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「現代の重大概念と技術支援とのギャップ」


   


     1月 7th, 2012  Posted 12:00 AM

「光景」とは人間の生死を対照化する景観です。
そしてその光景景観=生死境界には、
現代性を共時する言葉・概念が表れています。
その一つが「コミュニケーション」という概念と手法だと考えます。
3.11の大天災時に、
生死という光景を決定づけていたのも「コミュニケーション」でした。
それは「コミュニケーション問題」として
再検証すべきものになっています。
NHKは日本の最大マスコミとして、
災害情報発信においては毎日トレーニングをしていると聞きました。
よってその放送があまりにも冷静過ぎるとの批判さえあるらしいのです。
推測ですが原電での事故トレーニングは行事でしかなかったのでしょう。
さて、今回の連絡コミュニケーションはラジオ・テレビではなくて、
地元では、地元それぞれの地域内放送でした。
それは日常ツールであり、メディアでは無かったのかもしれません。
そしてSocial Networkでのtwitterが最も情報の拡散を果たしました。
写真にあるようなケータイの充電風景と、
ホワイトボード上に書き込まれた現場情報の共有情景、
この風景と情景によって、「光景」を決定づけている、
「コミュニケーション」の手段でありツールでした。
つまり、「コミュニケーション」は、
メディアとコンテンツがその概念の中軸のように思われます。
しかし、ホワイトボードとケータイという「ツール」が
コミュニケーションの基軸でした。
私は、現代、communication論として、
media・contents・toolとして再考するならば、
あらためて、toolのデザインがcommunicationでは
com=二つ対峙する関係がnicateお互いに分け合うこと、
そのためのtool論が本当は大問題だと知ることになりました。
コミュニケーションにとっての重大事は、
コンテンツが中心では無いというのは私の持論です。
コンテンツよりもコンテクスト=文脈、
それは「分かち合う脈略」がコミュニケーションの定義だという主張です。
あらためて「コミュニケーション」という現代重要概念の共有共時性は、
contextとtoolをこれからいかにデザインと技術支援し、
技術進化を果たしていくかを確実にすべきと判断します。
単純に「コミュニケーション」は、語れば語るほど、
現代社会観での光景論を喪失していることを露呈しているのでしょう。
communication=tool+contextが正解なのかもしれません。
よって、mediaとcontentsは
光景=生死からは離脱した概要だということが可能です。

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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・5」


   


     5月 7th, 2010  Posted 12:01 AM

度量衡

人の心が広いことを「度量が大きい」と言います。
「度量衡」の中で、「量」という概念が、
日本には無かったのでは、ということから、
私は、徹底的にこの「尺度」=これも大きな疑問でしたが、
調べまくった記憶があります。
無論、こうした尺度観は、中国から朝鮮を経て入ってきましたが、
日本では、私はやはり、「度・衡」だったという思いが強いです。
度・量・衡は、度=長さ・量=体積・衡=質量ですが、
さらに、度・量・権・衡で、権=重さを量る分銅を表していると言われています。
そして、この概念と実務は「国家制度」の根幹です。
なぜなら、「税」はこの尺度制度そのものの「政治体制」だからです。
したがって、度量衡とMedia Integrationはやがて、
「社会制度」へ展開することは間違いないと断言しておきます。

さて、度量衡の概念と実際、この基本的な発想は、
「度」という概念をわが国が理解して「量」ということへ
つながっていったのではないかというのが私の独断的な結論になっています。
つまり、「度は長さを測る」ことから始まったと考えることができるからです。
これは、私が「音」からスタートしたデザイナーだったから、
その印象に囚われていたのかもしれませんし、確信しています。
なぜなら、「長さ」を測る基準が何だったか、ということになります。
中国で「黄鐘」=「律管」という笛に心惹かれたからです。

世界的には、「長さ」は、ほぼ五つに分類することができます。
1・「人体から」・腕の長さ、身長、指など
2・「自然物から」・穀物、アワやキビの長さや幅など
3・「道具から」・鋼や糸、結び目など西欧の言葉に残っている
4・「人や家畜の速度から」・日の出の最初の光を見て歩く距離など
5・「物理的なモノから」・ここに私が推測し、現代につながる長さの基本

律管と光

こうしたことから、「度」は長さであり、
長さが分かってから
やっと「量」への概念が生まれたものではないかということです。
なぜなら、私流には、黄鐘=律管で「音」が違えば、
基準を決定する上で、
もっとも、「性能的な尺度観」ができると考えます。
現代、光の速さ=光速というのが長さを決定する基本ならば、
おそらく、「光」はMedia Integrationの基準ですから、
「度」は重要な概念として、
情報の度数は、「光」だと断言できます。
「光」の国家管理・国際管理が制度化するのでしょう。
やや乱暴な記載ですから、
「度量衡」はさらにメモを重ねていくべきだと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・4」


   


     5月 6th, 2010  Posted 12:01 AM

Qというアルファベット、
その文字としての変遷は、とても興味深くて、
変遷しながらも意味が普遍だったことに注目すれば、
QuantityやQuality、そしてQuestionにつながっている。
無論、ヒエログラフでは砂丘の斜面であり、
発音もローマ字q(ku)と同じだったらしい。
精子や水が形態的には、テールに表れています。

