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Posts Tagged ‘文化的’


『包むと詰めるでは「慎ましい」という日本文化がある』


   


     2月 19th, 2019  Posted 12:00 AM

「つつむ」と「つめこむ」という文化があります。
「つつましい」というのは、日本の文化です。
ご祝儀やご香典では、水引のパッケージに「包み」ます。
儀礼や儀式に対応した包むと結ぶという日本の文化があります。
ところが、一方、缶詰や腸詰めなどはつめる文化です。
「つまらない物ですが」というのは、歴然とした日本文化なのです。
風呂敷に包んだ贈り物を「つまらない物ですが」とつつましく、
気持ちを内包させて渡す古き良き、つつむ文化です。
ここに、慎ましいという日本文化があります。
だから、決して「つまらない物」をさげすんではならないのです。
たとえば、詰め込み勉強というのは、慎ましい文化ではありません。
パッケージに、「包む」と「詰め込む」「詰める」には
大きな差異があります。
私たちの文化では、「慎ましさ」が大きな文化ですから、
「包む」と「詰め込む」という、パッケージには、
どちらが、良いのかと言うよりも、文化的な体系があります。


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『「述語的な展開」と言われている本が出されている』


   


     8月 7th, 2018  Posted 12:00 AM

もう如何なる時も「読書」をしないと決めていました。
しかしこの「iichiko」(焼酎企業)なる本は季刊ということもあり、
どうしてもやっぱり読んでしまいます。
この本は藝大の河北名誉教授が、どれだけの人物をかかえている
完全なる哲学書だと思います。
今回も「述語的な展開」が述べられています。
私にとっては、故・中村雄二郎先生とはデザインの指導者でもあり、
先生の新聞連載でも、
私にイラストレーションを描かせてもらっていました。
そしたら、今度は矢野雅文先生の科学技術・技術科学でした。
これまでは、西田幾太郎を読み込んだ中村先生や、
「述語的な・・・・」は、幾人かの哲学者でもおられます。
そこで、最も主語というよりも
述語という論理の中には、デザインが明解です。
ともかく、こういう領域の本がある時期から、
日本では本当に数少なくなってきています。
これこそ、文化的な代表であるテキスト本が
無くなる事自体、私は「文化としてのデザイン」が、
未だに、経済産業省扱いになっていることです。
ともかく、もう読書はということよりも、
「述語的」という展開が、
デザイナーではきっと必要だと思うのです。
前回もある大きな国家的な行事をしましたが、
それこそ、やっぱり述語的な展開が生まれるべきデザインは
エンジニアと対立しました。
もし、この領域が読むことができる
デザイナー養成の「場」=大学があるなら、
そこでこそ「述語的な展開」でしかないことが
了解されるのかも知れません。
「iichiko」という場でその領域を表している
河北名誉教授の力量を見ることができます。
そういう意味では、
季刊であるからこそ、真の「読書」が可能です。


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『和服という伝統の新しい語り方を間違ってはならず』


   


     10月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

京都には白足袋族が文化的な特権を持っていると言われています。
しかし、すでに京都自身がそのことを忘れているようです。
白足袋族というのは、祇園・神社仏閣・室町西陣の着物問屋の旦那衆です。
たとえば、文化的な決定事項は、京都では白足袋族に決定されました。
現在のことはわかりません。
京都に対して金沢では文化物事の決定は、
もし、前田家の殿様はどう決めるだろうといういうことで決定されます。
これは私も金沢市のある文化事業での打ち合わせで体験しました。
京都での仏教関係での議論討論では
一人が反対すればその提案は採用されません。
これは宮廷文化・武家文化の決定案件での決定条件になっています。
白足袋族でももはや室町の着物産業はすでに崩壊していると言えるでしょう。
私が車イス生活となり、赤坂でともかく買ったのは、
JBL4343のスピーカーシステムと着物でした。
東京赤坂ではとても有名だった呉服店でした。
今、もうその家号も消えています。
私は日本人が小学時代に学ぶべきは、
日本刀の手入れ・盆栽・着物は知れられるべきと思っています。
今回AM社の新車発表でのドレスコードで和服があったので、
本当に30年ぶりに着物を出し着てみました。
羽織は絵羽という裏地柄であり、これは日本的にはほとんど最高級の
広重作品を模写したものでした。
そして羽織の着方と羽織紐の結わえ方も教え子で特任助教に教えました。
多分、羽織はもとより袴についてもすでに日本人には
その知識と方法はもはや無くなっているでしょう。
最近、火打ち石を復興させようと考えてきました。
これも日本の伝統である、火打ちという日常習慣を取り戻すためでした。
ともかく、織物も羽二重の新たな素材化を目指しています。
よく、風呂敷が大事だとか、着物が大事だとかいう、
そんな軽薄な伝統文化への再興ではありません。
自分デザインの最期の仕事が見えてきているようです。

