5月 31st, 2011 Posted 10:00 AM
5月30日 先勝(乙酉)
自分のその時々のエネルギー、
能力というパワーを
どれだけ使い分けていくかを
制御することは非常に難しい。
モノの使用方法も、
「十分に使う」使い方と
「充分に使う」方法は
差異があると思う。
『デザインという先手』十分なる「先手」
目次を見る
5月 31st, 2011 Posted 10:00 AM
5月31日
新入生歓迎会にて、
東芝時代の仕事を紹介する
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)。
これはBOSSがとある企画用に用意した、
テレビCM用の絵コンテです。
当時広告代理店の提案が気に入らず、
会議の現場で描きあげた一枚。
ヘッドフォンのCMとして、
なんと!女性が髪を切る映像を使用する、
というアイディアです。
目次を見る
5月 31st, 2011 Posted 12:00 AM
火は自然を燃え尽くします。
刃物は動植物を切り尽くします。
人類が、火と刃物を使いこなすこと、
それはまさに制御です。
「制御」とは、使いこなす対象が人類にとって、
価値=望ましいことと好ましいことになることです。
そして人類にとって、制御対象は二つしかありません。
人類にとって、「人間自体」と「自然全般」です。
人間自体の制御が、社会システム=政治であり、
自然全般は、自然の変動が予測不可能であればあるほど、
その制御は困難であり、不可能になっていきます。
その手段である利器として、
「火」と「刃物」を使いこなす技こそ人類の進化でしょう。
しかし、人類の進化は「戦争」が歴史を率いてきました。
「火」も「刃物」も戦争の武器であり、
その進化は武器としての「火」は爆弾となり、
「刃物」は武器機能は代替されていきます。
さて、おそらく読者諸兄にとっては、
この記述の方向が「原子力」に向けられている
私の導入であることに想像がついているでしょう。
まさしく、「火」と「刃物」に対する人類の進化が、
「原子力」に向かっていきました。
それは「武器」という範疇でした。
しかも、「火」も「刃物」も、制御ということでは、
それが「光」=電磁波にまで到達することが
文明の進化だったと前述しておきます。
私は「文明」の基本に立ち戻って、
「原子力」に向かわなければ、
これまでの「推進派」は「批判派」になり、
「反原発」が正論となって「脱原発」になります。
しかし、世界全体が原発停止に向かったとしても、
私は、原発ではなくて「原子力」と「自然」とを、
明快に制御対象化していくことが重要だと考えています。
私は推進派でも批判派でもなく、
「脱原発」にこそ、
「原子力へのまなざし転向」が重要だと思っています。
Tags: 「原子力」と「自然」, 「原子力」へのまなざし転向, 「文明」の基本, 人間自体, 人類の進化, 刃物, 制御, 原子力, 反原発, 批判派, 推進派, 火, 脱原発, 自然全般
Posted in 祈望から企望へ
目次を見る
5月 30th, 2011 Posted 11:00 PM
目次を見る
5月 30th, 2011 Posted 7:58 PM
5月30日 先勝(乙酉)
制御するというのは、
力を小出しにしながら、
最終的には全力を果たせば、
最大の、あるいは最良の効果を
上げることになるのだ。
『デザインという先手』十分なる「先手」
目次を見る
5月 30th, 2011 Posted 12:00 AM
文明の基本。
それは火と刃物。
私はこの二つが「自然」との
対抗手段になってきたと思います。
火は自然に備わっていました。
火山の爆発や溶岩が流れたり、
自然現象の山火事などから学び取り、
人類自らが発火させる方法を発見したと思います。
そして火が解決してくれることが生まれてきます。
一方、人類にとって、石器時代から文明が芽生えます。
石器は利器として、「刃物」につながっていきます。
私は、フリーデザイナーになって、
ふるさと福井県越前市(元・武生市)にある、
750年の伝統工芸・越前打刃物に出逢います。
武生市は小学校高学年から中学時代をすごした街でした。
だから、鍛冶屋さんの仕事はよく見ていましたから、
越前打刃物の現場で、「刃物」から学んだことが、
現在私のデザイン思想=デザイン文明観になっています。
まず、「刃物」は、
漢字には「刀」・「刃」・「刂」・「弋」・「戈」などが
含まれることで、文明利器そのものから文明観が指示。
初・武・創・解などおおよそ60数程度文字があります。
その「刃物」も「火」が無ければ、
創り出すことが出来ませんでした。
私は越前打刃物の伝統技を間近で見ながら、
「火」と「刃物」とがどのように反応しあうのかという
大きな感慨と思考をすることができたと思っています。
結論的に言ってしまうと、
「火」・「刃物」は、人間の生命に関わっています。
それも重大に、尊大に、食物と寒暖に関わり、
人間の生死を制御しているわけです。
Tags: 「刀」・「刃」・「刂」・「弋」・「戈」, デザイン思想, デザイン文明観, 人間の生死を制御, 伝統工芸, 刃物, 初・武・創・解, 文明の基本, 武生市, 火, 発火, 福井県越前市, 自然, 自然現象の山火事, 鍛冶屋, 食物と寒暖
Posted in 祈望から企望へ
目次を見る
