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Posts Tagged ‘分離’


1月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 25th, 2022  Posted 12:00 AM

1月25日 仏滅(戊寅)

『修辞学としてのデザイン』

したがって、
修辞学ということばの
体系は、
情報と物語が重複、
あるいは
分離という事態が
派生して進行している。

artificial heart:川崎和男展


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『モノは実像で鏡面に、虚像にはそれが「神話学」となる』


   


     7月 20th, 2019  Posted 12:00 AM

デザインに最も近い領域には芸術があります。
さらに、現代アートが寄り添っています。
私はデザイナーですが、作品「PLATON’S ORGOAL」では
デザインからアートを近づけました。
プラトンからミッシェル・フーコーまで12人へのオマージュとしての造形を
オルゴールとしてかたちと音に込めました。
1994年ギャラリー・間で、2006年には金沢21世紀美術館で展示し、
そのままパーマネントコレクションになっています。
私のこの秋発表の新作は、モノ・オブジェです。
改めて、「芸術の陰謀」を再度読み直しました。
モノゆえにコトとのつながりがあっても、
私はモノとコトを分けたいと考えています。
モノは私独自の素材論であり、
コトもそのオブジェならばと意図しています。
しかし、私の造形言語=designingの意図は、
形態言語=designedの内容に繋がってもいるのです。
モノ・オブジェであることからは、コトの世界は何も意図していません。
ゆえに、モノとコトは完全に分離されています。
芸術が主観性であれば、デザインは客観性。
この客観性をデザインで事細かく設計しています。
この書籍を再び読み終え、新作には「Mythology from an efficiency」を
テーマとしました。実像であるモノが鏡面に浮かび、
虚像でモノの神話学まで私は持っていきたいのです。


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『無駄な投機だった医工学の廃止が証明できている』


   


     6月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

文系と理系が大学教育では完全に分離してきました。
文理融合は必然の教育テーマになっています。
都合のいいことは、これをまた米国の大学から、
d.Schoolのそれこそコンセプトを知らされると、
余りに見事、i.Schoolを掲げて、
文理融合というより、デザインの発想を取り入れるのが大きな手法となり、
「デザイン思考」がその決め手ということになりました。
しかし、理系を文系に、文系を理系に接近させたところで、
その合致点は、結局、理系そこそこ、文系そこそこ、
デザイン思考ならば、デザインには確実な実技がともなっています。
具体的には、「スケッチが描けること」が必須なわけです。
スケッチが不得手であったなら図解の基本は?となり、
現実にデザイナーが居なくては、この教育は全く不可能なのです。
阪大は、デザイン思考に疑念を持ち、徹底的にその源にもどりました。
それは「コンシリエンス」という
知識・知恵の造語を19世紀に見つけました。
それを自分は「コンシリエンスデザイン」として、
最も何も社会化出来なかった医工学に当てはめる論理を打ち立てました。
そうしたら米国のMITでは「コンシリエンス」に
科学−社会自然学を適合させていました。
とても明快になりました。デザインは「問題解決」ゆえ、
その対象を「看医工学」に差し向けると、
一体これまで何を実現してきたのか、
どれだけ税金を投機し無駄に終わってきたのか、
その医工学の欠点が明らかになってしまいました。
なぜなら、看護学・医学・工学・保健学によって、
安心・安全・最新医療環境・予防までが明快に論理解決できたことです。
明言すれば、医工学のこれまでの効能性ゼロを証明してしまったことです。

*『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』
*『『デザインとは何か?』=デザインとは前頭葉である』
*『手描きスケッチのツール』
*『プロとして元気の素は鉛筆への作法』
*『イラスト・漫画はデザインスケッチでは無い』


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『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』


   


