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Posts Tagged ‘risk’


『危機管理ではありません、危機解決なのです』


   


     2月 29th, 2020  Posted 12:05 AM

「危機管理士」は何も出来ませんでした。
自然災害と社会的リスク、生物兵器においては
対策、対応、対処する役割、管理体制が問われています。
「危機」とは「危険」である「機会」があるということ、
その想定される危機や機会では「管理」ではないのです。、
つまり、Riskに向けた防災や防犯を活かすことです。
しかし、Crisisは「すでに起こってしまった事象、事件」。
その現実、新型コロナウイルス=COVID-19の
パンデミックという起こっている現実への対処、
行動で「解決」へと導く方策=医学的が欲しいのです。
つねに日本は災害多数であり富士山爆発が予想されています。
地域ごとの地震予知から予測へつなげようとしています。
私はCrisisとRisk、現実と予測の両面こそ重要だと考えています。
そしてやはり、危機は管理ではなくて、
「危機解決」=医学的なデザインなのです。


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『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』


   


     4月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

デザインは問題解決の実務的手法だと主張をしてきました。
特に、危機管理とデザインを実際に取り組んできて、
私の結論、信頼安全性工学からも、
「危機は管理できない、むしろ、危機は解決する」という結論です。
そこで、コンシリエンスデザイン:consilience design という
提案に結びつき、それはレジリエンスエンジニアリングから、
レジリエンスデザイン:resilience design という領域が
絶対に成り立つということが実際的な開発事例でした。
そして、問題はsilienceという言葉の歴史的な転移から、
なぜ、コンシリエンスやコンシリエンスが生まれてきたかです。
デザイン・デザイナーという立場からの再考と仮説化に至っています。
そこで、プレシリエンスデザイン:presilience designと、
メタシリエンスデザイン:metasilience designという新造語で、
まさに、コンシリエンスとレジリエンスという問題解決手法を
デザイン的な位置づけ論理にすることができると考えています。
明らかに、コンシリエンス自体が造語であり、この造語から
学術+芸術、文科系+理科系の「統合」をデザイン思想化する、
この発想がありました。
そしてその反事象にレジリエンスという心理学的な
どのような問題に取り囲まれようが、積極果敢な自己認識論が
存在していることが明白になってきています。
そこで、レジリエンスという精神性の強靭化と
コンシリエンスという統合化への前準備思考、
そのデザイン:presilience designと、
強靱的な心理性と学術芸術の融合・統合性を
さらに包含する思想をmetasilience designと仮説化しています。
これこそ、すでに起こってしまった危険=crisisと
起こるであろうと予測される危険=riskへの危機対応という
問題解決の手法になると、現在、この論理化を基盤にして、
未来創出の実務的デザイン、その事例づくりを開始しています。


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『コンシリエンスデザインの基盤は危機解決学である』


   


     3月 14th, 2015  Posted 12:10 AM

大阪大学大学院を定年退官したあとに、
私は「危機管理工学のプロダクトデザイン応用講座」を率いました。
しかし、いわゆる「危機は管理できない」ということになり、
結果、「危機解決学のデザイン実務」が不可欠だという結論です。
しかし、旧帝大どころか「危機管理学」は少数の大学にありますが、
私は全てが大間違いということになり、
「解決学」が重要でありデザイン実務での新講座開設を企画しました。
「前例が無い」という結論から、前例が無いなら尚更私が実現をと。
それなら工学研究科から医学系研究科への転籍を促されました。
まず、危機は管理できない、という発想は従弟からの提案でした。
従弟は、信頼・安全性工学のトップであり、
宇宙開発・衛星ステーション開発実施・H2Aロケットの責任者、
彼は「はやぶさ」を不成功プロジェクトと講演するほどです。
そうして、「コンシリエンス」という言葉は医学系研究科から提示、
私はそれなら、「コンシリエンスデザイン看医工学」が可能と判断。
ようやく、この4月1日から、この講座を開設することが決定です。
しかも、招聘教授には従弟はこれまでの実績からも即OKとなり、
韓国No1大学院KAIST(韓国科学院)の永久教授も決定しました。
この講座は、March 11.2011東日本大震災での大経験があります。
気候異変・感染症の増大、日本ならでは敗戦時の被爆と福島原発事故。
これは先進国家である日本が防災から防犯への模範的解決と、
危機=CRISIS(既に起こってしまった危険)と
RISK(予想される危険)という機会を問題解決するデザインです。
文科系+理科系の単なる文理融合だけではなくて、
学術系+芸術系をデザインで「学際化」するという新領域を創設します。
これが「コンシリエンスデザイン看医工学」の学際化講座になります。

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『危機は「管理」出来ない、その結論から再度、虚空へ』


   


