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Posts Tagged ‘フェールセーフ’


12月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     12月 17th, 2021  Posted 12:00 AM

12月17日 赤口(己亥)

『安心としてのデザイン』

そのためには、
制度としての
安全基準の制定や、
設計手法としての
フェールセーフデザインが
社会的容認で終わっては
安全が安心にまでは
決していたらない
はずである。

artificial heart:川崎和男展


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『軍事技術である人間工学 は軽薄に語るべきでない』


   


     11月 5th, 2017  Posted 12:00 AM

本格的に「人間工学」を認識せざるをえなかった経験は美大ではありません。
ヘッドホンのデザインに取り組んだ時でした。
それは自衛隊の戦闘機パイロットのヘルメット設計マニュアルでした。
随分と説明、説得に自衛隊に行きましたが、閲覧は駄目でした。
理由は「人間工学」は元来、軍事技術工学であるからです。
しかし、日本での商品説明で多様されている人間工学の軽薄さは虚実説明。
人間工学は、機械の使用者(兵士)が機械行使(戦闘)で、
安全(生命を防御)であり、効果(敵を倒す=殺す)ことが中核です。
このことから第二次世界大戦以後、エルゴノミックスは学会活動が停止され、
学術名称もヒューマンファクターエンジニアリングで、
フェールセーフ・ヒューマンエラーの技術とデザイン(設計)になりました。
さらに、HUSAT(Human Sciences and Advanced Technology)になり、
今ではUIやレジリエンスデザインの領域にと進化しました。
それでもエルゴノミックスが最適解になっているのは、F-35に他なりません。
F-35A・F-35B・F-35C、これらのパイロットヘルメットが最適解でしょう。
もし、すでに想定されている北朝鮮への軍事圧力にはこの戦闘機でしょう。
結局、古来から工学技術が軍事開発と軍需産業が経済進化の動機が、
無念ながら、この人間界の世界観政治姿勢になっていることは、
このスティルス戦闘機に象徴されていることです。
モホリ・ナギ的に言えば、
「デザインとは社会に対する態度である」とするとき、
こうした軍事技術が不要な世界観にありましたが、
私はいわゆる商品コピーで語られる「人間工学」で、
例えば倚子を語り直すときには、軍事技術の切れっ端程度の語り口では、
それこそ引用というよりも偽善、
したがって、人間工学をデザイナー教育の基本には軍事工学技術を
避けてはならないのではないかと思います。
少なからず、私には男の子ゆえの戦車から戦闘機、武器などは、
正直、殺し合い=戦争とは全く無関係に、好きなことでもあるのです。
男は武器が好きといういう感覚、あるいはセンスは、
カモフラージュ柄がファッション性と同語化していることに匹敵しています。
それだけに、こうした戦闘機は、ビジネスジェットと同等のPower by Wire
と言われている油圧アクチュエータでの電気信号制御があります。
軍事技術である人間工学とデザインの整合性は
もっともっと整合性構築に向かって革新されるべきと考えています。

* 『若き日、「東京家具見本市」で二人は学んでいた』
* 「自動車デザインはもっとビジネスジェット機から学ぶべきだ」
* 『HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」』
* 『情報戦とマッハ戦から無関係であってほしい』
* 『軍備産業の機能・性能・効能を廃止する哲学が要る』


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「資本主義からの逃走」
  「反原発ヒステリーは、人類の義務放棄」


   


