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Posts Tagged ‘講演’


「パリから帰国後超多忙だった・・ようやく・・・です」


   


     3月 24th, 2013  Posted 12:00 AM

パリ市内で初めてノートルダム寺院を裏から見ました。
長年の夢でした。
850年も前に、ドーム建築のドーム支えの発想が、
そのまま美しく建築に反映していました。
仏人の阪大インターンの教え子は、
車椅子の私を初めてモンマルトルの丘、
その頂上の教会まで登らせてくれました。
絶対に車椅子で自力に登るのは不可能でしょう。
フランスでは教え子たちと出会い、本当に満足いっぱいでした。
ところが帰国すると、
「第一回危機管理デザイン賞」の審査から表彰式・講演を努めました。
これから危機管理工学へのプロダクトデザイン主導による、
産業創出をめざすでしょう。
このことをしっかりと伝えていくことが私の役目になるでしょう。
海外に行っていたのでいくつかのクライアントに会い、
クライアントそれぞれの仕事に決着をつけたり、修正に追われました。
さらに大阪大学の退職教員として、挨拶や教授会、パーティに出ました。
このFBも全く見ないほど超・超多忙でした。
ようやく落ち着きました。
大阪大学大学院での次の準備にようやく取りかかりましたが、
退官記念出版も本格的に出版内容をしっかりと校正しなければなりません。
本年正月に書き上げた論文校正もこれからです。
正直、毎日ともかく眠くて眠くてたまらない毎日でした。
それでもいくつかの本は読破しました。
ようやく今夜から、
あらたな活動の準備態勢に入ります。
ご無沙汰しているみなさんや、
最終講義に大阪まで来ていただいた、
クライアントから教え子のみんなにも心から感謝します。


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「春日部での桐工芸産地とのこと」


   


     10月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

春日部といえば、「クレヨンしんちゃん」の住処です。
今では、春日部が、
桐タンスなど桐木工の伝統工芸産地であることを
知っている人は少ないでしょう。
1980年代は、
「地方の時代」や「第四次全国総合開発計画=四全総」が施行され、
「地方の活性化」が盛んになっていました。
バブル経済を迎える寸前だったと覚えています。
私は、ふるさとに車椅子でもどり、
福井県内の伝統工芸産地に「デザイン導入」を試みていました。
幸いにも「タケフナイフビレッジ」は有名になりました。
そして、そうした産地への「デザイン導入手法」についての講演も
随分と引き受けていました。
この本には、春日部で中心となっていた影山和則氏が、
公的機関からのデザイン活動をまとめた「デザイン史」になっています。
私が、影山氏に、
いかに厳しく接していたかも描かれていて赤面ものですが、
私は、全力で伝統工芸産地、その職人さんや、流通と闘っていました。
もっとも、牙をむいていたのは「四全総」を背景にし、
権威を振りかざしていた官僚や
その身内的なデザイン・プロデューサーたちでした。
おそらく、「喧嘩師」と言われ始めたのもその頃だったと思います。
しかし、この本に記録されているとおりに、全国各地の伝統工芸産地は、
デザイナーを引き入れて懸命でした。
あれから25年後の今日、
生き残っている産地はほとんど無いと言ってもいいでしょう。
私は、「タケフナイフビレッジ」は今も健在であることを自負しています。
この本に描かれた全国それぞれの産地活動は
一つのチェックリストになっています。
「あの産地はどうしたかな?」という具合です。
私は、この本には80年代、
少なからず理想的な国家体制の中で、
伝統工芸という
日本文化をデザインが引き受けようとしていた事実史があります。
是非とも、次世代デザイナーには読んでもらいたい「デザイン史」本です。
その理由は、
国難となっている日本が再生するためのヒントが
当時の全国各地の産地での懊悩する姿がいっぱいあるからです。


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「またあちらで会おう、ビル・モグリッジ」


   


