kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘距離感’


『4K8K、そして16Kからカメラのフォーカスを』


   


     1月 6th, 2021  Posted 7:42 PM

「デジタル×5G」の時代が到来しました。
私はもはや日常に、4K・8Kから16Kに上がると思っています。
画素数がここまで伸びたのは、ジョッブスの置き土産です。
しかも、総務省によると4K・8Kは昨年には2800万台まで普及しています。
ですが、4K・8Kは「デジタル」ゆえに、すべて二次元です。
そのため私たちのまなざしでは遠近法の表現を正確に受け取れず
「物とモノ」の距離感が感じとれないのです。
ここで、「デジタル」の意義が変わります。
私は、「Io T」は人間を深く読み込んでいないとすら、
読んでいますから、AIも、HUSATがいるのです。
16Kには、私はデザイナーとしてカメラのフォーカスを
ここまでやるかという
画面づくりを望んでいます。
これには、再度、人間工学を超えた発想が必要となります。
さて、今年の正月は、
新たな視聴環境を整えネット配信を種々選択しています。


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『陶器での鼠志野その復活が使い勝手を増やしている』


   


     4月 13th, 2019  Posted 12:00 AM

形態には、大きさ・素材・使い勝手が主要な事項です。
よく、陶磁器と言われますが、
陶器(土)と磁器(石)には大きな違いがあります。
これは陶芸家の若尾利貞氏が美濃焼で「鼠志野」を復活した、
陶器=土を焼いた鼠色に対比した色彩の器の湯呑です。
鼠志野は、エンベリッシュ=embellishであり、
デコレーションやオーナメント=装飾ではありません。
私が、美濃焼をTV番組で紹介する機会があり、
お互い初見は距離感のある「大学人」と「陶芸家」でありましが、
互いの仕事やその姿勢に魅了され交流を重ねた記念のモノです。
若尾氏は、日本では最高ランクの陶芸家であり、
しかも、鼠志野の復元から新たな伝統工芸を
完成させた素晴らしい功績の作家です。
また独自に確立された技法により、
陶器素材には鼠色と対比する緋色が表れるその豊かな表情は、
エンベリッシュだからこそ、新たな使い勝手があります。
陶芸家の「形態言語」としては、最高のモノです

鼠志野


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『kawaiiからわび・さびまでは相当に遠い』


   


     8月 28th, 2018  Posted 12:00 AM

漫画ブームは、ここ数年は日本の文化として、
もう一つの「かわいい」=kawaiiと一緒になっています。
私はそれぞれ「ご当地キャラ」は、土地柄とか、
さらには、なんでもプロジェクトにまでキャラまでがあるという
この時代にあって、私は「かわいい」ということでは、
かなりの批判家でもあります。
Gマーク審査委員だったときから、審査委員にも、
厳しい意見を審査委員でも、「これかわいいよね」ということを
「どこが?」と女性審査委員にも、デザイン根拠を聞きました。
それはなんでもいいから、雰囲気=ムードだけに与える形容詞でした。
おそらくkawaiiが世界語になっています。
それだからこそ、経済産業省でも、日本のあり方はkawaiiが中核です。
私はこれには一家言をもっています。
Gマークでも「かわいい=kawaii」を正確に表して欲しいのです。
Gマークの第一段階に「美しい」ことがありますが、
「美しい」ことと「かわしい」には大きな差異性があります。
かわいい→綺麗→美しいが一番あるのです。
綺麗は形容動詞でなので、美しいこととにはかなり距離感があります。
この写真は確か、多分、空港の本屋で見つけてきた
「クレヨンしんちゃん」なのですが、
これは明らかにたぶん「盗作風」だと思っています。
やっと「クレヨンしんちゃん」のアクセサリー店が東京が出来ました。
マンガ・ゆるキャラ・kawaii・アクセサリーなど、
「美しい」を取り巻くこうした言葉には、
とても「さび・わび」が近づけません。


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01月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 31st, 2018  Posted 12:00 AM

01月31日 友引(癸亥)

視覚は、
何万光年も離れた星を
見ることができる。
体感する距離は
最も遠距離である。

人間の
聴覚や
嗅覚も、

身体との距離感がある。
触覚は、触れる対象との距離感だ。

『プラトンのオルゴール』
体感する為に、音楽と造形の相対化


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『景観の遠景・近景というプロクセミクスデザイン論』


   


