kazuo kawasaki's official blog

『 インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


   


     4月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

「Inclusive Design」があたかもユニバーサルデザインや
バリアフリーデザインとの明確な差異があると言われています。
これらはこれまで以上のコンセプトとして次世代デザインとなってます。
InclusiveにはExclusiveが対極しているために、
排他的なデザインということがこのデザインの論理背景になっています。
が、これほど根本的な論理性を逸脱したデザイン解釈は大間違いです。
理由は二つあります。
まず、電子工学的なXOR回路を考えれば、Inclusiveとはどういう回路?
もう一つはInclusiveとExclusiveは人称関係という正確な言語論理です。
つまり、一人称のデザイン=私だけのデザイン、
二人称=配偶者、恋人、身内や友人の対面する貴女のデザイン、
そして、彼、彼女、彼ら、彼女らという三人称のデザインが
言語学の人称としてインクルーシブ性があるということです。
一人称・二人称ははっきりと対面しますから、
デザインしたモノ・コトについて直接的な対話が可能です。
ところが、三人称で対面出来ない彼らは
すでにエクスクルーシブ性が含まれてしまいます。
つまり、エクスクルーシブ性とは、対話・メッセージ性が
排除されたグルーブ全体を指示しています。
したがって、インクルーシブ性という排他性を無くすという論理、
それはすでに成り立っていないということです。
もっと、明言すればデザインには、
インクルーシブ性は人称デザインとして
まず自分のため、そして、
その評価をあなたにというインクルーシブ性があり、
第三者には排斥してきた老人や障がい者も対象とすることは
デザインの進歩が語れるに過ぎないだけのことです。

*『ケータイの人称会話からのオントロジー』
*『Inclusive Designの定義に向かって』
*『一人称・二人称がInclusiveの基本定義』
*『つつましさによるインクルーシブデザインへ』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』


目次を見る

『物真似を超えデザイン評価をグローバル化すること』


   


     4月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

この領域では仕方の無いことですが、真似されています。
しかし、2003年に公表して、地元ではすぐに物真似され、
真似た企業トップ直々に、真似たと言われるありさまです。
自分にとっては、物真似されても、
自分の造形を超えてほしいと思っています。
けれども「不細工な造形」が多いのが実情です。
特に、メガネ、ナイフ、時計などは根本を変えても
すぐに真似られます。
物真似から盗作ともなれば、ここには法的知財権の問題、
最近はSNSで、真似られた本人が糾弾されるという馬鹿な話になります。
もっと大きな問題は、無名の日本人デザイナーが「カモ」にされている、
海外のデザイン見本市があります。
無論、成功しているデザイナーは成功物語になりますが、
そうならないデザイナーは「カモ」であり、
多額の出品料、展示料、渡航費でほとんどが失敗していることです。
このことに気づいている海外は出品せずに「海外進出」で別戦略なのです。
教え子や元スタッフでこの失敗例を随分見てきました。
デザイン作品の発表でたとえ授賞しても、それは次回の「カモ」です。
そして、そのデザイナーはかえって「能力無し」になっているのです。
正当なデザイン評価を受ける真の方法を熟知してほしいと願います。
そして、デザインの物真似あるいは盗作があっても、
本当のクリエーターなら、そのデザイン評価は定例的な方法があることを
私は伝えたいと思っています。
物真似であっても「アプロプリエーション」という確実な歴史的な
記録性があるまでの「能力向上」を次世代に求めます。

*『プラチナ・ミラーリングのティーカップ』
*『正しいデザイン手法としてのオマージュを熟知せよ』
*『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』
*『GRiD社キーボード位置をどう乗り越えるかだった』
*『DESIGN TOKYOのPROTO LABから次世代デザイナー出でよ! 』


目次を見る

『鏡映は冥府に降りていることゆえに「何がデザイン?」』


   


