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Posts Tagged ‘富岡製糸場’


『鄙美人日本論は田舎でしか語れない』


   


     3月 18th, 2017  Posted 12:00 AM

このところ北陸に通っている感があります。
金沢に金沢美大の同期会に帰り、
ふるさと福井では一般向けに久々に講演をし、
そして5年もかけての繊維産業の青年部会を鍛えてきました。
福井駅前の開発は無念ながら、デザイナーのプロとしても
なぜ、このような開発になるのだろうとか、思ってきました。
しかし、金沢市が北陸新幹線が乗り込んで流石に、
北陸の中心地としての賑やかさに圧倒されました。
ところが、金沢市の特産である陶芸や漆芸をしっかりと見詰めると、
文化破壊が確実に起こっていると確かめざるを得ませんでした。
本当にこれほど揺れる鉄道があろうかと思うほどのサンダーバードに乗って、
まったく鄙として、いや田舎さがここまでとはを、
たとえば金沢と比べても相当の差を知りました。
その極めつけが、福井の偉人をなんとか宣伝しようとする駅構内の
この「由利公正」をなんとか、大河ドラマにという、
のぼりを見てつくづく思うことは、
観光都市への県行政の努力をしみじみと感じます。
今では、由利公正って誰?の日本人感があるはずです。
だからなんとしてもNHKの大河ドラマ化の戦略としては、
もっと訴求方法があるはずですが、その手立てすら見つかっていません。
私はつくづく思います。
もはや明治維新は、ほとんど小説での坂本龍馬で語られて、
それがあたかもシンボル化されている日本観が蔓延していますが、
鄙美人論の根幹はこの真実性でいいのではないかとすら思えます。
特に、生糸から絹織物に私はずーっと関わってきました。
絹織物が決して富岡製糸場で語られることではありえないのです。
「五か条のご誓文」が由利公正あってのことであり、
東京府知事の人物が日本の絹織物までに大きな道筋を与えた人物です。
絹織物は輸出品としての「羽二重」を産み出してきたことを
やっと5年でまとめました。
私は「鄙美人日本論」をふるさとから語る所存です。

* 「花綵を断ち切った、都と鄙 けれどもNetwork社会に希望」
* 『アンチテンションはコピーされている福井産の革新技術』
* 「ふるさと福井の偉人たちへの敬愛あるのみ」
* 『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』
* 『ふるさと福井で改めて「羽二重」ブランドを講演』


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『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』


   


     7月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

日本の布は「麻」と「絹」、植物と動物のタンパク質です。
それを進化させたものがポリエステルと考えていいかもしれません。
自分にとっては「絹」が最高の布です。
繭から得られる知恵でしたが蚕の繭づくりの観察はイタリアに負けました。
繭はフィブロインとセリシンという二つのタンパク質の天然繊維でした。
セリシンを取り除くことで得られた光沢感が
高級な品質上品さを創りあげました、
絹の歴史はあまりに不明なコトが多い。
紀元前3000〜6000年頃、中国では秘匿とされた製法が、
シルクロードとまで呼ばせた6世紀にイタリアに引き継がれて、
蚕が糸をはきだす動作の観察も20世紀後半に、
人間の知恵=Silienceで糸の精練や撚糸技術になっています。
昨年、蚕、養蚕産業における「風通し」の研究を見て、
とても感動しましたが、
その大学に研究資金配分を自分はかなり主張したことを覚えています。
そのことはまるで無視されていることこそ、
絹あるいはシルクというセンスが失われてきたと言わざるをえません。
ところが、夏になると、どうしても布の世界は麻に寄りかかります。
しかし、大麻技術での麻布は敗戦時に米国GHQで禁止されていました。
これを再度復興した布ブランドには断然、注目をしていきます。
ユネスコ認定で話題になった富岡製糸場も、
実は仕掛け人がおり、支えてきた欧州留学の3人がいたことも
既に忘れられていますし富岡製糸場での生糸生産が輸出禁止になったことも
もっと知られるべきでしょう。
この復活が羽二重であったことも、自分のデザイン対象になっています。
自分の大好きな布=羽二重こそ、ナイロン発明に繋がったことも伝えたい。
あらためて、布、その進化とともに
源である麻と絹、そういえばシルキーボイスすら、
いまではR&Bに変わってしまっています。

