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Posts Tagged ‘連鎖性’


『日本の伝統遊戯である折り紙には「綺麗さ」がある』


   


     1月 10th, 2018  Posted 12:00 AM

折り紙=ORIGAMIは、日本の伝統的な子どもの遊びを超えています。
それどころか、海外ではもはや鉄板ネタと言ってもいいでしょう。
Macintoshを最初に使った自分デザイン展=越前若狭展NewYorkには、
MacDrawだけで「ORIGAMI」をソフトとしてデザインして持ちこみました。
ワイフがかなりなんでも折れるようで、子どもとの大きなコミュニケーション、
そのツールになっているようです。
折り紙素材は、100円ショップから高級ブランドからも商品になっています。
私が注目しているのは、昨年の文具大賞にも応募がありました。
とても素晴らしい折り紙専用紙でしたが、
高価過ぎると思っていたところ、さらに、
高級ブランドから日本ならではの素材が登場し始めています。
正直、私が創れるのは、折り鶴とカブトぐらいです。
ともかく海外で子どもたちにヒットするのは折り紙です。
折り紙で作られる動物、植物、物などは、その「かたち」=形態言語は、
決してOrigamiとkawaiiが連鎖していないことに注視すべきです。
私の判断では、Origamiは「綺麗な物」になるのです。
折り紙作家の作品は芸術的とも思えますが「綺麗さ」を表現しています。
私はOrigami:kawaiiよりも、折り紙と綺麗さに美学的な繋がり。
この連鎖性を見つけられるのではないかと思っています。
それは、kawaiiという形容詞ではなくて、
折り紙での形が形態言語(デザイン内容)として形容動詞での「綺麗さ」、
それはモノづくりに直接関わる行為=動作が
形容動詞になっていることをデザイン美学の
一つの大きな手がかりにしたいと考えています。


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『健常者を差別することで社会暗部を照射する』


   


     7月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「身障者施設で殺傷」事件が起こりました。
身障施設職員による殺人事件は極めて想定内であり、
この連鎖性が社会暗部に確実に潜んでいます。
実際、
私は28歳に交通被災により身障者になり、
その時から今なおの経験予知です。
自分は身障者、
対してほとんどが健常者というこの幻想の中に人間たちは生きています。
健常者が身障者を殺すのは原始キリスト教では当然のことでした。
この社会暗部の健常者優位性は身障者に秘匿した差別を強いています。
しかし、暗部を決してみせてはならないという軽薄な知恵なのでしょう。
その証拠がパラリンピックという誤魔化しのイベントで、
暗部そのものを秘匿してきただけに過ぎません。
これは1980年の国際障害者年、ユニバーサルデザインの制度化に等しく、
かつて健常者だった人が老いて身障者として生きることになるのです。
自分なりの身障者からの健常者差別意識が明確にあります。
「歩けるくせに、出来ないのか」
「熱があっても38.5までなら読書可能」
「身体障害、心臓障害はいづれみんなが必ずなる」という
健常者差別が可能だということです。
これは基本的に「人は生きている=死んでいく」というこの回路の中で、
生まれたときには、impairment・disability・handy-capであり、
リタイアすれば、handy-cap・disability・impairmentになる。
必ず死んでいく限り人は健常者のままというのはありえないということです。
だから、オリンピック対パラリンピックというのはスポーツ界での差別であり、
これが国際的な疑似平等感化されている社会暗部です。
それこそ健常者対障害者をあたかも平等化という幻想に
閉じ込めているにすぎないことだと自分=身障者は断言します。
自分が、身障者としてのトレーニングで経験した最悪なことは
かえって、障害者施設の職員ほど「差別意識」が強化されていることです。
いづれ、真実を書き残さなければなりません。
私が喧嘩師となるときの真の心情は「健常者への差別」です。
したがって、「差別性」という商品戦略も実は、
この社会暗部を商品に閉じ込める作業にすぎません。
この殺傷事件の犯罪に怒りを込めます。

