2月 28th, 2014 Posted 9:30 AM
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2月 28th, 2014 Posted 12:00 AM
ふるさとで、伝統工芸に懸命になりこれはコトのデザインとして、
越前和紙を賢明にして商品開発したモノです。
今、和紙とデザインを標榜する輩のモノは「和風紙」です!
「すきっこ」は牛乳パックを素材にして紙漉きをするセット。
「すみっこ」は和紙に墨流し=マーブル模様をするセット。
「わとじっこ」は和紙の製本を和綴じする道具や糸のセットです。
そこでこの三つをまとめて「人間国宝養成キット」として販売。
その直後、国のある機関から叱られました。
それなら、「伝統工芸士養成キット」にして販売。
またしてもこれもつまらん機関に叱られました。
とても真面目な洒落ですが、許されませんでした。
それで、キット販売を諦め、海外でも販売しましたがまず成功。
私はこれ以来、「ひがんで喧嘩しても」商品開発を狙っています。
ともかく、洒落の分からない輩に笑いの美学などありません。
そして、かつて日本のモノづくりの顕彰制度を巡って、
私は、「靖国に眠る人にこれでは報われない」と絶叫しました。
現代、わが国のモノづくりは歪んでしまっています。
わが国の大企業はすべからくが駄目になってきています。
「デザイナーだけが夢を実現する実務手法」を持っています。
だから、なんとしても洒落と美学で尊敬されるモノづくり、
これを目指したいと考えます。
「デザインのためなら・・・・・も私はします!」
これが私の「使命観」であり、これが私の未来・づくりです。
「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
「越前和紙から名塩和紙への悲しい物語り」
「もう一度、漢字と『書』へ」
「包むことと詰めることの大きな違いを知った頃
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2月 27th, 2014 Posted 9:30 AM
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2月 27th, 2014 Posted 12:00 AM
私は3度「あの世」に行ってきました。
まず、交通被災で体力確定後手術してから、
心不全直前の心臓発作頻脈時、
敗血症で多臓器不全重篤時、でしたが帰ってきました。
だから「死後の世界=あの世」への道程は覚えています。
その結論として、私達は二つのコトを識りおくべきと思います。
一つは、未来は前方には無く、前方には「死」があるだけです。
あの世=死後の世界は無であり空でしかありません。
あの世で父母に逢うことは決してあり得ないでしょう。
死後の世界を私達は宗教で保護と保全されて錯覚しているのです。
そうでもしなければ生きている有の世界を無くすのでしょう。
もう一つは、背中に未来を背負っています。これは見えません。
「Back to the Future」の真実の意味があります。
目の前に「死」=無と空が実は見えていますが、
その日時は見えて分かってはいませんからこそ、
未来を「使命観」で包んで背負っているのです。
見えないからこそ宗教で「あの世」が在ることにしたいだけです。
あの世で父母に逢ってみたいですが宗教的な夢にしておきます。
むしろ、見えない、背中に背負っている未来=使命観だけを
しっかりと期待に、希望に、懸命に、賢明に、真剣に、真面目に、
私は一日一日を過ごしたいと考えています。
「際限は背中に、目の前に未来など無く」
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2月 26th, 2014 Posted 6:52 PM
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2月 26th, 2014 Posted 12:00 AM
1949年2月26日福井県福井市松岡町で私は生まれました。
18歳で故郷を離れ28歳に交通被災、車椅子生活になり、
当時、被災直後には40歳までが統計的な生涯と言われてから
その覚悟のままに30歳にはふるさとに戻りました。
40歳で毎日デザイン賞を受賞してやっとデザイナーになれた時、
「あれっ!」、て思いました。命が永らえたからです。
しかし、45歳で心臓障害となり、障害者認定は二つもあります。
身体障害者1級と心臓障害者1級です。
47歳は私にとって母と21年間が終わり、母は47歳で逝きました。
だから、生き方を変えるために大学人とデザイナーになりました。
10年間は名古屋市立大学大学院の完成年度をもって阪大に転籍。
あっという間に63歳にて阪大を退官。
おそらく、社会人になってから私の人生が始まったのでしょう。
しかし、March 11.2011は私に生命の限りの使命を決めています。
自分に与えられた仕事をあくまでもデザイナーとして、
できる限り社会化・実現していきたい、それだけです。
デザイナーとして有名になるということは、
車椅子となり、ふるさと福井に戻ったときには消滅しました。
