kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘隠喩性’


『空間へのdolly的な隠喩性という手法』


   


     4月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

コンセプトからの発想はすでに限界があります。
僕は「ライン」=lineという概念・観念・文脈の
統合的な手法を提案しています。
まず、その最初に「Scope」という思考空間の設定を行います。
現在のスコープはプログラミング言語としても、
変数や関数、言い換えれば変動、変異、関係、関与性を定義していますが、
それは思考空間を視覚化していく隠喩性の表現です。
まず、思考はどこ「から」どこ「を」を対象にしているかということです。
それは視点がふたつあることを示しています。
どこからというeye-pointがあり、
どこをみているかというview-pointがあります。
ところがこの点と点は視線:あたかも眼差しというview-lineができます。
そしてこの眼差しを動かしていくことをdollyという言葉を手にいれました。
dollyはComputer Graphicsで新しい用語になったのだと思います。
これは僕自身がトロント市でCGのトレーニングで
初めて知って驚愕したのです。
これは視覚化を一つの隠喩として、
聴覚・触覚・臭覚・味覚という感性に
性能と効能と機能を設計し企画・計画デザインになります。
以上のことからも、明確に思考空間・感性空間・論理空間、結局は空間への
接近性の定義化と考えていいものと思います。
手法として、デザインがモノ空間あるいはコト空間を
スコープはきわめてライン的な発想を隠喩として、
定義化そのものを変動:dollyさせていると考えています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』
*『デザイン対象としての空間に出逢う』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則』


目次を見る

『風当たりを我ながら強くする! 当然である。』


   


     7月 14th, 2015  Posted 12:00 AM

昨日は大阪に来てから初めて強い風が吹き付けました。
天候異変は、台風の進行方法を変え、
さらに連続する台風が、進行方向を予断させていません。
私は事典・辞典・辞書の類いが子供の頃から大好きです。
そして私が最も大気に入りが「風の事典」でした。
この事典は大変な作業で私は初版本を持っています。
最も学んだことは、日本には風は三つしかないという結論でした。
とても簡潔な結論に私は鳥肌がたったことを覚えています。
日本の風は、山からの風と海からの風であり、
この二つの風には名前が各地方ごとにありますが、
とても似通っています。
そしてもう一つの風が瀬戸内海からの風です。
私は大阪の風は、瀬戸内海からの風だろうかといつも思います。
北陸に育った私は日本海の風と日本列島山脈からの風はすぐに分かります。
むしろ東京にいるときには太平洋からの風はなんとなくわかっていました。
「風が吹くから木の葉がゆれる」
「木の葉がゆれるから風が吹いている」
この二つの表現を解説せよ、という大学入試問題が
「隠喩性」で出題されてたことがありました。
私は、「風」というテーマでデザイン課題を出したこともあります。
それはどれもデザインにおける比喩論的な手法につながり、
レトリックへのデザイン論だと考えます。
だから、風をメタファーにすれば、
人間関係や社会の景気論などはまさに風です。
だから、教え子や後輩から相談を受けると、
「私はそんなこと、一時の風のようなものだから」
「受け止めること無く、その風に吹かれて平然と」、
と、簡単に伝えますが、
翻って、私はたとえどのような風であれ、防風対策をします。
防風どころか、暴風対策をしてしまいます。
詰まり、風当たりが強くなってこそ、
生きがいだと感じる性質で生まれてきたのだと自覚しています。
正しいデザインのためには、
風当たりが強くても、メタファーでは語れない
「悪用」・「盗用」のデザイン・デザイナーを告発するつもりだ!