* 「少数派のためのデザインから・再度、再検証」
* 「身障者・差別用語タイトルの絵画」
* 「常識語なのに真意と原意知らずはコンセプト=方針を誤る!」
* 『ユニバーサルデザインの原意』
* 「このポスターに見たデザイン界の「差別」」


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5月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

5月12日 先負(甲午)

思考は概念化では無理。
思考の連続性を発想する、
その手法を
私は
「ライン」発想として
シナリオ性・連鎖性・発展性を
含蓄した思考方法としている。

川崎和男の発想表現手法


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『ボールペンの進化がデジタル化に追いついていない』


   


     5月 21st, 2015  Posted 12:00 AM

家電メーカ・シャープは企業危機にあります。
教え子の将来を案じていますが、相談をしてくる教え子には、
私は必ず私なりの支援を惜しまないことを信念にしています。
あのシャープはそれこそ早川シャープペンシルから出発しています。
すでに日常筆記具の代表格といえば、ボールペンがありますが、
この技術進化は、シャープペンシルと万年筆インクの両面から、
それぞれの進化がありました。
私は講演時に、会場を暗くしますがそうすると講演メモが無理です。
私は叶うことなら、ボールペンでも照明付きボールペンは必須ですが、
実際、この進化は韓国では警官用深夜取締り文房具がありましたが、
フランスではもっと進化していて、照明とスタンガン(防御用)まで
それなりの進化と装備としての文房具がありました。
日本ではゲルインクどころか、消せるボールペンは大ヒットしています。
私にとってボールペンは収集物でもあり、それはモノの品格性です。
ホテルであるバトラーに私が認めるボールペンを差し出されたとき、
「これは●●ですね」と言ったら、明確に言われたのは二人目とか。
今、私にとって、メモすることもデジタルに繫がっている時代です。
それはメモとして書き付けたことを即、研究室やワイフに転送する、
その可能性がファッション性とも一致した効能性が必要です。
そういう意味では、確かに消せるボールペン、重力回避、暗闇使用、
こうしたことの性能までが、将来を招き入れるボールペンは皆無です。
日本の文具・筆記具製品開発の技術はなんとしてもここまでを
私は要求しています。
そういえば、筆記具のブランドメーカで日本人デザイナーの作品は
欧州のマニアには最低の評価を受けていました。
その有名ブランドメーカーにも、デジタルへの連鎖性は欠落し、
結局は未来が見えない同志では、筆記具の未来は創れません。
あるデジタルペンメーカーに尋ねられたとき、
私はこの技術なら、もっとここまで出来るとサービスしましたが、
そのメーカーには、未来の筆記具、ボールペン以上が不明だったのです。


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『これからのデザインを語るために=・・・signare・・・』


   


     4月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザイン=designを語るために、その原意・原語としての
ラテン語、designareという言葉を40年間も追い求めてきました。
それは、あくまでもsignareを中軸にして、その展開に注目したのです。
1970年だから、レジリエンス=resiliennceが騒がれるようになり、
もう一つのsiliumやsilienceが気がかりになっていました。
それこそ、科学者=Scientistという言葉も、
結局は造語であり、そのことを言い始めた人物がひっかかっていました。
ウィリアム・ヒューエルという人物の存在であり、
彼がまた造語化した「コンシリエンス」が、思いがけずにも、
この概念を利用してエドワーズ・オズボーンは、
この造語に新たな概念を付け加えていくわけです。
私が何よりも人智の凄さを知るのは、思考する連続性や連鎖性であり、
その凄さこそ、人間が思考する動物であり、なおかつモノづくり、
その設計や企画、すなわちデザインという行為です。
それもなぜ、設計し企画するのかと問い直せば、決まって、それは
問題解決であり、難問対策に直結していることです。
私は美術大学でデザインを学ぶことで、デザイナーになりましたが、
これまでいつも立ちはだかっていたのは装飾であり、
デザインは装飾では無いという教育を受けて育ってきた私には、
最大の問題とは「死なないこと=生きのびること」という、
その問題解決でした。特に、March 11.2011=東日本大震災は
私に決定的な問題解決と対峙しなければならなくなったことです。
designを徹底的なコンテクストで考え続けてきた私に、
今、大震災=生きのびるという問題解決のために、
resilienceとconsilienceが浮かび上がっています。
これこそ、間違いなく、「これからのデザイン」であり、
その具体的な実務事例を提示していくこで、
明らかに未来のデザイン、そのあり方を提案出来ると考えています。