     3月 27th, 2011  Posted 12:00 AM

ヒステリックな対立
「Glass Gallery 291」で講演。
銀座で一泊。
いつもなら週末ゆえに、もう一泊です。
ところが、東京のあの活気が沈み込んでいます。
羽田空港も節電ゆえ、空港ロビーは暗過ぎる。
機上すると、大阪出張も激減とCAの人たちからの話。
新聞紙面では、大きな記事。
「原発か、反原発か」、これから私たち日本人、同胞は二分されそうです。
あらためて、東京の事態でこの国難をつきつけられました。
この対立が日本を沈没へと導いているのだとするなら、もっと悲惨です。
私たちは、私の世代が知らなかった敗戦直後に立ち戻されてしまったようです。
前夜、「朝生TV」の討論を見続けました。
それぞれの意見の対立や激論をただ傍観するばかりですが、
これをすべてが国難と受け止めていながら、やはり、アポリアで立ち尽くしていました。
私の意見、主張は、原発推進と受け取られそうですが、
「原子力技術進化」を「義務」とするべき立場です。
原子力発電所は常に、
バージョンアップとフェールセーフの徹底した維持管理であるべきでした。
おそらく、歴史的に何度も津波災害に立ち向かってきた、
東北三陸海岸の子供たちは、どれほど、避難訓練をしてきたことでしょうか。
ひきかえ、それだけの心構えと安全管理を電力会社は徹底してきたのでしょうか。
電気機器がもし火を噴いたとき海水をかければ、
さらに故障、それどころか爆発するかもしれないというのは万人の常識。
40年前の欠陥品は、放置されたまま首都圏のエネルギーを供給してきました。
無論、このあきらかに原電事故は人災だから、
現在稼働中の原子力発電所の総点検はやってしかるべきことでした。
けれども、国内全ての原電を停止というのはヒステリーです。
代替エネルギーのアイディアもなく、原子力は全廃!は「反核ヒステリー」です。
この原電事故は、日本の事故ではなくて、人類の事故という認識が必要でしょう。
被爆と被曝の表記間違いにこれまで私自身気づきもしませんでした。
えらそう過ぎるでしょう。
日本は、戦災で原爆被災をした人類で唯一の民族です。
だからこそ、原子力技術には大きな義務があると私は考えてきました。
これが、原爆被災した霊魂への真摯な人智的、倫理的な態度だと思います。
「建設」してきた原子力発電所の存在には大反対です。
だから既存の発想転換が私の,デザイン職能としての主張です。
「建設」ではなく「生産」、「ダウンサイジング」・「分散化」、
そしてスマートグリッド技術をよりフェールセーフすること。
これが私の主張です。
講演会は、テーマを変更して、この主張に徹しました。


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「資本主義からの逃走」
  「日本・東日本大震災からもう一度復興と再建」


   


     3月 22nd, 2011  Posted 12:00 AM


M9.0大震災は、1000年に一度ゆえ想定外。
さらに、原電事故はフェールセーフへの過信。
日本は敗戦後の大復興から復活を果たしてきましたが、
もう一度、私たち・日本は復興と再建を余儀なくされました。
私はすでに天災ということではなくて、
これほど科学と技術で人間生活を日常化してきた限り、
天災もすべからく人災が呼び込んでいるとさえ思います。
天災を想定外と言わざるを得ないとすれば、
天災と戦災で包囲されている地球上の生命体である人間は、
自らが人災を引き込んでいると断言すべきかもしれません。
特に、原子力発電に関しては、
社会的賛否を常に対立させてきました。
一方は「安全神話」に、
一方は「核アレルギーでの全否定」にと、
相反したままに電力会社と都市文明の利得が優先されてきたことは事実です。
となれば、日本は戦災で被曝し、今度は天災で被曝寸前状況になっています。
私は、人類が生み出してしまった科学成果、
このアポリア=解決不可能の思考停止にこそ、
より積極的に立ち向かっていく「生」を対称化すべきと考えてきました。
職能・デザイナーとして、デザインの本質と結論しています。
したがって、原電推進でも反原発でもありません。
人類の、たかがデザイナーに過ぎませんが、
されどデザイナーとして、真摯真剣に、
アポリア脱出を使命・義務としての
行学実務を生きがいにしたいと思っています。
敗戦後、復活をまた余儀なくされました。
私自身、健常者から身障者として、二重苦を受け入れています。
それだからこそ、多分もう残された時間では、
復旧・復興・復活まで見届けることはできないとも推測しています。
しかし、されどデザイナーとして限界まで、
デザイン職能で生き尽くしたいと祈念しています。
原電は「建設」ではなくて「生産」です。
「規模のダウンサイジング」と「社会制度の高密度情報化制御」が、
原子力への千年計画デザインであるべきでしょう。
「推進」と「反原発」を止揚しなければ、この国難解決は不可能であり、
人智の行学実務に、あらためてデザイン位置を確認しています。


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