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Posts Tagged ‘軽薄’


『軍事技術である人間工学 は軽薄に語るべきでない』


   


     11月 5th, 2017  Posted 12:00 AM

本格的に「人間工学」を認識せざるをえなかった経験は美大ではありません。
ヘッドホンのデザインに取り組んだ時でした。
それは自衛隊の戦闘機パイロットのヘルメット設計マニュアルでした。
随分と説明、説得に自衛隊に行きましたが、閲覧は駄目でした。
理由は「人間工学」は元来、軍事技術工学であるからです。
しかし、日本での商品説明で多様されている人間工学の軽薄さは虚実説明。
人間工学は、機械の使用者(兵士)が機械行使(戦闘)で、
安全(生命を防御)であり、効果(敵を倒す=殺す)ことが中核です。
このことから第二次世界大戦以後、エルゴノミックスは学会活動が停止され、
学術名称もヒューマンファクターエンジニアリングで、
フェールセーフ・ヒューマンエラーの技術とデザイン(設計)になりました。
さらに、HUSAT(Human Sciences and Advanced Technology)になり、
今ではUIやレジリエンスデザインの領域にと進化しました。
それでもエルゴノミックスが最適解になっているのは、F-35に他なりません。
F-35A・F-35B・F-35C、これらのパイロットヘルメットが最適解でしょう。
もし、すでに想定されている北朝鮮への軍事圧力にはこの戦闘機でしょう。
結局、古来から工学技術が軍事開発と軍需産業が経済進化の動機が、
無念ながら、この人間界の世界観政治姿勢になっていることは、
このスティルス戦闘機に象徴されていることです。
モホリ・ナギ的に言えば、
「デザインとは社会に対する態度である」とするとき、
こうした軍事技術が不要な世界観にありましたが、
私はいわゆる商品コピーで語られる「人間工学」で、
例えば倚子を語り直すときには、軍事技術の切れっ端程度の語り口では、
それこそ引用というよりも偽善、
したがって、人間工学をデザイナー教育の基本には軍事工学技術を
避けてはならないのではないかと思います。
少なからず、私には男の子ゆえの戦車から戦闘機、武器などは、
正直、殺し合い=戦争とは全く無関係に、好きなことでもあるのです。
男は武器が好きといういう感覚、あるいはセンスは、
カモフラージュ柄がファッション性と同語化していることに匹敵しています。
それだけに、こうした戦闘機は、ビジネスジェットと同等のPower by Wire
と言われている油圧アクチュエータでの電気信号制御があります。
軍事技術である人間工学とデザインの整合性は
もっともっと整合性構築に向かって革新されるべきと考えています。

* 『若き日、「東京家具見本市」で二人は学んでいた』
* 「自動車デザインはもっとビジネスジェット機から学ぶべきだ」
* 『HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」』
* 『情報戦とマッハ戦から無関係であってほしい』
* 『軍備産業の機能・性能・効能を廃止する哲学が要る』


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『京都に隠れ家あり』


   


     10月 24th, 2017  Posted 12:00 AM

京都は私にとってはやはり日本の代表都市だと思います。
東京は私には首都と言っても時代流行の軽薄な都会でしかありません。
日本の文化を支えてきたのは、越前=福井県と美濃=岐阜県であり、
これが文明を伝統化して文化を支援したというのが私の信念です。
なぜなら、京都も奈良も、根本的な文化を支えてきた労働の里=鄙は、
福井県と岐阜県であることは間違いありません。
なぜなら、刀剣、和紙、漆器、陶器は、この二つがあればこそです。
私の母方は、宮大工でありそれは紀州から京都に住み、
関ヶ原にて秀吉と家康に分断され、負けた一族は逃げて越前のもっと鄙に
隠れ住むことでした。
奈良には「お水おくり」があり、京都には「鯖街道」があるがごとく、
都文化を支えていたと言い切れます。
そして私自身、ワイフは京都生まれ京都育ち。
よって、毎月、映画を観ることにして京都には滞在します。
私は身しょう者対応が出来ているのは、日本では京都と金沢であり、
それがなんとも文化を最もシンボル化していると判断しているのです。
そして、これは京都の隠れ家でもあり、スタッフに先般、初めて見せました。
正直、私は家という住処意識は全くありませんから、
これは私の一応隠れ家ですが、ほとんどがいずれはワイフの住処でしょう。
この家の設計は友人の作品でもありますが、
手づくり感を大事にする友人建築家と工業製品感が当然という私、
この対立は、設計から施工にあたって大変な論議をしたものです。
この家が建つ前には、ほとんどが空き地でしたが、
今ではすっかりと住宅地になっていますが、
造形的には平屋建てのたたずまいは美しいと思います。
私は建築デザインよりも工業デザインがどれほど繊細で難しいかを存分熟知。
日本の住宅建築は、工業デザインが主体であるべきと思っています。
だから日本の住宅建築で最も軽視されてきたのは、
耐震性や土砂災害であり、それ以上に、
すべての住宅にはシェルターが必須だったことです。
「家」のパターン・ランゲージで言えば、
日本の住宅には絶対にあらゆる自然災害と防衛としてのシェルターは、
本当に大切だったと今は特にそう思います。