この発音はシュメール語に由来があるのかどうかは不明。
しかし、ヘブライ文字、フェニキア文字、エトルリア文字では、
斧であり、「切断」の概念を意味していると言われている。
切断は、人間が叡智に到達するために、
自己がどれほど自らを孤立させ、
その孤高さを受け入れるかという象徴性があります。
この「叡智」を意味することから、
IQ=Intelligence Quotientに明快に表れています。
それでは、なぜ、
QuestionやQuantity =量・Quality=質に至っているのかは、
量と質は、「度・量・衡」に集約しています。
度・量・衡
qがquintalという重量単位であったり、
Q-ValueやQメーターなどの名称とその機能性の中核は、
明らかに、人間の叡智だと考えます。
たとえば、すでに伝統的な映画「007」での
Qという人物は、発明家として重要な登場人物です。

Mediaにとって、「度はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「量はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「質はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「衡はどのようなIntegrationなのだろうか?」

以上を、私は念頭において、
「度量衡」がデザインにとっての叡智尺度であることへ
私の思考を続けていきたい。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・3」


   


     5月 5th, 2010  Posted 12:01 AM


質には「かたち」という読み方があります。
質=たちの読み方の方が会話語的です。
私は、「かたち」を「か・かた・かたち」論とした建築家に倣って、
「か・かた・たち・かち・かたち」と分離・分割、
そして統合化をしています。
この場合の「たち」=質です。が、正式に、質=かたちがあります。
したがって、「何が質=かたちとなるのか」という
述語命題はありえるのです。
それは「何が質=たちとなるのか」ということと、
通底していると考えることが可能です。
Mediaの「質」が問われている、とするならば、
それは次の三つのアプローチが考えられるのではないでしょうか。

1● Mediaの性質
2● Mediaの保証物件・身代性
3● Mediaの材質性
ということになります。
そして、おそらく、この三つが統合化・集約化・集積化が、
Media Integrationではないのだろうか、というのが私の推察です。
たとえば、という私のメモで上記をつないでおきたいと考えます。

性質
1)性質は、量の概念との関係です。
容量という性質と言い換えてもいいでしょう。
量の概念は、古代インドのバイシェーシカ学派の説では、
実体に内在している性質というのが、
的を得ているのではないかと私は判断しています。
たとえば、重さ=重量は加減算法が可能です。
しかし、温度は、加減をするには手続きが必要です。
温度が2度+3度=5度とはなりません。
2度をさらに3度加温して5度になる、
この加温性は実は素材の「質」だと考えるべきでしょう。

身代
2) 類聚名義抄の「むかへり」・日本書紀の「むかはり」「しろ」など
古代からの保証物件、身代金という代替価値です。
ここから、私は「たち」と「かち」を接合して
「かたち」論としているのです。

材質
3) 材質は素材の性質そのものですから、
これがMediaの要件内容だと考えています。
つまり、素材となる要素そのものの性質や、
それぞれの要素の構成によって成立する性質であり、
これは「量」の概念とのつながりを持っているというのが私の解釈です。

quality
それはなぜ、英語ではqualityと表したのだろうか、ということです。
何が量・quantityでそして質・qualityになったのだろうかというヒントを、
常にデザインは疑問視していることの動機に他なりません。
まさしく、「量から質へ」という時代志向に合致しています。
「質」はあらためて「かたち」であり、
Media Integrationの「かたち」だと考えています。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・1」


   


     5月 3rd, 2010  Posted 2:27 AM


「容」を「かたち」と、
ふりがなをつけて表現した作家に浸りきっていた時期がありました。
容姿や容貌という字形文字につながる漢字です。
欲の対語とも言われ、「空」のごとく空っぽにも関わらず、
容量という、中にものを入れるゆとりや、
「刀を容(い)れざるなり」など、
着物姿の女性を「美しく」表現するために、
その作家は当て文字にしていました。
デザインするモノの姿は、
容姿、容貌が「美しく」あってほしいという
私なりの願望を私もこの漢字に託したのです。

命題から述語へ
さて、「デザインとは何か」とか、
「自分とは何者か」というのは、命題への問いかけです。
しかし、今や、情報としてモノは、その姿=容を外観化しています。
それは、外観から命題へという傾向があります。
私は、「述語論理」に価値観が集中し始めている時代、
ということを述べてきました。
おそらく、「資本主義とは何か」とか「民主主義とは何か」、
これらも、世界中が、
命題論理に時代も社会もひたすら懸命だったのかも知れません。

私は「容」という漢字で、
モノの容(かたち)=Mediaがデザインである、
とひとまず言い放ってしまう述語的思考から、
integretionへと向かうものと考えます。
これまで記載してきたことに連続させれば、
「内容」がかたち=形態から形式になるから、
それをデザインと呼びます、ということです。

アンチテンション
私の代表的な製品アイテムに「メガネフレーム」があります。
20世紀最後に、
「アンチテンション」という「容」を商品化しました。
「メガネとは何か」という命題を離れたのです。

「アンチテンションがメガネである」という
述語的なデザインをしました。
アンチテンションというのは、
レンズにフレームの歪みを与えないこと、
だから、瞳孔距離を変えてきてしまった「形式」を
変貌させた容貌にしました。
そして、今ではレンズにテンプルを拡げても歪みを与えない
「形式」=「形態」がフレームメーカーでは、
重要なアイテムになっています。
メガネフレームはMediaであり、Toolでもあります。
そして、何がメガネフレーム「容・かたち」となっているかは、
レンズに常に与えていたテンション=ストレスを
解放するという述語的概念に
デザインを与えてきたことだと確信しています。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationの形式と内容での思考停止・9」


   


     5月 1st, 2010  Posted 2:51 AM

スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。

歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。

デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。

求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。

しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。


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『資本主義からの逃走』
「 Media IntegrationはTool Integrationを励起している・7」


   


     4月 29th, 2010  Posted 12:05 AM

Media?Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。

ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。

価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。


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