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Posts Tagged ‘館長’


『サイトウマコトのポスターが来た』


   


     12月 3rd, 2018  Posted 12:00 AM

先般、盟友のサイトウマコトから、
「お前の奥さんに頼まれているポスターを送る」と言われた。
サイトウマコトには、動物的で野生的な勘があります。
人の才能を直感で見分け、レベルとラベルが違うと一刀両断。
サイトウマコトと私は、名古屋の私と東京の彼と、
9.11のテロをライブ映像でみて、「とんでも無い世界が始まるな」と、
そんな会話をしたことがあります。
もう、グラフィックデザインでは、ポスターが終焉することを
彼はつかんでいたのです。
21世紀美術館における私の個展開催時、人が主役の時には行きたくないと
断ってきた乾杯の音頭を、「やっぱり、行く」と来てくれたのですが、
その場で作品もなく、館長を「画家としての個展をやりたい」と
口説き落としたのです。もはやグラフィックデザイナーから
サザビーズで評価される画家になりました。
さて、彼はワイフの気に入ったポスターを覚えていたのです、
女子への気遣いは流石です。
かなり前に銀座gggでの個展見たこの作品は、
ワルシャワビエンナーレで金賞を受賞しています。
ポスターが来て、早速京都の額縁屋に額装の手配をしたのですが、
手こずりました。
「これ商品か?」というような仕事のモノが1ヶ月かかって納品され、
再度の納品で結局2ヶ月ほどかかりました。
ポスターの取り扱いまでこのようになってしましました。
「画家としてサイトウマコト」は世界的にも一流になっていますが
源流のデザイナーとしての作品も、
圧倒的な存在感を空間に放っています。


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『もう一度絶対逢いたい哲学者・中村雄二郎先生』


   


     11月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

高校時代は「倫理社会」という科目の中で哲学を教わりました。
得意科目で、当時全国では4冊教科書があり担当教諭からもらいました。
だから私なりに美しく仕上げたノートは残してあります。
大学時代は一般教養で哲学があり、覚えている試験問題は「機械とは何か」。
そして福井時代に突然、中村雄二郎先生が福井にまで来ていただきました。
それは私の刃物のデザインを見て、私に会いに来ていただいたのです。
もう大学時代から憧れていた先生だったので、とても驚き感激しました。
先生はデザインそしてグッドデザイン賞の理論的支柱でした。
先生を囲んで勉強会のために何度も上京したものです。
丹後縮緬再生プロジェクトは、先生の指導で2年取り組みましたが、
産地をまとめることが出来ず、先生からも、
「この産地は駄目だから撤収しよう」と終わったこともあります。
東京新聞に先生が連載を書かれることになったとき、
私がそのイラストを先生から、「描いてみなさい」ということで担当。
先生は、フランス語で文章を書かれてそれを日本語にするために、
フランス語キーボードをApple Japanに頼んだこともあります。
明治大学を退任されたとき、美術館や図書館など館長依頼が一杯ありました。
ところが、先生は明治大学退任とともに、
NHKで著名な学者先生とのインタビューで世界を飛び回っておられました。
「先生、そんなに懸命にだと身体を壊します」と言ったこともあります。
最終に教わったのはロボットの「身体論」と「形態論」でした。
これはSONYのAIBOを最終審査をするために教わったことです。
哲学者・西田幾太郎に次いでフランスから認められた哲学者でした。
Apple Japan10周年では、先生が新聞広告でモデルをされました。
しかし、あるとき、先生の歩き方が本当に弱くなり、
先生のショルダーバックのファスナーが開いたままのときに、
私は先生に異変があると思ったのです。
それから入院をされて、もう会えなくなりました。
一時、明治大学に誘われたことがあります。
明治大学の理事からの誘いの時に、
「先生に会いたい」と言ったらもう無理だからそーっとと言われました。
先生は結局、老衰で91歳で逝かれました。
何度も先生のことを書かなければと思いつつ書けなかったのです。
先生の語られる=書かれる「知」はそれこそ今では「哲学領域」にて
随分と先生の書かれたタイトルが引用・借用・盗用されて使われています。
この「術語集」の「あとがき」には、
私のことを紹介とともに書いていただいています。

* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 「緊急課題になった『リトルネッロ論』の再考と具現化」
* 「 Media Integrationは「述語論理」だという確信・6 」
* 「これまで6冊の出版に込めたパターン化」
* 『「真善美」をプラトンに教えられたから生きてきた』


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『「菊と刀」の象徴論があったからこその現実』


   


     8月 29th, 2017  Posted 12:00 AM

まさか自分の人生で、「戦争が?」ということが近々にせまっています。
それは、まさか3.11で日本が壊れるとは!とのごとく、
人生においての予定調和論は絶対に起こらないことを十二分に分かりました。
母はもちろん父もこの現実を知らないで逝ってしまったことは、
ある意味では良かったと思います。
しかし敗戦だったことは負けたら追い込まれていく現実が迫っているのです。
それでも日本には「象徴」を持っていたからこそ、
これまでの日本という国家が生きながらえてきました。
それを「菊と刀」が米国で出版された、その日本人文化論によって
敗戦国家は立ち上がることができたのでしょう。
そして、日本人の寛大さゆえに、戦争を忌み嫌う風潮だけは残すべきです。
もし、韓国に北朝鮮が戦争をしかければ、
米国にはもうそれを押さえつける能力など皆無のはずです。
これまで彼らは世界の警察気取りで戦争をし、
国家を民主国家には出来なかったのです。
朝鮮には南も北も「菊と刀」象徴の文化論などが無いことが
米国との戦争を引き込み、その影響を私たちはまさかでも受けるのでしょう。
若狭郷土博物館で若い頃の経験が重なります。
小浜市の伝統工芸、若狭塗りは下級武士の内職ならば、
絶対に硯箱があったはず、と思って何度かその博物館に通いました。
そうしたら、やっと館長と話ができて、
「あなたが絶対にデザインしないというなら教えましょう」と、
私は鳳足石硯があることを教わりました。
無論、伝統工芸なんでもにデザイナーとして手を出すべきではない、
このことも恩師からは教わっていました。
そして小浜氏の山奥に鳳足石硯を見に行き、
希望もしていなかったのにその硯を売ってもらうことまで出来ました。
それは刀においても同じことが言えるのです。
しかもまったく役立たない刀仕上げが今ではやたら外人受けしています。
が、その見識無きデザインには、私は「菊と刀」が知らしめたごとく、
自分デザインのため、いや日本というもう壊れかかっている国家のために、
デザインを本筋にもどすつもりです。

* 『防衛戦術は敗戦といえども硫黄島からの寛容慰霊』
* 『諦め:自己防衛は不可能になってきた大不安』
* 『大戦学理を超えた平和構築の情勢報告』
* 『米国は壊れてしまっているその追随国家観を捨てよ』
* 『壊れてはならないから鄙美人にレジリエンスデザインを』


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『25000ページを書き残した今ではアーティストの展覧会』


   