     4月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

「鏡の背後には冥府への階段がある。」by 宮川淳
自分はこのフレーズを美大生の時に読んで以来、
それが現代美術へのひとつの大きな入り口になっています。
彼のデビュー作であった「アンフォルメル以後」は
今なお自分のアートからデザインに向かう姿勢の一つです。
まず、「芸術とは何か」という問いかけのその結語は、
この質問は、ただ、表現の再生産でしかなく、
「何が芸術か」という結語から、
彼はあくまでもデザインへの懐疑へ。
自分は、「何がデザインか」を常に問いかけ続けてきました。
しかし、未だにデザインは大きな懐疑=問題解決ではなくて、
「装飾」と同義だということです。
最も具体的には、オリンピックエンブレムデザインの公募や
政党マークの公募に現れています。
表現の再生産を、宮川淳は「鏡」にそのイマージュを重ねたごとく、
それこそ、ルネ・マグリットの「複製禁止」を見て、
ここに明らかな表現の再生産を破壊させられていると受け取る、
その知性がまだまだ育成されていない現実を知る必要があるはずです。
ユニバーサルデザインといえば済まされている思考、
インクルーシブデザインはエクスクルーシブの反対、
スペキュラティブデザインという問題提起での真の答え方、
全てに自分は「デザインとは何か」という、
再生産されてすまされている
「デザイン思考」の低レベルな思考停止の実際を
冷笑して見せることが出来るのです。
もし、鏡の前で自分の左手を挙げれば、
鏡映された自分は右手を挙げていることには気づきません。
だから冥府に降りる前に、「何がデザインか?」なのです。

*『鏡の背後を熟知するため、あるいは解放をめざす』
*『インクルーシブデザインの間違いを正す=KK塾』
*『表現としての美術とは?、教えられた宮川淳』
*『AとしてのB・対・BとしてのA、という連語考察』
*『AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1』


目次を見る

『パノラマ的な拡大は詳細を見詰めることだ』


   


     4月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

視覚として四方八方に視点を動かすことを
目配りが優れていると言います。
特に少林寺拳法では「八方目」といい相手やその周囲に目配りの技法です。
この目配り技法によって相手の攻撃を防止するとともに、
相手からの防衛法を先んじることが出来ます。
四方八方という視界を拡大する手法は18世紀末に回転画、
パノラマ=panoramaと呼ばれ、
一つの思考空間とすることが可能です。
これはより大きなパノラマ空間に
アスペクト比:画面に比率を与えることです。
目配りする空間の比率には、集中画面への焦点化が必要になります。
それは大画面に集中点=焦点を設置すれば、
全体把握とともに詳細部位把握が必要になります。
パノラマ的な思考とは、
「神は細部に宿る」
あるいは、「尺は寸よりも短し」=僕の先祖宮大工の言い伝えです。
つまり、パノラマな空間はその比率毎それぞれの画面に、
細部や詳細性への目配りになるわけです。
これは単純な焦点というよりは、concentrationという
集結性や収束力をもたらす結論=思考結果になると考えます。
本来、回転画という画面設定であったことから、
四方八方への目配りとは、
まさしく、人間が周囲=環境への「知」とその経験を
より拡大出来るかが問われています。
というよりは、四方八方への大胆な目配りが、
実はもっと詳細に隅の隅まで熟慮と吟味を重ねるということを
意図しています。
この意図ある思考方法を「パノラマ的な手法」と
呼ぶことが出来るということです。

*『絵画に惚れることの重大さ』
*『専守防衛が鉄則ゆえに護身効果大の手法あり』
*『最も、障がい者の存在を描いた画家』
*『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


目次を見る

『透視図・次元的な隠喩としての焦点というイメージ点』


   


     4月 12th, 2016  Posted 12:00 AM

光は自然現象として拡散する性質があります。
ところが、光の拡散性を絞り込んで集中させることで、
その力を一点にさせることができます。
これを焦点と呼んでいます。
が、光だけではなくて、拡散することを一点に集中させた、
その点を焦点と呼ぶことは、単純な光学的なこの関係を隠喩として、
思考方法にすることができます。
これは焦点化を行うことでいわゆるimage-pointの配置ができます。
「コンセプト思考」からの離脱を主張している要点がここにあります。
まず、dollyとして視点移動から明確なview-pointが決定したとしても
そのview=pointは必ずしも焦点ではありません。
むしろ隠喩的な思考の熟慮もしくは集中化によってimage-pointを
さらに確約化させるのが思考を透視図化すると考えれば
Perspective化した消失点=vanishing pointが存在します。
この消失点への焦点化が思考の目標ということになるわけです。
現実的には透視図は次元数を決定します。
この次元数が3次元になると、ここでは立体図的な
3次元思考が可能になるということです。
次元数と焦点の設定、その隠喩化が思考方法の重大な一つということです。

*『際限は背中に、目の前に未来など無く』
*『まず、ニュートン的力学の隠喩としてのデザイン』
*『風神雷神図=風景から情景のアッサンブラージュ』
*『F映画が示唆していること=その真実性と想像性』
*『情報記号・印=サインからトポロジーへ・3』


目次を見る

『空間へのdolly的な隠喩性という手法』


   


