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Posts Tagged ‘ひかり’


『見詰める光は「あかり」になるという事例』


   


     1月 17th, 2017  Posted 12:00 AM

「ひかり」に対して「あかり」があります。
私はひかりとあかりをつぎのように区別して説明をしてきました。
光は見詰めることが視覚的にも困難なことであり、
灯りはその光を十分に見詰めるコトが可能なことです。
だから食卓の上には見詰めることの出来る灯り=キャンドルが設置される、
これはとても重要であり、いわゆるキャンドルスタンドの存在には、
都市伝説と思われる様々な物語があります。
それは紙幣の裏側のキャンドルスタンドにもあります。
そういえば、結構大好きでよく読んだ本ですが、絶対に読むべき定本に、
「ロウソクの科学」という本がありました。内容は忘れてしまっています。
それこそ人生最期には「ファーブルの昆虫記」「ドン・キホーテ物語」を
最高の音場の中で読みたいと思っていました。
さて、ロウソクのあかり、すなわちローソクの炎には各部分の温度が
見事に図解されていて、690度から1400度?だったという記憶があります。
が、再度もっと詳しく調べてみたいと思っています。
ともかく、火には温度があります。
たとえば、600度はガラス製作の温度であり、陶磁器は1200度です。
日本刀は玉鋼を1300度から1500度で鍛造していきます。
燃焼具合は温度によるものですが、
私が最も注目しているのは、セシウム除染をセルロース戦略として
セルロース+廃油で400度程度の低温焼却で炭化と発電を図り、
その炭化した物質を土の中に埋めることで土壌改良の一つの方法です。
これはセルロース戦略としてセシウム除染も、
ひょっとすれば有明の土壌改良へのコンシリエンスデザイン技術提案。
シアン除去のカーボン戦術になっていくかもしれません。
あくまでもデザイン提案です。

* 『ひかりをあかりには鏡面である』
* 『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』
* 『セシウム除染もデザインが深く関与すべきだ』
* 「イノベーションのための虚空回帰」
* 『なぜ、あえて「日本刀」と呼ばれたのか?!』


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『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


   


     11月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「影向」:yow gowという松岡正剛の提示は、
流石と言わざるをえませんし、それは彼の膨大な認知力でした。
「かげ」には、光との関係が明白にあります。
それは私が「陰翳礼讃」では語りきれなかった不平不満を
全て取り出して、一挙にそれが、納得し解決しました。
陰翳とは、
確かに日本的な暗闇に存在する物への美学的アプローチでしたが、
私には、特に、デジタル化された光と、その影と陰には、
もっとその根幹であるひかりとあかりの翳りという動態こそ重要でした。
そこに、「影向」という言語が身体性で語り直されたわけです。
影にはあかりの翳り具合の形が、
それこそ夢幻抱影な印象解が必要でした。
それこそ薄暗闇にあたかも浮かび上がる世界観が「影向」だったのです。
しかし、影にはあかりに浮かびあがる形があっても、
陰には陰陽五行での遮断されている翳りだけでは、日本の美学は、
翳りのアナログ性を引き継いでもデジタルな翳りへの進化は
決して語り次ぐことは不可能なのです。
陰翳では日本の伝統へその美学性のコンテクストを引き継げません。
これが私的には不満足であり、大きなストレスでした。
デジタルサイネージが結局は電子看板という軽薄さでは日本流は不可能。
「影向」という、暗闇は翳り動態をしながらもあかりある影の形態こそ
抱影されたイメージそのものをデジタル変容させるのです。
だから私はサイネージを超えた「デジタルアッサンブラージュ」という
その新語による映像・照明・空調もデザイン表現を提案し始めました。
「影向」は、言語が場踊りという身体パフォーマンスを、
舞台芸術として革新するとともに私のデザイン表現そのものを
陰翳礼讃どころかデジタル光線の陰と影との翳り制御を発見させました。
私は「KK塾」第1回目の冒頭で「影向」にデザイナー感性を知り、
破壊されていた気分や気配でこの講座を始めることを宣言しました。
この一枚の演劇ポスターですら、
銀塩版での初期写真機撮影で、光の翳り具合撮影であったのです。
世界的なカメラマンが、群像写真撮影ならば絶対に断ったにも関わらず、
「影向」表現の演出には
ここまでのデザイン的な配慮があったと聞きました。
偶然といえば済んでしまう話ですが、
私は「コンシリエンスデザイン」を開始するにあたって
「影向」という、それこそイノベーションという誤解だらけの定義を
「コンシリエンス」=新結合=コンバイネーションを
手に入れることが出来たのです。


