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Posts Tagged ‘質’


「日本が貧乏になっていく、と思うのは・・・」


   


     8月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

私の移動、その大半は飛行機です。
そして、プレミアムシートでは軽食が出ます。
その軽食の種類、量、
パッケージが段々とコストダウンをしていくのを見ると、
「貧乏になっていくなー」と感じます。
敗戦後、日本は「豊かな国、国民になろう」と考えました。
結果は、貧乏だというのはお金が無いこと。
お金があれば「豊かになれる」と思ったのが、気がつくと、
それは「豊かさ」とは全く違うことがやっと分かったのでしょう。
最近は、格安航空券ブームです。
したがって、この軽食の質も格段にコストダウンをしています。
シャンパンがまずブランド品から格下げになり
スパークルワインになりました。
最も明解なのは、ファーストクラスの食事など、
「これが?」というほどになっています。
無論、それは一部のことだと言えますが、
「貧しい」ことの解釈が「豊かさの勘違い」を引きずったままだからです。
航空機会社ではファーストクラスを廃絶したところもでてきました。
世界的な傾向でしょうし、
それがスタンダードになっていくのだと思います。
私には未体験ですが、客船でも1等客室も2、3等客室でも、
食事は平等になりつつあり
それなら3等客室で十分という話を聞いたことがあります。
つまり、「貧乏」というのは、
「贅沢」との格差、その感じ方だと思います。
「贅沢さ」=「豊かさ」ではありません。
「貧乏」=お金が無いことではありません。
今、私たちに問われているのは、可処分所得の高低が貧乏さを決定したり、
贅沢・豊かさ・貧しさ、ということへの、
自分自身がどのレベルで「心」を満腹に出来るかということです。
ちなみに、「心」とは武士道では「腹」にあり、
よって、「切腹」とは、
腹の清らかさを確認する自死行為だったということです。
だから「腹づもり=心構え」こそ、
貧乏も贅沢も切り捨てた美学だと思っています。


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「アンプジラ・パワーアンプ(電質)の音響聴覚」


   


     12月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

「食通」とは味覚が優れているという言い方です。
しかし、これには大きな誤解があるというのが定説です。
つまり人はその人の味覚のホメオスタシス的な定常性が、
14歳までの食習慣で決定すると言われています。
私は多分、五感覚=視覚・聴覚・味覚・触覚・臭覚も、
幼少からの環境で決定づけられると思っています。
それは「刷り込み」=imprintingと同値だと言ってもいいでしょう。
私は美大時代から本格的なオーディオマニアになっていきましたが、
当然ながら東芝総研(現・ 東芝中央研究所)の音響研究所、
そしてAurexの製品開発によって聴覚は鍛えられました。
当時市販されているほとんどの音響システムを
聴きつくすほど贅沢な期間でした。
そんな中で特に自分がイコライザーアンプ直結のパワーアンプ選びで、
あらゆるアンプを聴き比べた結果、一台のアンプが私を打ちのめしました。
それは当時GAS社の
ジェームス・ボンジョルノ氏設計のパワーアンプでした。
そして数年前大阪に来てから、彼の新作AMPZILLA2000に出会ったとき、
私の聴覚コントロール機器は決定しました。
おそらく私の生涯は彼のパワーアンプ以外は
ありえないとまで納得しました。
スピーカーシステムに送り込まれる寸前の音響を
電流・電圧による「電質」で制御するのは彼の思想表現です。
だからといって、ただ信奉するだけでなく、
冷徹に他のアンプも聴き分けを試みることにしています。
それでも、やはり彼の音響設計に戻ってしまいます。
このアンプよりはるかに高額なモノであっても、
彼のこのシンプルかつ大胆な設計思想が最高です。
単純には電圧昇圧させるトロイダルコイルスタイル、
ただしこの巻き方はJBLのスピーカーコイルにも通じています。
取説には、万一、感電事故になっても個人責任と書かれている製品です。
製品とはこうあるべきです。個人責任に使い勝手をゆだねることです。
したがって、家庭用の電流と電圧50Hz・100Vも、
定流電源装置とメディカルコードでこのアンプを支えています。
ジェームス・ボンジョルノ氏的な発想を引用すれば、
音響だけではなく、多分、映像も、
定電源装置までの気遣いが感覚を支えると判断しています。
つまり、私は電力には電流と電圧という「質」があり、
もし、これを「電質」と呼ぶならば、
これは私たちの五感にも大きく影響していると考えています。