* 『これで最期のメインテナンス・JBL4343』
* 『AM社のヴァブキュリーを見る夕食会に和服で参加』
* 『観光都市はエスノセントリズムから解放されること』
* 『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』
* 『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』


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『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』


   


     8月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を定義化してから、
どうしても、私自身が説得不足を感じていたことがありました。
それは「統合」についての整理された論理が必要でした。
学術と芸術の統合というコンシリエンスの基底論理でした。
まだ30代の頃、CIブーム時にはCI=「企業イメージの統一」論へ
CIデザイン論の再構築という論文をデザイン専門誌に書きました。
「統一」から「統合」をW.S.ランデッカーの考察から学んだことが
私はとても気になり、その論文をバックナンバーから探しました。
しかしどうしても見つからずに、この専門誌発行元に問い合わせ、
それが見つかってきて、あらためて私はとても驚きました。
なんとそれはMacintosh 512KでMacDrawでの図解で描かれていました。
そして「企業イメージの統一」CI論を企業の戦略的効果の消滅として、
「社会は、いつの時代の変動もその局面を強調して、
将来への予測とその準備を強要するものである。」という書き出しは
今も健在であり、常套化したデザイン手法=企業イメージの統一から
いち早く逃れるべきである、ということを指摘していました。
企業イメージの統一=CI論はケインズの経済学を引きずっていました。
そのための統一から統合を、私は今なお主張し続けていることです。
W.S.ランデッカーは、「統合」を以下の四つで整理していました。
 ● 機能的統合
 ● 伝達網的統合
 ● 規模的統合
 ● 文化的統合 でした。
私はやっと思いだしてとても大きなヒントになる予感です。
この四つでアイデンティティ=存在性の再考が可能という予感。
それこそ今、話題騒然としている、オリンピックエンブレム問題も、
エンブレムデザインでは、東京オリンピックのイメージ訴求は
決して統一は困難であり、今なお著作権でベルギーが訴訟しようが、
東京は商標登録しているからという対決姿勢だけの不毛さは、
「イメージの統一」に寄りかかっているからに他なりません。
重大な事は、オリンピック・パラリンピックともに、
イメージの統合のために、そのエンブレムが、
機能的・伝達網的・規模的・文化的な四つの統合性があっただろうか、
この質問を投げかければ、
文化的統合はすでに壊れているということです。
それは、文化的統合とは、無知と差別を解消することですが、
エンブレムは、オリンピックとパラリンピックには、
差異性、いや差別性をデザインしたということです。
もっと、厳密に言うとケインズの経済学が亡霊だと気づかない、
そんな21世紀がまだまだ続いているということです。
ここまで気づかない能力だと思いますが書いておきます。

*CI=C.I.=コーポレート・アイデンティフィケーション


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『人類の進化=類人猿の時代があったという魔力性』


   


     11月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

科学的であることと文化的であること。
この融合性は、いや分離性、剥離しているかもしれない。
このところ私はConsilience Designを組み立てるべく、
学術的な統合性についてメモを取りながらその論理性を熟慮中です。
そして、猿がWalk manのTV-CFで話題でしたが、
今度はスマホを温泉で扱っている写真を見て、
ユーモラスであると同時にこれは進化だろうかと考えてしまいます。
つまり、「イオニアの魔力」から、日本人は全く免れていますが、
未だに、人間は猿からの進化ではないという宗教観に、
科学の実証的な解釈は否定されている科学性と文化性との乖離は
この二枚の写真、その解釈にまで至るであろうと私は考えます。
ウォークマンで音楽を聞き入るTV-CFの発想は素晴らしく、
あれから27年で、温泉で湯あそびしている猿が、もし、
スマホまでを理解しているとするなら、魔力は解かれたのでしょう。
科学の正確さは仮説があって経験としての実証性で確かめられます。
それは哲学の起源とされるタレスの「すべてが水」という言説から
認識論で鍛えられてきた科学の経験実証性に快感があると
書き残したアインシュタインから、まだ我々は離脱はしていません。
それだけに、科学の学術的言説の論理は、人文科学、すなわち文化で
ややもすれば否定されることは特に宗教性で確立していました。
私はデザインによる学際性、すなわち科学と文化を統合することに
最も意欲をもってきました。
この意欲とは、デザインだけが科学性と文化性の接着剤だからです。
コンシリエンスデザインを私は提案しています。
これまでデザインを理工学・医工学・文理学・政経学というのを
私はさらに統合化を計りたいと考えてきました。
それは「イオニアの魔力」への有効な手立てを考えることでした。
まさに、27年間で猿は音楽を聴くところからスマホ使用まで、
たとえ、話題づくりであったとしても、これは有効だと考えます。


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12月11日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     12月 11th, 2009  Posted 1:22 PM

12月11日 仏滅(庚寅)

「音」は、「言」ということばと
明確な違いがあり、
「識」や「闇」に
「音」の形象があるがごとく、
日本のことばや時間と空間の
文化的な根幹を成している。

『プラトンのオルゴール』
「プラトンのオルゴール」からビートルズ


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