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『映像、その実像と虚像にも陰翳が必要だ』


   


     9月 1st, 2015  Posted 12:00 AM

すでに私たちは朝昼晩のひかり=太陽光の平均的な光温度まで熟知。
だから、この時には世界各国がどのような景観になっているのかまで
知りたい、という気持ちがあります。
そして世界各国の日本と同時間の各地の朝の景観まで制御できる、
そんな技術を手に入れることができるのです。
私は自宅玄関にその装置・装備化を実現しました。
私が最も留意しているのは、そのレイアウト=プログラミングでした。
それでもなんだかもの足らなさを感じて悩みました。
なぜ、まだ満足出来ないのだろうと考えていたときに気づいたのは、
「影」でした。
瞬間的に谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を思いだし、すぐに読み直して、
びっくりしたのは、デジタルサイネージどころか、
いわゆるマッピングでも感じていたこと。
それは影−陰翳の世界観でした。
それなら、このデジタルサイネージの中で、焚き火の映像を、となり、
その炎を映像化したときにも、陰翳そのものが果たして可能?
この問いかけをしながら、炎の編集をしました。
しかも、その映像と虚像の中に、決して燃えることのない文字表現、
その文字に明らかな陰影を入れたところ、
燃えさかる火・炎の中で、文字の陰影なのに、暖かさが実現しました。
デジタルサイネージそのものの映像モニター、その技術欠落を知り、
鏡面への虚像であっても、陰影のある文字に暖かさが残りました。
その暖かさは錯覚ですが、これを強調するには、
その空間そのものに朝の日差しが差し込んでくるLEDの動きでした。
私は、「陰翳礼讃」で詳細に描写されたひかりとあかりが、
カゲ・影・陰・翳それぞれは、アナログではなくてデジタルだから、
かえってコントロールが出来ることを確かめました。
この技術とデザインによって、日本のデジタルものづくりは
確実に可能になることを再確認できたという次第です。
しかも、ある企業での3Dプリンターでの新素材そのものの開発と
その実例を自宅で確かめることができました。


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『照明の文化論としての陰翳礼讃』


   