     2月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインはサイエンスだと公言する人は数多いと思います。
私自身もデザインをサイエンスと考えてきた一人でした。
しかし、それなら、なぜ美大=芸術の一領域で
デザインを徹底的に体で訓練されてきたのかと疑ってきました。
大学を退官して、ようやく、デザインは学際的な一領域に辿りつきました。
それは「Scientist」という職能を決めた人物、
ウィリアム・ヒューエルの存在がありました。
特にサイエンスを定義し、
なおかつその職能を決定した人物がいたことです。
「コンシリエンス」という言葉は彼の造語であり、
この言葉が復活をしてくるのは20世紀でした。
とりわけ彼がサイエンスの限界に美学性を持ち込んだことかもしれません。
私は文理融合とか学術と芸術の統合をconsilienceと断言した彼の造語から
「コンシリエンスデザイン」を再度定義づけています。
無論、彼の造語を再度学術性への芸術化を持ち込んだ人物も精査しますが、
やはり問題は科学では断言仕切れない芸術、特に美学性でした。
しかもcon-silienceとre-silienceに私は注目してきました。
とりわけ、なんでも精神的なストレスを理由にすることへの
いい加減さに辟易していた私には、
レジリエンスにもデザインが適用できると納得したからです。
コンシリエンスとレジリエンスが
対応できる新たなデザイン概念だと決定できたのです。
無論、サイエンス世界にも美はあります。
それどころかサイエンスは究極、美に繋がっています。
それはヒューエル自身もカントに大きな影響を受けたごとく、
カントは感性を極めて大事にし、
「直観の無い概念は空虚であり、概念の無い直観は盲目」とまで
断言を残してくれました。
私はあえて、デザインをサイエンスから分離させて、
むしろ学術+芸術はデザインによる、
すなわち直観による問題解決のヒント・価値創出のサイエンス性、
未来創出の芸術的表現を読み切る力はデザインにあると確信しています。
それだけに教育系や工学系では
デザインは元来つくれ無かったのかも知れません。
私は「芸術工学」での芸術と工学(サイエンス)を母体にしたからこそ、
「コンシリエンスデザイン」に辿り着いたのだと思っています。
したがって安易過ぎる「デザイン思考」などは
何の役にもたたないでしょう。
特にレジリエンスデザインはデザイン思考では解決不可能です。


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『思考の「考」は思うことを経験が判断する』


   


     1月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」の前に僕は「思」についての概説をしました。
「思」という象形文字は頭蓋骨と心臓の組み合わせにより、
直感的で即応性のある認知を表しています。
そこで、次には「考」についても漢字の象形文字から、
系譜としての意味=原意を僕は求めておきたいと考えます。
これは「思う」という感性的即応的なことではなくて、
象形文字に至る系譜を見詰め直さなければいけません。
なんといっても「考」という漢字は、「老」にその起源をもちます。
「老」とは、白い髪が伸びて腰が曲がった人間、
つまり老人を意味していると言われています。
まさにこの老人とは、様々な人生経験を積んできた存在の姿形です。
この「老」という姿形をシンボル化している象形文字に対して、
老人が杖を持って佇んでいる姿形、
その象形が「考」となります。
これは経験がある人間が立ち止まって何事かを思い続けている風景です。
経験が直感を思い続けて思い込んでいる姿形だと考えることが可能。
思いの連続性に経験での判断が認知を支えて認識につがっています。
「思」があくまでも頭蓋骨の泉門と心臓での感情のままの生理性に、
体験や経験がその判断を再構成することは、
老人の佇みを後継の世代にも受け継がせることです。
それは教育で培ってしまうことでそれを人類の教養に継承させられます。
結果、直感として思うことを停止させて認知判断させることが可能です。
「思考」と「考思」が本来はあったのですが、
今では一般的にどうしても「思い考える」ことと、
「考えて思う」ことがあっても、「考思」は忘れられています。
しかし、僕はこの二つを再配置することで、一方に思慮があり、
一方に考慮があり思惑と考察が見事に直感=主観と客観があるのでしょう。
思識・思念と考証・考査も直感と判断のために思って佇んでいる姿形です。
「思」と「考」が時間軸と経験軸を認知の行動を明確に分離しています。
僕は
「・・・と思います」
「・・・考えます」、この二つには
思的な考証と考的な思識があるということです、
僕らが思惑することに決着するには考証が必要だということです。
思うことは考えることで認識がまとまるということになります。