*風の事典


目次を見る

「報復テロのターゲットは日本かもしれない」


   


     5月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

テロリストの首領が殺害されました。
なぜ彼が「テロ」の首謀者だったのでしょうか。
「テロ」という言葉は、
「戦争」の代替名称になりました。
「戦争」という隠喩性を焦点にしつつ、
情報操作した新たな名称に大衆意識変化をもたらしました。
なぜ「テロ」が・・・この理由は知られていません。
「宗教対立」という虚構の物語にすり替えられています。
これはイデオロギーからの政治闘争の終焉が示唆されていました。
私たちの日常性が何か巨大なものに支配されてきた歴史現実です。
ところで、彼はもともとは親米派だったはずです。
それが、「なぜ」ということに世界のマスコミは黙考しています。
あらためて私がこうしたことは世界謀略などと言うのは、
荒唐無稽な私の想像力と考えてもらってもかまいません。
テロの原点には、明らかなエネルギー収奪闘争があります。
・・・なぜアフガンで、
・・・なぜパキスタンで、
マスコミはその正体を明確にしません。できないのでしょう。
人類が「火」を発見し、
この「火」は武器であり、「文明」を開花していくエネルギー。
そして「火」の制御は人類の科学すらまだ解明に至りません。
すべて「火」の制御は「政治支配」と「経済的力学」の対象です。
この支配力は科学性すら超越しているのです。
というより科学性が何かに支配制御されているということです。
私には、昨今TVでの「原子力問題議論」そのものが、
あらたな見えないイデオロギー=原子力技術という対象を
「大衆化」した支配性と操作性の表象だと思っています。
新たな資本主義体制の変更と世界経済の収奪問題とみるべきです。
あたかも「放射能現実」に私たちが投げ出されてしまったのです。
「反原発」は、巨大石油資本による援護下での活動であり、
「脱原発」は、振興エネルギー資本集中への戦略です。
だから私たちが見失ってはならない事を明確化することが不可欠。
それは私たちの日常性を守護する民族観を取り戻すことです。
本居宣長から橋本左内・吉野作造・吉田茂などの思想復権を熟考。
さて、テロリストたちの報復が囁かれています。
その報復対象が日本にならないことを想定しておくべきでしょう。
現日本政権は、「テロ」への姿勢を曖昧にしてきました。
ゆえに、テロリスト首領の軍事的殺害計画はもちろん、実行後も、
米国から日本は報告受けずでした。
現政権の国際的戦略が皆無だったことを証左しています。
この事情はとても深刻なポスト・モダン的政治問題だと思います。
国難状況下にある日本こそこの国際的テロ構造から逸脱すべきす。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「モデリングとデザインコンセプトの相対性」


   


     11月 23rd, 2010  Posted 12:00 AM

モデリングのコンセプト
ビジネスモデルの基盤にデザインが不可欠。
私はこのことを強調主張しています。
理由は、これまで述べてきました。
特に、「モデルづくり=モデリング」については、
デザインコンセプトとモデリングコンセプトを対照化が可能だと判断しています。
ビジネスモデルは、モデルを5つに分類しました。
このそれぞれに、デザイン手法でのコンセプトとの合致性を図ることが可能だと考えています。
     ● 単純化モデル
     ● 構成化モデル
     ● 近似化モデル
     ● 類似化モデル
     ● 同型化モデル
この5つに対照化させるには、デザインコンセプト手法として、
以下の5つをそれぞれに適応と応用により合致性を試みることができると思います。
     ■ 直喩性コンセプト
     ■ 対比性コンセプト
     ■ 類似性コンセプト
     ■ 類比性コンセプト
     ■ 隠喩性コンセプト
この5つ同士の組み合わせを思量する方法を提案します。
モデリング「かたち」とコンセプト「ことば」
ただし、いかにも類似モデルゆえに類似コンセプトということではありません。
つまり、コンセプトその「ことば」とモデルという「かたち」、
この二つの相対性を考えていただきたいのです。
とりわけ、類比=アナロジーと隠喩=メタファーは、「かたち」=モデルとしてはやっかいです。
デザイン手法も最初には「ことば」と「かたち」が同時に起因することがありますが、
モデリングはそのまま「かたち」ですから、
その相対性を第一義にする必要を認めることが大切です。
相対性と絶対性
それは、絶対性を決定するということではありません。
ところが、現代、流行語となった「ビジネスモデル」には絶対性が優先されている傾向があります。
それは、ビジネスモデルが知財権としての独占的な価値が優先されているからです。
私は、ビジネスモデルが喧伝されるほど、その絶対性に懸念を持っています。
あくまでも、モデリングコンセプトとデザインコンセプトには、
相対主義的な発想が必要だと考えています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationの形式と内容での思考停止・9」