5月 29th, 2011 Posted 10:00 AM
5月29日 赤口(甲申)
将棋やチェスでも、
次々と対戦相手の手を先読みし、
自分の力を分割しながら、
「勝てる」ように
戦略を行動に移していく。
これが、
「充分ではなく充分に」
ということだ。
『デザインという先手』十分なる「先手」
目次を見る
5月 29th, 2011 Posted 12:00 AM
文明のデザイン。
これまで、デザインは文化創成のため、
最も重大な職能というのが私の考察。
私はすでに世界システムによる文明は、
さらに、農業・工業・情報という進展から、
ますます高密度化する都市機能に対するデザインを
先端的な統合・包括デザインと意図してきました。
ところが、一瞬にして、
しかもわが国・日本の「文明が崩壊」したのです。
だからデザインの再編・再構築を余儀なくされています。
「都市革命」という言葉で、
石器時代から農耕文化を定義したV.C.チャイルドが、
都市と文明を最初に定義し語ったという記憶があります。
しかし、歴史的には都市は祭司センター的な集落であり、
近世から現代の都市文明とはまったく異なっています。
文明と文化が同一されていた時代が区分される発想、
この始まりが、「都市」と「文明」がキーワードでした。
「都市」は明らかに、自然と二つの関係・構造があります。
■ 自然が与えるとてつもない脅威から解放されること
■ 自然に対して生活の快適さを求めるため破壊すること
この二つの構造をも破壊するのは、天災と人災でした。
だからこそ自然への畏敬に祭司=政が重要でした。
祭司センター=都市ということに納得できます。
したがって、文明、とりわけ都市文明の破壊と破滅は、
人間が、自然の脅威=災害によって、
自然放置され、人間の本質までを問い直されるのです。
それは、現代文明に到るまでに培わされた文化的人間性、
人間としての社会的存在性・実存性・自己同一性など、
こうしたことが問われるということです。
そして、最も、問いかけ直されているのは、
現代都市文明の為政者、
それはかって都市=祭司=政センターであった指導者、
その存在価値の再確認が行われるということです。
自然と文明を司る指導者の存在価値が、
厳しく問い直されるのは当然のことだと思っています。
私は現政権ではとても文明の再構築能力は、
まったく文化的にも持っていないと判断しています。
Tags: V.C.チャイルド, デザインは文化創成, 世界システム, 実存性, 指導者の存在価値, 文明が崩壊, 文明のデザイン, 文明の再構築能力, 社会的存在性, 祭司センター, 自己同一性, 自然が与えるとてつもない脅威, 都市文明の為政者, 都市機能, 都市革命
Posted in 祈望から企望へ
目次を見る
5月 28th, 2011 Posted 10:33 AM
5月28日 大安(癸未)
「十分」というのは、自分の力を
それこそ全力で発揮するためには、
自分のちからを取りあえず、
十分割して使えなければならないわけだ。
『デザインという先手』十分なる「先手」
目次を見る
5月 28th, 2011 Posted 12:02 AM
「生きている」こと、本当の実感。
このことに気づける人は幸運です。
この幸運さに気づかされること。
この幸運さを忘れてしまっていること。
日常はこの狭間にあるように私は思っています。
気づくのは、人の死を思い知ったこと。
生と死をしっかりと支えてくれているのは、
「文化」という生の余裕で包まれていることでしょう。
忘れていることに気づかされるのは、
日常に破滅・破壊=カタストロフィが生死を分断、
私は助かったということ。
愛する人を失った時、
絶望が取り憑きそうな時、
私自身が、交通被災と心臓発作で、
身体的破壊を体験したからこそ、
この心情と心境と真実を知ったのでしょう。
そして、「文化」が失われるのは、
天災と人災です。
天災、まさに地震・津波・爆発・火災・台風という風景。
人災、交通事故から犯罪被害、そして制御不可能な景観。
今、人類最大の人災的景観とは、戦争と原発事故でした。
「文化」が失われるのは一瞬でした。
結果、私たちが生と死の狭間で、
思い知らされたのは「文明」そのものが破滅すること。
「文明」が失われれば、当然、文化は剥奪されました。
自然の景観も人工的な景観もカタストロフィになれば、
私たちに取り憑いてくるのは「絶望」に落とされます。
しかし、私たちは、失ってしまった文化と文明を、
何度も何度も、
新たな文明づくりに挑んできた歴史があったことこそ、
「希望」の本質だったと定義しておきたいものです。
つまり、「生」とはもろくて弱くて壊れそうなことです。
しかも、毎日の日常、その傍らにはカタストロフィが、
「生」を奪い取ろうとしていることを忘れてはなりません。
もう一度「文明」づくりで、自然と対決した結果として、
また新たな「文化」に包まれることを願望します。
Tags: 「希望」の本質, 「文化」という生の余裕, 「文化」に包まれる, 「生」とはもろくて弱くて壊れそうなこと, カタストロフィ, カタストロフィが生死を分断, 交通事故から犯罪被害、そして制御不可能な景観, 原発事故, 地震・津波・爆発・火災・台風, 幸運, 戦争, 生きている, 生と死の狭間, 破滅・破壊=カタストロフィ, 絶望, 自然と対決した結果
Posted in 祈望から企望へ
目次を見る