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「ウェリントンタイプ眼鏡など忘却すべし」


   


     2月 5th, 2012  Posted 12:00 AM

眼鏡には定番のスタイルがあります。
そして、流行的なファッションとして繰り返しています。
その代表が「ロイド眼鏡」=正円レンズと、
「ウェリントンタイプ」=上辺長・下短辺の台形レンズです。
おそらく最も安心できる定番スタイルです。
これを不易流行のモノと私は思っていません。
メガネフレームは時代との共時性があり、
こうした定番は、顔表示を古くさくする野暮さが、
時代的な流行時と共時しない限り、
そのまま自分のセンス放棄を顕示します。
だから不易流行のモノにはなりきっていないのです。
ウェリントンは日本人に似合っているというのは、全くの大間違いです。
顔幅の細さと鼻の高さが無ければ決して似合いません。
しかもそのリーダー的な映画スターたちに
現代性は無いとすら私は思います。
そして最もメガネフレームの
性能・効能・機能は「かけごこち」に終局します。
「ロイド」も「ウェリントン」も結局は、
フレーム自重を軽減不可能の構造であって進化することも不可能です。
我田引水ながら、
私の発明した「アンチテンション」は、すでに定番になってきました。
テンプルを広げても、レンズに応力はかかりません。
だから、瞳孔距離を変えませんので、乱視になることを防止できます。
このタイプ構造は真似られていますけれど基本的なかけごこちを失えば、
意味ありません。そのようなモノも氾濫しています。
2000年にシルモ・グランプリを受賞したモノとしては、
その軽量さ、体感重量、かけごこち、
そしてファッションの不易流行性は確約できます。
「アンチグラビティ」、『アンチテンション」、エアストリーム性など
表面的、装飾的な類似品を多く出ることで、本物が浸透するでしょう。
新たな素材開発と新たなフレーム構造構成を
さらに発明的な革新を狙い続けていくつもりです。

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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationの形式と内容での思考停止・9」


   


     5月 1st, 2010  Posted 2:51 AM

スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。

歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。

デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。

求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。

しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。


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