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Posts Tagged ‘杖’


『Fayetの多機能なステッキをもっと知るべきです』


   


     8月 22nd, 2018  Posted 12:00 AM

「Fayet」というブランドを知らない人が多分多いとわかっています。
これは、ステッキの超有名なブランドです。
フランスの例えば薔薇の木をイタリアに渡して、
ステッキとしてはここでは書けない事もあります。
ステッキは心臓病の人には当時の気付け薬のウィスキーもありますし、
それこそ吹き矢から、護身用ナイフもあるほど、
ステッキが多機能であることがとても多いのです。
私デザインのステッキもあります。
400年の歴史ある有田焼、そして奈良県のステッキと取り組みました。
現在は流行しているステッキは、大きな問題があります。
まずステッキのハンドヘルドがHUSATから見れば、問題が多く、
Fayetで試作を重ねている杖のハンドヘルドは、
円形である必要性から杖を真っ直ぐにする機能性があります。
そしてこれからは、杖の樹木は国際的にも国内産に限っています。
最も重要なのは土とステッキとの接触面です。
私デザインのステッキの先は、北海道の水産現場で使っている長靴であり、
それは今では手術用シューズ靴底や、
ロボットのアシモもここのビブラム靴底を使っています。
現在はここのゴム仕様が一番だと思っています。
私がいつでも現在のステッキではFayetの様々な多機能性を見ることです。
かって仕込み刀剣であった吉田茂のスッテキなども本物を知りたいです。
私は車倚子ですが、ステッキならば、Fayetを事細かに知るべきです。


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『思考の「考」は思うことを経験が判断する』


   


     1月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」の前に僕は「思」についての概説をしました。
「思」という象形文字は頭蓋骨と心臓の組み合わせにより、
直感的で即応性のある認知を表しています。
そこで、次には「考」についても漢字の象形文字から、
系譜としての意味=原意を僕は求めておきたいと考えます。
これは「思う」という感性的即応的なことではなくて、
象形文字に至る系譜を見詰め直さなければいけません。
なんといっても「考」という漢字は、「老」にその起源をもちます。
「老」とは、白い髪が伸びて腰が曲がった人間、
つまり老人を意味していると言われています。
まさにこの老人とは、様々な人生経験を積んできた存在の姿形です。
この「老」という姿形をシンボル化している象形文字に対して、
老人が杖を持って佇んでいる姿形、
その象形が「考」となります。
これは経験がある人間が立ち止まって何事かを思い続けている風景です。
経験が直感を思い続けて思い込んでいる姿形だと考えることが可能。
思いの連続性に経験での判断が認知を支えて認識につがっています。
「思」があくまでも頭蓋骨の泉門と心臓での感情のままの生理性に、
体験や経験がその判断を再構成することは、
老人の佇みを後継の世代にも受け継がせることです。
それは教育で培ってしまうことでそれを人類の教養に継承させられます。
結果、直感として思うことを停止させて認知判断させることが可能です。
「思考」と「考思」が本来はあったのですが、
今では一般的にどうしても「思い考える」ことと、
「考えて思う」ことがあっても、「考思」は忘れられています。
しかし、僕はこの二つを再配置することで、一方に思慮があり、
一方に考慮があり思惑と考察が見事に直感=主観と客観があるのでしょう。
思識・思念と考証・考査も直感と判断のために思って佇んでいる姿形です。
「思」と「考」が時間軸と経験軸を認知の行動を明確に分離しています。
僕は
「・・・と思います」
「・・・考えます」、この二つには
思的な考証と考的な思識があるということです、
僕らが思惑することに決着するには考証が必要だということです。
思うことは考えることで認識がまとまるということになります。


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「『内部障害者マーク』を国際化していくデザイン案と提示」


   


