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Posts Tagged ‘顕示性’


9月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 18th, 2023  Posted 12:00 AM

9月18日 大安(己卯)

常にクラマタが追い求めた
イスとテーブルは、
消滅してもかまわないという
顕示性が明確なモノが多い。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』10 輪郭線での記述手法


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10月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 5th, 2019  Posted 12:00 AM

10月5日 先負(乙亥)

常にクラマタが追い求めた
イスとテーブルは、
消滅してもかまわないという
顕示性が明確なモノが多い。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』10 輪郭線での記述手法


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『資本主義からの逃走』
   「慈愛資本とは、優美の隠匿資本でなければならない」


   


     7月 3rd, 2010  Posted 12:00 AM

つつましさ
「慈愛」は「優美」でなければならないと述べてきました。
「優美」であることが「慈愛」の基本だとも。
「優しい」というのは、決して目立たないつつましさ、
日本的な謙譲心に満ちあふれていることです。
「つつましい」という言葉があります。
この言葉の意味も大きな勘違いが現代起こっています。
それは、「つまらない物ですが」という会話言葉です。
「つまらない物」などを人に贈与すべきではない、という批判です。
しかし、この「つまらない」とは「つつましい」ということが原意です。
「つつむ=包む」という動詞系からの形容詞と考えます。
「つつましくて、身も細るほど恥じらう物ですが」という意味であり、
ここに日本人の目立たずの奥ゆかしさがあります。

これを、谷崎潤一郎が定義した「品」・「品性」・「品格」にあります。
欧米からの「自己主張の優先」ということが「積極性」と同義となって以来、
日本人の奥ゆかしさ=優美さ=目立たせないこと、
こうしたことは否定的な傾向に押し込められたものと判断します。
比して、私なども、「目立たす=顕示性」があることは否めません。
したがって、「優美さ」という言葉には、この顕示性をはぎ取る力が、
日本の伝統的美学であることを私自身思い起こす必要があります。
日本の「優美」と「慈愛」には、
顕示性を否定するベクトル、その質を再検討しなければなりません。
それは、日本の戦略、日本の資源、すなわち「資本」化すべきだと考えます。
ヒントは、「つつましさ」です。
包む
「包む」という系譜から、
日本は「包む文化」です。風呂敷の文化と言い切ってもいいでしょう。
対して、欧米の「詰め込む文化」は、缶詰や腸詰めなどを思い起こせば、
「詰め込み型」の短所は明白になります。
あらためて、「包む」・「包み込む」、
その慈愛の優美さを「資本戦略」が求められていると判断します。
結局、「優美さ」を隠匿できる「資本」を発見しなければならないということです。


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『資本主義からの逃走』
「 Media IntegrationはTool Integrationを励起している・7」


   


     4月 29th, 2010  Posted 12:05 AM

Media?Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。

ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。

価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。


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