     8月 31st, 2015  Posted 12:00 AM

日本には文化として照明には二つのことばとその結果の漢字があります。
ひかりとあかり、その結果として影があり、影には、陰と翳です。
ひかりとは、見つめられない、まぶしさがあり、
あかりは、見つめることができる炎である焚き火や蝋燭の炎でしょう。
古来、日本人には、まぶしさとあかりそれぞれのコントロールは、
障子の存在であったと私は理解しています。
そして、このひかりとあかりを制御してきた影の存在を体系化した
文化として谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」という美学論を持ちました。
この記述は、なんとも廁の美学性まで語られるのです。
私は「陰翳礼讃」こそ、今なお熟読されるべき照明論だと考えます。
「陰翳礼讃」は一言で断言すると、
太陽の光線は朝日、夕焼け、木漏れ日を障子という素材で、
光線=ひかりを見事にあかりとその陰翳効果にしていくのです。
現代技術は、ひかりのコントロールに焦点があたっていますが、
私が最も重要だと考えているのは、陰翳の技術というより手法です。
光はその光度を限りなくアップさせることは可能になってきました。
そのことで、私たちの視覚能力は狂ってきたこともあります。
たとえば、液晶LCDモニターからブルーライト光線が多くて、
ブルーライト削減かカットの眼鏡が最もらしく語られます。
しかしこれは大きな間違いであり,重要なのはドライアイ対策です。
同様に,空間の明るさは、灯りとしての照度が暗がりの制御であり、
それは暗闇に差し込んでくる一条のあかり、木漏れ日のまぶしさまで
人間の視覚能力の対応性を築くことだと私は考えています。
あかりごこちこそ、陰翳礼讃につながっている照明論です。
すなわち、暗がりのなかでの灯りを造形言語=designing languageで
照明のデザインを行い、その結果としての陰翳こそ、
形態言語=designed languageとしての結果認識だと理解します。
照明論は明白にLEDとWifiとIRと電磁波そして放射能の制御に
私はこれからの照明論の統合性=コンシリエンスデザイン現象が
あると言い切ることができます。
それは機能論としてのひかりの安全、規模論としてあかりの安心、
ネットワーク論としての無線化技術、文化論としての陰翳です。


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『ひかりをあかりには鏡面である』


   


     8月 2nd, 2015  Posted 3:22 AM

「ひかり」がLED光源となり、WiFi環境とスマホのアプリで、
確実に調光制御が可能になりました。
しかし、私は光制御では大きな限界があるということは確実です。
つまり、ひかりとあかりという文化体系を日本美学の
それも中核にしてきたことを私たちは受け継いでいく義務があります。
その一つの象徴が「陰影礼賛」で私たちに伝えられています。
私は、ショールーム設計、ショールームデザインで、
最も重要なことは、影と陰をつかいわけるセンスだと考えています。
まず、ひかりというのは、あくまでも照射速度があり、
「見詰めることが不可能な照射」であり、
センス無き、デザイナーや建築家になるとこの分別ができません。
かつて、極めて有名な照明器具メーカーで先端的なショールームで、
私は吐き気を覚えるほどの気分になりました。
それはただ現代的ショールームと言いながらも、最悪のデザインでした。
そのショールームには、まず、影が出来ないのです。
陰にまで知的センスは及んでいませんでした。
そこで、あかりというのは、「見詰めることが出来るひかり」です。
それは蝋燭のひかりを思い出せばイメージは明らかになると思います。
蝋燭の光は灯りです。また、日差しが室内に障子から注ぎ込むとき、
それこそまさに「陰影礼賛」の世界観になるのです。
LED光源は日本が発明した素晴らしい文明であったのですが、
文化になるためにはひかりをあかりにしなければなりません。
それを制御するのはたった一つの手段しかありえないと思っています。
それは鏡を使うという技法に集約されます。
なるほど、神道において、あるいは三種の神器においても鏡の存在は、
まさに鏡面での太陽光通信から始まり、鏡面での光通信技術にまで、
現代は至っています。
従って、鏡への照射と反射によって、光はあかりを陰影として制御可能。
しかし、このためにはデザインと技術、デザインと通信においての
新たな鏡面反射が求められていることに、
どれだけのデザイナーが注視し、LEDも電球も同じとする、
その実際を確認しているだろうか、と疑問です。


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『LEDの点・線・面光源では陰影制御のデザインが必要』


   