* 「スイス政府防災マニュアルは憲法の具体解説」
* 「青い空は動くのです、しかも晩夏の空にアラート不要」
* 『観光都市はエスノセントリズムから解放されること』
* 「車とエレベーター」
* 『「森羅万象悉く紙なり」とは神と死に直結している』


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『和服という伝統の新しい語り方を間違ってはならず』


   


     10月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

京都には白足袋族が文化的な特権を持っていると言われています。
しかし、すでに京都自身がそのことを忘れているようです。
白足袋族というのは、祇園・神社仏閣・室町西陣の着物問屋の旦那衆です。
たとえば、文化的な決定事項は、京都では白足袋族に決定されました。
現在のことはわかりません。
京都に対して金沢では文化物事の決定は、
もし、前田家の殿様はどう決めるだろうといういうことで決定されます。
これは私も金沢市のある文化事業での打ち合わせで体験しました。
京都での仏教関係での議論討論では
一人が反対すればその提案は採用されません。
これは宮廷文化・武家文化の決定案件での決定条件になっています。
白足袋族でももはや室町の着物産業はすでに崩壊していると言えるでしょう。
私が車イス生活となり、赤坂でともかく買ったのは、
JBL4343のスピーカーシステムと着物でした。
東京赤坂ではとても有名だった呉服店でした。
今、もうその家号も消えています。
私は日本人が小学時代に学ぶべきは、
日本刀の手入れ・盆栽・着物は知れられるべきと思っています。
今回AM社の新車発表でのドレスコードで和服があったので、
本当に30年ぶりに着物を出し着てみました。
羽織は絵羽という裏地柄であり、これは日本的にはほとんど最高級の
広重作品を模写したものでした。
そして羽織の着方と羽織紐の結わえ方も教え子で特任助教に教えました。
多分、羽織はもとより袴についてもすでに日本人には
その知識と方法はもはや無くなっているでしょう。
最近、火打ち石を復興させようと考えてきました。
これも日本の伝統である、火打ちという日常習慣を取り戻すためでした。
ともかく、織物も羽二重の新たな素材化を目指しています。
よく、風呂敷が大事だとか、着物が大事だとかいう、
そんな軽薄な伝統文化への再興ではありません。
自分デザインの最期の仕事が見えてきているようです。

* 『これで最期のメインテナンス・JBL4343』
* 『AM社のヴァブキュリーを見る夕食会に和服で参加』
* 『観光都市はエスノセントリズムから解放されること』
* 『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』
* 『布、なぜシルクロード、シルクボイスだったのか』


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04月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 10th, 2017  Posted 12:00 AM

04月10日 仏滅(丁卯)

軽薄であろうが
重厚であろうが、
知識と経験を超えること、
この本質的な意義と意味を
徹底的に知るという
「想像力」の有無が必要である。

川崎和男の発想表現手法


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04月09日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

04月09日 先負(丙寅)

軽薄な思い込みも
重厚な思い込みも
経験資質で
「頭の良さ」を
表していると明言します。

川崎和男の発想表現手法


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04月09日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 9th, 2017  Posted 12:00 AM

04月09日 先負(丙寅)

軽薄な思い込みは
見識不足が原因であり、
重厚な思い込みは
経験過多に起因する。
いづれも
「頭の悪さ」を露見している。

川崎和男の発想表現手法


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04月06日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 6th, 2017  Posted 12:00 AM

04月06日 赤口(癸亥)

「頭の良さ」とは、
思いつきの、その姿勢である。
思いついた軽薄さ
思いついた重厚さ
このいづれかが伝わるかである。

川崎和男の発想表現手法


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『健常者を差別することで社会暗部を照射する』


   