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『まず、ニュートン的力学の隠喩としてのデザイン』


   


     12月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

学術と芸術が分離あるいは分担されてきた教育、
このわが国の教育システム・制度の歴史はとても長いと思います。
幸いにして、私は学術と芸術、それも芸術に派生してきたデザインを学び
プロのデザイナーになることが出来ました。
人はいずれ長じれば自分の職能的な経験値を伝える使命と義務があります。
このことは、すでに大学の恩師達には分かっていたのかも知れません。
私が想像もしていなかった交通被災で車イス生活を余儀なくされた時、
恩師たちからは、大学に戻れと言われ、その大学を辞した時には、
別の大学で、教育系では情報デザインとデザインを、建築系でもデザイン、
こうした教育側の訓練を受けていたのでしょう。
私が大学人を選んだ時には、「やっとその気になったか」と納得を受け、
大学人とデザイナーとして今日を迎えています。
そして、芸術と学術、文系と理系の融合化統合化によって、
私は「コンシリエンスデザイン」と「レジリエンスデザイン」を知り、
デザインを看医工学に焦点化した時には、
学域のデザインは人間の社会と時代、生涯に向かいました。
結果、健康と福祉は「命」=生きることを支えることを明確にしました。
これは私が芸術=美術大学時代の教授達が今なお私に、
プロとしてのデザイナー、その経験に基づく新たなデザイン、
その手法を発見させて、次世代への教育目標を創らせたのでしょう。
私は素直にニュートン的なベクトルの合力によって、
作用点に人間の思考・知識を置いて、その合力が人間に向かえば、
明らかに、健康と福祉が命を支えていること、
この支援力には、
レジリエンスという、例えば自然や社会からの
抑圧に抵抗する力をレジリエンスデザインとし、
レジリエンスデザインを充分に知り尽くしているからこそ、
コンシリエンスデザインが人間の支援力になるということを
明確に確認させてくれているのです。
学力・デザイン力を「コンシリエンスデザイン」とし、
まして私は、身体障害者であり心臓障害者ゆえに
「命」とデザインの関係を相反させて伝えていく使命と義務があるのです。
そして、すでに、このニュートン的な力、合力だけではなくて、
量子力学的な相互作用的、重力的、電磁力的な隠喩としての
新たな「コンシリエンスデザイン」を定義して、
次世代デザインを提唱していくことになるでしょう。


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「サービスの原意を求めて」


   


     1月 2nd, 2012  Posted 12:00 AM

紀元2世紀、パル・コクバの元で使われたというコイン。
私は年末から、「サービス」の原意を求めています。
理由は、サービスは資本主義社会にて「産業化」された言葉と商業です。
私がこの原意を求めるのは、三つの理由からです。

  • 資本主義象徴である「サービス産業」の今後
  • 資本主義がもたらした様々な害悪からの逸脱法
  • 「サービス」本来の社会的効果です。

この探求には「オイコノミア」という原始基督教義が重なります。
その中で、2世紀に、キリスト教からユダヤ教を分離した一人の救世主。
それが、パル・コクバであり、彼は救世主でした。
救世主であると同時に王様でもあったわけです。
そこから、王座に座るべき者の「権力」と「権威」が定義されます。
「オイコノミア」とは「エコノミー」と同義です。
そしてオイコノミアはすでに神学的対象になっていますが、
確実に、この教義あるいは論理に始めて
「サービス」という言葉が出てきます。
私は、この言葉を再検証から再定義が、
現代の資本主義の歪みを是正できるのかどうかがとても気がかりです。
それは、資本主義での産業には、「情報産業」と「サービス産業」があり、
当然、この「情報サービス」と「サービス情報」が
資本主義を再構成あるいは資本主義からの解放を発見したいのです。
この正月にぎりぎり
「オイコノミア」を読解してしまいたいと考えています。
これから、その検証結果をここでメモを報告していくつもりです。
なぜならこの国難の日本は
改めて資本主義社会から逸脱することが大事だと直感しています。