* 『糸は日本語漢字の重大意図を持つ』
* 『蚕・繭・絹・・・観察が『技』を決める』
* 『芸術という技法が引用したことから』
* 『落下傘としても羽二重は最高品質だった』
* 「『布』平織りの集積された知恵=晒を見直すこと」


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『枕革新をねらう羽二重からの新素材デザイン』


   


     5月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

キリンは立って眠っています。子どものキリンは座って寝ていますが、
それでも首は時々揺れているのをTV画面で見たことがあります。
おそらく人間に限らずに大木や小岩を首下にしているのでしょう。
私にとっても寝るときの首下を支えている枕には
相当の歴史があり、しかも最近では、材質、大きさ、柔らかさなど、
日本では蕎麦殻とか枕の中身までが問われ、しかも生死の象徴になります。
万一、
漁民が海で逝ったらその死体無き時は使用されていた枕で葬送されます。
しかしデザイナーとしての私はズーッと枕のデザインを対象にしてきました。
断言すれば、現在のどのような枕も不的確です。
なぜならば、ようやく「羽二重ブランド」の開発とともに、
新素材を見い出してきて、枕どころか敷布団も掛け布団も
新規デザインが可能になると思っています。
新素材で今まだ開発中ですが、これだけのアイディアを追いかけても
ほとんどのデザイナーは追いかけることが絶対に出来ないだろうと思います。
あらためて新素材の開発を絹織物、その最高峰であった「羽二重」です。
絹織物も生糸の生産は明治維新を支えた産業でしたが、
世界から、生糸=当時、富岡製糸場は廃止案にまで落とされますが、
細井順子女史による縦糸2本横糸1本の「羽二重」が登場します。
その布としての最高品から、新素材開発に至り、
基本的な製品開発、商品アイテムにはやはり、
最高品格の枕を実現するつもりです。

*『日本人の根本的な倫理観、その原点を見つめ直す』
*『素材産地のダブルブランド・「羽二重」HUBTAE』
*『布と衣と織りと・・・』
*『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』
*『「はぶたえ=羽二重」の目立たなかった布の美しさ』


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『素材産地からWブランドのアライアンスイニシアティブ』


   


     3月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

産業のスタートは繊維産業でした。
五か条のご誓文を書いた由利公正は国家の殖産興業を考えた最初の人物。
彼が橋下左内、横井小楠から学んだ結果は富岡製糸場に結実しますが、
すでに生糸は海外から認められなくなっていました。
結果、細井順子女史らの「縦糸2本横糸1本」の「羽二重」は
世界制覇をします。
羽二重でのパラシュートを陵駕するためがナイロンの発明であったのです。
「羽二重」は人絹から今では高密度ポリエステル産業に発展してきました。
繊維には長い間に繊維性能が七つありました。
 ・「しなやかさ」
 ・「ふくらみ」
 ・「はり」
 ・「こし」
 ・「ぬめり」
 ・「しゃり」
 ・「きしみ」。
この七つの感性評価が繊維・布の基軸になることはありませんでした。
私たちはこの七つの感性評価をオノマトペでの研究で、
明確に手本・見本にするマーク表現をしてきました。
僕自身が母方の実家周辺は
いわゆる「機織り屋さん」が幸盛を極めて来た時期、
僕の遊び場は小学校より大きな機屋工場でした。
ふるさと福井に、私は「ダブルブランド戦略」を準備しました。
まず、ふるさと福井は「素材産地」として「羽二重=HUBTAE」にて
メーカーでは、企業毎、商品アイテム毎をブランド化します。
そして、「素材」はさらに新素材から新たな製品化・商品化を産地から
高密度素材開発からの「記号商品」を発表していくことになるでしょう。
素材には確実な感性評価基軸のマークが、素材性能を表します。
すでに、新素材は新たな繊維としての試作を開始しています。
この新素材はやがては医療用として、細胞シートになる可能性があります。
いずれ衣食住の基本である繊維は
日本の新たな素材産業を創成するでしょう。
その大きなきっかけが、繊維の歴史から、
それはコンセプトではなくて
LINEとしての新産業のアライアンスイニシアティブを
かつて、由利公正が意図していた
日本の主産業になると僕は確信しています。