     11月 10th, 2014  Posted 12:00 AM

私はこの2年にわたって危機管理工学とデザインを研究してきました。
3.11の体験から、真剣に一時は逃げようと考え詰めてきました。
しかし、私の父も、そして恩師もこの事実を知らずに逝きました。
だから、素直に、すでに「危機管理学」は教科書にもなっています。
至極単純に、危機管理工学の応用をデザインと結びつけること、
これは全く疑いも無く自分のデザイン対象になると思ってきました。
しかし、すでに「危機管理学」にはいくつもの疑問が出て、
すでに1年後には「危機」は「管理」できないと結論を出しました。
そこで、前例が無いと言われましたがこれはデザイン対象ではない、
私は、危機を管理するから、RISK=想定される危機だけではなくて、
CRISIS=もう起こってしまった危機をも同次元にすべきだと結論。
しかし、大学でこの立場を明らかにしなければならずに、
ほとんど毎夜もう一度危機管理学を洗い直して書面にまとめました。
ようやく、大学側も前例の無い提案を理由書・報告書・実績書で、
新たなデザイン対象に「コンシリエンスデザイン」を通しました。
正直、そのようなタイトルをデザインに掲げても、
私はやりきれるだろうか、と熟考を相当に重ねたと自負しています。
それを後押ししてもらったのは、木火土金水という、
世界観の5つの要素ではどうしても無理でした。
ところが、火と水はあっても、日本の仏教要素の風と空と地は、
私を励ましてくれたと思っています。
私は宗教を基軸にはしていませんが、すでにバーチャルの世界観、
それは職能的にも、天と地、乾坤の思想でした。
この天と地にイメージは虚空があり、そこには虚空菩薩思想でした。
したがって、ようやくこれから、私はデザイン活動のイメージは、
そのまま虚空にあって、この虚空での実現をコンシリエンス、
そのまま融合と統合に向けることの意味を語れるようになりました。
3.11で破壊された日本、さらに温暖化、感染症には、
デザイン対象を熟考する「学際化の統合」に迎えると思っています。

『コンシリエンスデザインの認識に向けて』
『「Consilience」概念定義のための書籍はここから』


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『ふだん・忘れた頃に、まさか・想定外はありえない』


   


     10月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

「March 11.2011」を体験してしまいました。
だから、私は最期の仕事をデザイナーとして、
ふだん・万一の危機=CRISISに対してと、
まさか・想定出来る=RISKに対して、デザイン解決を求めます。
東日本震災の天災と人災で本当に私たちは学んだのでしょうか。
南海トラフは間違い無く起こるでしょう。
私たちは忘れた頃にを思い出す必要があります。
そうして、今度こそ、想定外はありえないのです。
四国、黒潮町には2分間34mの津波が予想されているのです。
幼児、児童、生徒、介護者は2分間で50m高台に逃げられません。
この想定を「忘れてはならない」のです。
私は、デザイン手法で「空中都市建設」を考えています。
黒潮町に限らず、この日本列島全体を空中都市にしたいのです。
東京オリンピック・パラリンピックまでの7年間、
ふだんを危機にまさかを考えて、即行動が私の一番のテーマです。
私はデザイナーの知恵を一杯集めたいと思っています。
この祖国、日本列島を土=つちに、土地=とちを空中に、
そして町・街=まちを創ることをやり遂げなければいけません。
まさか、忘れた頃に、少なからず想定されている所から、
デザイナーが入り込んでいくべきだとずーっと考えてきました。
膨大な同胞を失いました。
彼らのまさかを絶対忘れてはいけないのです。
となれば、ふだんをもっと強化しなければいけません。
私のデザイナー・大学人最期に、CRISISとRISKへのデザイン設計。
3.11以後から、私は「までい Project」と呼んできました。
東北弁での「までい」とは、真剣に、真面目に、
絶対に想定外などを残してはいけないのです。
デザイナーみんなの力を借りたいと考えています。


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「『ふだん』・『まさか』安全と安心は相対的でしかない」


   


