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Posts Tagged ‘経世済民’


6月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 14th, 2020  Posted 12:00 AM

6月14日 友引(戊子)

『文学としてのデザイン』

経済が経世済民ではなかったことに気づいた今、いきなりデザインを文化のカテゴリーで包括するのはあまりにも知恵が無い。

artificial heart:川崎和男展


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『独裁性と自由主義と民主主義を守るために』


   


     5月 21st, 2020  Posted 7:36 PM

ペスト、コレラ、スペインかぜと感染症100年周期説につながる
「新型コロナウイルス」の猛威に、長期戦での感染症対策の公衆衛生と
「新しい生活様式」を政権が提唱しています。
「アフター・コロナウイルス」の「経済」活動は
元通りになるということは起こりません。
様々な問題点の対象は、自由主義と民主主義です。
民主主義では、49:51ゆえには、もっと規則が必要です。
それこそコロナの「生物兵器」説を私は調べていますが、
もはや「兵器」となる情報操作、ネット世論操作が、
SNSのようなインフラを通して民主主義を壊しているとも考えています。
コロナという生物兵器と、SNS等への情報兵器が、
第3次世界大戦での主力であり、
すでに起こっているのではないでしょうか。
「新しい生活様式」で、オンライン化が進む一方で、
「ボット」「トロール」「サイボーグ」などを、
これはズーッと私はすでに「エイジェント」と
F-FORMAで提案をしていました。
広告出稿、インフルエンサーと作戦がすでに無くなっているのです。
私としては、私を非難する川崎ボットなどの出現や、
SNS上での個人戦は経験済みであり、必ず、闘っていましたが。
独裁政権、政権維持や、侵攻、侵略のための、
ネット世論操作が、自由主義の大原則である
言論や表現の自由といった基本的人権を庇う民主主義の国から
拡大したSNSに「兵器」として様々な作戦をしかけているのです。
法規制も、法の罰則も無いインターネット追いつかないままに、
中華的「独裁性」との「経世済民」との闘争になるでしょう。


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『この実例に世の中の無責任でいいかげんさが表れている!』


   


     12月 11th, 2014  Posted 12:00 AM

駅舎の屋根裏に、それなりに機能実装をしていることですが、
まるで、やっつけ仕事であり、
この設計担当者には確実に教育を受けたはずですがやりきっています。
確かに、必要な現代性的技術表現はかなっているだろうし、
ホームを利用している人間も気づいて無視を決め込んでいるのです。
せめて、コード類のカラー表現ぐらいするべきでしょう。
この配線などどうでもいい人間には、無視で構わないでしょうが、
私には許せない。絶対に許せないのダ!と叫びたいほどです。
電柱の電線もこれに等しく、ただ張り巡らせばいい、それが賃金仕事。
それで「構わない」仕事だ、という風潮が間違っていると思います。
この風潮を正すことは、重い仕事だと思っていて、疲れ果てました。
経済とは経世済民を略した、いい加減さがあり、
経営とは、経世済民運営をもっと略して経営なのでしょうか?
いえ、経営とは金儲けの手段にしてしまった貧しさにしたのです。
そんな経営者ばかりが脱税など才能と言い張っています。
貧しさとは、この屋根に取り付けられた配線函そのものです。
日本には、武士道があり、食わねど爪楊枝の真意、極意にまで、
我々が生涯を賭し近づくために生きのびて死を迎える哲学でした。
この哲学に貧しさこそ美学、美学ゆえ貧しさは誇れることでした。
さて、この配線函は貧し過ぎるはずです。これが象徴なのです。
これは「フツウ」なことでしょうか?
フツウが美しいわけはないのです。
フツウの取り違えは、平気で盗作を行います。そんな制度は許せません。
いい加減な連中が、ブームだ、流行だと喧騒化を仕掛けています。
こんな仕事を選ばなかったことは本当に幸運でした。
私は躊躇無く、正視することができます。
正視できる幸運さがあるから、この配線函すら許せません。

『私の大疑問は電力というエネルギーへの不配慮』


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「太陽・二つのアナロジー物語・その2」


   


     5月 17th, 2011  Posted 12:00 AM

「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
わが国日本、最初の神話神です。
最近はほとんど忘却していますが、
日本人は「お天道様」、
この日常的守護神に信仰がありました。
太陽がやはり中心です。
その太陽から天地への光と影、光景とは乾坤=天地・陰翳を意味、
この伝承が日食・月食・彗星・雷鳴風雨を風景としました。
この光景と風景に、人と人の関係が情景という景観です。
この景観あってこそ、景気が世情を繁栄させてきたのです。
すべからく太陽を中心としてきた日本の伝統的な伝承神話物語、
それらは、太陽中心主義から生まれてきた日本の経世済民です。
そして先進的宇宙説は科学的な太陽解釈にまで至りました。
太陽表面は核融合と核爆発により、放射能を地球にまで放射。
それこそ太陽の恵みの全体像、
たとえば光合成が地球の生命を育んでいました。
私たちにDNAをも制御してきたのです。
こうした科学が、技術に統合されたとき、
それは歴史の現実、武器としての原爆の発明につながります。
その世界で唯一の原爆被災は日本です。
よって、Atoms for Peace思想は技術立国の大きな期待となり、
米国の支配関係の中での国家目標となりました。
そして今や「原発の安全神話」は崩壊しました。
地震大国、プルサーマル計画、核廃棄物、原爆トラウマ、
そして今回のフクシマ原発事故は決定的に信頼感を失いました。
まさに、太陽表皮の科学的解釈をそのまま具現化し、
太陽への信仰心をそのまま「安全な」という形容動詞で包み込み
「安全神話」としてきた大失策になりました。
光輝く日本列島から53基原子力の光が消えようとしています。
しかし、私は科学と技術の間の神話性、
そのアナロジーはソーラーパネルの寓話性と同一だと見ています。
パッシブソーラーとアクティブアトミックは、
もう一度、科学的立脚点を同次元で見直し、
安全・安心・信頼・効率・そして「人間制御」の新たな手法を
根本からやり直す必要こそ日本のテーマになったとさえ思います。
人類と自然との新たな文明パラダイムを新規化することです。
人類が生き延びていくエネルギーの確保は、
科学技術構造にもう一度、命がけで取り組むべきことであり、
私は、「反原発」・「脱原発」での再生エネルギー観を懸念します。
なぜなら、やはり超然たる自然の制御こそ、
さらに慎重真摯さが人類の義務だと考えるからです。
「脱原発」という幻想物語の氾濫=パニックと観察しています。
私は「脱却解解放パニック」として、
原子力をもう一度新生させる義務を感じるのです。
すでにこれから数万年もの責任放棄こそ原罪だと思うのです。
原子力技術のさらなる進化には、
あらたなコンセプト発想でのデザイン設計が不可欠。
この確信は、太陽に寓話性・神話性からこそ抜け出して、
「新生物語」の核心に原子力を再配置することこそ、
自然エネルギー観への対称性になるものと確信するのです。
太陽へのこれまでのアナロジーを具現化することこそ、
新生エネルギー開発の健全な科学技術構造だと思っています。

