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Posts Tagged ‘感動’


4月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 28th, 2020  Posted 12:00 AM

4月28日 先負(辛丑)

論理で造形は生み出せるかもしれないが、
ほとんどは、
単なるコスモス的な形態化に
行き着いてしまい、
感動を与えるモノには
決して具現化されないものである。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』17 リトルネツ口論とエキスパンドメタル


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『ペットボトルがやがて消滅するのでは無いだろうか』


   


     12月 5th, 2019  Posted 12:00 AM

ペットボトルの水は、最初はいろんな種類を試し続けました。
今ではevian=エビアンに統一しています。
これだと何処の国に行っても必ず飲めるので身体の水を一定に保てます。
肝心の水だったFilette、イタリア製は手に入りにくくなってしまいました。
ところが、
来年からはペットボトルは世界的にも廃止されていくでしょう。
美大の授業では、パッケージとしてコカコーラの缶用6ケースを
手で創りあげました。すべて「手書き」でとっても難しいテーマでした。
パッケージとしてのテトラパックにも
デザインの凄い仕事だなと感動したものです。
今では、お握り製品にも転用が使われています。
フリーになって、日本パッケージ協会でも数度、講演をしました。
その時にも、「いづれこのペットボトルがやがては変えられる」と
言っていたことは当たっていたと思います。
が、「海に浮かぶ」このパッケージの世界への罪悪が
これほどになるとは、想像がつきませんでした。
それこそ、日本の波打ち際には、
中国や韓国からのペットボトルゴミが届きとても酷いです。
海は繋がっています。
そこから、この問題解決と価値創出で、パッケージデザインこそ、
新たなデザイン提案であると考えています。


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『武器も兵器も、戦争ではなくて「スポーツ」である』


   


     8月 3rd, 2019  Posted 12:00 AM

戦争という言葉だけで、特に日本人は大嫌いです。
様々な技術開発が戦争の武器や兵器となることは当然危惧しています。
同時に、デザイナーとして武器や兵器には
造形と技術の知識に、ダ・ヴインチの如く関心を持って見ています。
知識と発想がなければ開発することも、正しく有効利用することも、
問題解決することも、平和的利用にもつなげられません。
「戦い」はそれこそ戦争ではない勝敗で、
新しいスポーツ化されないものかと考えています。
サッカーの起源が、戦争で勝った敵国の将軍の首を蹴って
祝ったことからとされていますが、
今はその競技には行き過ぎた行動を伴うほどに
血が騒ぎ熱狂を持って楽しむスポーツです。
そしてスポーツ選手は、英雄になり多くの人達に、
感動や勇気を与えています。武術や武道も戦闘法から、
その型の美しさや技の強さを競う勝敗をつける戦いとなり
身体と精神とも自分との闘いにより磨かれ、
その道を学び、極めていきます。
空手などの美しい動きの型はロボットの動きにも転用されています。
例えば、伝統工芸としての打刃物、刀剣も、
武器から神格化までその時代で役割や技術その継承が重ねられています。
日常の道具としての刃物も武器になる、人を傷つける可能性をもつ以上、
それを産み出すモノづくりには、
「生」をかけて、取り組まなければなりません。
結構な刃渡りの刃物をどこにでも持ち運んで使いましょうという
軽快なコンセプトでスタイリッシュなデザインされた刃物ケースは、
素材も相応しくなかったけれど、県か市のデザイン賞が与えられており、
銃刀法も知らずに「馬鹿が選んでいる」と想像がつきました。
話は展開してしまいましたが、
さて、コレはまた進化している「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦」です。
「そして私は、戦争ではないスポーツとして、
その駆逐艦を考えていた男がいた」と言われたいです。

駆逐艦


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『仏教絵画というとても地道な作品を識るべき』


   