     9月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

英国のインダストリアル・デザイナーが逝きました。
ビル・モグリッジ氏です。
米国 New Yorkのクーパー・ヒューイット美術館の館長です。
といっても、私にとってはライバルでした。
ID Twoの主宰者、パソコン登場時期の代表的なデザイナーでした。
これからのパソコンデザインの理論と実践の提案をしていた人物です。
したがって、彼とは、パソコンに関してのコンファレンスでは
必ずステージを共にして講演をしました。
Apple社がApple ?からMacintoshを登場させた時期には、
英国デザイナーである彼が率いるID Twoと、
南ドイツ出身のハルトムット・エスリンガーが率いるFrog Design、
そしてNew YorkのSMART DESIGNがデザイン界の本流に居ました。
私は、彼らの提示してくるデザインを常に意識していました。
「インタラクション・デザイン」という概念は、
ビル・モグリッジ氏がデザイン界に示唆した言葉でした。
そして、マグネシウム合金製「GRID」が、
現在のノートパソコンの原型であり、
MoMAに収蔵された最初のPCです。
欲しくてたまらない製品です。
このデザインが彼の作品、この特許回避デザインが、
以後のノートパソコンデザインの方向を決定づけました。
私のAppleへの提案デザイン「Mind Top」は
「GRID」への挑戦的なデザインでした。
彼と講演をする度に、当時はまだスライドでしたが、
作品写真は、いつも、製品を演出する小道具が
とてもオシャレで圧倒されたものです。
彼は、日本にもスタジオを置きたくて、
「Twoは、日本語では何?」とか聞かれて、
「Ni or Fu」と答えたことがあります。
「ID FuだからID Windかな」と私は付け足しました。
それから、彼はあのIDEOの創立者となりました。
以後、音信がとれませんでしたが、Facebookで再会しました。
その時にちょうど、クーパー・ヒューイット美術館の館長就任時でした。
私は、お祝いをFacebookで連絡し、
その美術館には私の壁掛け時計「HOLA」が
「THE DESIGN」でパブリックコレクションになっているから、
必ず訪ねるとメッセージを送りました。
彼の冥福を祈ります。
あの世でもう一度会いたい人物です。


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「進化著しいスピーカーシステム」


   


     9月 2nd, 2012  Posted 12:04 AM

私はスピーカーシステムには病的なほど拘りがあります。
IPadやiPhoneはすっかり音楽視聴のスタイルを革新してくれました。
かつては小型スピーカーシステムは、
「ブックシェルフ」と読んで、書棚に収めて配置するモノでした。
いくつかの名作があります。
故・瀬川冬樹先生にJBL4343と聴き比べて紹介された製品は
もう使えませんがまだ所有しているほどです。
最近では、この一体化したステレオスピーカーユニットになりました。
この二つは、音楽を使う小さな教室では十分な音圧と再生が可能です。
海外ブランドで著名なモノも結構、日本製ですが、
このメーカー・Jawboneはヘッドセットからスタートしましたが、
デザインの緻密さと正当性は高い評価を得てから、
とうとうスピーカーメーカーに進化しました。
JAMBOXは周波数特性もあるメーカーに依頼して測定したもらいました。
想像どおりでしたから、B&W zeppelin airにはおよびませんでしたが、
なかなかの特性を持っていました。
私が小型スピーカーでは、特にf0に拘っています。
ところが最近の商品カタログではこの性能記述無しを見かけますし、
ショールームでも答えられない店員さんが増えています。
確実にHi-Fiスピーカーシステムと呼んでいいと評価しています。
講演会などでは、
本格的なJBLやBOSEなどを
PAシステムまでスタッフが持ち込んでいましたが、
これからは、BIG JAMBOXで十分かも知れません。
ワイフは自分の講義では、iPadとBIG JAMBOX-Redを使っています。
今は、このBIG JAMBOXをいくつか会場に配置すれば、
それなりの「音場効果」が出るのではないかと模索中です。
それにしても、Jawbone社のモノづくりは、
商品デザインとして本当にまとまっていると評価しています。