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「パーカー『5th』という筆記具の進化」


   


     12月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

高校入学の祝いに、父から腕時計と母から万年筆、
なんだか大人になったと自覚したものです。
だから、腕時計、万年筆への物欲は激しく収集癖になっています。
万年筆について、時計について、
私は講演をしてみたいと思うほど丹念に集め追いかけてきました。
そろそろこの収集癖を辞めるとワイフに宣言し決意もしています。
けれどもいつも10本は持ち歩いています。
母からもらった最初の万年筆が「パーカー」でした。
当時、海外ブランド万年筆で知っている唯一のメーカーでした。
とりあえず今なら、パーカーのデュオフォールドシリーズなら、
写真の右二つが所有感を満たしてくれるモノです。
そして、パーカーの万年筆とボールペンもローラーボールなら、
この二本を選別しなければ「センス無し」ということになるでしょう。
そのパーカーが、『5th』シリーズを出しました。
21000円という普及品タイプです。
21世紀の筆記具を革新したものと評価しています。
すでにこのシリーズは売り切れ続出であり、
知っている連中はすべてを収集しているようです。
デザイナーの私からすれば、「やられた!」と思います。
このような解決方法があったのだということです。
国内メーカーも100年になる企業があります。
サミットなどの国際会議では、万年筆は重要な記念アイテムです。
洞爺湖サミットでも国内メーカーのモノが記念品になりましたが、
私は、ペン軸の陶磁器仕上げに愕然としたものです。
日本のボールペン技術進化は世界でもトップクラスですが、
最高級品ということでは、発想が閉じこもっています。
万年筆のペンでもなく、ボールペン、ローラーボール、
そのようなペン先を5thシリーズは革新させました。
万年筆でも1億円のモノがあります。
2000万円クラスは毎年新作が出てくる世界です。
しかし日本ではありえません。
そこまでのブランド力がメーカーにはないでしょう。
技術があってもブランド・デザイン力が育っていないからです。
無論、インクの質も日本は最高級のモノがそれも地方にありますが、
このようなペン先、インク、書き味などの革新はありませんでした。
おそらくこのシリーズの登場で筆記具は進化をまた開始するでしょう。
万年筆でスケッチをと考えていましたがこの発想に至りませんでした。
ということで、収集品について書かないつもりでしたが、
このシリーズは書き心地を試されるといいでしょう。

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『資本主義からの逃走』
   「回答なら、この『答』にも三つの質あり」


   


     10月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

回と廻と徊
回・廻・徊、それぞれ三つの思考から
問題解決の三つの答をしっかり見詰めます。
「応答」・「回答」・「解答」という答、それぞれの形式・内容・意味、そして質です。
今夜は「回答」を精密に、詳細まで検証してみます。
私たちは、問題に対して「解答」も「回答」も区別無く使っています。
それはそれで構わないとも私は思っています。
ところが、Questionに対してAnswerとなると、Answerは「回答」が良いように提案しておきます。
そうすれば、問題解決での「問題」=Problemに対して「解答」=Solutionが、
より明確、明快になると考えるからです。
さてまわる・まわす・めぐる・めぐらす・かえる・かえす、という答に対しては、
「課題」←→「回答」と考えておきます。
回答という答に三つの質あり

● もとにもどす、かえす答え方
「古来征戦幾人回」(王翰)
決まっている課題には回帰する答がある。
● 逆戻りして、たがうという答え方
「経徳不回」(孟子)
経徳は回(よこしま)ならず、わきにそれることのない正しい答がある。
● 回数を示す答え方
「人間能得幾回聞」(杜甫)
人間というのは、よく何回も何回も聞くことで知り得る答がある。

