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Posts Tagged ‘予感’


8月21日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 21st, 2023  Posted 12:00 AM

8月21日 赤口(辛亥)

単なる陳列台であっても、
仕掛けられた発想から実際となって、
しかも、
私の趣味的判断であっても、
この「光の棚」には、
クラマタの時代からの次世代への
未来予感と二重光源となる
「面光源」の想像力が
「面光源」=審美性を持っているからである。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』9造形された形式


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9月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 20th, 2020  Posted 12:00 AM

9月20日 大安(丙寅)

『技術としてのデザイン』

かって、
機械文明への
ある種の畏敬と反発に
心血をそそいだ
ウィリアムモリスの
アーツアンドクラフト運動、
その想像と予感が
今となっては的中している。

artificial heart:川崎和男展


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9月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 3rd, 2020  Posted 12:00 AM

9月3日 仏滅(己酉)

『提訴としてのデザイン』

すなわち、
「やさしさ・おもいやり」という
常套句で包まれたモノの商品化、
テクノロジー賛歌で反論を許さない
「きわもの」形態、
演じられるだけの
ボランティア美徳が
はびこる予感を禁じえない。

artificial heart:川崎和男展


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8月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 28th, 2019  Posted 12:00 AM

8月28日 仏滅(丁酉)

単なる陳列台であっても、
仕掛けられた発想から実際となって、
しかも、
私の趣味的判断であっても、
この「光の棚」には、
クラマタの時代からの次世代への
未来予感と二重光源となる
「面光源」の想像力が
「面光源」=審美性を持っているからである。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』9造形された形式


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10月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 31st, 2017  Posted 12:00 AM

10月31日 友引(辛卯)

予感し、予測し、予知する
そんな芸術家の
見つけ出す美しさは、
デザイナーの予見が
決定する。

川崎和男の発想表現手法


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『現代芸術が発見している予感をデザインが予見する』


   


     10月 31st, 2017  Posted 12:00 AM

トマス・サラセーノ(Thomas Saraceno)、現代芸術家です。
彼の作品を知る人が日本には少なすぎると私は思っています。
かって、日本の国家戦略にΣ(シグマ)プロジェクトがありました。
当時、ようやくマルチメディアが騒がれ、UNIXも2通り、
そしてパーソナルコンピュータが登場した原始時代でした。
その時にはweb社会を提案し、ユビキタス以後のクラウド社会までが、
彼の芸術提案であり、この現代芸術を追いかけることで、
パソコン、インターネット、クラウドサーバーが見えだしたのです。
私は改めて彼を語り直し、再注目を求めたいと思いました。
理由は、Internet of ThingsからAI、VR、が確実に見えて来ていながら、
日本の立ち後れが見えだしているからです。
彼はこのクラウド・シティの住人である私たちに、
何を突きつけているのでしょうか?
おそらく、カタルーニアの独立運動がヨーロッパの分断化は、
英国がEU離れをしたように、進行して新たな社会がそれでもwebとAIで、
確実に先進国家を繋いでいくことになるでしょう。
その予感・予測・予知から、彼の芸術が私たちを引導すると私は思います。
トマス・サラセーノをずーっと見続けて、デジタル社会=コンピュータ、
それもクラウドサーバーは確実にあのCity of Bitsを招き入れているのです。
ウィリアム・J・ミッチェルが著作したe-Topiaにわが国が迷走しています。
私は、SNSであれInstagramに興じている現代日本は
再度、もう一度、send mailは誰が成しえたのかを
検証しておかなければ、After2020から、日本の発展は喪失するでしょう。
私は、三角定規からドラフター(製図台)、それがプロッターとなり、
光造形を求めて大学人にもなり、すっかり今では3D-Printerの時代にいます。
私のデザイン活動の大半は、
デザイン造形がやがてはAIでもOKになるでしょうが、
絶対に不易な物事は、感性が見極める「美しいモノ」と「モノの美しさ」に
次世代は芸術家の予知とデザイナーの予見=美しさを繋いでほしいのです。

* 「現代的アートが象徴していることは企業革新テーマ」
* 「環境デザイン・定義枠付けが時代遅れ」
* 『NeXTSTEP・OpenSTEPそしてMacOS Xと進化は無い』
* 『まだ新たなOSのパソコン=HP Chrome11』
* 『コンシリエンスデザインをともかく訴求!』


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『日本での特殊車両、その代表を見ると・・・』


   