     7月 12th, 2013  Posted 12:00 AM

私がこのマークデザイン依頼を受けて実際は直ぐにデザイン。
しかしながら、この展開に至るのに相当の時間を使いました。
でも、諦めずに提案内容を徹底的な国際化と最新技術印刷までを
私はデザインが問題解決と日本だから最新技術展開を遂行。
依頼は福井県内部障害者の団体の方々でした。
デザインはすぐに出来ました。しかしその展開の途中には、
東京都でも制定マークが出来上がってきました。
私はこうしたマークは、本当に哲学的な問題解決策が必要です。
たとえば、ほぼ万国共通の「車倚子マーク」は氾濫していますが、
デザイン完成度の低さから、各国での使用は見直されています。
先般、New York市の車倚子マークが変更されましたが、
私の提案マークによく似ています。
さて、このマークには、欧米でも解釈が未だに混同されている、
「アスクレピオスの杖」イメージとハート印を造形要素。
本来は「アスクレピオス」と「ヒポクラテス」が医療の象徴です。
しかし、欧米ではこの二人が題材とされているギリシア神話、
その解釈についての議論がそのまま、ヘビと杖に表れています。
それはヘビが一匹なのか二匹なのかという問題の解釈です。
しかも、その杖に鳩がイメージされることで、
平和や安全や防衛などの象徴化までイメージ展開されることです。
私は、あくまでも、内部障害者は「外観では判断が不可能」です。
ところが、実際は障害者であって、
社会からは常に彼or彼女の医療性や防衛性が大事です。
ある意味では、アスクピレオスの杖と鳩と蛇二匹を、
歴史的にも、あるいはそれぞれの解釈説を相当に検証しました。
その核心には、「危機管理」という学域の設定からも、
CrisisとRisk、それぞれに「デザインマネジメント 」の
明確なコンセプト定義化も行ってきました。
定年退官後も大阪大学大学院に研究室があります。
7月30日には、「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」、
この解説キックオフを行います。
さらに適塾開設175周年記念講演を開催し参加します。
適塾は阪大医学部・医学系研究科の源流でもあるからです。
いづれにおいても、医療・医学・安全・防衛がテーマゆえに、
この「内部障害者マーク」はデザイン実務の一つです。


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「老人が杖をつく考の象形から、思考の考」


   


     6月 18th, 2013  Posted 12:00 AM

「思考」の「思う」は、生まれながらの心からの直感。
このようにとらえると、
「考える」と「思う」を再度象形文字から考えることが可能です。
「考」は本来は「老」という象形から派生しています。
老人というのは、
多分、「思って、想って、思い続けてきた人間」です。
経験や聞いた話などの実体験が「思う」ことになるのでしょう。
しかも、老人とは、髪が白くて腰が曲がっている。
この象形が「老」という漢字だと言われています。
さらに、この「老」から、腰の曲がった老人が杖をつきます。
つまり、杖をついているのは佇んでいるわけです。
老人が杖というのが、「考」という象形文字だというのです。
「思考」の「思う」ことと、
「思考」の「考える」ことには、人生の時間が重なっています。
日本語漢字、象形文字の素晴らしさに私はあらためて感動します。
なんと、「思考」とは、
人間が生まれて、直感的に感じ取る「思い」を、
人生の、経験、話、実体験、そして教育成果で「考える」。
私は、赤ん坊の「思い」と老人が杖をついて佇んで「想う」こと。
なんと「思考」というのは、
人間の生涯という時間にわたって想い続けていることです。
とりわけ、私はデザイナーという職能なので、
デザイン思考というのをこの生涯の想いに重ねることができます。
しかし、困難なのは、
デザイナーに成ったときには思うというよりは考えています。
だから、デザイン思考というのは、想うことは考えること。
それゆえに、デザイン思考の思うことは、
デザイナーゆえの直感が「思う」ことになっているはずです。
こんなに象形文字から基本を積み重ねていくことは、
なんと面倒くさいことの繰り返しだと自覚します。
しかし、デザインにとっての「思考」とは、
「思う」ことは直感であり、
「考える」ことは熟考のまま佇んでいる「想い」だと思うのです。


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「車椅子とグローブ(手袋)の重大関係」


   


