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Posts Tagged ‘たかがデザイン’


『「KK適塾」は日本からのデザイン思想と実務の発信』


   


     11月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

日本のデザイン界は、無念ながら見過ごせない盗作問題、
その根底にはジェネリクデザイン?なるデザイン教育はあきれ果てました。
そしてデザインイベントでの人災事故にまで至りました。
このイベント以前の「Design Saturday」には自分も参加しましたが、
米国デザイン界から、若手デザイナーには物真似が多いと言われました。
その後「Tokyo Design Week」には、G マーク審査委員長として
次期審査委員長とそのイベントに出講したこともあります。
しかし、その時の(喧嘩?)以来、傍観者に徹することにしました。
後輩達が参画して事務局とトラブった話も随分ありました。
そしてこの極めて過剰な商業主義は人災大事故になりました。
オリジナルデザイン無視があり、デザインへの誤解は、
「たかがデザイン」なんてという風潮にまで及んでいます。
これはデザイン対価を怪しくしてしまい、
一般的なデザイン認識不足が起こってしまっています。
 その大きな理由は、未だに日本独自の思考理念を失っていることです。
「デザイン思考」=Design Thinkingはブームとなり、
デザイナーの発想への大きな勘違いになりました。
キーワードとして「イノベーション」もその結果となって、
「IoT」・「Big Data」・「AI」・「ロボット」・「3Dプリンター」など、
全てが輸入されたものの引用どころか、
私の判断では独自性を置き忘れた盗用にかき回されているとさえ考えます。
自分には、3.11で破壊されたわが国あって、
大阪大学は「懐徳堂」から「適塾」という身分制度にたちむかった寺子屋、
それは安政の大獄にまで繋がっている歴史をもっています。
大阪大学は「コンシリエンス・デザイン」を日本からの発想として、
問題解決・価値創出・未来創成の実務手法に至りました。
その講座として今年度からは「KK適塾」という名称で、
次世代に向かって、「学術+芸術・理系+文系の統合化」から、
「コンシリエンスデザイン」・「レジリエンスデザイン」を
国外のデザイン界に向けて発信していきます。

* 『コンシリエンスデザインをともかく訴求!』
* 『美しさの判定は言語判定での倫理に宿っている。』
* 『ジェネリックデザインは模倣=犯罪である!』
* 『日沈む景観であっても景気はデザインが主導する』
* 『1800年代安政の頃・「適塾」を最も語り継ぎたい』


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『デザインのようなデザインという大誤解の現実がある』


   


     5月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン」への大勘違いが格段と増殖しています。
正直、この紹介は「怖いこと」であり、
みんなが「沈黙して決して語らない」という風潮が蔓延しています。
しかし、現状の一般認識が「これがデザイン」ということはプロとして、
見過ごすことが出来ません。
「サイレントユーザー」として生きようという決心がすでに「変」です。
無論、それぞれの出来映えにはいわゆる「努力の足跡」があります。
その否定ではありません。
こうしたデザインされたかのような「デザインのような」性質、性能
それを社会制度が黙秘していることに、機能も効能もガラパゴス化して
「日本の危機」が明確だということです。
社会制度は「たかがデザイン」という扱いが明白ゆえに、
敢えて訴求します。
「これらはデザインのようなモノ」に過ぎず、
「デザインでは無い」という再宣言なのです。
しかも、これらはすべて実現していて規制事実なのです。
デザイナーとして、大学人として、懸命かつ賢明に生きてきた者として、
「悲しくて哀しみ」に突き落とされています。
「それならお前のデザインは」、というブーメラン効果が来るでしょう。
向かい合って、決闘する覚悟もし、決意もしています。
まず、「コンセプト」だ、「イノベーション」だ、「デザイン思考」だ、
という発想から解放されるべきです。

「デザインとは何か」が終焉してきたことを主張してきました。
「コンシリエンスデザイン」で三つの定義をしました。
 ● 「問題解決の『応答・回答・解答』があるだろうか。」
 ● 「価値の創出が実現しているだろうか。」
 ● 「未来の創成に連動していくだろうか。」
2020年のすぐ後には日本は国際的な立場を失うでしょう。
わが国の「正しい美しさ」は、デザイン職能が主体的に、
性能・効能・機能で「これがデザイン」を主張し、
共有・共時の価値=好ましさと望ましさを創出創成することです。

*『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』
*『デザインは問題解決!・この本質の再整理』
*『愛着と愛用がデザインの全体価値である』
*『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」
*『陽子加速器での核変換デザインによる復興』


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「たかがリモンコンではありえない」


   


     8月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

プロダクトデザインの本質を一言で断言すれば、
「使い勝手と美しい存在性」につきます。
そして、このリモコンが明示している人間と生活への提示は、
企業の社会的存在性を最大限に表示しています。
つまり、この企業が人間としての尊厳確認を自己確認しています。
これらはB&O社のリモコンです。
自宅のオーディオシステムはこのすべてで管理ができます。
すでに廃盤商品になっている20年前のモノ(右端)もまだ使えますが、
これはその当時に、
「いづれ家庭内のTVから照明から電話すべて」を
コントロール可能としていました。
しかし、時代尚早だったために
そのようなシステムまで開発は進化できませんでした。
こうしたB&O商品は、
当時から確実に未来のデザインを誘発させる美学的思想と
ライフスタイルを示唆していました。
しかし、B&Oという企業は現代に至って、
そこまでの経営手法そのものを革新的に出来ませんでした。
明らかに経営者能力が
デザイナーの夢を支えられなかった証明と言っていいでしょう。
翻って、エレクトロニクス関係、情報系、
エネルギー系などへの「デザイン提案」を、
実現するのは「企業経営者の義務」だと明言しておきます。
つまり、デザイナーの夢は「絵に描いた餅」と揶揄されます。
それも経営者という種族が
「たかがデザイン」としか思っていないのが真実です。
私はこうした経営者を喧嘩相手に40余年生き抜いてきました。
こうした経営者が社会的リーダーだというのは大間違いです。
それはほとんど無責任で真善美の人間としての生き様の基軸を、
ひとまずは「仮想の経営者にすぎないこと」にも無自覚で、
とても哀れな存在だと指摘しておきます。
まして、そんな経営者が全世界的に増殖していますから、
これは地球規模的大問題です。
デザイナーは、その専門的職能の真意忠実に、
正道をめざして自分の生涯を
そのような経営者から離脱させるべきでしょう。
「たかがリモコン」ですら、
その存在意義に、世界観のあるべき方向が見えています。
比して、現代の全てのリモコンの醜悪さが、
そのリモコンを社会化した企業、
その企業経営者の何物かの
「あってはならない罪悪性」までを象徴していると考えます。


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「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」?「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」?「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


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