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Posts Tagged ‘朝鮮’


『ダマスカス「風」鋼の包丁は、文化包丁でしかない』


   


     11月 1st, 2018  Posted 12:00 AM

大学3年生には東芝に入ることが決まっていたので、
鋳鋼の道具を30本ぐらい、故・N教授から個人的に指導を受けて作りました。
しかし、結局半年あまりかかって作った道具
すべてを盗まれてしまったのですが、
それほど私の道具は素晴らしい出来映えだったのです。
私にとって、青銅文化と鉄器文化には十分な知識がありました。
そのためには、朝鮮の文化史を買い求めたほどでした。
ここには、正倉院とは別個の「かたち」がありました。
青銅文化は朝鮮での文化が私なりには世界一なのです。
そして車倚子になって福井に帰った時に、
産地の鋼をステンレス鋼にするまさかの発想に至るのです。
火造り「蛤刃」として越前打刃物産地の再興につながりました。
今や刃物の産地はそれぞれ活気を取り戻していますが、
最も気がかりな流行があります。
海外のお客さんからの「ダマスカス風鋼」流行り=文化包丁です。
以前から新しい鋼文化の進化のため、
鋼については、ダマスカス鋼が、時に米国のナイフ鍛造を創ってきました。
これは4?5回折り返し鍛錬しますが、
たとえ150回の折り返し鍛錬でも肌身も変わりません。
しかし現代の「ダマスカス鋼」は、
模様を簡単に出すことができる素材からできた「ダマスカス風鋼」で、
火造り鍛造技が全く壊れています。
それは私が文化包丁を辞めようとした
ステンレスで鋼のサンドイッチ鋼板です。
本来のダマスカス鋼ナイフとは異なり、
これはかって文化包丁をやり直しているようなモノです。
文化包丁(2800円?5000円)並の製鋼技術でまるで
伝統工芸の技とは似て非なるものです。
今や新技術が伝統工芸技を壊しているのです。
かって、歴史的な棒鞘の刀=これは武器を製造していた
福井県の鍛造技術や火造り「蛤刃」もやがて無くなってしまうでしょう。
現在開催されている京のかたなー匠のわざと雅のこころから
刀匠の仕事を見てみたいと思っています。


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『「菊と刀」の象徴論があったからこその現実』


   


     8月 29th, 2017  Posted 12:00 AM

まさか自分の人生で、「戦争が?」ということが近々にせまっています。
それは、まさか3.11で日本が壊れるとは!とのごとく、
人生においての予定調和論は絶対に起こらないことを十二分に分かりました。
母はもちろん父もこの現実を知らないで逝ってしまったことは、
ある意味では良かったと思います。
しかし敗戦だったことは負けたら追い込まれていく現実が迫っているのです。
それでも日本には「象徴」を持っていたからこそ、
これまでの日本という国家が生きながらえてきました。
それを「菊と刀」が米国で出版された、その日本人文化論によって
敗戦国家は立ち上がることができたのでしょう。
そして、日本人の寛大さゆえに、戦争を忌み嫌う風潮だけは残すべきです。
もし、韓国に北朝鮮が戦争をしかければ、
米国にはもうそれを押さえつける能力など皆無のはずです。
これまで彼らは世界の警察気取りで戦争をし、
国家を民主国家には出来なかったのです。
朝鮮には南も北も「菊と刀」象徴の文化論などが無いことが
米国との戦争を引き込み、その影響を私たちはまさかでも受けるのでしょう。
若狭郷土博物館で若い頃の経験が重なります。
小浜市の伝統工芸、若狭塗りは下級武士の内職ならば、
絶対に硯箱があったはず、と思って何度かその博物館に通いました。
そうしたら、やっと館長と話ができて、
「あなたが絶対にデザインしないというなら教えましょう」と、
私は鳳足石硯があることを教わりました。
無論、伝統工芸なんでもにデザイナーとして手を出すべきではない、
このことも恩師からは教わっていました。
そして小浜氏の山奥に鳳足石硯を見に行き、
希望もしていなかったのにその硯を売ってもらうことまで出来ました。
それは刀においても同じことが言えるのです。
しかもまったく役立たない刀仕上げが今ではやたら外人受けしています。
が、その見識無きデザインには、私は「菊と刀」が知らしめたごとく、
自分デザインのため、いや日本というもう壊れかかっている国家のために、
デザインを本筋にもどすつもりです。