     9月 8th, 2013  Posted 12:00 AM

大阪のこの自宅にてすでに8年目です。
9月5日の日本列島全体が「ふだん」ではなくなっていました。
3.11以後、この亜熱帯の小さな列島に竜巻と凄まじい雷鳴が轟き、
「まさか」という事態に驚きました。
自宅は大阪市内の上町台地ゆえ裏側には大阪城があります。
少なからず、豊臣秀吉以上の景観を見つめることができます。
しかし、「ふだん」の景色は異様な雲行きでした。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設して、
これまでの危機管理学:国際経済関係論を母体にしてきた学域、
危機管理学にデザイン工学で、机上の論理=Desktop論を、
「産業」に持ち込みたいと考えてきました。
2012年3月29日に石巻市で副市長にプレゼンをしました。
その後の無反応さ、7月2日には中川前防災大臣へのプレゼン、
大臣の意志決定力の無能さを敢えて書き残します。
そこで「危機管理デザイン賞」の設定は8月1日弁護士会館。
私は真剣にプロの覚悟でこの「国難」に対して、
「デザイン工学」+「危機管理学」=新産業の創成でした。
よって、今春退任であった大学にそのまま「寄附講座」として、
自分の人生を行学の士としてやり尽くそうと考えてきました。
したがって、大学時代の同級生達はリタイアしていますが、
私なりの道に入りました。
おそらく、私が自分の人生の「ふだん」は「まさか」に変容です。
ようやく、学域設定の基盤がまとまりました。
「危機」には、「ふだん」起こってしまった危険=CRISISと、
「まさか」と想像と準備していた危険=RISKがあります。
しかし、このふたつの危険を「機会」と捉え成すとき、
CRISISとRISKを包括的=まさにインクルーシブな科学的手法、
それこそ「デザイン工学」で新たな学域と実務手法になりました。
私は、多分、この大阪で海抜120mからの景観を毎日見るでしょう。
もし、私がこの場を離れるときは、明確な諦観で、
この列島を離れる時だと思っています。
だから、私にも「ふだん」と「まさか」を保持しているわけです。


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「『まさか』『ふだん』、だからこの寄附講座開設の動機です」


   


     9月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

昨日朝に大阪市880万人に非難訓練の速報がスマホに鳴りました。
正直、びっくりしました。
私は今春大学を退任後、3.11でのやり残しもあって残っています。
「危機解決産業創成デザイン重要拠点」として、
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設しました。
危機管理学は、
1960年のキューバ危機後に、国際関係論の学域に提示されました。
ところが、私たち日本人は、東日本大震災大津波という天災と、
原発事故という人災によって、大変な「国難」にあります。
この天災=ふだん、という事態と、
人災=まさか、ということを実体験してしまいました。
以来、私のほぼ最終時期に入って、デザイン活動の中心を、
ふだん=CRISISとまさか=RISKに対して、
これまでの危機管理学を危機管理デザイン工学とすべく、
国内の論文で学域設定を行い、超党派での政治への提案事項を
エネルギーをかけて取り組んできました。
私は、なぜ、この国難を自分の生涯で体験したのだろう、と
随分と考え込まざるをえませんでした。
結論は、この事態にこそ、「デザイン」による、
机上の論理と化している制度設計の不備だらけを正し、
危機管理学を形態設計によって産業の創成に向かわせること、と
新たな学域と実務手法を明確にしました。
それは、これまでの大学機関のあり方の一新を取り込みます。
私自身、美術系大学で学び、芸術工学という学域で、
これまでのデザイン対象を拡大してきました。
そうして、デザイン対象領域を拡大するには、
さらに大きな大学院領域での活動を7年間してきました。
その大学人が終わる寸前に、
「ふだん」=CRISISと「まさか」=RISKという事態に
私自身がこの小さな日本列島で対峙しています。
ようやく、来10月から本格的な「デザイン講座」を基幹にして、
「デザイン」実務ゆえの具現化実現に向かわせる覚悟です。


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「危機管理産業創成をデザインが主導する」


   


     7月 31st, 2013  Posted 12:00 AM

「March 11.2011」で私たちは同胞達を失いました。
なぜ、自分の生涯で、この国難と向き合うことになるとは、
どれだけ報道や、現地で、前政権での大臣プレゼンをしてきました。
「危機管理デザイン賞」を創立しました。
結果、定年退官ながら、大阪大学吹田キャンパスにある
私の研究室に残って、
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」をやります。
7/30、阪大中之島センターで、大阪と東京を回線で結び、
基調講演(大阪府警察本部長)後に、
私は「危機」の定義とデザインでの産業創成を話しました。
画像は、プレゼンのその一枚です。
「March 11.2011」は、「危機」です。
危機とは、危険で大変な事態=生命に関わります。
しかし機会=賢明な即判断、想像できる限りの危険対策準備です。
危険であるからこそ、これを絶好のチャンスと熟考し、
即判断、即準備し、「制度設計」と「形態設計」を産業にも
有効な危機管理デザイン工学領域を学域に創ろうと考えます。
その具体例は、
Crisis=起こってしまった大変な事態に即対処すること。
Risk=明日起こるかも知れない大変な事態に即準備すること。
この二つから、幾つかのプロジェクトをすでに実務化しています。
むしろ、大学を退官したからこそ、
新たな視野にある「危機管理デザイン」を産業化できるとさえ、
私は存分に熟考と実務に邁進できるのかもしれません。
これまで、国際関係論で1960年代から1990年代の学域に、
私は「デザイン」=問題解決と未来創出を導入します。
大阪と東京で、この講座のキックオフとともに、
内閣官房では、稲田国務大臣と藤巻参議院議員、
この二人に早々に会合をもっていただきました。
国家ミッションに「デザイン」、
その実務を始める記念日になりました。