     11月 1st, 2017  Posted 12:00 AM

工業デザイナーの私には、大好きな芸術家や工芸家が数名います。
いつも案内をいただける吉永邦治氏は、仏教絵画では
本当に地道な活動をされていて教えられること多々あります。
これだけ地道で確実な仕事ぶりには、感激・感動をしています。
いわゆる仏教における飛天図を描いたなら彼が日本では筆頭でしょう。
仏教絵画絵師になるための修行僧からの研鑽、海外での放浪調査は、
今回、やはり飛天曼荼羅図となり、
徳島県の四国別格二十露場・第四番礼所・鯖大師本坊に描かれました。
世界的には、テロ・戦争によって古代遺跡は私たちの想像を上回るほど、
こうした遺跡は破壊されています。
しかもユネスコ遺産とまで指定されていても全滅状態は見過ごされています。
これすら守れないユネスコを、私は一方では無念さと怒りもあります。
それこそ、最近では、タリバン政権によって、
バーミヤン遺跡は破壊どころか消失してしまったのです。
人間の果てしない想像力が宗教哲学の表現とされた
石窟・壁画・天井画はもはや再現することさえ全く不可能です。
それだけに進化する技術とともに、
日本にあっては弘法大師や空海による曼荼羅は想像力の総まとめです。
曼荼羅がそれこそCPUの機能実装の地図でもあることの解明は
私には未だに出来ていませんし、研究成果を望んでいます。
それだけに飛天図がほとんどマスコミに騒がれること無く、
こうした新たな創造実現を私は美しさの一つとして紹介しておきます。
私自身、曼荼羅こそ思考回路の象徴であり、
曼荼羅と飛天図という私の直感はあってもまだまだ不明です。
しかし、その曼荼羅を我々に飛天は何かを伝えてくれているのです。
仏教哲学の図象はデザイナーの基礎知見だと確信します。
とりわけ、飛天図象への人間の想像性は知識+見識=知見でしょう。

* 『日本の国家プロジェクトはとても優れていたのに!』
* 『祇園祭・祇園と祭りの根源はもう忘れられている・・・」
* 『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』
* 「わが日常の仏様と幸と合掌と」
* 「モノづくり・コトづくり=デザインの源流でもう一度メモ」


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『デザインでデザイナーが美しさをどう創るか』


   


     10月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

デザイナーにとって、私は最も難しい質問は「美しい」ってどういうこと?
この質問に一言で、体系的に、経験的に、学術的になど、
応答・回答・解答出来るかは本当に難しいと思います。
そして「美しさ」は美学という学術的な領域がその答を出しています。
それは音楽と美術が中核だったことは間違いありません。
私自身、「美しいってどういうこと?」という質問は、
福井伝統工芸産地、越前和紙に創ったオータキペーパーランドからでした。
思わず身構えましたしどう答えるべきか随分と逡巡した思い出があります。
私はまず、先天的に答えることができますが、
これをあたかも美学的に体系までは困難です。
そして後天的には、知識と経験で知見化することが可能です。
まず、美しいというのは景観での気分や気持ちよさでの一言です。
本当に気持ちいいほど空が青いとか、
夕焼けが綺麗という単純な景色感覚への評価です。
空・海・山の景観や景色が挙げられます。
これが先天的での景観評価が素直さでの感覚=センスだと思っています。
かって名古屋大学での講義で、自分が美しいものを上げてレポートを、
こんなカリキュラムを数年やったことがあります。
工学部相手でした。そうしたらなんと三分の一の学生が数学の美しさを
徹底的に分解してきたレポートには感動しました。
私はデザイナーとして、体系的には、二つあります。
その一つはパウル・クレーの「造形思考」でした。
もう一つはカントの代表作である「純粋理性批判」での
真善美と感性・悟性・理性での美の解釈です。
東芝時代はモーツアルトのピアノ協奏曲のスコアとその旋律再生音。
このマッチング性に美しさがありました。
登山懸命だった大学時代は山岳と空・夜空が私の美しさの根源でした。
今は自宅から望める夕方の夕闇の変化を眺めて、
自分デザインの美しさを綺麗さからも求め直します。
美術的や音楽的を離れた時には、デザインでの美しさは、
今ではかなりの制約が乗りかかってきています。
たとえば、PL法違反などは、現代的には当然であり、
重量なども、万一、落ちてきたら危険は美しさを語る以前の問題です。
デザインでの美しさは追い求める義務がデザイナーには不可分です。