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『落下傘としても羽二重は最高品質だった』


   


     10月 19th, 2015  Posted 12:00 AM

2012年からふるさと福井の繊維産業の一新化に関わっています。
ともかく、歴史から福井の繊維を語り直そうと考えています。
それは「羽二重」が絹織物の名品となって
日本からの貿易輸出品だったこと。
ゆえに羽二重から人絹取引所まで生まれ、
今はポリエステル繊維が中心になっていますが、
羽二重が最高に優れていたのは、
これが落下傘=パラシュート素材でした。
富岡製糸場は由利公正が西洋の絹糸を学ばせた最初の工場でしたが、
生糸では欧州とは競合が出来ないことから、
縦糸2本に横糸1本で羽二重こそ、最高の絹織物でした。
そして、日本には落下傘部隊が誕生し、
それは左上がその部隊のマークだったらしいのです。
羽二重でのパラシュートは、最高のモノであったらしく、
そのパラシュート生産の産地が第二次大戦時には、
米国から大変な空襲を受けて、福井は焼け野原でした。
当時、米国兵たちもパラシュートは持ち帰って、
ウェディングドレスにしたものらしく、
羽二重織物を超えるために、ナイロンが出来たとさえ言われています。
由利公正と言えば
五箇条の御誓文・東京府知事ですが、
それは橋下左内と横井小楠の殖産興業の興し方から学んだことでした。
絹織物は羽二重が世界を制し
日本の輸出品筆頭は九谷焼磁器を凌ぐばかりか
落下傘部隊創設も、
パラシュートとしても最高であったことは知られていません。
生糸産業、羽二重産業、それは人絹織物とまでなり、
人絹取引所は、
その文化までが福井にはあったようでした。
私自身が子どもの頃は親戚の織物工場は学校より大きいものでした。
ところが、最近では羽二重は、お土産物の羽二重餅が知られていて
羽二重が最高の絹織物ゆえに落下傘までが進歩していましたが、
このようなことはすっかり忘れられています。
かつて、福井大学では繊維工学が隆盛していましたが、
繊維工学科はもはや信州大学にしかありません。
私は、生糸→羽二重→人絹→ポリエステルを
さらに進化させた高機能ポリエステルでの新たな商品アイテムづくりが
私にとって、パラシュートを陵駕する、
トランスポテーションや防災、医療、全く新たな産業を
生み出してくれるものと思って
デザイン戦略=問題解決戦略を織物産地に、
その象徴が、羽二重での落下傘=パラシュートだと
私は考えています。


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『ふるさと福井で改めて「羽二重」ブランドを講演』


   