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「リーダーシップ性とディレクション性とは」


   


     5月 3rd, 2011  Posted 12:00 AM

この国難で明白になったこと。
露呈してしまったこと。
隠蔽されたり、隠匿されていること。
物質としての街が壊滅し、
フクシマ原発事故でエネルギー問題が、
この長期になるだろう国難を支配していること。
そして情報はすべからくその指導力に依存しています。
指導力というのは、リーダーシップ性とディレクション性です。
結局現在リーダーシップ性とディレクション性が問われています。
私は、あえて、企画・計画・実施・運営・維持・管理について、
その監督能力をリーダーシップ力とディレクション力、
この二つがあるものと考えています。
それは、モノのデザインを職能にしてきた経験判断です。
デザインは「モノづくり」そのものではありません。
企画して具現化する様々な手続きに、情報的に関与し、
時に、リーダーとしての決断と、ディレクターとしての判断が、
そのプロセスから結果を制御するのだということを実体験。
つまり、判断と決断には、決定的な違いがあると思っています。
あくまでも、情報管理の実体験によって、
判断した結果と決断した結果には差異性があることは確実です。
したがって、リーダー、ディレクターという役割は違うものです。
しかし、いずれの役割においても、「結果」だけが残り、
その経過・プロセスなどに価値があるということは、
経験値を蓄積していく要素・要因にはなりますが、
それ以上の価値感はありえないと考えていることも事実です。
今、現政権でのリーダーシップ性は皆無です。
ましてディレクション性もありません。
理由は簡単です。
 ● 決断と判断には明確な順序があります。
 ● 判断して決断すること。
 ● 決断が判断の連鎖性と連続性であること。
 ● 判断と決断を同次元で結果にしてしまうこと。
 ● 判断と決断の違いが明確でも瞬時性と長期性を熟慮。
少なからず、この判断と決断で、
リーダーたる自分なのか、ディレクターたる自分なのかを
自分への詰問で自身の役割を認識することだと私は考えています。

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「資本主義からの逃走」
  「日本株式会社のブランド戦略その再構築」


   


     2月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

ブランド戦略は同一性を創らず
まず、ブランド戦略が企業戦略第一義は不正解です。
ブランド戦略に翻弄され始めた企業戦略は、
根本的に間違っている、ということを指摘します。
理由は、簡単明瞭です。
企業は、「社会的な存在性」・「国際的な存在性」を明確に支援される必要があります。
その社会・国家・国際環境が激変すれば同一性判断を見誤ることになるわけです。
「社会的な存在性」というのは、まさに同一性が確認されていなければなりません。
それは、企業C.I.の見直しでもなくブランドという区別明示の目印作業ではないということです。
よく、ブランド戦略が企業C.I.につながっていくとか、
企業C.I.とブランド戦略がつながっているという言説、これが基本的に間違っているのです。
ブランド=焼き印という区別銘柄づけが同一性を社会に訴求していくという考え方、
この思考そのものを廃棄する必要があると私は思っています。
つまり、企業が存在する「社会観」・「世界観」が変貌し変質し変化していることの認識が
当然に十分でなければならないのです。
少なからず、政治性・企業性・国際性・投資効果性・イメージ性など、
すべての構造変革が毎日日常的に変化していることを直視する必要があるということです。
再構築という新創造
このブログも4年目に入りました。
ずばり、「資本主義」を廃棄する時代・社会の中で、
実際的な企業という構造・形式・内容・イメージすべての連関性と連鎖性を終焉させることです。
新たな「同一性」創出に向かわせる時期に入ってきたと確信をしています。
特に、日本株式会社のブランド戦略は、日本のアイデンティフィケーション=同一性を、
維新ではなくて革新する時代だと認識するべきなのでしょう。
したがって、新・日本株式会社のブランド戦略などはありえません。
まずは、日本の同一性の再確認から何を焼き印=ブランド化できるかを考え直したいと思います。
この考え方を分化すれば、日本のすべての企業に当てはまることになるでしょう。