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『資本主義からの逃走』
  「『光の道』が立国具体の手法とは思えない」


   


     12月 6th, 2010  Posted 12:00 AM

Fiber To The Home
当然ながら名称を変えることが前提。
光をシンボル化するのでは20年前に戻ります。
この光は、インターネットへの通信にすぎません。
インターネットへの期待感が大きすぎます。
FTTH=Fiber To The Homeというシンプルさは納得できます。
そして、光ファイバーが全家庭にというのは、
通信ブロバイダー企業だから、ここに焦点化している提案だとしか私には思えないのです。
だから、そのFTTHで「IT立国」が日本の今後の道とは思えません。
ともかく、ITという「情報技術」の認識から解放されていないことです。
わが国は、「貿易立国」であり、「モノづくり立国」であり、
そのためにITを利用することは当たり前のことですが、そのための構想が欠落しています。
クラウドタイプ
「コンクリートの道」を「光の道」という発想や、
「教育クラウド」・「医療クラウド」程度の形式と内容が、
全世帯FTTH方式というだけの「具体技術」では、
現行のNTTやDoCoMoのようないわば官民的な企業能力ですら理解しすぎているので、
この発想に賛同をしていないことはよくわかります。
なぜ賛同もしていないのでしょうか。
その理由は、現行の制度革新への積極性など、こうした官民企業の意識には皆無だからです。
私の提案は、まず、ハードの開発です。
そのハードとソフト、ソフトからのハード開発が必至です。
もちろん、「教育クラウド」と「医療クラウド」の実現は緊急課題であることには大賛成ですが、
その上部に「行政クラウド」・「防衛クラウド」・「治安クラウド」、
つまり「日本国家グランドクラウド」が無ければなりません。
確かに、Smart-Phoneが、ケータイ以上の「社会的で多様な機能性」を経験し、
さらにはiPadの性能性、この二つの効能性を知ったからこその発想に過ぎないと思います。
もっと、重大なことは「情報」・「コミュニケーション」・「制度」をどうしていくかです。
まず、これらの分離=アフェレーシスと連合=アライアンスの同時進行です。
日本は何・立国か
こうした構想からの制度設計=新規税制の導入など、
あらためて「モノづくり立国」の基本にもどることが重大だと認識しています。
「光の道」構想が出て来た意味は、これからの日本立国のグランドデザインと、
インターネットの構造への議論が始まったことには大きな意味があるでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「サイバー空間の分断、『用間』による情報戦術」


   


