kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘乾坤’


『景観の遠景・近景というプロクセミクスデザイン論』


   


     6月 12th, 2017  Posted 12:00 AM

車椅子の生活を余儀なくされて視覚は全く一定で視野が決定しています。
私は景観=光景・風景・情景のことを明確に伝えてきました。
そしてもっと重要なことは、その距離感の問題です。
具体的には、近景と遠景があります。
しかし「デザイン思考」程度で喧噪なプロのデザイナーやデザイン教育者、
彼らのように「コンシリエンスデザイン」を学ばない者には、
もはや未来のデザイン論や観と感を語ること、それは不可能です。
今夜見せるのは阪大附属病院のレストランから大阪市内の近景(左)と
遠景(右)にはアベノハルカスが見えます。
このレストランは大阪の有名ホテルチェーンですが、
私は常に注文料理がもう10年も変わっていませんからすぐに伝わります。
さてそこで重要な問題意識から問題認識の問題です。
それは「プロクセミクス」=距離感覚をまずデザイン界に投げかけてからも
全く意識いや認識されてきませんでした。
認識論では距離感の認識に対する知見性がデザイナー自身にあるかどうか、
これが大きな問題であり、それはデザイン思考では絶対に語れないのです。
改めて具体的にプロクセミクスを定義化すれば、
それは、親近感・親密感・親和感が、
モノとデザイン、だからこそ、
コトのデザインにもあるかどうかと言うことです。
その以前から景観としては、光景・風景・情景があります。
景観は景気に経済学的に連鎖していて、
原意としての、光景=自然の乾坤、光と闇、陰陽。
風景=日食・月食・彗星・雷鳴(暴風雨):自然と人間。
情景=人間と人間の人工物関係です。
こうしたコトを踏まえたモノとの関係。
この関係論としての距離感覚であるプロクセミクスはデザイン教育論は皆無。
これがデザイン界での大問題であり、
コンシリエンスデザインを私は打ち立てました。
いつも立ち寄る阪大病院のレストランからの近景はかつての世界万博跡地、
そして遠景には吹田から望める大阪市内が見えます。
この景観を覧る度に私は改めてプロクセミクス=Proxemicsを
これから強く主張していかなければなりません。

* 「スープの冷めない距離=身体空間は多次元性です」
* 「生老病死・身体空間性を見失うとき」
* 『新作007・ボンドカーでも確認できた曲線美』
* 「桜の花のピンク色・阪大吹田キャンパス」
* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


目次を見る

『四句分別にある明解な「的」は曖昧性を強化する』


   


     11月 15th, 2016  Posted 12:00 AM

「やさしい」という日本語には観自在性があります。
それは「優しい」と「易しい」であり、
この峻別が曖昧にされていた時代がありました。
これは道元的な「四句分別」が必要と行き着いたことがありました。
観自在=思考闊達な想いと思いに、ある意味ではYesかNoかについて、
日本人にはどちらか明確にという世界的な風潮がのりかかりました。
しかし、私はこれを日本の仏教、特に禅宗的な道元思想の中で、
観自在に潜む曖昧性への積極化を「的」という表現に込めたことがありました。
その当時には、思想界においてもこの論理を中村雄二郎先生に
徹底的教えていただいたという幸運がありました。
安全だけども安心はできないことと安心だけど安全だとはいえないこと。
信頼はできるけど信用はできないことと信用はできるけど信頼はできないこと。
主観的だけど客観性があること、客観的だけど主観性が入り込むこと。
私は日本の、YesだけどNoでもあることは、NoではあるがYesということ。
おそらく、日本独自の哲学だから、白か黒かと迫られても、
グレーが存在すること。
こうしたことから、「やさしい」ということにおいては、
優美という決して目立ってはならない優しさある美と、
容易だから易しいだけで美も無視されていることにおいても、
日本人にはこの思考思潮、この重要性を見つけました。
自分の生涯での思考だと、未だに迷っていると言わざるをえません。
けれども「四句分別」で乾坤の生と死を見詰めていると判断しています。

* 『ロボットという玩具?・ロボットはおもちゃか?』
* 『わが哲学の恩師・中村雄二郎先生』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『思考の「考」は思うことを経験が判断する』
* 『コンセプトから逃走してほしい・・・』


目次を見る

『セシウム除染もデザインが深く関与すべきだ』


   