     2月 24th, 2017  Posted 12:00 AM

兵庫県立美術館に展覧会を観に出かけました。
館長は蓑豊氏であり、彼は私に21世紀現代美術館(金沢)にて、
大規模な個展をやらせていただき、毎年忘年会をする間柄。
忘年会時に「アドルフ・ヴェルフリ Adolf Wolfli」という人物展だから、
絶対に観ておくといいよ、と聞かされていました。
ワイフの運転で出かけて、すぐに館長室で近況や雑談をして、
展覧会場で、今では作品と言われている、
正直、じっくりと彼自身を知らなければ、とても解説は困難な
作品や、説明のビデオを観ました。
新聞用紙に鉛筆、以後、色鉛筆、コラージュになります。
それも25000ページという膨大さです。
しかも、生涯を精神病院で過ごして、与えられた鉛筆と新聞用紙には、
彼の王国を創り上げることを自叙伝とし、旅行記も地図を読むだけでした。
にも関わらず、5線譜どころか6線譜に作曲を書き記しているのです。
当時のたとえ精神病院と言ってもそれはほぼ牢獄だったはずですが、
彼は自分の絵が商品だと知れば、それを売って地球を買い取って、
彼の考える王国を創る。
そのためには複利計算さえ描いた作品にしているのです。
私が子どもの時に、「綺麗な貼り絵だな」と小学校2年生の頃、
ちょうど福井の百貨店でサイン会もある展覧会に、
母にお小遣いまでもらってでかけましたが、絵はがきを数枚買うと
サインして貰えるというので大人に混ざって並んだのです。
綺麗な貼り絵、その絵はがきに、作家のサインを貰うとき、
私はもう驚いて唖然としたのです。
その作家は山下清でした。彼自身のサインをしてもらい、
どういうわけか、帰宅して母にサインを見せて大泣きしました。
幸い、今回、 山下清、自分の記号的な文字、そして新聞用紙からも、
最初の衝撃は「ジャーナリズム」でした。館長が言ってくれました。
鉛筆だから、どうやって削り出していたのだろうね、と。
精神病の彼にはナイフは無かったから、誰かが削っていたのでしょう。
ともかく、自叙伝には悲惨な事故も記され、
彼の言う王国は、これから作品集を読んでみます。
ひたすら、彼の想像力をサルトルの分析に照らし合わせてみます。

* 「Kaossilator2から音楽と音響の未来が聞こえる」
* 「ビデオアート・現代音楽・オーディオの統合化をめざす」
* 「30-Channel Programmable Stereo Systemは伝統工芸」
* 「徳富蘇峰の評価も忘れられて・・・・」
* 『「学芸員の父」が母校の初代学長・森田亀之助でした』


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『ピンチヒッターで神戸芸術工科大学大学院で特別講義』


   


     10月 29th, 2013  Posted 12:00 AM

兵庫県立美術館・館長の蓑豊氏から電話が入り、
「神戸芸術工科大学大学院の特別講義に行ってくれないか」と、
頼まれました。
蓑氏は、シカゴ美術館中国・日本美術部長から、金沢21世紀現代美術館を
見事に金沢市の大目玉にした人物であり、
2006年に、私はこの美術館でおそらく2度と出来ない、
個展「川崎和男展・いのち・きもち・かたち」が出来ました。
そんな所以もあって、客員教授である蓑氏のピンチヒッターで、
デザイン&アートマネジメントを受け持ちました。
神戸芸術工科大学は、その設立から故・田中央先生が関わられ、
彼には、公私にわたりお世話になったことを想い出しました。
大学では偶然にも、グラフィック界の大御所・杉浦康平先生にも
会うことができました。
大学院サイドから、作品も持参を頼まれており、
「ルーツ」ということで、自分がデザイナーに成ってきた話、
過去の代表作と現在のデザイン作品=商品を見せて話をしました。
この大学院の講義には、一般の方も来られていましたが、
学生からの質問がとても多かったのは久々のことでした。
たとえば、中国や韓国では、
1時間半の講義に質問が2時間を超えるほど活性的ですが、
この大学院では、他大学生、一般からの質問がきわめて、
現代、3.11、原子力、エネルギー、教育まで広範囲でした。
多摩美大にしても神戸芸工大にしても、
私は学生たちには、将来の明確な目標=デザイナーになる!、
この意識の強さを感じます。
比して、阪大などは入学は偏差値に偏るせいか、
未来への職能意識の芽生えがとても遅く感じられるのです。
ともかく、今、国難の最中にあるわが国では、
次・次世代にいっぱい語り伝えることがあります。
だから、私はピンチヒッターであってもこうした講義にも
真剣に真面目に、そして、真実の自分の意見を伝えています。


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「またあちらで会おう、ビル・モグリッジ」


   