     6月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

車椅子の生活を余儀なくされて視覚は全く一定で視野が決定しています。
私は景観=光景・風景・情景のことを明確に伝えてきました。
そしてもっと重要なことは、その距離感の問題です。
具体的には、近景と遠景があります。
しかし「デザイン思考」程度で喧噪なプロのデザイナーやデザイン教育者、
彼らのように「コンシリエンスデザイン」を学ばない者には、
もはや未来のデザイン論や観と感を語ること、それは不可能です。
今夜見せるのは阪大附属病院のレストランから大阪市内の近景(左)と
遠景(右)にはアベノハルカスが見えます。
このレストランは大阪の有名ホテルチェーンですが、
私は常に注文料理がもう10年も変わっていませんからすぐに伝わります。
さてそこで重要な問題意識から問題認識の問題です。
それは「プロクセミクス」=距離感覚をまずデザイン界に投げかけてからも
全く意識いや認識されてきませんでした。
認識論では距離感の認識に対する知見性がデザイナー自身にあるかどうか、
これが大きな問題であり、それはデザイン思考では絶対に語れないのです。
改めて具体的にプロクセミクスを定義化すれば、
それは、親近感・親密感・親和感が、
モノとデザイン、だからこそ、
コトのデザインにもあるかどうかと言うことです。
その以前から景観としては、光景・風景・情景があります。
景観は景気に経済学的に連鎖していて、
原意としての、光景=自然の乾坤、光と闇、陰陽。
風景=日食・月食・彗星・雷鳴(暴風雨):自然と人間。
情景=人間と人間の人工物関係です。
こうしたコトを踏まえたモノとの関係。
この関係論としての距離感覚であるプロクセミクスはデザイン教育論は皆無。
これがデザイン界での大問題であり、
コンシリエンスデザインを私は打ち立てました。
いつも立ち寄る阪大病院のレストランからの近景はかつての世界万博跡地、
そして遠景には吹田から望める大阪市内が見えます。
この景観を覧る度に私は改めてプロクセミクス=Proxemicsを
これから強く主張していかなければなりません。

* 「スープの冷めない距離=身体空間は多次元性です」
* 「生老病死・身体空間性を見失うとき」
* 『新作007・ボンドカーでも確認できた曲線美』
* 「桜の花のピンク色・阪大吹田キャンパス」
* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


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『二等辺三角形の点と辺:線の配置から要素と要因』


   


     4月 25th, 2017  Posted 12:00 AM

正三角形は仏教的には存在しない、ということを私は全否定をして、
正三角形を造形言語とし企画書図解に応用してきました。
その正三角形には4つの配置を基本にしています。
そこでさらに、その配置から一つを取り出してみれば、
三つのグラフィカルなレイアウトを例示することが出来ます。
bとcを要素として、点aに統一されたとするなら、
b-cとaが近接しそうとするなら、
そしてb-cの距離:これは要素bと要素cは要因の距離感を表しています。
これとは対照的にb-cのセンターから、
点=要素aは、近づいているbとcが
aに統一される要因の最短距離もしくは最短時間、費用を示しています。
私たちは欧州的な三位一体ということに慣れ親しんでいることで、
金剛三乗や阿弥陀三尊の配置、その要素と要因を知りおくべきでしょう。
とりあえず金剛はダイヤモンドの具体名であり、
鋭利な武器を具体化することで、
抽象的には知恵の要素を3つとし、
なおかつその要素の連鎖性を3つに要因化しています。
デザイナー諸氏には、変形、特に二等辺三角形の4つの配置を
金剛乗的な思考方法の図解化です。
正三角形と二等辺三角形は思考の要素と要因、これらの配置が、
造形言語になることを私は再度提示したいと考えた結果です。

* 『アナログの極致=レコード再生のカートリッジ』
* 「カレイドスコープ=万華鏡というレトリック」
* 『負のサイクルを即刻停止させるデザイン』
* 『パノラマ的な拡大は詳細を見詰めることだ』
* 『曼荼羅図に「思」と「考」を配置して論理を確認する』


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『民藝というレジリエンスデザインの源流は光化門にある』


   