     9月 21st, 2010  Posted 12:00 AM

サイバー・テロ
資本主義は社会主義との対立を起こしました。
70余年米ソ間「冷戦」において、
緊迫した関係が、いわば、世界をこの冷戦に呪縛してきました。
ソ連の崩壊=社会主義の崩壊は、私は資本主義の勝利だったとはまったく思っていません。
むしろその時に資本主義も終焉したのだという見解を持っています。
しかし、資本主義があたかも勝利したという経済論理は、
今ではすっかりと新たな局面、私は「混乱」を引き起こしているとさえ思っています。
それは、市場と計画を社会主義や民族主義に閉じ込め、
先富論での軍事体制を国内外の国家統一論にしている多様性が派生し、
サイバー・テロまで出てきたことを危惧するからです。
そして、その軍事戦略には「サイバー空間として世界戦略」を観ることができます。
明らかに、この場合の「情報」はインテリジェンス=策略・謀略だと思います。
デザインを設計から「策略」・「新資源」と訳されていることも再考すべきです。
「孫子の兵法」
私が、情報を四つの統合の中でという定義性を持ち出せば、
情報=information・ knowledge・ consciousness・ intelligenceに注目をしてほしいと考えます。
私が、理想主義としているMedia Allianceは、
「分離」をあえてキーワードにしているのは、情報の危険性が重なっているからです。
そして、軍事論あるいは戦略論にすれば、私は「孫子の兵法」を取り上げておきたいと考えます。
「孫子の兵法」は13章、13項目挙げられています。
その最終章には「情報戦」でまとめられています。
「用間」
『用間』です。これは「間者」を使うという内容です。
「間者」はスパイを意味しています。
スパイによって、情報を流すということです。
その情報とは、「他国が多勢で攻め込んでくる」という噂=情報を流すことを意味しています。
こうした情報によって、決して血を流すことなく他国を攻めることができることを意味しています。
「孫子の兵法」は、如何に流血の戦争をしないかということでまとめられています。
『用間』とは、情報を用いるということです。
情報の怖さをその時代にすでに気づいていたということです。
情報は見事にconsciouness=意識に関わり、
意識を分離すればそれは人格破壊にまで及ぶ怖さを持っているということです。
情報、すなわち「情勢報告」は、
何が正しいのかを見極めることが重要だということを示唆していると考えます。


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『資本主義からの逃走』
「Media Integrationからアフェレーシスを経るだろう!」


   


     9月 18th, 2010  Posted 12:00 AM

「情勢報告」=情報
「情報」という日本語に向き合ってきました。
いつごろからだったかと考えると、明確には東芝入社時に、
FORTRAN とCOBOLの研修を受けた時からだと思います。
そして、ポストインダストリー=脱工業化社会論は、
ドイツから出版された「意識革命」だったと思います。
そして、情報が森鴎外の邦訳語説に出会いました。
ところが、超有名大学教授から猛烈な「反撃」を受けました。
ちょうど、私が名古屋市立大学教授になった時でした。
驚愕し無論この教授がこのような方だったと愕然とし、私も反撃してこの発言をし続けてきました。
しかし、私はこの反撃が直感で誤りだと感じていました。
森鴎外のクラウゼヴィッツ・戦争論の翻訳・「大戦学理」にある
「情勢報告」を「情報」としていると金沢での第15回日本VR学会で教えていただきました。
しかも、私が講演で「情報は情に報いる」という事自体が大きな過ちだという指摘には
大賛同をしていただきました。
情報が情に報いるなら、表記は「報情」でなければなりません。
しかも、「情」には古代中国の文字定義意味があるので中国古典書定義からは、外れてしまいます。
「情」とは心に中に流れ込むどろどろとした「青」(中国ではこれは黒です)ですから、
人間の策略や謀略を意味します。

apheresis

したがって、戦争での情勢とは戦略の動勢を探って報とし伝達するという意味になります。
そこで、これまで一部で語ってきたのは、「アフェレーシス」でした。
これはギリシア語・aheresis=「分離」を意味しています。
現在、アフェレシスは医学術語で「血液分離」として人工透析などの基礎用語になっています。
そこで、私は、「ユビキタス」=どこでもコンピューターとの対話環境がある、
となれば、「情報の分離」が必須になるということで、アフェレーシスという段階が必至であり、
このステップ経なければならないということを若手ベンチャーの指導者にその話をしてきました。
「情勢報告」=「情報」も分離して、プライオリティが必要だということです。
そこで、「情報社会」ではアフェレーシスが重大になると自信をもって発言します。
私がMedia IntegrationからMedia Allianceへのステップにaphereis、
その分離ダイナミックスが重要になるという提案です。
「戦争論」は資本論にとってもエンゲルスが絶対に参考にすべきと言われた論理でしたが、
クラウゼヴィッツは、「戦争論」を書き上げることはできなかった論理でした。
私は、情勢の分離が知識と意識にどのように影響していくかは、
当時はまだ熟考不足があったものと考えます。
戦争論理でいえば、「孫子の兵法」が見事に言い尽くしているというのが私の判断です。


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