     7月 29th, 2015  Posted 12:00 AM

音のデザインにおいて、
私は卒業制作で、無指向性SP-SYSTEMをフランスから学んで提示。
45年も前のことでしたから、教授たちから相当に質問攻めでした。
当時、車のナビゲーションシステム提案も、
「そんな時代が来るか」といわれましたが、ある教授の部屋には、
私の当時の提案が額装されていたこともありました。
結局、音は「点音源」がズーッと求められてきました。
平行してLEDは「面光源」が液晶TV・液晶モニターに進化してきました。
今夜はLEDの線光源=リボン形式を今自宅の照明光源にしていると報告、
昨夜、
LEDが未だに電球形式から解放されない形態デザインを批評しました。
この本来はLEDが点光源を線光源にしていることでは、
限界だらけだと私は結論づけています。
もちろんLED光源ゆえにWi-Fi環境で1677万色を自在にプログラミングし、
たとえば、設定時間どおりに、朝は朝焼け、夕は夕焼け、その他の環境は
スマホで自由自在にパッシブとアクティブ制御が可能になっています。
しかし、私は「ひかりとあかり」が照明デザインの根本と考えています。
結論は「陰翳礼讃」にその証拠がありなのです。
では、LEDで何は出来ないのかをストレートに記述しておきます。
LEDの面光源は、液晶ディスプレイでデジタルサイネージですが、
「陰影」つまり、陰or影が点光源では限界が出来てしまいます。
それはLED線光源のリボンでは
相当に照射する面との関係がとても重要であり、
これにはいわゆる造形センスが求められるということになります。


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『電球のE-26から早く解放してひかりとあかりを調光』


   


     7月 28th, 2015  Posted 12:00 AM

LEDの発明はひかりとあかりの世界を見事に変えました。
私が東芝に入社したときには、赤色ダイオード全盛でした。
アンプに青色が欲しくて、レンダリングには描いていましたが、
さらりと技術陣には、すぐに夢を描くとか言われていました。
そして、LED電球の登場では、長時間の発光と熱源では無いことが
売り文句になっていましたが、インチキ製品がそれこそ大企業でも
相当にあったものだと思っています。
そして、どうして口がねはE-26ばかりで、しかも電球の形態には
デザイナーとしてイライラしていましたが、ある台湾メーカーの
デザイン依頼で、ここからの解放案を提案しましたが無駄でした。
エジソンに始まったフィラメント形式電球は、
松下幸之助の二股ソケットがありましたが、
もっとビックリしたのは、フィラメントは残っていても、
外装のガラス球を製造していたメーカーがあるほどまだ日本は貧乏でした。
さて問題は、未だに口がねE-26と電球形態から逃れられないことでしょう。
そして今や赤・緑・青のLEDで白色まで1677万色を、
アプリケーションをWI-FI環境で、自由な設定が可能になりました。
プログラミング次第で、パッシブ調光もアクティブ調光も可能です。
が、まだまだ家庭環境にこの応用は拡大していません。
この原因について、私の判断は、
電球形態を引きずっていることだと思っています。
もう一つは、日本の家電での使用シーンの告知が無いことです。
今、私はLEDとWI-FI環境でのプログラミングの自由性を
自宅で実験していますが、これも海外の発想に追い抜かれています。
私は、ちょうど来月、照明学会全国大会で特別講演をしますから、
自宅で、勿論プロを育てながら、この実験結果を見せたいのです。
しかし、海外製システムや使用シーンへの想像力不足を感じています。
電球スタイルと口がねE-26をまず捨て去ることが重要だと考えています。
それはLEDランプの可変する
ひかりとあかりのデザイン開始だと認識しています。


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「陰翳復帰・明るさへの反省は文化再認識」


   