   


     5月 1st, 2010  Posted 2:51 AM

スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。

歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。

デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。

求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。

しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「金融資本にとって、デザインは阻害要因」


   


     2月 18th, 2010  Posted 10:00 AM

阻害要因

金融資本=経営要因です。
金融資本は、まず儲けること=金欲そのものと、
断言することができます。
しかし、金欲への倫理性が経営者の器を決めています。
経営者としてその倫理性、
その有無が実際は、その人がどう生きたかを示します。
さらに、その倫理性を根底で支えているのが美学です。
美学は、まさに、イノベーションとシンボルを、
経営の中核にしているかを決定づけています。
隠喩としての日本刀
日本刀が「武士の魂」であったことにつながっています。
すなわち、現代の経営者が携える「日本刀」の隠喩性です。

現代の経営者には、
携えている隠喩としての「刀」が無い、ということが、
現代経営者の魂を空白・無知・痴呆にしているのです。
真に、美学ある経営者は、唯一、一人いました。
いづれ、その人のことを書きたいと思っています。
無論、経営での成功がその人の美学をさらに磨きます。
反対に、デザイナーのセンスや、デザインの需要性を、
平然と無視する経営者をどれだけ見てきたでしょうか。

そして、
そうした経営者の末路も見てきました。
「倒産」に至る経営者には、美学が皆無です。
デザイナーは喧嘩師であれ
したがって、
私の「デザイナーは喧嘩師であれ」には、
意味が二つあります。
美学無き経営者とは、果敢に喧嘩をすべきです。
そして、その勇気は、
「自分」相手に喧嘩をすることができるか、です。
デザイナーは、
企業に「隠喩としての日本刀」を
きっぱりと差し出す役割があります。
金融資本しか見えていない経営者には、
美学も倫理もまったく欠落しているのです。
となれば、デザイナーの提言などは、
金融資本にとってデザインは阻害要因でしかありません。
されど、こうした経営者に
教条的デザインでの美学論理を押し込む必要があります。
現在、これほど凋落している、
日本の経営は、経営者に倫理性、その源、
「美学」=隠喩としての日本刀が見あたらないのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「Master-SlaveとClient-Server、
    関係性の呼称が恣意し示唆すること」


   


     2月 8th, 2010  Posted 12:30 AM

呼称は時代を隠喩

前回に、Serverの種類について、一気に記述。
そうしたら、やはり、「超・突っ込み」を受けました。
スペル間違いや、人物特定などです。
でも、ここまでを批判できる人物はやはり専門家です。
それが学者にはなぜできないのでしょうか、
無視しているほど、見下げていると考えられます。
すでにこうした連中を学者というのは、
学者職能が大学内職名・TVコメンテーターだからです。
本当は知らない。わからない。使えないのです。
資本主義の限界は、明らかに言葉に表れてきています。
資本主義の支配・被支配関係、
つまり、資本家・労働者という富分配の格差関係です。
クライアントとサーバーという呼び名には、
統治と役割や依頼と受諾などなどの隠喩性とみれます。
マスターとスレーブは、私も、人工心臓の分散化に、
コンセプトとして、主機能統合と分散機能配分などで
呼称展開に引用しました。
主従関係や統合分配に、コンピューター用語ですが、
「分配」機能性を表現する言葉として、
この逆読みで、呼称意味の恣意性と示唆性を、
● 経済的な富の分配=利益構造の差異性
● 産業構造での役割=権限制御の効能性
● 文化格差の再構築=格差品性の表現性