     8月 6th, 2017  Posted 12:00 AM

日本の自動車産業が危なくなっています。
その理由はいずれ書こうと思っています。
自動車といえば、ガソリン車でT型フォードがいの一番に語られますが、
デザイナーのプロとしては、蒸気機関の砲台運搬車は1760年代?には
すでにガソリン車になるという予感があったと記憶しています(怪しい?)。
ともかく、自動車でも、そのタイヤなのかキャタピラなのかは
未だにその結論が出ていませんが、
先般日本にはたった一台しか無いという「レッドサラマンダー」をみました。
岡崎市の消防自動車ですが、この特殊車両での
九州天災復興で活躍を見て感動しました。
そうなると、キャタピラでの陸上自衛隊の戦車は、
タイヤで時速100Km/hが断然いいのではないだろうかと判断しました。
キャタピラ戦車は戦闘用であり、他国侵略は絶対にしない戦闘ではなくて、
高速道路上でもミサイル発射が可能な
「16式機動戦闘車」がわが国での防衛では必要なのではと思いました。
私が特殊車両を追いかけているのは自分の電動車椅子設計と、
除染専用の特殊車両デザインを追いかけているからです。
キャタピラについては自分のデザイン作品集で
詳細なことを書いた覚えがあります。
電動車椅子でキャタピラの車椅子は階段を上下乗降車が、
ドイツのデザイン学生作品で見て、あれよりもと考えています。
結局、自動車の時代はもはや終焉の時期が到来しました。
今、超軽量な電動車椅子と除染専用特殊車両デザインを常に考えています。
おそらく、これが私のデザイン人生では最期のテーマだと思っています。

* 『デザイン主導のフライング・カー時代がせまっている』
* 『「哀しみにデザイン」そろそろ車イスデザインを書こう』
* 『ユニバーサルデザイン・バリアフリーはまだ未消化』
* 「お月様が見ているよ・・・性善説の人にもどるために」
* 『自分の車遍歴とカーデザイナー養成は同次元』


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『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』


   


     8月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を定義化してから、
どうしても、私自身が説得不足を感じていたことがありました。
それは「統合」についての整理された論理が必要でした。
学術と芸術の統合というコンシリエンスの基底論理でした。
まだ30代の頃、CIブーム時にはCI=「企業イメージの統一」論へ
CIデザイン論の再構築という論文をデザイン専門誌に書きました。
「統一」から「統合」をW.S.ランデッカーの考察から学んだことが
私はとても気になり、その論文をバックナンバーから探しました。
しかしどうしても見つからずに、この専門誌発行元に問い合わせ、
それが見つかってきて、あらためて私はとても驚きました。
なんとそれはMacintosh 512KでMacDrawでの図解で描かれていました。
そして「企業イメージの統一」CI論を企業の戦略的効果の消滅として、
「社会は、いつの時代の変動もその局面を強調して、
将来への予測とその準備を強要するものである。」という書き出しは
今も健在であり、常套化したデザイン手法=企業イメージの統一から
いち早く逃れるべきである、ということを指摘していました。
企業イメージの統一=CI論はケインズの経済学を引きずっていました。
そのための統一から統合を、私は今なお主張し続けていることです。
W.S.ランデッカーは、「統合」を以下の四つで整理していました。
 ● 機能的統合
 ● 伝達網的統合
 ● 規模的統合
 ● 文化的統合 でした。
私はやっと思いだしてとても大きなヒントになる予感です。
この四つでアイデンティティ=存在性の再考が可能という予感。
それこそ今、話題騒然としている、オリンピックエンブレム問題も、
エンブレムデザインでは、東京オリンピックのイメージ訴求は
決して統一は困難であり、今なお著作権でベルギーが訴訟しようが、
東京は商標登録しているからという対決姿勢だけの不毛さは、
「イメージの統一」に寄りかかっているからに他なりません。
重大な事は、オリンピック・パラリンピックともに、
イメージの統合のために、そのエンブレムが、
機能的・伝達網的・規模的・文化的な四つの統合性があっただろうか、
この質問を投げかければ、
文化的統合はすでに壊れているということです。
それは、文化的統合とは、無知と差別を解消することですが、
エンブレムは、オリンピックとパラリンピックには、
差異性、いや差別性をデザインしたということです。
もっと、厳密に言うとケインズの経済学が亡霊だと気づかない、
そんな21世紀がまだまだ続いているということです。
ここまで気づかない能力だと思いますが書いておきます。

*CI=C.I.=コーポレート・アイデンティフィケーション


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『資本主義からの逃走』
   「幾何の不思議進化が新たな分科学へ・5」