     9月 12th, 2012  Posted 12:00 AM

英国のインダストリアル・デザイナーが逝きました。
ビル・モグリッジ氏です。
米国 New Yorkのクーパー・ヒューイット美術館の館長です。
といっても、私にとってはライバルでした。
ID Twoの主宰者、パソコン登場時期の代表的なデザイナーでした。
これからのパソコンデザインの理論と実践の提案をしていた人物です。
したがって、彼とは、パソコンに関してのコンファレンスでは
必ずステージを共にして講演をしました。
Apple社がApple ?からMacintoshを登場させた時期には、
英国デザイナーである彼が率いるID Twoと、
南ドイツ出身のハルトムット・エスリンガーが率いるFrog Design、
そしてNew YorkのSMART DESIGNがデザイン界の本流に居ました。
私は、彼らの提示してくるデザインを常に意識していました。
「インタラクション・デザイン」という概念は、
ビル・モグリッジ氏がデザイン界に示唆した言葉でした。
そして、マグネシウム合金製「GRID」が、
現在のノートパソコンの原型であり、
MoMAに収蔵された最初のPCです。
欲しくてたまらない製品です。
このデザインが彼の作品、この特許回避デザインが、
以後のノートパソコンデザインの方向を決定づけました。
私のAppleへの提案デザイン「Mind Top」は
「GRID」への挑戦的なデザインでした。
彼と講演をする度に、当時はまだスライドでしたが、
作品写真は、いつも、製品を演出する小道具が
とてもオシャレで圧倒されたものです。
彼は、日本にもスタジオを置きたくて、
「Twoは、日本語では何?」とか聞かれて、
「Ni or Fu」と答えたことがあります。
「ID FuだからID Windかな」と私は付け足しました。
それから、彼はあのIDEOの創立者となりました。
以後、音信がとれませんでしたが、Facebookで再会しました。
その時にちょうど、クーパー・ヒューイット美術館の館長就任時でした。
私は、お祝いをFacebookで連絡し、
その美術館には私の壁掛け時計「HOLA」が
「THE DESIGN」でパブリックコレクションになっているから、
必ず訪ねるとメッセージを送りました。
彼の冥福を祈ります。
あの世でもう一度会いたい人物です。


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「蓑豊館長はやっぱりすごいなー」


   


     9月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

2005年、金沢21世紀現代美術館から、
館長が名古屋のスタジオに来ていただきました。
この美術館にはFさんが赴任されていました。
彼女からの紹介があったのかもしれませんが、
「私の美術館全部を使って個展をやりませんか」と言われました。
大驚愕であり、プロダクトデザイナーに展覧会というのは、
とてもわが国では考えられないことでした。
そして、1994年ギャラリー・間での個展、
「プラトンのオルゴール」作品からインスタレーションを
すべて永久収蔵します、とのことでした。
私は「遺作展になっても構わない」という覚悟で、
この壮大な個展に取り組み、2006年76万人が観ていただきました。
金沢21美術館は、年間200万人を集客する国内最大に活性化しています。
蓑館長は、その後、サザビーズで副社長を務められ、
途中、慶応大学で二人で講演もし、食事もする仲良しになれました。
帰国されると兵庫県立美術館館長に就任されました。
兵庫県立美術館では、
脳科学者茂木健一郎氏と対談イベントをしたこともあります。
が、その時はまったく活性化されているとは思えませんでした。
そうしたら、この「超<集客力>革命」を出版されるほど、
この美術館は今や83万人/年・見事に生き返っていました。
おそらく、
日本の美術館のあり方を革新したのは、蓑豊氏と断言していいでしょう。
同じ関西に居ながら、なかなかお目にかかれずにいたところ、
電話をいただき、「君のこと、書いたから」とか、
私も、
「倉俣史朗のデザイン・夢の形見に」に帯文を書いていただいていました。
今回は、県立美術館開館記念10周年に、話をしに来ないかと誘われました。
12月に兵庫県立美術館のイベントを引き受けました。
早く会って、見せたい作品や紹介したいアーティストがいます。
蓑館長なら、
「美術館ほど面白い知的な場」はあり得ないという、
意志決定できる人物です。
「あの作家はダメ、彼はすごい」とか平然と毅然と評価されます。
きっと私の作品のこれはダメとかも言っていただきたいのです。
早く会いたいと思っています。
日本のすべての美術館はもとより、
すべての公的な「場」は、
この本で書かれているシステムに変革されるべきです。


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