* 『家具デザインの「家具」定義を変えるべきだ』
* 「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
* 「若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認」
* 『ポケットブックになる「造形思考」が出版』
* 『月明かりの前の沈まない大阪、それは日本』


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『NeXTSTEP・OpenSTEPそしてMacOS Xと進化は無い』


   


     8月 24th, 2017  Posted 1:25 AM

人間の、いや私の記憶、そのいい加減さを思い切り知りました。
自宅にあるNeXT Station(1991)に電源を入れて使ってみましたが、
まず、名前、パスワードなどは全く記憶はありません。
しかし、UNIXマシンゆえにProgramで入り込み、もう感激と大驚嘆しました。
なんとかすかに思い起こすと、名古屋の自宅書斎では、Macではなくて、
NeXTを使っていたことがいっぱい入っていたのです。
名古屋市立大学、新設の芸術工学部では、最初の入学生60名全員に、
MacをEthernet対応機種を特別仕様として発注しアップルジャパンに、
その対応機種をお願いしましたが、
文科省から公立大学は8万円以上の教材禁止でしたが乗り越えました。
第一期生(入試倍率40倍)には、Ethernetケーブルも自作させました。
そして私自身は、自宅では、 メールもこれでやりとりをしていたのです。
そして、いくつかの重要な文章も見つかりました。
右はNeXTSTEPを使うことへのスティーブ・ジョブスからの「ありがとう」、
そのメッセージが感動ものでした。
そして、平成9年に、私はGマークの受賞テーマ決定委員として、
三つの賞「ユニバーサルデザイン賞」・「インターラクションデザイン賞」、
さらに「エコロジーデザイン賞」の提案文章案がありました。
当時は「エコロジカル・デザイン」か「エコロジー・デザイン」の大議論。
しかし、エコロジカルというすでに決定している形容詞表現は辞めました。
さらに驚いたのは、Light Showが白黒画面なれど使うことができました。
そして、最も驚いたのはまだまだこのコンピュータはUNIXマシンだけれども
十分に使うことが可能だということでした。
と、同時に、Idea Processorが、
こうしたプレゼ画面づくりの裏側にあるということでした。
これこそ、実は現代のMacintoshは何も進化していないということです。
確かに、マルチタスク方式を随分とパソコンユーザーは望んでいましたが、
このMeXTSTEPで使用可能になったことです。
それこそ、Macのゴミ箱アイコンは、
最初はブラックホールでしたが、
このNeXTではリサイクルマークのアイコンになっていました。
当時、名市大の芸術工学部では、SunのNetworkコンピュータが、
おそらく日本で最初に動いていて、訪問する企業トップたちに、
ビックリされるほど、SunやSGIはすでのスパコンがサーバーでした。
未だに使えるNeXTSTEPがOpenSTEPになり、
それが現代のMacOS Xにつながっていることから、
「何も進化はしていない」、と言うべきなのか?、
「NeXTSTEP で現在のMacOS Xが決定」されていたのです。
学生への課題試案までもこのNeXTには入っていました。

* 「Power Pointで創造性は破壊されていきます、なぜなら系譜から」
* 『前頭葉での発想ソフト使用は無能さを露呈する』
* 『ワイフのたったこれだけの授業講義プレゼン道具』
* 『Programmingが整ってきたのはMacの世界になったから』
* 「 Media Integrationへのプレゼンテーションツール・4」


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『金剛界曼荼羅というあの世の世界・仏壇デザイン』


   


