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07月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 31st, 2017  Posted 12:00 AM

07月31日 友引(己未)

デザイナー展の企画としては、
グラフィック分野が「ポスター」ならば、
プロダクトは「時計」という
常套的な形式も普遍化した時代に入ったわけだ。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』16 時の経過と瞬間


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『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』


   


     7月 2nd, 2016  Posted 12:00 AM

踏みつけたくなるタイトルがあります。
それは「●●●●●●とは何か?」、という文章タイトルです。
たとえば、「デザインとは何か?」とか、「建築とは何か?」という、
とりわけ自分のプロ意識、職能意識にとっての
いわば質問形式のタイトルです。
そしてこれまでも科学的な知識を述べてきた書籍、講演、
あるいは運動などで、このような質問形式のタイトルが出てくると、
まずセンスの無さ=無能なる自分修練の浅薄さを感じます。
なぜなら「●●とは何か?」を全否定した芸術評論家の衝撃な思考のあり方、
あるいは、とりわけ「現代芸術のあり方」理念の
初期認識論を読んでいないからです。
「現代芸術」ほどその解釈や思考はとても困難なはずですから、
いわゆるハウツー本などで
この問いかけから始まる書籍は捨て去って構いません。
ところがハウツー本でもないのに、
この質問方式は能無しの典型だと断言できます。
これには二つ論理性で理由がつけることが可能です。
一つは、情報化時代直前に、この質問形式では、
これからの知的思考方法は時代遅れになるということ。
そのためには「■■■■が●●になる。」ということで、
「●●とは何か?」では無い論理組み立てが要るという発想があったのです。
もう一つは、「●●とは何か?」という質問での答えには、
三つの答の分類が出来るのです。それは、質問が
話題:Topicsであれば応答:Replyであり、
課題:Questionであれば回答:Answerであり、
問題:Problemであれば解答:Solutionになるということです。
したがって、「●●とは何か?」という質問での答が
応答、回答、解答のいずれかであったとして、
単なる応答や回答であるなら、その論理性は崩れています。
新たで明確な論理的な答であるなら解答でなければ意味はありません。
この写真の書籍での第一章からの質問形成では応答にすぎません。
よって、こうした書籍内容は能無しと判断しておきます。

*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』
*『デザインは機能美ではありえない』
*『記号論・文庫版になった定本だから再熟考対象だ』


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『アップサイクリングの真のリサイクルとは!』


   


     6月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

「アップサイクル」が一つの話題になりつつあります。
大阪大学の私の研究室にも、社学連携課経由で、
ある行政と企画企業から依頼が持ち込まれました。
幾たびかの打ち合わせ後、この企画はデザイン職能団体に、
企画・運営・ワークショップ・コンペの開催などを一任しました。
ワークショップはデザイン学生などを巻き込んで開催され、
その報告書などを読みました。しかしどうも違和感が残っていました。
論理的な内容を時系列的に再確認をしました。
まず、「アップサイクリング」という新たな産業形式の創案は正当でした。
しかし、根本的な過ちを発見しました。
この発見をリサイクルに照合して実際のデザイン実務との結びつきを、
あらためて検討し始めています。
まず、大きな過ちはリサイクルがサスティナブル思想であるという、
経済理念の間違いがありました。
従来のサスティナブル(持続可能)は
欧州の酸性雨対策を起源としています。
よって、リサイクルとは本当は無関係です。
このことにより、
工業生産しかも大量生産時で発生した素材廃棄物を再利用することで、
大量生産されたモノ以下の製造物に落ち着いてしまいます。
アップサイクリング(up cycling)ならば、リサイクルされた生産物は、
リサイクルされる前以上の性能性・効能性によって
新たな機能性を獲得する必要があります。
この発想が根本的に欠落しているという、
新規デザイン実務上では最も希求されている
現実生産を知ることができました。
ただ単に廃棄される素材=端材を利用する
製造システムでは無いという、この再確認が必要です。
そのサンプルとなるプロジェクトを開始します。

*『サービスの勘違い・地球に『優しい』?』
*『石畳の街、その文明と文化』
*『カーボン素材の3D-Printing開発をめざすことは・・・』
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』
*『デザイン史の講義を語るにはロシア・アヴァンギャルドから』


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staffblog 4月29日


   


     4月 29th, 2016  Posted 11:55 PM

4月29日

川崎の大学時代のご友人で、
シーティングエンジニアの第一人者である、
光野有次様がお越しになりました。

川崎専用の車椅子用シートを
製作いただけるとのことで、
そのための採寸をしていただきました。

阪大医学系研究科の先生や院生さんを中心に
他の大学の方々にもお声がけさせていただき、
ワークショップ形式で実施しました。

ただ計測するだけではなく、
座るとはどういう行為なのか、
人間と椅子の関係において重要な点は何か、
など、考え方の部分からご指導いただきました。

専用の機器による計測や、
実際にベッドに横になっての確認など、
何度も詳細に繰り返しつつ、
ベストな体勢を構築していきました。

最終的に三次元スキャナによって、
もっとも適切な形状を読み込み、
次回は仮組に工程へと進んでいきます。


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『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』