     10月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

この袋は私のふるさと福井で製造されています。
名前はフレキジブルコンテナバッグ=フレコンバックが通称です。
このバッグには、あの除染された土が詰め込まれています。
放射能でのセシウム除染が行われた結果、これは風景ではなくて光景です。
風景の原意は彗星・雷鳴・日食・月食の気候条件が自然に及ぼす景観です。
光景とは、陽と陰、生と死、乾坤の景観を言います。
ちなみに情景は自然と人間が存在している景観です。
ところであの除染必至の現地では除染ということへの信用は確実に失われ、
除染どころか移染=セシウムを取り除いたのではなくて、セシウム汚染場が
移動されただけという評判があることはもはや周知のことです。が、
デザインでもこの問題解決を絶対テーマにするべきだと考えてきました。
今、ようやく、新しい除染・完璧にセシウムの放射線濃度を
0.2μシーベルト程度にと、その素材と除染パッケージを
フレコンバック、そのモノ・素材と工程の開発を狙っていました。
ようやく、その方法論と素材・梱包・回収・蓄積のデザイン実務が可能かも、
だから、もうこの領域に、デザイナーが取り組んでいることを
ここで明確に発表することにしました。
あの人災でしかなかった原子力発電所の永久封鎖も、
デザイナーとエンジニアがやるべきことだと主張してきました。
絶対にデザインが不可欠です。
確実の○○○○効果を運用した「範原発」のための除染デザインです。

* 『中国の月面着陸ロケットの思惑・範原発を!
* 『意識して見つめたい「光」を』
* 『脱原発などありえない、範原発への期待』
* 「景観への精神状況がそのままファッションに連鎖している」
* 「『風景』とは天地異変のシグナルだった」


目次を見る

「『ち』は知の草書体になった理由に神髄がある」


   


     9月 26th, 2013  Posted 12:00 AM

私は海外では必ず日本語のことばにこだわります。
特に、「ち」です。
血・地・稚・値・置・治・千・致・智・恥・・・・、
と限り無く、言葉=漢字とその意味の多用性に大きな意味があり、
「ち」は草書体での「知」に他なりません。
人体はとち・つち・まちにあり、血が知から智にまで至ります。
こころは、から=空であり、ところは=所であり、ちから=力。
なるほど、こころ+ち=心地を形成しています。
私が、3.11の復興計画=までいProjectも、
とち+つちに重きを成し、よって、まちの居心地をデザインです。
こころ+ちからも、結局は「空」の世界であり、
天地は乾坤を無し、
それに、人間は血から知への人生を持つのでしょう。
「空」と「知」こそ、力なのかも知れません。
その力の限りに智が宿るのかもしれません。
私は、かたち・きもち・いのちを、つちととちとまちに求めます。
かたちが創り上げるのはここちになることも純粋理解可能です。
私は「かたち」を生涯の目標にしてきました。
40余年やりつづけてきて、辿り付いたら、結局、心地・良さ。
心地良さをきもちに入れて、3度、いのちの端に佇みました。
そして、かたちを身体=血は、
いのちのきもちに「知」がありました。
「芸術の知性と科学の感性」ある人物を敬愛します。
それこそ、いのち・きもち・かたちからここちを教示するのです。
したがって、まち・とち・つちに人は帰るのでしょう。
だからこそ、失われた、痛みきったつちに新たな心地を設計です。
私の「ち」は、限り無く「智」を求める「知」だと思います。


目次を見る

「太陽・二つのアナロジー物語・その2」


   