私の父は79歳で逝きましたからせめて80歳までをと決めています。
70で社会から離れて自分の生涯を兵役と警察官で終えた生き方こそ
私は父に見習いたいと思っています。
「行学」としてデザインを自分なりの生涯で果たすこと、
これが65歳=65年間、本当は40歳と言われてから、
もう25年も生きてしまった私の決意と覚悟です。
この場をかりて、周囲の皆様にお礼を申し上げます。
深謝合掌
「これからの私、私が賢明で懸命になること」
「生年月日が同一の情あればさらに使命観を」
「卒業後40年、そして63歳誕生日」
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2月 25th, 2014 Posted 6:51 PM
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2月 25th, 2014 Posted 12:00 AM
今年最初に森政弘先生の特別講義を東大で受けて以来、
森先生からも直接に参考文献を紹介されました。
だからなんとしても65歳までに読み切ってしまいたい書籍は、
とうとう木版の経典に及びました。
大乗仏教の「華厳経」に至っています。
正直なところ、私の仏教知識には及んでいませんが、
解説書で「国譯一切経」を頼りにしながらそれなりに懸命です。
森先生から指南されたのは「国譯一切経」ですが、
これがなんと280冊以上あります。
床が抜けるほどと言われましたがそれを全て読破は無理でしょう。
この「大方廣佛華厳経」も最小の全60巻を選びました。
原始基督教からプロテスタントまでやイスラム教も入門程度は
ほとんど読破してきましたが、
私は仏教徒であることをとても誇りに思います。
その最大の理由は、仏教・キリスト教・イスラム教という三つの
主要宗教論のなかでは、最も高大であり崇高だと確信するのです。
ただし、現代の小乗仏教や仏教を基盤にして分類された
仏教の新興宗教が起こしてしまった誤りは許せません。
さらに、私の思考論の対象は「デザイン」ですから、
私の中ではこの大乗仏教で学べることは宗教論ではありません。
きっとこの知識と感慨は自分のデザインに反映させるつもりです。
「国譯一切経」ではどうしてもこれらの解説だけではもの足らず、
結局は「大方廣佛華厳経」にたどりつきました。
そして最もこの経典が木版印刷であることはとても新鮮でした。
読書では日常的には電子本になっていますが、
こうした経典という書籍が木版であるという手触り感には、
私は確かな文字が手から生み出されているという感覚があります。
この感覚こそ人間にはとても大事で大切なコトだと思っています。
『今年早々、最高の講義を受ける・森政弘先生の仏教論』
『華厳経に入ろうと思う・森政弘先生の講義から』
『神仏像をもっと知っておきたいと考える』
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2月 24th, 2014 Posted 6:50 PM
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2月 24th, 2014 Posted 12:00 AM
このところ、ふるさと福井には月1回は必ず帰ります。
だからふるさとの味はすぐに手に入るようになりました。
かつて東京の赤坂でフリーランスのデザイナーをスタート。
赤坂から車椅子生活でのデザイン活動を始めましたが、
発熱や呼吸困難になっても赤坂では一人のドクターがいつも、
私の健康管理と精神的に励ましてくれていました。
「先生、やっぱり無理かもしれない」と言えば、
「これからだ、まだまだトレーニングすれば出来る!」と激励。
ところが、ある日に、
「ふるさとは福井だったね、このままでは駄目だから帰れ、
故郷の空気や水や食べ物が、君を元通りにしてくれる」と言われ、
私は東京を離れました。56豪雪の冬、福井に戻りました。
「ウニ」と言えば、このウニが一番好きでした。
豆腐も厚揚げも、当然、お米も全てが私を元気にしてくれました。
だから、毎月、福井に帰れば、すぐに好きな食材を買い求めます。
福井の友人や産地からも旬な物が届きます。
ふるさとの味は、子供の頃の思い出や、
今はもういない父母・祖父母思い出に重なります。それこそが、
思い出の核であり、この思い出が感性を鍛えたエネルギーです。
このウニは子供の頃には三国からおばさんが売りに来ていました。
今は福井に帰ると特別に一杯詰め売りしてもらっています。
英国のことわざに、男は青年時代に世界各地を巡って、
妻をもったなら故郷で晩年をと言われています。
しかし、多分私は晩年ふるさとで暮らすことはないでしょう。
だから今のうちに福井にてまだ仕事が出来ることが幸せです。
繊維・刃物・眼鏡に私のデザインを反映させます。
そしてその大収穫がふるさとからのエネルギーとしての味覚を
十二分に楽しめることです。
『ご飯のふりかけ最高もの・福井名産数多し』
『ふるさとからの「越前たけふしきぶ姫」届く』
『お豆腐・厚揚げ、これだってふるさと産が一番だ!』
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