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「1980年代のデザインと伝統工芸産地の活動」


   


     7月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

埼玉県春日部市(クレヨンしんちゃんがいます)は、
桐箪笥の伝統工芸産地です。
当時から桐箪笥産業の収束が始まっていました。
現在もきっと厳しいかもしれません。とても気がかりです。
1980年代は現・埼玉県産業技術総合センターが中心になって、
「桐とデザイン」の再開発が14名のデザイナーに求められました。
私も講演や製品開発に参画しました。
その時の作品は二つありました。
まだ、アロマセラピーが知られていない頃でしたが、
桐箱の「アロマボックス」と「貯金箱」を提案しました。
なんだか、今、商品化できる気がしています。
実は、このようなプロジェクトのことは正直うろ覚えでしたが、
3年がかりで、当時の「伝統工芸産地とデザインの関係」を、
埼玉県産業技術総合センターのK部長がまとめられて、
出版直前の玉稿を読ませていただきました。
もう赤面するばかり、
30代の私の言動が本当に詳細にまとめられていました。
当時、私はタケフナイフビレッジを世に問いました。
場所はAXISビルの展示会場でした。
だから、K氏は、福井に私を訪ねてまで、
私の参加を求められたにもかかわらず、
どれほど私が過激に、
「伝統工芸とデザイン」を結びつけようとしていたのかも
本当によく記憶されておられました。
しかも、それはAXISのH氏が師匠だったことです。
私もこの当時のことはまとめておかなければと思っていただけに、
とても感動しました。
H氏は、80年代の伝統工芸産地とデザインの関係は、
タケフナイフビレッジを詳細にと示唆指導していただいたということです。
H氏にどれほど、
「デザインの作法」・「伝統工芸へのデザイン投入」を
徹底的に指導していただいたにもかかわらず、
ご無沙汰をしてしまっています。
早速にも、筆を取りたいと思っています。
会いに行くべきだと思っています。
Kさん、Hさん、改めて深く感謝します。
出版がとても楽しみです。
日本の「デザイン史」としても貴重な資料になると判断しています。


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「KAIST=韓国科学技術院の先生を招いて」


   


     6月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

なんとしても風邪を治さなければ、
この想いを実現できました。
KAISTの先生お二人を招いて阪大での講演。
Prof.Kim Myung-Suk先生とはすでに20年来の友人であり、
Prof.Bae SangMin先生は、New York留学中に、
私の講演を聞いてもらったこともあるという仲です。
KAISTはおそらく、全世界的にみても、
最高級の大学・大学院であり、デザイン系でも筆頭です。
Kim先生は「環境デザインとしてのロボット」を
Bae先生は「国際貢献としての製品デザイン」、
それぞれが実現されているプロジェクトを語っていただきました。
私もKAISTで講義をしましたが、
この大学が世界からも注目されている「未来創生の発想」は、
いくつかの重要なキーワードでした。
Why・なぜデザインを、なぜ生きるのか、
Implement・必ずデザインを実現させて未来を創る、
Evolution・常に進化は「融合」=Consilienceを、
Donate=Sharingを、Passionを、と、
重大なキーワードを沢山いただきました。
しかも確実にコンセプトは製品形態に集約化されていました。
私は、3.11以後、デザインによる復興をと考え続けてきただけに、
改めて、デザインの理想主義を語る二人の教授に、
支え直してもらった気持ちでいっぱいになりました。
たとえば、家電は当然ながら、
造船もどれほど韓国は進歩させたか、
その事実を知っているだけに、韓国の勢いを体感しました。
日本も韓国もアジアの小国です。
これからはお互いの交流をさらに深めて、
世界の先導国になっていくべきだと思い直した次第です。
お二人に励まされたようで、すっかり、風邪から立ち直ったと思います。


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「語り部仕草は、再出発するべきです。」


   