     8月 17th, 2017  Posted 12:00 AM

かつて無着成恭という教育者のラジオ番組を私は明確に覚えています。
確か、子どもの質問に答えるという番組でした。
その中で、「なるほど」と感心した質疑応答で、
「仏様と神様はどうちがうんですか?」という質問に対して、
「ほら、死んだ人のことを仏様ってよぶでしょう。
死んだ人も仏様になり、その世界を見守る人達も仏様。
しかし、この世を創った人のことを神様って呼ぶんだよ」。
このやりとりにとても感動しましたから今でも覚えています。
宗教となると、仏教から神道、さらには原始キリスト教から旧約と新約、
プロテスタント、これは海外で仕事をする教養としてまで、
そのような本は相当随分と読み漁りました。
特に仏教では金剛界曼荼羅の3×3の世界に心惹かれて、
仏壇をデザインしたことがあります。
故・榮久庵憲司先生と二人っきりで仏教とデザインを語ったこともあり、
これは背後に松岡正剛氏のディレクションだったと思い出します。
金剛界曼荼羅で9体の仏像を作りました。
しかし、まだ40代だったはずですが、仏像が出来上がってみると、
当時はなんだか全てがお地蔵さんになってしまい、
自分の功徳はここまでなんだと思ったことがありました。
このデザインは亡母を偲んでだったと記憶しています。
仏壇はガラス一枚が台座であり、ガラスの両端面は赤と緑でした。
ちょうどお盆という時期にあって、もう一度、
今なら仏像デザインが出来るかもしれないと、
過去の作品写真を眺めた次第です。
この世とあの世があることや、ひょっとすると私は幽体離脱だったかも、
そんな経験もしましたが、
もう亡くなって仏様になった先祖に逢ってみたいとひたすら思うのです。
おそらく、この世よりも、もし存在するならあの世では逢えるのかもしれません。
そして私は歩いたり走ったりができるのでしょうか?
仏様の世界があの世なのでしょうか?。

* 『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』
* 『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』
* 『健常者を差別することで社会暗部を照射する』
* 「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」
* 「松岡正剛という『ち』の出発同位点は隠坊ゆえ」


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『日本での特殊車両、その代表を見ると・・・』


   


     8月 6th, 2017  Posted 12:00 AM

日本の自動車産業が危なくなっています。
その理由はいずれ書こうと思っています。
自動車といえば、ガソリン車でT型フォードがいの一番に語られますが、
デザイナーのプロとしては、蒸気機関の砲台運搬車は1760年代?には
すでにガソリン車になるという予感があったと記憶しています(怪しい?)。
ともかく、自動車でも、そのタイヤなのかキャタピラなのかは
未だにその結論が出ていませんが、
先般日本にはたった一台しか無いという「レッドサラマンダー」をみました。
岡崎市の消防自動車ですが、この特殊車両での
九州天災復興で活躍を見て感動しました。
そうなると、キャタピラでの陸上自衛隊の戦車は、
タイヤで時速100Km/hが断然いいのではないだろうかと判断しました。
キャタピラ戦車は戦闘用であり、他国侵略は絶対にしない戦闘ではなくて、
高速道路上でもミサイル発射が可能な
「16式機動戦闘車」がわが国での防衛では必要なのではと思いました。
私が特殊車両を追いかけているのは自分の電動車椅子設計と、
除染専用の特殊車両デザインを追いかけているからです。
キャタピラについては自分のデザイン作品集で
詳細なことを書いた覚えがあります。
電動車椅子でキャタピラの車椅子は階段を上下乗降車が、
ドイツのデザイン学生作品で見て、あれよりもと考えています。
結局、自動車の時代はもはや終焉の時期が到来しました。
今、超軽量な電動車椅子と除染専用特殊車両デザインを常に考えています。
おそらく、これが私のデザイン人生では最期のテーマだと思っています。

* 『デザイン主導のフライング・カー時代がせまっている』
* 『「哀しみにデザイン」そろそろ車イスデザインを書こう』
* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』
* 「お月様が見ているよ・・・性善説の人にもどるために」
* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』


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『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』


   