     3月 29th, 2015  Posted 12:00 AM

「羽二重」は日本が貿易立国として、九谷焼の次に大ヒットした
代表的な商品でした。
この歴史的な裏側には由利公正がいました。
由利公正は「五箇条のご誓文」起草者であり、
初代の東京府知事、明治維新政府のリーダーでした。
富岡製糸場も、西陣織りにも、彼の存在がありその背後には、
橋本左内と横井小楠がいたことを私は語り継ぎたいと考えています。
昨年9月に東京で「羽二重」ブランドを歴史・科学・未来で
発表をしました。これは福井県織物工業組合の青年部会でした。
それから、なんとしてももっと拡大をしたくて、
福井県織物工業組合の総会にて講演をしました。
羽二重に至る、歴史性としての偉人達の活躍ぶりから、
科学的には、織物の素材性能を七つの布特性を学術的にまでまとめ、
未来は、まったく新たな織物編物の繊維素材と、
その製品開発の多用性をデザイナーとして紹介をしました。
正直、デザイナーの私としては、25年前、福井在住時には
新ブランドで今では当たり前になっているインナーバックをすでに
福井で提示していましたが、当時は潰されてしまいました。
ようやく新ブランドが福井地元で理解され始めたのかもしれません。
すでに、私のところには新テキスタイルの開発や、
その商品化、見本市への特別参加要請も来ています。
おそらく、羽二重というのは、絹織物ですが、
新ポリエステルからカーボン繊維、さらにはボロン繊維までを
私はこれまで適用されなかったアイディア展開をと狙っています。
したがって、「今日の講演は難しかった」と言われましたが、
私は敢えてテキスタイルが次世代開発の直前にあることを
懸命に伝えたつもりです。
当然、かってパラシュートが素晴らしいので、
敗戦時には米国に徹底的にf福井は爆撃を受け破壊されました。
もう一度、世界で最高の繊維・織物・編物・テキスタイルで
「未来を織り込む」産地づくりにデザイン智恵を出す覚悟です。

 


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『新素材ブランドの確立をめざす・「羽二重 HUBTAE」から』


   


     9月 27th, 2014  Posted 12:00 AM

日本の産業構造には革新が絶対に必要だと考えてきました。
その第一段として絹織物を福井県織物工業組合青年部会を
預かって2年KK塾で製品・商品を超えて新素材を開発してきました。
私自身、ふるさとの織物工業とは密接な関係がありました。
もはや、商品ブランドを訴求するだけでは、
今後わが国の産業構造は変えることはできません。
日本最初の輸出品が九谷焼でした。
富岡製糸場を創立背景には由利公正の「五箇条のご誓文」がありました。
彼は、橋本左内らの殖産興業で学び取り、生糸輸出ではない、
新たな「羽二重」=経糸2本緯糸1本の絹織りモノを国際化しました。
私は「羽二重」を改めて見詰め直してきました。
その結果を、養蚕産業から生糸・人絹、そしてポリエステルを
追い求めてきて、先人の残してくれた「羽二重」を後世に残す、
そのデザインプランを練り上げ、まずは「新素材」ブランドの確立。
先行きが見えないと言われる中で、これからのポリエステル産業に
デザイン導入を図ってきました。
取材を受けた多くの質問に、「繊維だから洋装ファッション」という
このイメージを打破したと思っています。
歴史に学んだ袱紗こそ、これからのハンカチの新しい商品にと、
これを発表会参画の方々にプレゼントしました。
そして、寝具はすべて変更します。
新たなマクラや寝具マットも変えます。
吸音材も変えます。
さらに、車体デザインも新たな繊維でスタイリングも変えます。
繊維産業を身体の洋装品から脱却させる予定です。
これまでのテキスタイルデザインを根本から変革します。
それは商品ブランドや地域ブランドを云々することではありません。
繊維関係の取材で記者の皆さんに驚いていただいたと思っています。
まさか、繊維が、その素材開発でここまで変えると大風呂敷でした。
しかし、この風呂敷は畳んで持ち帰れる大きさです。
手ぬぐいのデザインといって、その柄のデザインはデコレーション、
風呂敷のデザインも大きな間違いだと確信しています。
繊維産業を新素材産業として「革新デザイン」を発表しました。


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『新ブランドのイニシャル商品「大袱紗」の歴史に思う』


   