     5月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

政治思想はすぐに国際関係論という
結局は得体の知れない論理で国際間には軋轢、
そしてそれは戦争に至り、限りない悲しみは歴史汚点になります。
しかし、強靱なまさにレジリエンスな美学的な文化論は
この国際関係論以上の力を有しているのです。
かつて、朝鮮が日本に与えた多くの民衆文化は、
「民藝論」として、その言葉に強力なモノの美学性を与えていました。
柳宗悦によって唱えられた「民藝」という美学論理の核心であり革新は、
有事状況である戦時中に、この美学論理は、
朝鮮文化の象徴である「光化門」の破壊を主目的としている軍部にむけて、
それこそ「ペンは剣よりも強し」を貫いていました。
あらためて「光化門破壊を食い止めた民藝美学論」、
その中心人物であった柳宗悦の「民藝」、
その基盤を再興すべきと考えます。
それは、京都破壊を食い止めた米軍の本土攻撃否定論理と同等です。
つまり、「民藝」として、それこそ「井戸茶碗」を持ち出してきた
陶磁器の歴史は、元来は朝鮮の美学文化を剥奪した野蛮さに対して
日本は「民藝」という名辞とその論説によって御礼を返したということを
もう一度、再認識をしておくべきだと記述します。
青磁があり白磁があり、高台があり、日本の陶磁器は
「民藝」抜きで語られるべきではないということです。
それこそ、ある伝統工芸産地が400周年記念を語り宣伝する前に
「民藝」が護り抜いた「光化門」を語るべきでしょう。
その見識も知識もなく日本の伝統工芸は語られてはならないのです。
柳宗悦の「軍部への絶対抵抗」は、
妻である声楽家柳兼子女史は決して軍歌を歌わない、
という美学が、さらに後押ししていました。
柳宗悦は、恩師・柳宗理の父であり、
柳宗理は「デザインと民藝」への距離感を
確かに教え子の私たちには独学を強いていたと思い出します。
しかし、アノニマスとゲマインシャフトという連鎖を
民藝からデザインへのコンシリエンスを支えている主張は
常にデザイナーの「耳鳴り」になっています。

*『教え子で得をしたことがあります。・・・』
*『民藝へのアンコンシャスビューティを再熟読』
*『藝と醫を略字化したことは本質を見間違える!』
*『強固なるゲマインシャフトからデザインは生まれる』
*『いつも見かける私の作品はすでにアノニマス』


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『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』


   


     12月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

「力」という概念は「ち」と「から=空」だと考えています。
そして「力」の概念は単純にはベクトルで一つの理解点ができます。
ベクトルには、作用点・大きさ・方向があります。
そこで、医学と工学で作用点から医学と工学の合力ができます。
この合力の大きさはストレートにすでに「医工連携」になります。
同様に、文系と理系の合力が「文理融合」というわけです。
そこで、これらそれぞれの作用点に「デザイン思考」を置いて、
あたかもそれぞれの合力は、学域を拡大力化して大きな効果、
すなわち、イノベーションとなって変革・革新をしてくれるという
そのような錯覚あるいは錯誤感を与えていることは間違いありません。
これは私自身も「力」を概念化して発展的な希望論にするときには
利用・運用可能な手法であることは間違いありません。
こうした「力」=作用点・大きさ・方向はニュートン的な合力形成です。
私はこれが明確な誤りだと断言できるわけではありません。
しかし、「力」の概念が進化していることをさらに深度を深める必要を
私自身デザイン手法であるデザイン思考そのものの
進化と深化を提唱します。
あらためて、この図示を見比べてほしいと考えています。
二つのことに気づいて欲しいのです。
医学と工学で確かに「医工連携」力が出来上がります。
これにデザインが加わるとするなら
医工連携とデザインでの方向が必要です。
さらに、文系と理系で「文理融合」が出来あがり、
これにデザインが関与した場合の論理は生まれていません。
そこからが今年4月からの私のミッションでした。
そこで、この合力にそれぞれデザインとの合力では
「何がデザイン」になっていくだろうかがテーマでした。
つまり、「デザインとは何か?」ということの要素や要因が浮かびます。
これはすでにニュートン的な力学での合力である、
それこそベクトル的な論理では無理なことが明らかになりました。
そして私のミッションである合力ベクトルでの「力」は、
ニュートン力学から量子論的な力学での、
「強い・弱い、いずれかの相互作用」と
「重力」と「電磁力」のメタファー的な力学を関与することが必要でした。
相互作用は距離感や学域の効用効果の範囲を決定します。
同様に、重力的なことは時代性の影響力であり、
電磁力は、経済と文化と歴史がフレミング的な影響力を与えると思います。