* 『防衛戦術は敗戦といえども硫黄島からの寛容慰霊』
* 『諦め:自己防衛は不可能になってきた大不安』
* 『大戦学理を超えた平和構築の情勢報告』
* 『米国は壊れてしまっているその追随国家観を捨てよ』
* 『壊れてはならないから鄙美人にレジリエンスデザインを』


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『越前和紙こそ、紙の文化を再活性できるはずだ』


   


     8月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

「紙」は日本の文化の産物です。
それは和紙にその根幹があります。
ところがユネスコ遺産に、越前和紙が選ばれなかったということは、
本来1500年の和紙文化という継承性に対し、
日本の国家の勝手な制限制度によって、
和紙産地はまるで破壊されたようなものだったと思っています。
和紙づくりは越前の山奥で始まったと言われています。
川上御前という女性が突然現れて和紙づくりを教えたという
このような逸話が残っていますが、これは想像です、
多分、飢餓で苦しんでいる山奥の里に朝鮮からの誰かがおしえたのでしょう。
30代の自分は、福井県越前市の山里に「森羅万象悉く紙なり」という
このコピーでオータキペーパーランドという産地ブランドづくりに必死でした。
無念ながら、この産地活性化は成功せずに終わりましたが、
和紙そして紙への知識と見識をデザイナーとして一杯得ることができました。
越前和紙をレンブラントが使っていたということも最近は分かりました。
折角、日本の紙の原点である越前和紙をなんとしても駆使しようという
その動きが出てきました。
そこで、「大学ノート」と言われるいわゆる学習帳面に、
その最高級品で1000年は大丈夫という大学ノートに仕立てた
大学ノート様式の非売品をいただきました。
帳面ゆえ相当に廉価である必要があります。
確かにとても高額なノートもあるだけに、大学ノート仕様では
とても市場性はありませんが、自分自身がアドバイスを考えて、
なんとしても世界に誇れる紙を越前和紙からと思っています。
なにしろ、100円ショップで事足りてしまう大学ノートのままでは
とても商品、その価値創出はほとんど困難であり、最近では石灰からの紙も
そして古紙から10回もリサイクルし、しかも水無しでの紙が創られる時代です。
紙づくりには、水をどれだけ必要とするのかとか、
リサイクル性が要請されています。
それ以上に「書き心地」の大問題があります。
鉛筆、サインペン、ボールペン、筆、万年筆での書き心地です。
そうゆう意味では越前和紙はまだまだこのように一応大学ノートで、
という開発が見えてきたようです。
デザイナーとして最高のアドバイスを与えたいと考えています。

* 『和紙は越前和紙ぬきになぜ語れるのだろう!?』
* 「越前和紙から名塩和紙への悲しい物語り」
* 『納得出来ない日本の伝統技=和紙の切り売りと分断化』
* 『越前和紙に私専用を特注、なぜなら伝統の技能だから』
* 『やわらかい美しさのあるノート』


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『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


   