   


     11月 21st, 2015  Posted 12:00 AM

11日、日本を発ち、12日には「森田恭通個展」オープニングに参加。
13日、教え子が英国からパリに来てくれました。
昼食を森田氏グループと教え子も一緒にすることが出来、
教え子は英国へ日帰り、その直前に森田氏個展を見て仏英間特急で帰宅。
「森田恭通氏」個展会場から200m先の劇場から、
突然女性がギャラリーに逃げ込んできてから事態は一変したのです。
シャッターを下ろして全員が息を潜めていたと聞きました。
同時テロリスト達の乱射で亡くなった方々には、
ひたすら不運への「祈り・鎮魂」がありました。
が、翌日にはこの近辺で銃撃や爆発で、鎮魂の人々が折り重なって、
一斉に逃げ出す場面が放映されていました。
そして、私にはこれが現実という、テロリスト容疑者を拳銃とマシンガンが、
警官や軍隊が取り囲んで、その余りに「怒りいっぱい」の場面を見ました。
日本でここまで暴力的とも思える容疑者確保は無理です。
8世紀に生まれた銃武器が、
21世紀にまでまだまだ人殺し武器ということには大違和感があります。
フランスは「やられたらやりかえす」という空爆を即実行。
これはまた負のサイクルに立ち戻って鎮魂=PRAY FOR PARISは
見ている側の平和希求というeye-point だけの報道です。
この報道では永久に平和は来ないこと明らかです。
しかし、現場は見られてview-pointゆえに「怒り」一杯です。
この怒りからも平和は決して来ません。
CNNもBBC(World News)も報道機関という視座からの情報に過ぎません。
現地パリには「恐怖と激怒」、これがview-pointであり、
eye-pointとview-pointという二つの視点があってこそ、
視線=眼差しがあったはずですが、CNNもBBCも完全に欠落していました。
そして、「やられたらやりかえす」このサイクルを何としても
辞める決断の武器が必要だと私は確信しました。
日本には日本刀がありましたが、
この武器記号がどうやって300年間の平和を歴史に持ち得たのでしょうか。
私は、威嚇防衛の武器デザインこそ必要必至だというメールを
トップエンジニア・トップテクノロジストに送付しました。
「これが現代の真のイノベーション」という返事がきました。
戦争の形式を根本で変えること、戦争=最悪の事態にデザインが果たすこと。
この大問題解決こそ、最重大なデザイン解答だと認識できました。
G20はほとんどがキリスト教思想です。
中国は宗教思想否定ですが、このデザイン解答は不可能です。
ならば、自己を見詰める仏教と神道にこそ、
この役割が出来るのではないでしょうか。
キリスト教とイスラム教は宗教イデオロギーの対決という負のサイクル、
これを停止決着つけるデザインがあるはずです。


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『非常事態宣言の街=パリにて、決意!』


   


     11月 17th, 2015  Posted 12:00 AM

パリには三つの目的を持ってやってきました。
三つとは、ちょっと内緒ですが、それよりも大変な事態発生でした。
到着翌日の夕方は「森田恭通氏」の個展オープニングに出て、
現地時間11月13日には、英国駐在の教え子が会いに来てくれました。
彼は、帰英前にその個展を見て英仏間特急電車ユーロスターに乗車。
その時に、パリ6カ所で「同時多発テロ」が起こりました。
ホテルでFBには「無事ですか?」、「大丈夫ですか?」
・・・ん、何?・・・・
TVをつけると、非常事態宣言、パリでの多発テロリズムが発生、
「武器があるから闘うよ+絵文字」とか親友に返答していたら、
「冗談言っている場合じゃない、帰国できるのか?」って怒られました。
ともかく、CNNとBBC(何がWord New?)を見て事態を確認。
ところが・・・NHKは何も伝えてこない!・・・?
現地のTV報道とは格段の違いがある・・・なぜだ?
部屋にあるTV2台を使って、報道を見比べてみるが、
嘘だろう、CNNもBBCも視点が違うのです。
CNNもBBCもeye-point=視座からテロを見ている。
しかし、現地TVはview-pointである被害都市で実態を見つめている。
だから視線=まなざしは動揺し全く視野と視界が異なっているのです。
これがあの3.11も二つの視点違いで情報流布されていたなら、
私は身震いが起こりました。
ジャーナリズムはもう全世界が盲点だらけの報道になっているのです。
哀悼の表現は、PRAY FOR PARISと花とキャンドル、
ライトアップされているフランスのトリコロール色。
これは明らかに全世界の「悲しみ共有の表現」ですが、
現地TVではテロリスト容疑者逮捕、
その荒々しい警官たちの「怒り」は拳銃とマシンガンが暴力的に使用。
もし、日本だったら、これほど荒々しい事は絶対に不可能だと確信します。
非常事態ながら元阪大インターンのフランスの子も駆けつけてくれました。
ともかく、翌々日に新聞を買い、目を通しました。
タイトルはなんとか読めても文章はわかりませんが、
これだけのテロはまさにACT OF WARです。
銃撃戦を報道で見ていたワイフは、怖い、怖い、このホテル襲われない?
帰国の飛行機に自爆テロリスト乗ってこない?
・・・・・・私はひたすら、
8世紀の銃で今なお宗教対立は許せないと思うだけなのです。
1994年にPKFもPKOも銃で平和は大間違いゆえPKDを提唱していました。
「このデザイン活動を急ぐんだ」と自分に言い聞かせるだけです。
一流のエンジニア、一流のテクノロジストにこのショックを
デザイン開発に変えないといけないというメールをしました。
パリでの銃撃戦は映画を超えての恐怖を与えています。
戦争の形式を大変更する、これがイノベーションであり、
IoTをIoMeTに変えるために私はパリにきているのでしょう。
「IoMeT as PKD」は帰国次第、早々に取りかかるつもりです。