     5月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
わが国日本、最初の神話神です。
最近はほとんど忘却していますが、
日本人は「お天道様」、
この日常的守護神に信仰がありました。
太陽がやはり中心です。
その太陽から天地への光と影、光景とは乾坤=天地・陰翳を意味、
この伝承が日食・月食・彗星・雷鳴風雨を風景としました。
この光景と風景に、人と人の関係が情景という景観です。
この景観あってこそ、景気が世情を繁栄させてきたのです。
すべからく太陽を中心としてきた日本の伝統的な伝承神話物語、
それらは、太陽中心主義から生まれてきた日本の経世済民です。
そして先進的宇宙説は科学的な太陽解釈にまで至りました。
太陽表面は核融合と核爆発により、放射能を地球にまで放射。
それこそ太陽の恵みの全体像、
たとえば光合成が地球の生命を育んでいました。
私たちにDNAをも制御してきたのです。
こうした科学が、技術に統合されたとき、
それは歴史の現実、武器としての原爆の発明につながります。
その世界で唯一の原爆被災は日本です。
よって、Atoms for Peace思想は技術立国の大きな期待となり、
米国の支配関係の中での国家目標となりました。
そして今や「原発の安全神話」は崩壊しました。
地震大国、プルサーマル計画、核廃棄物、原爆トラウマ、
そして今回のフクシマ原発事故は決定的に信頼感を失いました。
まさに、太陽表皮の科学的解釈をそのまま具現化し、
太陽への信仰心をそのまま「安全な」という形容動詞で包み込み
「安全神話」としてきた大失策になりました。
光輝く日本列島から53基原子力の光が消えようとしています。
しかし、私は科学と技術の間の神話性、
そのアナロジーはソーラーパネルの寓話性と同一だと見ています。
パッシブソーラーとアクティブアトミックは、
もう一度、科学的立脚点を同次元で見直し、
安全・安心・信頼・効率・そして「人間制御」の新たな手法を
根本からやり直す必要こそ日本のテーマになったとさえ思います。
人類と自然との新たな文明パラダイムを新規化することです。
人類が生き延びていくエネルギーの確保は、
科学技術構造にもう一度、命がけで取り組むべきことであり、
私は、「反原発」・「脱原発」での再生エネルギー観を懸念します。
なぜなら、やはり超然たる自然の制御こそ、
さらに慎重真摯さが人類の義務だと考えるからです。
「脱原発」という幻想物語の氾濫=パニックと観察しています。
私は「脱却解解放パニック」として、
原子力をもう一度新生させる義務を感じるのです。
すでにこれから数万年もの責任放棄こそ原罪だと思うのです。
原子力技術のさらなる進化には、
あらたなコンセプト発想でのデザイン設計が不可欠。
この確信は、太陽に寓話性・神話性からこそ抜け出して、
「新生物語」の核心に原子力を再配置することこそ、
自然エネルギー観への対称性になるものと確信するのです。
太陽へのこれまでのアナロジーを具現化することこそ、
新生エネルギー開発の健全な科学技術構造だと思っています。

目次を見る

『資本主義からの逃走』
    「景観にあるエネルギー、その根源に原子力」


   


     6月 18th, 2010  Posted 12:00 AM

景観
景観は三つあります。
「光景」・「風景」・「情景」です。
「光景」は、乾坤に光ある世界は「生と死」があるのみです。
この世界は創造神によって創られたという伝承が歴史の始まりとなっています。
「風景」は、
日食・月食・彗星・雷鳴風雨という自然と人間の世界にほかなりませんから、
風景観に、自然神への畏敬が生まれたと考えるべきなのでしょう。
そして、「情景」です。
「情景」は人間と人間とが織りなす関係性の場面です。
この世界に神は存在していません。
「情景」には、性悪と性善が交錯し、
人間関係の景観にほかなりません。
性善だろうが性悪であろうが、エネルギーの対決が景観となって「情景」です。
このやりとりを「情報」だと言ってもいいでしょう。
「情景」でのエネルギーは、隠喩としての人間の活力であり、
直喩としての人間関係力になるものと判断します。
そこで、「風景」のエネルギーは、
すべて「自然力」、それも恐怖ゆえに畏敬するべき力に他なりません。
さて、それならばあらためて「光景」の力のエネルギーは、
すでに枯渇寸前の化石燃料でもなく、
これまでの水力発電、火力発電ではないことになってきました。

光景に向かわせる原子力

乾坤世界へ、神をも怖れぬ科学がたどり着いた「原子力」は、
「光景」に向かっている人類の知識の総結集です。
果たして、人類は、「風景」に抱いていた畏敬をも忘れ、
「光景」に、原子力というエネルギーの利用へと進み出しています。
私は、「景観」から得られるエネルギーと「景観」に反抗するがごときエネルギーを
バランス感覚で見詰め直さなければならないと考えます。
「原子力エネルギー」は、
本来、創造主によって生み出された「光景」に差し出す「祈り」と「願い」、
その知恵で有るべきでしょう。
震えるほど怖い「原子力エネルギー」に、
もはや、人類は「救い」を求めなければならなくなってきたことは確かです。

デザインという知恵の対象

私は、景観=光景・風景・情景に原子力エネルギーを、
推進派でもなければ、反対派でもない立場から、
デザインという知恵が
「祈り」、「願い」、それは「救い」を求めることになるのだろうかと熟考じてきました。
結論は、「デザイン」から「原子力エネルギー」に取り組んでみようと考えます。
「デザインが原子力エネルギーと、どう対応していくか」を
まっすぐ差し出してみます。
それは、「光景」に「祈り」・「願い」・「救い」の作法を
デザインで組み立てるべきであることを問いかけてみるつもりなのです。


目次を見る