   


     9月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

幾何とは
幾何学というのは、図形の性質その数学的な学理です。
さて、幾何という言葉は、「いくばくか・どれほど」という
数量や程度を問いかける疑問詞であり形容動詞です。
ということは、土地や図形の大きさとか、
その程度がどれほどのものかということを突き詰めることが基本だと考えればいいわけです。
本来、ギリシアgeomeroria=geometryが土地の測量を原義とした測量学、
その中国語訳が「幾何学」だったということです。
私は、幾何学を数学が様々に分科していった科学、なかんづく理科学というよりも、
「土地」と「場」=「ち」と「ば」に注目して数学史的な見方を整理することができます。
つまり、「トポロジーとしての情報」は数学的見解です。
それが「情報としてのトポロジー」はレトリック化されながら、
トポロジーの核心となる「情報のトポロジー」に必ず至るでしょう。
幾何学の進化から分科へ
それこそ、プラトンが「幾何学知らざる者は入るを許さず」という伝説は、
「ち」と「ば」にあると思います。
図形という・[かた「ち」]と、その情報記号化する数学的・[こと「ば」]が、
幾何学を様々に分科し、いわゆる位相幾何学は現代幾何学への展開につながっていきました。
私は、Topological spaceをあえてTopology Space論としたのは、
Space論そのものが拡張していることを、造形の幾何、位相からの離脱などを
デザインによる造形対象の形体と形態、図と図形、図式、図解への応用は、
時間軸での図譜への造形、その目論見への試論を意識したからでした。
造形実習課題の評価
造形として、たとえばデザイン実習で「クラインボトル」を課題とすれば、
三つの回答を確認できました。

■ まさしく、数学の教科書イラストレーション的な「クラインボトル的形体」は、
造形資質に能力限度があります。
■ ところが、「これがクラインボトル概念の形態」を造形する資質は、
コンセプトからの造形資質があります。
■ さらに、「クラインボトルを超えた形態」までを造形する資質には、
明確にに創造的デザイナー資質があることをデザイン造形実習で確かめることができました。

結局、「メビウスリング形体」を造形思考できる資質が
トポロジーという学領域には明確にあるということでした。
おそらく、「情報のトポロジー」は、
「情報としてのトポロジー」というレトリックからやがて解放されるものと推測しています。
それは新たなSpace論=位置論+場論だという予感が私にはあります。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationはオブジェクト指向という勝手・5」


   


     4月 25th, 2010  Posted 11:55 PM

モノ=ハード
私はデザイナーだから、常に「モノ」中心主義です。
したがって、ハードウエアとソフトウエアということになれば、
ハードウエア=「モノ」を優先的に考えます。
ハードがあってのソフトという考え方です。
私がコンピューターをデザインツールとしてきたのも、
コンピューターという「モノ」の形態と使い勝手でした。
しかし、使い勝手は二通りありました。

コト=ソフト
「モノ」の性能・効能・機能=使い勝手がありますが、
その「モノ」としてコンピューターを制御するソフトの使い勝手です。
人類は、「モノ」という人工物を創り、さらに、
その「モノ」を使う「コト」=ソフトまでを手に入れたのでしょう。
デザインは、また「モノづくり」と「コトづくり」でもあります。
ただし、モノがあってコトだと私は考えてきました。

使い勝手
そして、モノのデザインもコトのデザインも、
「使い勝手」=ユーザビリティの自由度という考え方もできます。
私はこの二つの「使い勝手」というのは、「勝手」の問題です。
最も「勝手口」というのは、台所に直結している入り口です。
さらに、様子や状況など広範囲な意味を日本語は持っています。
「モノ」=ハード・対・「コト」=ソフトとしての、
共通項は、オブジェクトとユーザビリティです。
そこで、デザイン対象は、この「モノ」と「コト」だと定義すれば、
オブジェクト+ユーザビリティ=オブジェクト指向というコンセプトが生まれます。

概念記法
私は、このコンセプトを
「概念記法」=ゴットロープ・フレーゲに戻るのはどうかということに終着しています。
フレーゲを対象にすれば、
多分、私の予感は、
「デザイン数理学」論が必要なのだと思うに至ったわけです。
私が言い続けてきたMedia Integrationは、
端的に断言すれば、「勝手」概念の具体化です。
もっと勝手な言い方を重ねておきます。
「モノとコト」がデザイン対象だとすれば、
オブジェクト指向がMedia Integrationの目標かと考えています。
しかし、まだ、この結論には至っていません。


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