kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘自己’


6月26日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 26th, 2013  Posted 9:30 AM

6月26日 癸亥(仏滅)

罵倒される私になっても、
立ち上がる力を保持している
障害者でありたい。

『デザインの極道論』罵倒


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6月25日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 25th, 2013  Posted 10:14 PM

6月25日 壬戌(先負)

私は「罵倒」という行為には、
もちろん
「する側」と「される側」との事柄に、
いわゆるインターラクティブな
相関関係があるから、
その相互性で、
あらためて現代での人間関係を
見つめなおせる可能性があると
判断している。

『デザインの極道論』罵倒


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5月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 13th, 2013  Posted 12:13 PM

5月13日 友引(癸亥 )

収集という行為は、
何をまだ所有していないかを
自己確認することに
等しい。

『デザインは言語道断』得手


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「たかがリモンコンではありえない」


   


     8月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

プロダクトデザインの本質を一言で断言すれば、
「使い勝手と美しい存在性」につきます。
そして、このリモコンが明示している人間と生活への提示は、
企業の社会的存在性を最大限に表示しています。
つまり、この企業が人間としての尊厳確認を自己確認しています。
これらはB&O社のリモコンです。
自宅のオーディオシステムはこのすべてで管理ができます。
すでに廃盤商品になっている20年前のモノ(右端)もまだ使えますが、
これはその当時に、
「いづれ家庭内のTVから照明から電話すべて」を
コントロール可能としていました。
しかし、時代尚早だったために
そのようなシステムまで開発は進化できませんでした。
こうしたB&O商品は、
当時から確実に未来のデザインを誘発させる美学的思想と
ライフスタイルを示唆していました。
しかし、B&Oという企業は現代に至って、
そこまでの経営手法そのものを革新的に出来ませんでした。
明らかに経営者能力が
デザイナーの夢を支えられなかった証明と言っていいでしょう。
翻って、エレクトロニクス関係、情報系、
エネルギー系などへの「デザイン提案」を、
実現するのは「企業経営者の義務」だと明言しておきます。
つまり、デザイナーの夢は「絵に描いた餅」と揶揄されます。
それも経営者という種族が
「たかがデザイン」としか思っていないのが真実です。
私はこうした経営者を喧嘩相手に40余年生き抜いてきました。
こうした経営者が社会的リーダーだというのは大間違いです。
それはほとんど無責任で真善美の人間としての生き様の基軸を、
ひとまずは「仮想の経営者にすぎないこと」にも無自覚で、
とても哀れな存在だと指摘しておきます。
まして、そんな経営者が全世界的に増殖していますから、
これは地球規模的大問題です。
デザイナーは、その専門的職能の真意忠実に、
正道をめざして自分の生涯を
そのような経営者から離脱させるべきでしょう。
「たかがリモコン」ですら、
その存在意義に、世界観のあるべき方向が見えています。
比して、現代の全てのリモコンの醜悪さが、
そのリモコンを社会化した企業、
その企業経営者の何物かの
「あってはならない罪悪性」までを象徴していると考えます。


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5月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 23rd, 2011  Posted 1:07 PM

5月23日 戊寅(赤口)

「自分を表現すること」……
それは、
何かをつくることだ。
絵を描いてみればいい。
音楽を創ればいい。

ただし、
文章で自己を表現しないほうが
いいだろう。

『デザインの極道論』面罵


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8月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 29th, 2010  Posted 9:30 AM

8月29日 友引(辛亥)

罵倒される私になっても、
立ち上がる力を保持している
障害者でありたい、
ということも考えている。

『デザインの極道論』罵倒


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8月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 28th, 2010  Posted 9:30 AM

8月28日 先勝(庚戌)

「罵倒」というのは
大変過激で突発的な、
自己コントロール力を
失った行為でもある。
しかし、
「罵倒」するだけの「思いやり」が
なければ出来ないことでもある。

『デザインの極道論』罵倒


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5月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 13th, 2010  Posted 12:21 PM

5月13日 友引(癸亥 )

収集という行為は、
何をまだ所有していないかを
自己確認することに
等しい。

『デザインは言語道断』得手


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・4」


   


     5月 6th, 2010  Posted 12:01 AM

Qというアルファベット、
その文字としての変遷は、とても興味深くて、
変遷しながらも意味が普遍だったことに注目すれば、
QuantityやQuality、そしてQuestionにつながっている。
無論、ヒエログラフでは砂丘の斜面であり、
発音もローマ字q(ku)と同じだったらしい。
精子や水が形態的には、テールに表れています。

この発音はシュメール語に由来があるのかどうかは不明。
しかし、ヘブライ文字、フェニキア文字、エトルリア文字では、
斧であり、「切断」の概念を意味していると言われている。
切断は、人間が叡智に到達するために、
自己がどれほど自らを孤立させ、
その孤高さを受け入れるかという象徴性があります。
この「叡智」を意味することから、
IQ=Intelligence Quotientに明快に表れています。
それでは、なぜ、
QuestionやQuantity =量・Quality=質に至っているのかは、
量と質は、「度・量・衡」に集約しています。
度・量・衡
qがquintalという重量単位であったり、
Q-ValueやQメーターなどの名称とその機能性の中核は、
明らかに、人間の叡智だと考えます。
たとえば、すでに伝統的な映画「007」での
Qという人物は、発明家として重要な登場人物です。

Mediaにとって、「度はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「量はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「質はどのようなIntegrationなのだろうか?」
Mediaにとって、「衡はどのようなIntegrationなのだろうか?」

以上を、私は念頭において、
「度量衡」がデザインにとっての叡智尺度であることへ
私の思考を続けていきたい。


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