     5月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛「連塾」、その他の舞台演出は、
いわゆる講演スタイルにオリジナリティが顕著です。
私は、彼の講演での話し方、語り部仕草は、
まったくのインプロビゼーションであり、
観客を引き込む術において、
あるいは、プレゼンテーションとしては、
世界的にもトップランクだと思っています。
故スティーブン・ジョブスがプレゼンテーターとして、
最高の人物評がありますが、
私は松岡氏の方がはるかに彼をしのいでいると思います。
なぜなら、製品を題材に語るより、
抽象論理を語ること、文化の根底を語ることは
とめどなく困難だからです。
頬に押し当てた掌は、思考を巡らしているわけではなく、
不安や欲求不満などありえず、
いわゆる心理学でのパフォーマンスに深層心理表現は
まったく当てはまっているとは思えません。
彼の言葉に、「読欲」があります。
ともかく「本を読む」という欲求が強い人なら、
多分、頬杖ではない頬に掌は、私にもその癖があります。
だから、読欲あれば思索サイクルの表出が舞台上に出る、
そんなことはありえません。
すでに反芻された思考結果を語るだけだから、
観客は引き込まれるのでしょう。
ひょっとすると、写真撮影禁止だったのかもしれませんが、
私は、私記録としてシャッターを押しました。
ここで「連塾・最終回」のレポートをしたわけではありません。
「九景」として構成された最終回は、
なぜ、九景だったのか、
それも私には推測がついています。
彼の「自叙伝」がどうだったのかは、
書物となって出版されるでしょう。
おそらく、その「語り」と「身振り」による空気感までを
編集されることはとても困難だと思いますが、
その記録、あるいは・・・
私はその出版を心待ちにしています。
男として惚れ込んでいる「ち」としての松岡正剛です。
「ち」とは、
私が常用する「いのち・きもち・かたち」の「ち」であり、
知・血・地・致・智・値・治・置・稚など、
日本の森羅万象を受け止める統合的な百科的認識を表してます。
10年に及んだ「日本という方法」、
その結論を師範として松岡正剛は最後に提示しました。
それらが何であったのかも、
是非に出版を待っていただきたいと思います。
私はその出版を待って、再び松岡正剛を伝承したいと考えています。
「グレン・グルードのごとくありたい」と、
松岡正剛は声を詰まらせたとき、私も同様に胸が詰まりました。
私はあらためて、10年の結論こそさらに「日本という方法」、
それが3.11からの復興と復活の「ち」ゆえに、
松岡正剛は、その師範役を引き受けるべきと伝えます。
「連塾」は、9.11をもって開塾されたのですから。


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「盤・盆・膳」という文化は木に宿る」


   


     3月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

漆の地場産業に関わっていた頃、
私がたどり着いていたのは「木地師文化」でした。
歴史は惟喬親王の伝説に始まります。
これが日本の山岳民族・山の民=「山彦」伝説に繋がっています。
そして、私なりの漆と木地の関係は、
「盤・盆・膳」の日本の文化文脈史でした。
したがって、ふるさと福井県には河田塗りがありますが、
そこでの最初のモノづくりは「盤」から始めました。
すでに30年ほど前のことですが、
兵庫県には50余りの地場産業があり講演をしたことがあります。
兵庫県には播州算盤があり、当時、
東京のデザイナーたちがいい加減な産地活性化を持ち込んで
メチャメチャにしていました。
算盤玉を巨大にした電話台など
全くとんでもないモノづくりを持ち込んでいたのです。
だからその頃は東京のデザイナーが地方産地に入ることを
徹底的に敵にしていました。
さて、算盤は中国から長崎に入り、滋賀で産業となったのは
惟喬親王による木地師発祥の地で算盤玉が作られ、
やがて播州に移ったのではないだろうか、
というのが私なりの解釈です。
その時に「盤」に算盤があり、
それは将棋盤や双六盤ではなくて、
算術の道具があることを知りました。
旭川を拠点にする親友・蛯名紀之氏から、
フリーになって20周年の記念品が届きました。
それは、本来は家具デザイナーの彼が
「播州算盤」のデザインに関わっていました。
すぐに20周年のお祝いのメールを送りました。
それは、彼がとてもいい出逢いの仕事を成し遂げていることに
感激し感動しました。
「盤」、それはいまならPADもしくはPLATEです。
算盤は、盤上に数字のシンボル算盤玉が並んでいます。
加算・減算・乗算・除算までが算盤は可能です。
そのイメージを持てば、暗算が得意になる才能を開花させます。
算盤がプラスチックに一時期なったとき、それはソロバンでした。
だから、生活には電卓が入り込み算盤文化は失われたのでしょう。
彼の作品は流石に家具デザイナーだけあって、
木材が見事に使われていました。
私は言われ無き、「木の温もり」などということには否定的ですが、
なるほど、算盤は木でなければならないと確信しました。
算盤、とりわけ播州算盤は
日本の知的道具の伝統文化=宝だと改めて知らされました。
算盤文化をもう一度見つめ直すべきでしょう。