     4月 30th, 2011  Posted 12:00 AM

省電力はこの数年のある種の義務でした。
これまで私たち日本人の義務意識は建前だった、
社会的な言い訳かもしれない、と思います。
具体さを、まったく欠落していたかも知れません。
ところが、
フクシマ原電事故がこれを覚醒させてくれたようです。
原子力発電所という大規模な施設発電から解放をめざすこと。
これから大きな哀しみを抱いて解決していかなければなりません。
それは具体的義務感としての「節電意識」です。
「想定外」には、デザイナーとして相当の反論があります。
しかし、これはひとまずおいておきます。
さて、東京から「ひかり」が薄暗く、闇を受け入れ始めました。
東京オフィス環境は750ルクスと言われます。
しかし、米国でのオフィス環境でも450〜500ルクスでした。
商業施設では1000ルクスが求められてきたことも事実です。
もちろん、病院や作業環境での明るさの必然性は遵守当然ですが、
「節電」=節約電力が私たちの日常下意識になりつつあります。
いわゆる陰翳、夜空の星、月明かりが大都市に戻ってきました。
戦後、高度経済成長とは、私たちが「ひかり」ある生活こそ、
進歩の証拠として都市文明を希求してきたのかもしれません。
かって、ある有名な照明器具メーカーのショールームが完成し、
そのショールームで、気分が悪くなり、吐き気すらするのです。
よくよく考えてみたら、そのシュールームに影が無かったのです。
だから照明というのは、影あるひかり=あかりだと理解しました。
東京の夜空に星が見える、月明かりに感動すると聞きました。
「陰翳礼讃」は、日本の伝統的な美意識であり伝統文化です。
「節電」という作法を日常化していくことは、
これまでの日本が本当の豊かさは「あかり」にあって、
決して「ひかり」では無かったことを気づかせてくれました。
人類が生命をも危うくする光とは光線です。
その極みである放射線を求めることへの大反省です。
だから、私は「脱・原発」というより、
「解・原子力」での「あかり」を求めたいと思っている次第です。

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『資本主義からの逃走』
「ひかりとあかり・信号あるいは記号として時空間」


   


     5月 15th, 2010  Posted 12:33 AM

信号・記号やりとりの手段
「のろし」を上げます。
これは、太古時代のシグナル=信号でした。
鏡面に太陽光線を当てて反射させます。
そうすると、その眩い反射光が信号になりました。
暗闇に蝋燭の灯りが点々と灯されています。
それは、道筋を教えてくれる記号でした。
さて、こうした信号、あるいは記号を人は手段にしてきました。
光線を見詰める
太陽光線はまぶしい光です。
眩しくて、見つめることができません。
月の明かりや蝋燭の灯りは、見つめることができます。
私は、単純に、
「見つめられない目映い光線」を「光・ひかり」だと思います。
それこそ、網膜を焼いてしまう「光」は存在します。
可視光線には、「色」があります。
色は見詰めることができる明かりと言うことは出来ます。
「じーっと見つめることの出来る光線」を「明かり・灯り・あかり」だと思います。
光っているからといって、眩しくなければ見詰めることが可能です。
一本の蝋燭の灯りを見詰め合っている恋人がいたとします。
それは、灯りを沈黙し合って見詰めることで、
何か、二人の間に沈黙の会話が流れているのかも知れません。
この場面には、蝋燭の灯りが二人の共有する「記号」です。
そして、その見詰めている明かりが、ひょっとすれば、
「別れ話」の「信号」になっているのかもしれません。
「ひかり」と「あかり」には、時空間が生まれているのです。
情報の時空間
今、私たちは、情報という記号or記号という情報を信号として、
「ひかり」が時空間でのコミュニケーションをしています。
「光通信」、それは、太陽光を鏡面で反射させた光速でやりとりをしていた太古から
現代に至って、鏡面が光ファイバーになったのです。
となれば、人間が時空間での情報は、「ひかり」信号の記号なのでしょう。

人間は、明かりもしくは灯りに包まれれば、気持ちは和むでしょう。
しかし、光に包まれたとき、それは「生」の瞬間だったのかもしれません。
そしてもう一度、光に包まれるのは「死」の世界に入っていくのでしょう。
私たちが時空間から消滅させられるのかもしれません。
人は、ひかり、あかり、そして、
信号と記号の情報で、生から死までの時空間に私たちは存在しているのです。
絶対にそうなんだと私は思っています。
あらためて、「ひかり・あかり・信号・記号」、
この四句分別を、現代そして未来に、私たちは求められているのです。


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