Question & Answer

結局は、「課題」になることは、だれもが問題だと意識したり、
まったく知らないから、身辺、身の回りだとか、ある問題の回りQuestionに対して、
これが「答」、すなわち「回答」というAnswerになるということです。
教えられることや教科書には、課題が設定されていてそれを、基本的な考えをめぐらして、
あるいは課題の中心にかえって答を覚えておくことにつながります。
これがQ&Aでしょう。

■ 課題の核心にもどすという答
■ 考えを巡らせば必ずこうなるという答
■ 身の回りに存在しているから何度も聞いてたどりつくという答

「回答」というのは、
本当に、回りだとか回転しているだとかという考えを巡らして解決をつける、
いわば、常識的となるような決着をつける質を持っている答だと思っています。


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『資本主義からの逃走』
   「『答』三つに、それぞれ三つ・応答なら」


   


     10月 1st, 2010  Posted 12:00 AM

応と應
問題解決には三つの答があります。
私なりの解決結果です。
「応答」・「回答」・「解答」です。
そして、一つの答に、それぞれの意味内容があると考えてきました。
それは「答」の形式・内容・意味・質を決定づけていると思うのです。
「応答」の三つを確かめておきます。
「応」は元々「應」が原字で、「广(まだれ)+人+隹(とり)」で構成されています。
この文字は、小鳥をあたかも胸の中で暖めているように、
先方から来るものを受け止めること、心で受け止める、という意味があることになっています。
そして、「応」になれば、
これは「まさに〜すべし」という読む形式で三つのことが内容を決定づけているようです。
応答の答は三つに

● 「きっと〜であろう」という答え方
「応知故郷事」=あなたは故郷から来られたならきっと故郷のことはご存知でしょう、という意味
● 「〜すべきである」という答え方
「還応雪漢恥」=漢の国の恥をそそいで、その功績で君主に報いるべきだ、という意味
● 「〜してやろう、〜したいと思う」という答え方
「応憐半死白頭翁」=もう死にかけている白髪の老人を憐れんでやりなさい、という意味

こうした三つの形式と内容吟味をすれば、
「応答」=replyには、三つの意味を当てはめることで、
問題解決ー話題解決:応答が明快になるだろう、ということ答へ引導するものと考えます。
「応じて答える、対応した答」の三つの形式・内容、その質です。

  ■ 多分、こうだろうという答
  ■ 何々するべきだという答
  ■ こうしたい、こうした方がいいという答

だから、「応答」だ!
「応答」とは、向かってせまってくることを心で受け止めた結果の「答」だと思うのです。
「話題=Topics」という問題解決の答=「応答」は三つで吟味ができるでしょう。


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『資本主義からの逃走』
    「話し合う、この実体験から文脈へ」


   


     8月 29th, 2010  Posted 12:00 AM

文脈の身体化
人間は「ことば」を持っています。
初めに「ことば」ありき、ということは、
自分が母親から「ことば」を身体化していきながら、
体験・経験でその「ことば」の内容と質をさらに「身体化」していくわけです。
私は、交通被災というとんでもない状況の実体験の中で、
その事件・事象・状況の中での「ことば」を「身体化」してきたのだと考えます。
そして、見つけ出しているのは「文脈」という「ことば」の脈絡性やその順列性で、
それらの意味を獲得することを、自分なりに創りだしたり制御できるということです。
しかも、この言葉の脈略性=文脈をさらに深く詳細にしていくこと、
それはそのままデザイン=造形による問題解決までを体験から決着させたいという意志と意欲です。
そこで、次のことばを並記してみます。
●「会話・会談・談話・対談・対話」です。
つまり、ひとまとめで言えば、言葉がこうした中で、
どのような脈略=文脈を持っているかを確認しておこうということです。
「会話という談話」対「対談という対話」は、
デザインという問題解決の中で、コンテクスト=contextが必ず常駐しているということです。
私が車イスという、いわば「不幸な事態」が、実際はその逆転であって、
「コンテクストへのまなざしを得る」=幸運さにつながっているということです。
私がデザイナーであったことは、
「問題解決」にコンテクストからの解答を造形化できるという自信を「身体化」できたことです。
それは「会話:対話」に、
コンテクストを必ず位置決めをして配置しておくことが必要十分条件だということを
車イスの「身体」・「身体の精神性」体験から教えられて知ったという幸運だったのです。