     4月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

コンセプトからの発想はすでに限界があります。
僕は「ライン」=lineという概念・観念・文脈の
統合的な手法を提案しています。
まず、その最初に「Scope」という思考空間の設定を行います。
現在のスコープはプログラミング言語としても、
変数や関数、言い換えれば変動、変異、関係、関与性を定義していますが、
それは思考空間を視覚化していく隠喩性の表現です。
まず、思考はどこ「から」どこ「を」を対象にしているかということです。
それは視点がふたつあることを示しています。
どこからというeye-pointがあり、
どこをみているかというview-pointがあります。
ところがこの点と点は視線:あたかも眼差しというview-lineができます。
そしてこの眼差しを動かしていくことをdollyという言葉を手にいれました。
dollyはComputer Graphicsで新しい用語になったのだと思います。
これは僕自身がトロント市でCGのトレーニングで
初めて知って驚愕したのです。
これは視覚化を一つの隠喩として、
聴覚・触覚・臭覚・味覚という感性に
性能と効能と機能を設計し企画・計画デザインになります。
以上のことからも、明確に思考空間・感性空間・論理空間、結局は空間への
接近性の定義化と考えていいものと思います。
手法として、デザインがモノ空間あるいはコト空間を
スコープはきわめてライン的な発想を隠喩として、
定義化そのものを変動:dollyさせていると考えています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』
*『デザイン対象としての空間に出逢う』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則』


目次を見る

『コンセプトから「ライン発想」の三つの思考空間』


   


     4月 10th, 2016  Posted 12:00 AM

コンシリエンスデザインという発想手法は、
学術系+芸術系・文系+理系の融合性と統合的なデザイン方法です。
デザイン方法というのは、
問題解決・価値創出・未来創成を目標・目的としています。
そして、僕が最も重大視していることは
「コンセプト」からの発想からの解放です。
それは、三つのデザイン空間への文理統合、
その思考の照射・投影・透過・射影によって
形態設計と制度設計になります。
● SCOPE・スコープでは視点移動=dollyが重大です。
● PERSPECT・パースペクトではその思考空間に消失点の発見です。
● PANORAMA・パノラマは学術と芸術が統合された思考空間に
そのアスペクト=比率を明確にしていくことです。
かつて、僕がCG登場とともにトロントでCGの教育訓練を受けたときに
dolly=ドーリーという言葉を初めて知りました。
それは、画面上でカメラの焦点を当てて行くようにすることでした。
この言葉は当時の英英辞典にも無くて、質問をした経験があります。
まさしく学術的な知識の焦点を芸術的な視点で動かしつつ思考決定です。
パースペクトというのは思考の投影図を創造したときに、
消失点=Vanishing pointを見いだせるかどうかを
論理性と感性を統合しながら見いだす方法です。
そして、デザインを最適化するには、統合的な発想結果が
社会性、それは制度設計かもしれませんが、
適正ある比例配分を決定すること=パノラマ的であることです。
こうした思考を成し遂げていくにはすでに「コンセプト」だけで
デザイナー的な発想を語り出すことからは解放されるべきでしょう。
コンシリエンスデザインにはこの三つを繋いでいる
まさに「ライン・メソッド」=Line Methodがあるということです。

*『数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・03」
*『色彩知識はトロントで消去、そしてbit色彩を知る・04』
*『色彩感覚とCAD感覚・05』
*『なつかしい三冊の本、そこにクラインボトルあり』
*『今秋より『KK塾』を開催します』


目次を見る

『電動車イスの効能的制度設計からの性能・機能デザイン』


   


     4月 9th, 2016  Posted 12:00 AM

車イス生活を余儀なくされて、僕は車イスをデザインしました。
結果、その車イスはMoMAはじめ美術館やデザインセンターに
永久収蔵され、自分が最も必要とする自助具を自分でデザインし、
しかも車イスデザインのあり方を二つ決定しました。
一つは、走行性能と身体保持性能の両立です。
もう一つは性能決定による必要重量の機能化です。
しかし、すでに僕の障害では「電動車イス」が必要な事態になっています。
最近の車イスの技術進化は様々な性能・機能のモノが登場していますが、
僕には車イスデザイン設計での大間違いを発見しています。
健常者が「腰」で運転しても無意味です。
さらに、重量は20kgが限度です。重量設計を間違えれば、
性能は勿論、効能=社会的存在の意義がありません。
現在の僕の電動車イスは、ワイフによってカーボンファイバー風と
シートをやり直しています。が、まだ不満足です。
そして何よりも電動車イスは社会的な制度上の問題が山積しています。
僕の経験では、飛行機搭載の問題がありますが、
これは米国では1990年「障害をもつアメリカ人法」=
(Americans with Disabilities Act of 1990 ADA):
包括的障害者差別禁止法という
効能的制度が不整備という問題があるからです。
したがって、コンシリエンスデザインによって、
この対象である「看医工学」の実務形態設計と
制度設計があるということで、一つの代表目的にしています。