として、
これらを資本主義の革新に差し戻すヒントです。
だから、私は、コンピューター技術、その用語・術語には
そのサイエンス性やユーザビリティ性から、
資本主義からの逃走どころか、
「解放」社会をなんとしても引き込みたいのです。
それを、いの一番に可能ならしめることが、
「日本だからできる」という
自負感覚を誇りにしていきたいと思っています。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「サーバーとクライアントの相補性が、
         ATOM社会から離脱する道筋」


   


     2月 6th, 2010  Posted 12:30 AM

sendmail by Paul Vixie

私たちが電子メールができるのは、
sendmailがPaul Vixieによって書かれたからです。
sendmail of Eric Allman

というより、Eric Allmanとの関係も知りおくべきかもしれません。
こうした人物の存在はほとんど忘れられています。
BINDというコンセプトに、
サーバーとクライアントの関係が語られました
しかし、それは相補性です。

相互性=インターラクションとは異なっています。
サーバー・クライアント=主従相補性は、
資本主義での主従関係論に近似していますが、
サーバーには五つの分類ができます。

BIND
Cache Server
Remote(Master) Server
Slave Server
Primary Server
Secondary Server

この統合化されたものがName Serverだと思います。
そしてこれらがOSにのって作動制御される時代は、
まさに、資本主義の主従関係=支配と搾取を、
一変する隠喩性が生まれてきたと考えるべきでしょう。
私は、サーバーとクライアントというネットワークを、
逆読みしていけば、ひょっとすると、
とんでもなく、経済学者が解明できなかった、
それこそ2進法的=binaryな経済学を示唆している、
とすら私は想像しています。
あるいは、資本主義を超越あるいは破壊するほど、
内在しているパワーがあるとも予想しているのです。
それは、サーバーを5分類して、
それぞれの効能が社会革新のトリガー機能だからです。

OSの融解

ここから、私はOSがこれまで、
産業経済の競合や差別化での利潤対象から「融解」し、
「雲」=クラウドの中に入っていくのでしょうか。
そんな問いかけの中で、もう一度、
コンセプトとしてのサーバーとクライアントを
概念の具現化として、
「形式」と「形態」をデザイン対象化しています。
それはATOM社会がBITSで包囲されて、
離脱していくことの「道筋を設計」しているのです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 *「かたち=か・かた・たち・かちという代謝性」*


   


     12月 15th, 2009  Posted 9:00 AM

かたち」という言葉を身体化する「いのち」が、
多分、私の生涯になるということは明確です。
次のマトリックスが、私の身体を包んでいます。
091215katachi1

そして、
重要なのは、「か」・「た」・「ち」という平仮名です。
これらの平仮名には由来の漢字=表音性と、
漢字=表意性が日本語には備わっています。
そうした、1文字の組み合わせが、
それぞれの意味と発音によって、
包括性=inclusive性があり、「かたち」の創出である
デザインの意図は、この「包括性」と「要素」に、
根源・由来・原義から効用と効果が求められています。
091215katachi2

「か・かた・かたち論」は、代謝建築論によって、
「かたち」、日本の美学機能を語られました。
私も、学生時代にこの「思考」によって、
デザインの「方」=方向を教えられました。
それからデザイナーとしての経験と医学にて、
「代謝」という「身体生理」で「かたち」の
隠喩性をすべて解放できたと考えています。
いわば「代謝デザイン論」がまとまりました。
結果、私のデザイン、デザイン造形での、
性能性・効能性・機能性を「実務」効果として、
究極の「人工臓器」にまで「かたち論」になりました。
「実務の無い」デザイン論は、「論」でもなく、
まして「学」でもありませんが、
昨今はそうしたことを「デザイン学」と言う傾向です。
こうしたことがデザイン教育だというのは、
「罪悪」であり、「美学」は決して生まれません。


目次を見る