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『デザインは解である』


   


     8月 26th, 2015  Posted 12:00 AM

私はデザインの本来の意味として、
通常の理解である装飾性との距離感を主張してきました。
デザインと言えば、大きな誤解が薄く張り付いています。
一つがデザイン=装飾性がファッションデザインに起因し、
もう一つが機能的とかシンプル性が、さもデザイン核心という話です。
デザインはその造形によって「答」を出す実務です。
それゆえに「答」には、三つの「答」があるという深度性に及びます。
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solutionの三つの答を出すことであり
最もデザイン力が発揮されるべきは、問題解決に集約します。
私はデザインが問題解決であることから、
最も的確に説明を与えるには「解」という象形文字を例示します。
象形文字であることから角ある牛に刃物でこの文字は構成されています。
そこで解決には三つの段階が明快になってきます。
解体・解剖・溶解するなりして対象を分解することから始まります。
次にはその分解された要素を一つずつ、解釈・解説をして理解をします。
この理解によって、人は納得をして解放されるということになります。
さて、そこで問題は、答それぞれにはどこに装飾性や機能性が、
一般の理解では、デザインによる解放感は得られません。
デザインが応答的や回答的なことであれば、
論理性を欠いた機能性は説明がとても困難だと言えます。
現在のわが国の産業でのものづくりが、応答や回答ではとても、
国際的な競争力を持つことはできません。そのまま経済に反映します。
私は、問題解決によって、性能性と効能性が完備され、
ようやく機能性を確保できることを、教育・研究・開発に伝え、
デザイン実務で、人間は解放されると主張してきました。
その解放とは、「美しさ」が解答の造形であるモノとコトというのが
私のデザイン=解の結論です。


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「この技術はデザインによって大変革の時期がきた」


   


     8月 19th, 2013  Posted 12:00 AM

鏡面平板にキーボードをデザインしました。
Mac用には「Touching Feedback Keyborad」は実現しました。
しかし、すでにkeyboard入力に終焉をつけたと思っています。
もはや、映像照射されたキーボード入力にFeadbackが実現します。
かつて、触覚フィードバックをHAPTICと呼んでいましたが、
すでにこの言葉は企業名になりましたから、使えません。
だからと言って、この企業の技術進化はストップしています。
あらためて、触覚フィードバックは、
鏡面平板のキーボードからも解放されなければいけません。
つまり、技術進化の方向はデザインが一つの結論を出しました。
それは、空中に存在する映像=バーチャルな文字入力、
この入力時に「触覚フィードバック」が可能になってきたことです。
私はあらゆるキーボード、タイプライターからPCまでの、
きわめてエポック的なキーボードを使用してきましたが、
結論は、バーチャル的文字盤とその触覚性能でした。
私はこれらの技術進化をするのは「デザイン先導」だと思います。
まさしく、先般も米国との打ち合わせの中では、
デザインによる技術進化が求められその意味を実感した次第です。
現在、この映写技術には距離感があります。
この距離感を瞳孔距離と一致させれば、モノは消滅するのです。
必要な技術は「触覚フィードバック」と、
その使い勝手ユーザビリティに見合った相互性能性です。
すなわち、インターラクションデザインでの方向性提示です。
結局、最も重大なことは、技術進化を促すデザイン先導力。
そして問題はデザイナー自身の技術認識力になるでしょう。
確かに、インターラクションデザインは、
プロダクトデザインの大きな一分野になっていますが、
この力量が、websiteに反映されているだけでは無意味です。
是非とも、デザイナー自身がバーチャル領域での、
基本的なインターラクションとフィードバック感覚、
これらの実感的認識をモノの世界に持ち込むことだと思います。
たとえば、車の運転においても触覚フィードバック車両開発は、
国際的にも遅れていることは事実です。


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