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「『内部障害者マーク』を国際化していくデザイン案と提示」


   


     7月 12th, 2013  Posted 12:00 AM

私がこのマークデザイン依頼を受けて実際は直ぐにデザイン。
しかしながら、この展開に至るのに相当の時間を使いました。
でも、諦めずに提案内容を徹底的な国際化と最新技術印刷までを
私はデザインが問題解決と日本だから最新技術展開を遂行。
依頼は福井県内部障害者の団体の方々でした。
デザインはすぐに出来ました。しかしその展開の途中には、
東京都でも制定マークが出来上がってきました。
私はこうしたマークは、本当に哲学的な問題解決策が必要です。
たとえば、ほぼ万国共通の「車倚子マーク」は氾濫していますが、
デザイン完成度の低さから、各国での使用は見直されています。
先般、New York市の車倚子マークが変更されましたが、
私の提案マークによく似ています。
さて、このマークには、欧米でも解釈が未だに混同されている、
「アスクレピオスの杖」イメージとハート印を造形要素。
本来は「アスクレピオス」と「ヒポクラテス」が医療の象徴です。
しかし、欧米ではこの二人が題材とされているギリシア神話、
その解釈についての議論がそのまま、ヘビと杖に表れています。
それはヘビが一匹なのか二匹なのかという問題の解釈です。
しかも、その杖に鳩がイメージされることで、
平和や安全や防衛などの象徴化までイメージ展開されることです。
私は、あくまでも、内部障害者は「外観では判断が不可能」です。
ところが、実際は障害者であって、
社会からは常に彼or彼女の医療性や防衛性が大事です。
ある意味では、アスクピレオスの杖と鳩と蛇二匹を、
歴史的にも、あるいはそれぞれの解釈説を相当に検証しました。
その核心には、「危機管理」という学域の設定からも、
CrisisとRisk、それぞれに「デザインマネジメント 」の
明確なコンセプト定義化も行ってきました。
定年退官後も大阪大学大学院に研究室があります。
7月30日には、「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」、
この解説キックオフを行います。
さらに適塾開設175周年記念講演を開催し参加します。
適塾は阪大医学部・医学系研究科の源流でもあるからです。
いづれにおいても、医療・医学・安全・防衛がテーマゆえに、
この「内部障害者マーク」はデザイン実務の一つです。


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「リスクという片言では思考幅が狭くなる」


   


     5月 1st, 2011  Posted 12:00 AM

言葉づかいが一つだけは思考幅の問題。
たとえば、「安全」には「安心」があり、
「感情」には「感性」が、
こうした一対の対称性を思考内容にすること。
それは、思考幅を偏重することから解放させてくれます。
ところが、私たち日本人の一言語一民族の特徴には、
この対称性や対照性を一言=片言で済ませても、
まさに以心伝心という独特のコミュニケーション慣習があります。
たとえば、「やさしさ」という平仮名では、
実は本来の、「優しさ」と「易しさ」を統合化してしまうのです。
結果、再確認しておくことが出てきます。
「優しさ」とは、決して目立たない優美さを意味し、
「易しさ」は、トカゲが簡単に色を変えるような簡便さです。
したがって、「やさしい」という一言は、
このどちらにでもなりうる曖昧さまで包含してくれます。
したがって「安全神話」には、
「安心」ということが欠落していたのです。
私は、「安全」が確保されて「安心」を確認することができ、
「安心」という確認があれば、「安全」が確約できると思うのです。
あたかも原子力を「安全神話」で装飾してきたとするなら、
やはり、何が、確保・確認・確約の手続きが、
片言に統合した誤魔化しの曖昧さだったのです。
大地震・大津波・フクシマ原電事故、すべてに対して、
「リスク」という言葉が多用されています。
「リスク管理」があたかも絶対性ある言葉になっています。
しかし、特に放射線リスクとは、
個人的な被曝をリスク=riskと呼び、
社会的・公的な被曝については、
デトリメント=detrimentと言わなければなりません。
私は、今回のフクシマ原発事故では改めて学ぶべき事が多く、
その学習成果から、
次世代エネルギーのあり方を探求すべきだと考えます。
そのとき、「リスク」と「デトリメント」の対称性を取り上げ、
この二つの言葉、
それぞれの対照性を対象化するべきだと提案しておきます。

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