* PKD=Peace-Keeping Design


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8月8日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 8th, 2015  Posted 12:00 AM

8月8日 大安(丙辰)

情報社会化の中でのモノの体系は、
メディアで価値操作される形式と内容の形態化がデザインである、
という現代的定義が可能である。


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5月2日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 2nd, 2015  Posted 12:00 AM

5月2日 仏滅(戊寅)

喧嘩は歴史的には
室町時代に
「喧嘩両成敗」という制度から、
ファッションの形式である。

だから、喧嘩にはファッション性が
常に求められている。

川崎和男「喧嘩道」


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『記号論でのコンシリエンスデザイン』


   


     3月 16th, 2015  Posted 12:00 AM

1980年、記号という言葉は道元であったということが、
日本記号学会の最初の学会誌でその指摘があったのを思いだします。
当時、私は独立して赤坂のデザインスタジオでこの学会新設とともに
最初に学会員になりましたが、まだ駆け出しのデザイナーでした。
デザイン学では語りきれない学際化された日本で最初の学会でした。
記号論、記号学に最も惹かれていた論理的な思考でした。
現在、「デザイン思考」が論理考察の手法論になっていますが、
正直、記号論の学際性には及んでいるとは私は思っていません。
「造形言語」と「形態言語」を記号学的な領域にしてきました。
これはデザインすること、デザインされたこと、
この記号論的考察であり、デザイン結果を言語としての意味論です。
「造形言語」=designing language=design intention として、
デザイン意図、意味することです。
「形態言語」=designed language=design contentsとして、
デザイン内容、意味されていることを表しています。
つまり、デザインをする理由や背景、そこからの意図をもって、
結果、
デザインされた形・形態・形式には、その効用と効果があることを
明示しているという、記号論であり、記号学になりうる証左です。
デザインは学術+芸術×文科系+理科系を存分に背景・基盤にして、
言語化、すなわち記号としての意味することと意味されていることと
私はコンシリエンスデザインの位置づけ、定義は、確実に、
この言語化=記号としての、
制度設計論の言語化と形態設計論の言語化この二つの記号学が成立。
結局、コンシリエンスデザインでの安心と安全、危機解決の記号化が
看医工学を中核として、これからの学際化、その実務を
明確に定義することを断言しておきます。

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『変だ! おかしい、狂っている、それは・・・私か?』


   


     12月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

私は歩けなくなったときにこの時代と私はもう共時できない、
そう思ってきました。
だから正直に言えば、現代は「変」になることをめがけて進んでいます。
駅と新幹線、列車。=列車の進化に駅ホームは不適合!
空港と飛行機。=エアポートという駅に飛行物体は不適合!
港と船舶。=港は何も変わらず、船舶の工夫進化に不適合!
この組み合わせには何の疑いもありません、が、「変」です。
高速になった列車とホーム、ホームの危険度は柵程度では駄目です。
新幹線も、これまでの汽車座席がただそのままの形式が進歩しただけ、
それが、まともだと思っていること自体がおかしいのです。
だから、列車のデザインにホームの設計要素が必要であり、
飛行機への乗降者にエアポート=駅形式は大間違いであり、
現港の沖合まで新しい港は建設し直せば、
船舶の形態デザインも変わるはず。
これが私、デザイナーとしてのアイディアです。
極論すれば、歴史の進化がすべてバラバラのままに、何が進化?
歴史的な実例をひっくり返してこそ、本当の進化のはずです。
景観の哲学に、景気も病気も「変」に除外されてきました。
景気も病気も哲学にその項目がないからこそ、「治せない」から「変」。
景気に向かう、経済と経営ではもう無理なことは明白です。
病気に向かっている医学、看護学では無理なこと分別がつきます。
前例をつくればもう前例以外はこぞって進めてはいけないらしいのです。
こんな「変」な時代、このような社会構造と共時していくには、
気づいてしまった、この不適合性を明確に問題解決する手法、
その具体化実務=デザインしかありえません。
そろそろ、「変」さを除外していく私には、
この不適合さの景観を傍観するだけの無常論に
生き着いていくそんな気がしてなりません。


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