*『最近はリチウム急速充電の電動車椅子に乗っている』
*『これは最適ではない・誤った車椅子対応車輌デザイン』
*『チュッパチャプス武器論・戦術結果は「効能」成果#3』
*『あらためて自転車を!、車倚子の私から』
*『車イスデザインのための文脈づくりに気づく』


目次を見る

『IoTではなくIoMetというライン手法』


   


     4月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

ムーアの法則、その提案者であったゴードン・ムーアが
1992年箱根でのApple社主催のカンファレンスで、
3原則を提唱しました。
土=シリコン、ガラス=光通信、空気=インターネットは
将来、つまり現在を変革すると基調講演をしました。
まだ、30代だった私はそれを信じて以後の動向を見てきました。
私が現在辿り着いているのは「コンシリエンスデザイン」と
その対象を「看医工学」に決定しています。
そして、発想思考方法は「コンセプト」から離脱することが出来て、
「コンセプト」から「ライン」へと更新することを実務実績にしています。
相変わらず、世間的な未来予測は「コンセプト」、概念あるいは観念ゆえ、
「スマートシティ=Smart City」
「IoT=Internet of Things」
「Big Data」という大雑把な概念・観念が吹聴されています。
「AI-Robotics」人工知能のロボティックスとの共生が謳われています。
僕はこれらを「Line Method」でその詳細に入りこんでいます。
理由は、実務対象としての看医工学にするには、
ライン=最新さを伝統的な脈略で吟味する必要があえると
判断するからです。
スマートシティは、明らかに技術進化して革新化された医療環境です。
それはIoTではなくて、Internet of Medical things=IoMetです。
さらにほとんどタイトルでしかないビッグデータは、
サーバーネットワークとその対処対応システムの完備が必要です。
結局、ロボティクスが再生医学に結びつくことは確かです。

*「革新が始まっているから、私の『夢の形見』」
*『「KK塾」大野ゆう子教授からスタートしました』
*『資本概念の変容と変質はイデオロギーを消去す』
*『非常事態宣言の街=パリにて、決意』
*『K塾最終回 松岡正剛氏からの新たな知の編集』


目次を見る

『カメラの増大=視点が社会制度に組まれていく恐怖』


   


     4月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

iPhoneはじめスマホになって以来、
カメラは生活に最接近したモノになってしまいました。
カメラは記録機器でありますが、その撮影されたコトが
表現される場は、このブログもそうですが、SNSと結びつき、
Twitter、Facebookどころか、今では写真中心のInstagramにまで
様々な表現それは自己表現風、自己表現的な写真本来の目的が拡大です。
僕はなるべくカメラを自分の収集目的や趣味にはしないと決めていますが、
気がついたら、なんと、なるべく高性能で使い勝手を
自分流に判断をするとともに、海外製まで手に入れています。
現代、カメラは自分のもう一つのeye-pointどころか、
表現道具として、この技術進化は空恐ろしい状況になっています。
自宅や研究室にもカメラはいつでもいわゆる「監視の目」です。
これは大きな問題提起を投げかけています。
実際、最近の防犯はカメラが目となっていて、
犯人逮捕も防犯カメラのデータに頼っていることが増加しています。
スマホを持参していることで、人は、自分の目だけではなく、
記録媒体として、写真どころかビデオやムービーにまでが
あたかも社会性の善悪判断、その要因になってきています。
それこそ、表現はジャーナリズム化=日々の記録となり、
そのジャーナリスティックな判断をある意味では放棄しているのです。
それは、表現者のカメラという道具、プロのジャーナリズムの道具が、
一般化することで、社会判断を鈍化させていることになります。
人間は「消失点」を持っています。
しかし、カメラの消失点は制御可能です。
さらに、人間の視覚は最も遠景=星を見つける光年、
その距離感把握能力があり、
現代のカメラ=もう一つの視点・eye-pointがある意味を
十二分に検討する必要があると判断しています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*「岸辺のアルバム=家族平和とは安泰」
*『彼は映画の社会的メッセージを知り尽くしている』
*『デジタルカメラはなるべく買い換えない』
*『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』


目次を見る