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『資本主義からの逃走』
    「 デザインの実力を語るために」


   


     9月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

デザイン職能効果
私はこの40年間、ひたすら主張してきたことは、
「デザイン」という職能の果たす役割、
つまりその実力効果です。
その実力を話す前に必ず了解と理解を求める前提があります。
それはまず、「外観づくりでは無いということ」です。
しかし、デザイン造形無くして、最終形態として可視はできません。
そのことの区分けはなかなか伝わらないという経験は
今なおひきづずっています。
さらに、デザインは「かたちづくり」だけでは無いということを
さらに強調しなければなりません。
受け手は混乱し、認識の断絶が起こります。
結局、
この連鎖性そのものを理解してもらうことの困難さはこの上無しでした。
なんと言っても、デザインの実力というのは、
「絵に描いた餅」という話につながります。
つまり、「絵に描いた餅」は食べられないということになります。
けれども、
私自身、「絵に描いた餅」で「食べてきました」=生きてきました。
その絵は、簡単に言ってしまえば、
「紙の上にえんぴつ一本の線」で描かれた餅です。
さらには、餅というモノでは無い、食べるコトのデザインもあります。
モノづくりとコトづくりです。
そして、このモノとコトの連鎖性を「文脈」と呼んでいます。
デザインする対象が包含している「文脈」の効果こそ、
デザインの実力と言い切ってもいいでしょう。
そこで、その実力を発揮するために、
私は、デザイン手続きとして、
● 発想の文脈
● 表現の文脈
● 伝達の文脈
この三つをさらに「包含と統合の文脈」として
提案と提示をしているということです。


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『資本主義からの逃走』
    「 文脈の遮断こそ、デザイン意図を共有させるかも」


   


     8月 31st, 2010  Posted 12:00 AM

遮断する文脈
デザインにとって、デザイン表現が投げかけることは、
デザイン意図を確実に伝達することです。
したがって、当然ながらデザインされたモノ・コトには
必要十分な脈絡を込めておく必要があります。
それは、ユーザーとモノ・コトの「対話」性が確実であることでしょう。
しかし、あくまでも文脈・コンテクストには、
連結性・連鎖性・連続性を遮断することでこそ、
受け手が送り手の意図を読み込むことでの共有感が残ることがしばしば起こることです。
もっと端的に言えば、
主語なく述語だけで、
その主語を補綴する読解力を期待するデザイン意図のコンテクストがあります。
5W1Hすべてで語ることなく、どれか一つのWかHかを遮断する手法も確約としてありうるのです。
「Less is More」というのは、
もしかすると、遮断したコンテクストを仕込む手法かもしれません。
これがデザインにはありうると考えています。
「Simple is Best」とは明らかに違うのです。
しかし、これはある意味では高度な手法でしょう。
遮断文脈は高度な手法
なぜなら、これまでデザインは応用美術ゆえという誤解のために、
科学性や技術性を無視しているという批判や非難は、
遮断の仕組みをコンテクスト化してきたことかも知れません。
ユーザビリティというのは、確実なコンテクスト化です。
しかし、ユーザー経験を強化するには、
遮断化を仕組んだデザイン表現も、一方ではとても重大だと私は考えています。
けれどもこの文脈を仕組むには相当の表現力が求められていることを覚悟する必要があるでしょう。
遮断されている文脈を与えることで「美しさ」なることを与えることができるのかもしれない。
ただし、これは私の希望的な観測にすぎません。


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『資本主義からの逃走』
「 Media IntegrationはTool Integrationを励起している・7」


   


     4月 29th, 2010  Posted 12:05 AM

Media?Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。

ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。

価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。


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