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3月1日 staffblog


   


     3月 1st, 2012  Posted 10:46 PM

3月1日

本日は、
大阪のとある団体からの依頼で講演を行った
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)


講演のタイトルは
「3.11以後のデザイン
 日本の再生をめざして」
でした。

エネルギーに関連して、
本日初めてお話する話題も。

お越しの皆様、
講演開催のため、
ご尽力いただきました皆様、
ありがとうございました。


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「仏・アルビの街のデモ騒動を思い出す」


   


     1月 19th, 2012  Posted 12:00 AM

失業率4.5%と聞くと思い出すことがあります。
1998年、「フランスにおける『日本年』」で、
私は公務講演として「経済と文化・デザインの役割」で
トゥールーズに行かされました。
パリからすぐにトゥールーズに飛び、連日強行な視察の連続、
スタッフがこの強行さに文句をかなり言ってくれました。
しかし、私はアルビという街で倒れて入院しましたが、
アルビのロートレック美術館・知事公舎(中世の城)・
国立鉱山大学を観ました。
ロートレック美術館では、私がデザイナーということで、
ロートレックのシルクスクリーン原版も
収蔵庫から出して触ることまでできました。
知事公舎では「デザイン貢献賞」をいただきました。
ところがパーティー晩餐会も終わり頃に、
知事公舎はデモ隊に取り囲まれて大変な騒動になりました。
屈強なガードマン二人が城の地下道を車椅子の私を運んでくれました。
そして地上に出るとなんとそこは朝市の市場に通じていました。
なるほどこれはすごい、ちょっとした冒険気分を味わいましたが、
その夜、連日の疲れで救急搬送され入院しました。
フランスの病院は看護婦さんが美人で毎朝ハグされるのですが、
症状が治まったとき、彼女たちの体臭とフケ頭髪で愕然としました。
入院しつつも途中では医師団から猛反対でしたが、
なんとしてもトゥールーズでの講演が渡仏してきた公的義務、
出来ないなら、「日本人だから切腹するんだ」と言って出かけました。
そしてなんといっても、その市民デモの凄まじかったことです。
それは「失業率が4%」という事態に対しての猛烈な抗議活動でした。
すでに、日本の就業形態は大きく変貌してしまいました。
派遣社員の拡大と完全失業率が4.5%、生活保護手当がパート収入以上です。
日本の社会就職システムは崩壊しています。
それでも日本人は、抵抗も抗議もせずに大人しい限りです。
政治が「さらなる消費税アップ」を
政策化することはとても容易いことです。
なぜなら、政治家の積極性はこの方向を選択し施行しようというだけです。
それ以前に、少なからず、
議員定数の削減と行政改革と拉致問題があります。
しかも、沖縄問題はもとより
大震災復旧とエネルギー問題も抱え込んでいます。
私は4%でのフランスのローカルな街での
デモ騒動のすさまじさを思い出します。
そんなデモ隊の街なれど、病院は素晴らしく美しい環境で、
ここなら死んでもと思いました。しかも、病院の隣が大墓地でした。

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