     8月 4th, 2012  Posted 12:09 AM

車椅子使用者になって、
どれだけの手袋を使い果たしてきたことでしょうか。
特に夏は、
「ドライバー用」や「ゴルフ用」などを試してきましたがダメでした。
何がダメかというと、坂道を下るときには、
車椅子のハンドリムを握る力をブレーキとして使うのです。
これはブレーキですから、当然に熱くなります。
絶えきれないほどの熱さになります。
これはロッククライミングでアップザイレンで
ロープをグリップ感覚で下ることに等しいのです。
牛革グローブは、耐久性がありません。
鹿革グローブが適しています。
ミラノにグローブの専門店がありますが、
全世界でのブランドメーカーにも「自分用」を求めたこともあります。
鹿革手袋は今も使えますが、やはり摩擦熱は耐えるのみです。
最近やっと見つけ出したのが、SWAT用のグローブです。
「ドライビング手袋」だと、時には手の甲部分を思い切りぶつけたり、
拳関節(MP関節)表面を何度も怪我してきました。
私は、デザイナーにとって「手」は重大なプロツールですから、
「手」にはすこぶる神経を使っています。
ハンドクリームも欠かせません。
学生たちにも「手」のケアはうるさく指導することにしています。
それは、人前でスケッチを描いている時に、
「清潔な手」もプレゼン要素だと思っているからです。
このSWATグローブは、刃物にも強力な耐久性があります。
もちろん、MP関節は完全に防護されています。
かなりの坂道でグローブ自身が車椅子のブレーキになってくれます。
私はこの事実から、
本来は杖・ステッキを使用するユーザーにも
最適なグローブが必要だと思っています。
さて、夏にグローブをしていると
日焼け防止になることは間違いありません。
63歳の私ですが、「手」は30代、いや20代かもしれません。
ちょっと自慢し過ぎているかもしれませんが。


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「語り部仕草は、再出発するべきです。」


   


     5月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛「連塾」、その他の舞台演出は、
いわゆる講演スタイルにオリジナリティが顕著です。
私は、彼の講演での話し方、語り部仕草は、
まったくのインプロビゼーションであり、
観客を引き込む術において、
あるいは、プレゼンテーションとしては、
世界的にもトップランクだと思っています。
故スティーブン・ジョブスがプレゼンテーターとして、
最高の人物評がありますが、
私は松岡氏の方がはるかに彼をしのいでいると思います。
なぜなら、製品を題材に語るより、
抽象論理を語ること、文化の根底を語ることは
とめどなく困難だからです。
頬に押し当てた掌は、思考を巡らしているわけではなく、
不安や欲求不満などありえず、
いわゆる心理学でのパフォーマンスに深層心理表現は
まったく当てはまっているとは思えません。
彼の言葉に、「読欲」があります。
ともかく「本を読む」という欲求が強い人なら、
多分、頬杖ではない頬に掌は、私にもその癖があります。
だから、読欲あれば思索サイクルの表出が舞台上に出る、
そんなことはありえません。
すでに反芻された思考結果を語るだけだから、
観客は引き込まれるのでしょう。
ひょっとすると、写真撮影禁止だったのかもしれませんが、
私は、私記録としてシャッターを押しました。
ここで「連塾・最終回」のレポートをしたわけではありません。
「九景」として構成された最終回は、
なぜ、九景だったのか、
それも私には推測がついています。
彼の「自叙伝」がどうだったのかは、
書物となって出版されるでしょう。
おそらく、その「語り」と「身振り」による空気感までを
編集されることはとても困難だと思いますが、
その記録、あるいは・・・
私はその出版を心待ちにしています。
男として惚れ込んでいる「ち」としての松岡正剛です。
「ち」とは、
私が常用する「いのち・きもち・かたち」の「ち」であり、
知・血・地・致・智・値・治・置・稚など、
日本の森羅万象を受け止める統合的な百科的認識を表してます。
10年に及んだ「日本という方法」、
その結論を師範として松岡正剛は最後に提示しました。
それらが何であったのかも、
是非に出版を待っていただきたいと思います。
私はその出版を待って、再び松岡正剛を伝承したいと考えています。
「グレン・グルードのごとくありたい」と、
松岡正剛は声を詰まらせたとき、私も同様に胸が詰まりました。
私はあらためて、10年の結論こそさらに「日本という方法」、
それが3.11からの復興と復活の「ち」ゆえに、
松岡正剛は、その師範役を引き受けるべきと伝えます。
「連塾」は、9.11をもって開塾されたのですから。


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5月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 16th, 2010  Posted 9:00 AM

5月16日 赤口(丙寅)

考えるとは、
老人が杖をついて
たたずんでいる形象である。

老人のごとく経験や知識に身を任せて、
ともかくたたずむことである。

『プラトンのオルゴール』
あとがき


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