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『資本主義からの逃走』
  「非在の顕在化が『価値』となるという私の解釈」


   


     7月 10th, 2010  Posted 12:00 AM

「か」・「ち」
私は、「かたち」の存在を常に職能として意識してきました。
それは生きてきたこれまでと重層しています。
直裁的には、
デザインの大きな表現形式としての「造形デザインの結果」=「かたち」での問題解決でした。
そして、「かたち」を、控えめな「つつましい質」だと理解していることを披露しました。
非在化している「質」を「かたち」とまで断言しました。
となれば、一応「かち=価値」をも、「か」と「ち」で、整理をしておきます。
二つ、私の認識をメモとして残します。
●「か」=ひ弱で、幽かな儚さが、
「ち」を決定づけているという語彙的認識

この「ち」は、知・質・致・治・置・智などへの
「儚さを強調」することで、その「大切さと大事さ」を示唆しているというのが、
私なりの解釈です。
●「価値」とは、望ましさと好ましさの感覚論的認識
これは明らかに、経済経営用語として、金銭的価値=Profitと利得的価値=Benefit、
いわゆる利益配分の尺度観という制度用語だと思います。

そして、この二つ以外はまだ、解釈と解説ができるまでには至っていませんから、
つつましく、控えておきます。
したがって、「つつましさ」の設計価値と価値設計をデザインしていく際、
すでに「コンセプト的に価値基準の考え方を再考しようということになります。
話は、私の思考回路そのままゆえに、
読者諸兄にはまったく「つつましい」表現になっていることは許容して受け留めてください。
要は、「価値」の「か」と「ち」、
この見方の一つのメモとして受け取っていただければと考えています。
「か」という非在性が接頭語的に付加されることで、
その非在性の儚さを「大事にする」という反意義の顕在性を浮かび上がらせる、
というのが私の語彙としての「価値」の意味解釈です。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・4」


   


     5月 6th, 2010  Posted 12:01 AM

Qというアルファベット、
その文字としての変遷は、とても興味深くて、
変遷しながらも意味が普遍だったことに注目すれば、
QuantityやQuality、そしてQuestionにつながっている。
無論、ヒエログラフでは砂丘の斜面であり、
発音もローマ字q(ku)と同じだったらしい。
精子や水が形態的には、テールに表れています。

この発音はシュメール語に由来があるのかどうかは不明。
しかし、ヘブライ文字、フェニキア文字、エトルリア文字では、
斧であり、「切断」の概念を意味していると言われている。
切断は、人間が叡智に到達するために、
自己がどれほど自らを孤立させ、
その孤高さを受け入れるかという象徴性があります。
この「叡智」を意味することから、
IQ=Intelligence Quotientに明快に表れています。
それでは、なぜ、
QuestionやQuantity =量・Quality=質に至っているのかは、
量と質は、「度・量・衡」に集約しています。
度・量・衡
qがquintalという重量単位であったり、
Q-ValueやQメーターなどの名称とその機能性の中核は、
明らかに、人間の叡智だと考えます。
たとえば、すでに伝統的な映画「007」での
Qという人物は、発明家として重要な登場人物です。

Mediaにとって、「度はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「量はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「質はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「衡はどのようなIntegrationなのだろうか?」

以上を、私は念頭において、
「度量衡」がデザインにとっての叡智尺度であることへ
私の思考を続けていきたい。


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・3」


   


     5月 5th, 2010  Posted 12:01 AM


質には「かたち」という読み方があります。
質=たちの読み方の方が会話語的です。
私は、「かたち」を「か・かた・かたち」論とした建築家に倣って、
「か・かた・たち・かち・かたち」と分離・分割、
そして統合化をしています。
この場合の「たち」=質です。が、正式に、質=かたちがあります。
したがって、「何が質=かたちとなるのか」という
述語命題はありえるのです。
それは「何が質=たちとなるのか」ということと、
通底していると考えることが可能です。
Mediaの「質」が問われている、とするならば、
それは次の三つのアプローチが考えられるのではないでしょうか。