     7月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

日本の布は「麻」と「絹」、植物と動物のタンパク質です。
それを進化させたものがポリエステルと考えていいかもしれません。
自分にとっては「絹」が最高の布です。
繭から得られる知恵でしたが蚕の繭づくりの観察はイタリアに負けました。
繭はフィブロインとセリシンという二つのタンパク質の天然繊維でした。
セリシンを取り除くことで得られた光沢感が
高級な品質上品さを創りあげました、
絹の歴史はあまりに不明なコトが多い。
紀元前3000〜6000年頃、中国では秘匿とされた製法が、
シルクロードとまで呼ばせた6世紀にイタリアに引き継がれて、
蚕が糸をはきだす動作の観察も20世紀後半に、
人間の知恵=Silienceで糸の精練や撚糸技術になっています。
昨年、蚕、養蚕産業における「風通し」の研究を見て、
とても感動しましたが、
その大学に研究資金配分を自分はかなり主張したことを覚えています。
そのことはまるで無視されていることこそ、
絹あるいはシルクというセンスが失われてきたと言わざるをえません。
ところが、夏になると、どうしても布の世界は麻に寄りかかります。
しかし、大麻技術での麻布は敗戦時に米国GHQで禁止されていました。
これを再度復興した布ブランドには断然、注目をしていきます。
ユネスコ認定で話題になった富岡製糸場も、
実は仕掛け人がおり、支えてきた欧州留学の3人がいたことも
既に忘れられていますし富岡製糸場での生糸生産が輸出禁止になったことも
もっと知られるべきでしょう。
この復活が羽二重であったことも、自分のデザイン対象になっています。
自分の大好きな布=羽二重こそ、ナイロン発明に繋がったことも伝えたい。
あらためて、布、その進化とともに
源である麻と絹、そういえばシルキーボイスすら、
いまではR&Bに変わってしまっています。

* 『糸は日本語漢字の重大意図を持つ』
* 『蚕・繭・絹・・・観察が『技』を決める』
* 『芸術という技法が引用したことから』
* 『落下傘としても羽二重は最高品質だった』
* 「『布』平織りの集積された知恵=晒を見直すこと」


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『リニア的アプローチではなくパラボラ的上昇志向』


   


     6月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」の大欠陥は、結局はデザイナーの思考や発想で、
理系から文系へ、文系から理系へ、それぞれ接近しても
そこそこの中間点での融合知識に定着することです。
その指摘は、あるデザイン戦略家から、
明確に、リニア的な上昇ではなくて、
パラボラ=放物線上での合致点を指摘されたことでした。
その彼からの指摘を聞かされた自分は、
すぐに大阪大学の招聘教授になってもらいました。
これは理系と文系の融合ではなくて、「統合」に辿り着き、
結果、「コンシリエンスデザイン」
さらには「レジリエンスデザイン」の学域設定になりました。
大きなヒントは、リニア的アプローチではなくて、
パラボラ的な合致点の上昇化指摘がとても明解だったということです。
この指摘から、デザイン戦略家としての彼からは、
次のような「コンセプト」と「デザイン」での
美への姿勢がメールされてきました。
これもなおさら自分には理系・文系ではなくて、
造形美からコンセプトは語れず、
コンセプト美から造形は生まれるはずはないということです。
むしろ、美はもともと最初から存在していて、
ただ、コンセプトからでも造形からでも近づけるだけでした。
これはsilienceの原語意味と適合しているということです。
たとえば、大道芸人の素晴らしい演芸に人は感動します。
あるいは、ある人が政治批判を道端で語っていて、
それを聞いたとき、とても賛同できうる知識というより知恵です。
いずれも無名の人の,
その宝石のような美しさある知恵=silienceだということと同価値です。
「コンシリエンスデザイン・レジリエンスデザイン」
どちらも新たな、それは次世代デザインになっています。

*『学術+芸術の統合性=コンシリエンスデザイン:KK塾』
*『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』
*『造形の言語道断』
*『モノづくり・コトづくり=デザインの源流でもう一度メモ』
*『造形デザインがレジリエンスデザインを具体化解答』


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