     5月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

政治思想はすぐに国際関係論という
結局は得体の知れない論理で国際間には軋轢、
そしてそれは戦争に至り、限りない悲しみは歴史汚点になります。
しかし、強靱なまさにレジリエンスな美学的な文化論は
この国際関係論以上の力を有しているのです。
かつて、朝鮮が日本に与えた多くの民衆文化は、
「民藝論」として、その言葉に強力なモノの美学性を与えていました。
柳宗悦によって唱えられた「民藝」という美学論理の核心であり革新は、
有事状況である戦時中に、この美学論理は、
朝鮮文化の象徴である「光化門」の破壊を主目的としている軍部にむけて、
それこそ「ペンは剣よりも強し」を貫いていました。
あらためて「光化門破壊を食い止めた民藝美学論」、
その中心人物であった柳宗悦の「民藝」、
その基盤を再興すべきと考えます。
それは、京都破壊を食い止めた米軍の本土攻撃否定論理と同等です。
つまり、「民藝」として、それこそ「井戸茶碗」を持ち出してきた
陶磁器の歴史は、元来は朝鮮の美学文化を剥奪した野蛮さに対して
日本は「民藝」という名辞とその論説によって御礼を返したということを
もう一度、再認識をしておくべきだと記述します。
青磁があり白磁があり、高台があり、日本の陶磁器は
「民藝」抜きで語られるべきではないということです。
それこそ、ある伝統工芸産地が400周年記念を語り宣伝する前に
「民藝」が護り抜いた「光化門」を語るべきでしょう。
その見識も知識もなく日本の伝統工芸は語られてはならないのです。
柳宗悦の「軍部への絶対抵抗」は、
妻である声楽家柳兼子女史は決して軍歌を歌わない、
という美学が、さらに後押ししていました。
柳宗悦は、恩師・柳宗理の父であり、
柳宗理は「デザインと民藝」への距離感を
確かに教え子の私たちには独学を強いていたと思い出します。
しかし、アノニマスとゲマインシャフトという連鎖を
民藝からデザインへのコンシリエンスを支えている主張は
常にデザイナーの「耳鳴り」になっています。

*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』
*『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
*『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』
*『いつも見かける私の作品はすでにアノニマス』


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『資本主義からの逃走』
「 何がMedia Integrationとなるのか・5」


   


     5月 7th, 2010  Posted 12:01 AM

度量衡

人の心が広いことを「度量が大きい」と言います。
「度量衡」の中で、「量」という概念が、
日本には無かったのでは、ということから、
私は、徹底的にこの「尺度」=これも大きな疑問でしたが、
調べまくった記憶があります。
無論、こうした尺度観は、中国から朝鮮を経て入ってきましたが、
日本では、私はやはり、「度・衡」だったという思いが強いです。
度・量・衡は、度=長さ・量=体積・衡=質量ですが、
さらに、度・量・権・衡で、権=重さを量る分銅を表していると言われています。
そして、この概念と実務は「国家制度」の根幹です。
なぜなら、「税」はこの尺度制度そのものの「政治体制」だからです。
したがって、度量衡とMedia Integrationはやがて、
「社会制度」へ展開することは間違いないと断言しておきます。

さて、度量衡の概念と実際、この基本的な発想は、
「度」という概念をわが国が理解して「量」ということへ
つながっていったのではないかというのが私の独断的な結論になっています。
つまり、「度は長さを測る」ことから始まったと考えることができるからです。
これは、私が「音」からスタートしたデザイナーだったから、
その印象に囚われていたのかもしれませんし、確信しています。
なぜなら、「長さ」を測る基準が何だったか、ということになります。
中国で「黄鐘」=「律管」という笛に心惹かれたからです。

世界的には、「長さ」は、ほぼ五つに分類することができます。
1・「人体から」・腕の長さ、身長、指など
2・「自然物から」・穀物、アワやキビの長さや幅など
3・「道具から」・鋼や糸、結び目など西欧の言葉に残っている
4・「人や家畜の速度から」・日の出の最初の光を見て歩く距離など
5・「物理的なモノから」・ここに私が推測し、現代につながる長さの基本

律管と光

こうしたことから、「度」は長さであり、
長さが分かってから
やっと「量」への概念が生まれたものではないかということです。
なぜなら、私流には、黄鐘=律管で「音」が違えば、
基準を決定する上で、
もっとも、「性能的な尺度観」ができると考えます。
現代、光の速さ=光速というのが長さを決定する基本ならば、
おそらく、「光」はMedia Integrationの基準ですから、
「度」は重要な概念として、
情報の度数は、「光」だと断言できます。
「光」の国家管理・国際管理が制度化するのでしょう。
やや乱暴な記載ですから、
「度量衡」はさらにメモを重ねていくべきだと考えています。


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