1● Mediaの性質
2● Mediaの保証物件・身代性
3● Mediaの材質性
ということになります。
そして、おそらく、この三つが統合化・集約化・集積化が、
Media Integrationではないのだろうか、というのが私の推察です。
たとえば、という私のメモで上記をつないでおきたいと考えます。

性質
1)性質は、量の概念との関係です。
容量という性質と言い換えてもいいでしょう。
量の概念は、古代インドのバイシェーシカ学派の説では、
実体に内在している性質というのが、
的を得ているのではないかと私は判断しています。
たとえば、重さ=重量は加減算法が可能です。
しかし、温度は、加減をするには手続きが必要です。
温度が2度+3度=5度とはなりません。
2度をさらに3度加温して5度になる、
この加温性は実は素材の「質」だと考えるべきでしょう。

身代
2) 類聚名義抄の「むかへり」・日本書紀の「むかはり」「しろ」など
古代からの保証物件、身代金という代替価値です。
ここから、私は「たち」と「かち」を接合して
「かたち」論としているのです。

材質
3) 材質は素材の性質そのものですから、
これがMediaの要件内容だと考えています。
つまり、素材となる要素そのものの性質や、
それぞれの要素の構成によって成立する性質であり、
これは「量」の概念とのつながりを持っているというのが私の解釈です。

quality
それはなぜ、英語ではqualityと表したのだろうか、ということです。
何が量・quantityでそして質・qualityになったのだろうかというヒントを、
常にデザインは疑問視していることの動機に他なりません。
まさしく、「量から質へ」という時代志向に合致しています。
「質」はあらためて「かたち」であり、
Media Integrationの「かたち」だと考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「*準から外れ始めた日本のデザイン解*」


   


     3月 13th, 2010  Posted 1:20 AM

最適解
一般解と特殊解がデザイン応答・回答・解答にはあります。
デザイン解というのは、一般解であれ特殊解であれ、
「最適解」を求めなければ、それはデザイン解ではありません。
私もすでに40年もデザインと向き合ってきて、
常に、それこそ1日たりとも「デザイン」が体中にあります。
血液にデザインが入っているという感覚に襲われます。

水面に風が吹けば、波立ちます。
その波立ちが大きく揺れているのがまったく穏やかになる、
それを「準」と言うそうです。
基準・水準・標準
基準・水準・標準がその準の状態を定義しています。
そこで、私は「準解」という言葉を自作して、
「最適解」はこの「準解」、
三つのどれなのかと再考することにしています。
「最適解」は、基準解・水準界・標準解になっているだろうか、
自分に突きつけるのです。
● 基準解というのは、もうこれで基準=basisは成果だろうか。
● 水準解は、たとえ特殊解でもaverage /levelは保っているだろうか。
● 標準界は、とりわけ一般解では、これがstandardだろうか。
特殊解なら、必ず標準解として一般解へと展開してくれるだろうか。
こうしたことを考えぬいています。
ところが、最近の日本のデザインには「最適解」がありません。
デザイン解が「かわいい」とか「きれい」とかだけに、
寄りかかっていたり、単なるパロディやギャグは、
ガジェットだからそれでいい、なんていうことが目立っています。
これを「デザインの多様性」だということは大間違いです。
だから、日本のデザイン、その質が低下してきたのです。
経験を積んできたデザイナーとして、
警告をしておかなければなりません。
デザインの本質=最適解
デザインの本質=問題解決の解答=最適解は、
本当に「難問中の難問」を解いていく作業であり、手続きです。
頭脳、頭の中に汗をいっぱいかくほどの作業です。
だから、川崎和男のデザインは好きになれないとも言われます。
それは、形態の好き嫌いはあるでしょう。
好き・嫌いでの判断は第一段階であり、
自分の価値観に、最適解を判断力を欠如している疾病があるのです。
多分、数理的判断が大欠落していると最近は診断しています。
最適解には、「清潔」・「簡素」・「簡潔」・「明快」・「快適」が
ふさわしいと思っています。
かわいくても不潔であり、
きれいでも不明感があり、
かっこよくても、「不快感」があるデザインが増えています。 


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