     7月 27th, 2016  Posted 12:00 AM

「身障者施設で殺傷」事件が起こりました。
身障施設職員による殺人事件は極めて想定内であり、
この連鎖性が社会暗部に確実に潜んでいます。
実際、
私は28歳に交通被災により身障者になり、
その時から今なおの経験予知です。
自分は身障者、
対してほとんどが健常者というこの幻想の中に人間たちは生きています。
健常者が身障者を殺すのは原始キリスト教では当然のことでした。
この社会暗部の健常者優位性は身障者に秘匿した差別を強いています。
しかし、暗部を決してみせてはならないという軽薄な知恵なのでしょう。
その証拠がパラリンピックという誤魔化しのイベントで、
暗部そのものを秘匿してきただけに過ぎません。
これは1980年の国際障害者年、ユニバーサルデザインの制度化に等しく、
かつて健常者だった人が老いて身障者として生きることになるのです。
自分なりの身障者からの健常者差別意識が明確にあります。
「歩けるくせに、出来ないのか」
「熱があっても38.5までなら読書可能」
「身体障害、心臓障害はいづれみんなが必ずなる」という
健常者差別が可能だということです。
これは基本的に「人は生きている=死んでいく」というこの回路の中で、
生まれたときには、impairment・disability・handy-capであり、
リタイアすれば、handy-cap・disability・impairmentになる。
必ず死んでいく限り人は健常者のままというのはありえないということです。
だから、オリンピック対パラリンピックというのはスポーツ界での差別であり、
これが国際的な疑似平等感化されている社会暗部です。
それこそ健常者対障害者をあたかも平等化という幻想に
閉じ込めているにすぎないことだと自分=身障者は断言します。
自分が、身障者としてのトレーニングで経験した最悪なことは
かえって、障害者施設の職員ほど「差別意識」が強化されていることです。
いづれ、真実を書き残さなければなりません。
私が喧嘩師となるときの真の心情は「健常者への差別」です。
したがって、「差別性」という商品戦略も実は、
この社会暗部を商品に閉じ込める作業にすぎません。
この殺傷事件の犯罪に怒りを込めます。

* 「少数派のためのデザインから・再度、再検証」
* 「身障者・差別用語タイトルの絵画」
* 「常識語なのに真意と原意知らずはコンセプト=方針を誤る!」
* 『ユニバーサルデザインの原意』
* 「このポスターに見たデザイン界の「差別」」


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6月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

6月4日 友引(丁巳)

発想はもちろん、
思考の結果ですが、
その軽薄さに、
デザインを載せることは
不可能です。

川崎和男の発想表現手法


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『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


   


     11月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「影向」:yow gowという松岡正剛の提示は、
流石と言わざるをえませんし、それは彼の膨大な認知力でした。
「かげ」には、光との関係が明白にあります。
それは私が「陰翳礼讃」では語りきれなかった不平不満を
全て取り出して、一挙にそれが、納得し解決しました。
陰翳とは、
確かに日本的な暗闇に存在する物への美学的アプローチでしたが、
私には、特に、デジタル化された光と、その影と陰には、
もっとその根幹であるひかりとあかりの翳りという動態こそ重要でした。
そこに、「影向」という言語が身体性で語り直されたわけです。
影にはあかりの翳り具合の形が、
それこそ夢幻抱影な印象解が必要でした。
それこそ薄暗闇にあたかも浮かび上がる世界観が「影向」だったのです。
しかし、影にはあかりに浮かびあがる形があっても、
陰には陰陽五行での遮断されている翳りだけでは、日本の美学は、
翳りのアナログ性を引き継いでもデジタルな翳りへの進化は
決して語り次ぐことは不可能なのです。
陰翳では日本の伝統へその美学性のコンテクストを引き継げません。
これが私的には不満足であり、大きなストレスでした。
デジタルサイネージが結局は電子看板という軽薄さでは日本流は不可能。
「影向」という、暗闇は翳り動態をしながらもあかりある影の形態こそ
抱影されたイメージそのものをデジタル変容させるのです。
だから私はサイネージを超えた「デジタルアッサンブラージュ」という
その新語による映像・照明・空調もデザイン表現を提案し始めました。
「影向」は、言語が場踊りという身体パフォーマンスを、
舞台芸術として革新するとともに私のデザイン表現そのものを
陰翳礼讃どころかデジタル光線の陰と影との翳り制御を発見させました。
私は「KK塾」第1回目の冒頭で「影向」にデザイナー感性を知り、
破壊されていた気分や気配でこの講座を始めることを宣言しました。
この一枚の演劇ポスターですら、
銀塩版での初期写真機撮影で、光の翳り具合撮影であったのです。
世界的なカメラマンが、群像写真撮影ならば絶対に断ったにも関わらず、
「影向」表現の演出には
ここまでのデザイン的な配慮があったと聞きました。
偶然といえば済んでしまう話ですが、
私は「コンシリエンスデザイン」を開始するにあたって
「影向」という、それこそイノベーションという誤解だらけの定義を
「コンシリエンス」=新結合=コンバイネーションを
手に入れることが出来たのです。


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