     8月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

絹織物の歴史は奈良時代から養蚕=繭から生糸の智恵が進化します。
明治期には生糸の輸出では、限界がきますが、
由利公正は、橋本左内と横井小楠から学んだ殖産製造制度から、
欧州視察で絹織物の実際を見聞して、織物職人3名を派遣します。
彼らは、富岡製糸場を指導し、西陣織りを再興して、
その技術に、経糸を二本に緯糸一本で「羽二重」という光絹技術が
やがて人絹となって、現代のポリエステル産業につながっていきます。
明治期が始まる大きな要素は、適塾・ペリー来航・安政の大獄、
ここから、咸臨丸の渡航1860から、1870年代にようやく、
わが国の文明開化の中軸は織物産業が輸出経済となったことです。
私は1800年代の歴史は徹底的に暗記するほど、
この頃の産業全体を関係づけてきたと思っています。が、
いつも、幕藩体制の維新が決して無血革命ではなく、
安政年間のあまりにも悲惨なこと、安政の大獄と安政の大地震が
現代への歴史起点だったと何度も確認しています。
小説では坂本龍馬や福澤諭吉に焦点があてられていて、それこそが、
あたかも歴史の体裁になっていますがこの大誤解に対抗しています。
わが最大の敬愛者・橋本左内は26歳で斬首され、龍馬も暗殺、
横井小楠も大誤解のなかで暗殺されてしまうのです。
生きのびたことが歴史に燦然と輝いてしまいます。
由利公正(藩士・三岡三郎)は五箇条のご誓文=船中八策原本と
銀座がレンガづくりの都市計画になりますが、
やはり、私には、日本が明治期を迎えて、文明開化の華やかさには、
一方で、大獄と大飢饉があり、斬首と暗殺の歴史哀情に悲嘆します。
特に橋本左内は16歳で「啓発録」を書き26歳までのたった10年間に、
凝縮された思想と行動に限り無い敬意を抱いています。
新ブランドの最初「O-FUKUSA」は彼へのオマージュです。

「蚕・繭・絹・・・観察が『技』を決める」
「『SILK』Projectが示唆している重大さ」
「芸術という技法が引用したことから」
「憧憬の人物、その実筆書状を探す」
「会えずとも、誤解されようが・・・私は語り継ぎます。」


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『日本の繊維産業、その先鞭をつけた人たちの偉業に続け』


   


     7月 29th, 2014  Posted 12:00 AM

福井にいる頃、すでに私は当時の織物組合の青年部会で、
新ブランドと製品開発をし、部品すら、すでに開発をしていました。
しかし、まだ若かった私は信頼されることもなくて、
そのデザイン企画は発表出来ませんでした。もう27年前です。
が、最近日本のあるとても話題企業の商品は過去の私の提案でした。
青年部会長は、現在、この企業団体の理事長になって再度、
私には重大な新ブランドづくりと製品開発指導を委ねられました。
そこで、私は日本の繊維産業の歴史性から、これだけの人物、
彼らの足跡を求めて、日本の繊維が「絹織物」からの出発を知り
起点は、由利公正(五箇条の御誓文)の仕掛けから始まりました。
「絹織物」を欧州から学べと指示した由利公正は、
京都から三名の人間が欧州の織物を学んで帰国し、彼らによって、
今年大きな話題となった「富岡製糸場」も指導をしていくわけです。
近代産業化をしていく織物産業は次第にその精緻さを求めます。
1870年には「富岡製糸場」が企画され、三人が帰国して指導し、
彼らは京都にもどって西陣織りにつながり、
福井には4名の先達によって、「羽二重」が生まれてきます。
1893年には人絹取引所までがこの産業を確約たる輸出産業になります。
私は、なぜ由利公正が殖産興業の手立てを政策に持ち込んだ理由は、
橋本左内などに学んだことが連綿としていく歴史性を辿りました。
このことを教科書の副読本にしていこうと考えています。
私はこの先達たちの先鞭性を継承してさらに再活性化を考えました。
新ブランドは、布の基本=絹からポリエステルまでを感性評価し、
その学術的な整理から、新製品発表を目指してきました。
歴史性・感性評価・織るから創るまでを発表していくつもりです。
日本の絹織物ゆえに、先達たちが「何を大事にてきたか」を
私は新ブランドと新製品アイテム開発をデザインしていきます。

『「織物・布の感性的評価軸=オノマトペ」産地福井から発信』


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