトは、
それをパレットツールから選べば、
その大きさを自由に変化させるという「対話」でした。
つまり、「対話」という手法は、
モノと自分との関係で何なんだということです。
モノに語りかけ、モノが語る=アフォーダンスにつながっていくのです。
パソコンの画面との「対話」感覚は、
ストレートにデザインによっての構造化=関係化です。
さて、「概念記法」にもどれば、二つのことが明解になっていきます。
ゴットロープ・フレーゲが提言した「命題論理」と「述語論理」です。
しかし、この「述語論理」を理解することは、
とても困難だと考えます。
この困難さが数多くのデザイン造形には顕著に出ています。
どんなにヒットしようが、造形的な破綻を見抜くのは才能に他なりません。
述語
「述語」というのは、「AはBである」=命題に対して、
Aというのはどんなこと、何なんだ。
BというのはAに対してどうなんだ。
この「どうなんだ」・「何なんだ」ということです。
簡単に言えば、デザイナーの能力は「述語論理」が制御できない場合、
デザインという職能には不適切だと言い切っていいでしょう。
私はデザインを教える立場にになって、
「述語世界」に入れないデザイン学生を不憫に思うのです。
このきわめて抽象的な論理は、
中村雄二郎著「術語的世界と制度」を読んでいただくことが賢明でしょう。

結局、Integration=秩序性のある統合というのは、
「対話」の決定的な「述語」の使い方に終始するのです。
オブジェクト指向とIntegrationは、
「述語論理」を「対話性」にどのように配置するのかということです。
そして、この決定が可能である手法は、
唯一、「デザイン」だけでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationへのプレゼンテーションツール・4」


   


     4月 25th, 2010  Posted 12:01 AM

Idea Processorからはじまる!
Macintosh128kからパソコンの歴史が始まったといえるでしょう。
私はそれまでApple?をながめつつ、
シンクレアZX81でBASICにふれていました。

Macの登場以来、パソコンはデザインツールだと言い続けてきました。
しかし、もう一方では、
プレゼンテーションツールに惹かれてきました。

プレゼン・ツール
そのきっかけは、アイディアプロセッサーでした。
ThinkTank512はMOREとなり、
その図形発想は後の私の「図形」でコンセプトやコンテクスト、
その思考をまとめていく発想手法になりました。
プレゼツールは次のようなソフトから、
やがて二つのアプリケーションに分かれていったと私は考えています。

統合ソフト
文章作成と表計算、図解とプレゼンテーション、
そしてこれらが統合ソフトになるわけです。
そのスタートがJaZZだったと評価しています。

なぜならこのJaZZソフトは、マニュアルからすべてがデザインでは最も評価できました。
しかし残念ながら、当時、これは一般受けしませんでした。
この流れがロータス123になっていったのです。

PowerPoint
さて、プレゼンテーションソフトの決め手は、
PowerPointの登場でした。私は驚喜しました。
MacWorldの会場で、
回路基板をMacintosh SE(後にSE/30)に組み込んでもらいました。
当時、日本では「演算星組のMac書道」が絶賛されていました。
が、日本のソフトベンダーはここだけだったのです。
帰国して、福山市のデザイン会議で、
PowerPoint・B/Wを使ったのが日本で最初のプレゼだったと思います。
このソフトの未来性をマイクロソフトは見逃していませんでした。

PowerPoint V2.0はカラー判となってマイクロソフトから発売されました。
私がPowerPointを評価しないのは、
この時点から、まったく進化していないことです。
すなわち、Integrationという概念は、
「進化」というプロセスを内包し内在していることが不可欠だからです。
プレゼンテーションソフトは、以後、NeXT STEP上での
LightShowを経て、Keynoteが登場するまで、
数年、進化はストップしていました。
そして、この進化は、VJソフトに引き継がれていくのです。
そのVJソフトが日本からだったことは、筆目に値します。
「motion dive」が登場してくるのです。


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