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「建築家よ、吟味すべし仮設住宅建設を」


   


     4月 28th, 2011  Posted 12:49 AM

大震災からの復旧・復興は未だ大間違い。
復旧や復興の大前提が叶えられていません。
まだまだ「救援」と「救済」が不可欠です。
救援とは「援護」であり、
救済とはまさに「経世済民」=「経済」復活です。
救援救護の具体策は、「仮設住宅の建設」でしょう。
30000戸が必要と報道されていますが、
「仮設住宅」ではありえず、
私は「佳設住宅」であるべきだと考えてきました。
しかも、この住宅建設に確かなチェック機構があるのでしょうか。
確かに、屋根材であるガルバニウム鋼板屋根は、
プレハブリケーション工法としては、安価かつ合理性を認めます。
しかし、TV報道画面で見ている限り、
あの屋根材の基礎工事が釈然としません。
吸音素材と断熱・断水素材は省略されているはずです。
すぐに撤去させるからということも推測できます。
だとするなら建設と撤去費用を考慮すれば・・・・・?何か変。
壁面のパネル工法も半世紀前の技術そのままだとしか見えません。
住設設備も時代遅れ製品群ばかり。
市町村が仮設住宅地を設定し、
地権者の承認(これが膨大であったり)を求め、整地をし、
それからインフラである水道・電力送電を県承認受けるという、
この手続きをどうして「超法規化」できないのでしょうか。
どうして、建築職能家たちは「佳設住宅」を提案でもいいから、
発言も行動もありません。
しかも、「仮設住宅建設」事業の既得権益は、
全くチェックされていないと見ています。
ひょっとして、これからの国策的復興事業には、
復興事業に関与するすべてにわたって、
既得権益制度を「なんとか族」なる代議員たちの集金装置・・・。
私が名辞する「仮設」ではなく、
「佳設住宅」とはSmart Houseであり、
そのまま「まちづくり」を意図した企望です。
建築界の正当なまなざしを期待しています。

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『資本主義からの逃走』
  「マスカレードとして、ペルソナとして、
  日本株式会社だったのか」


   


     11月 6th, 2009  Posted 10:00 AM

ロシア革命に、日本も相当に荷担していました。
さらに、ロシアを敵対した日露戦争は、
真逆に、
私はソビエト連邦の共産主義を強化したようです。
1917年から1991年にソ連は崩壊しました。
おおよそ75年間の共産主義が終わった、
と言っていいでしょう。

そこで、私の見解は、
1991年12月25日のソ連崩壊は、そのまま、実は、
資本主義の勝利だったわけではない、という見解です。
ソ連崩壊とともに、対峙し対決してきた資本主義も、
終わってしまったのです。

むしろ、なんとか、資本主義では不可能であり、
共産主義では、ある種、
共産主義という宗教観にも似た制度では不可能という
その中庸性である社会主義的な
社会主義性を再考するという思考拡大が
世界観として、資本主義先進国家はできなかった、
ということに気づくべきだったのではないでしょうか。

そこには、
民主社会主義と言ってみたり、
自由民主主義での社会的公平性の不可能さを
世界観が、避けてきたのではないかとさえ、
私は思います。

私は、日本が資本主義を標榜していたのも、
敗戦での後遺症だったと思うのです。
「日本株式会社」は、「社会主義」を隠匿し、
隠避していた仮面国家が、発展したのです。

仮面劇・マスカレードとしての
「資本主義国家・日本」、
だったのではないでしょうか?

あるいは、
仮面・ペルソナとしての
「社会主義国家・日本」、
そのマスカレード・対・ペルソナを
見事に演じた民族性が
連綿としていたのではないかと私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「現代アートの象徴性からデザインでの創生へ」


   


     10月 28th, 2009  Posted 10:38 PM

資本主義の崩壊は、1927年に「予見」されています。
それは、「大恐慌」の2年前のことです。
それから20世紀の戦乱となり、冷戦につながりました。
共産主義・社会主義・資本主義・民主主義という
理念の崩壊は、1970年代からだと私は思っています。
なぜなら、時代変革の「予見」は、経済学・哲学などよりも、
「現代アート」にもっもと端的に、象徴されているから、
感覚、感性で「予見」の正当さを理解できてしまうのです。

その「予見成立」の理由は、単純明快にまとめられます。
ひとつ、「南北問題」、とてもなつかしい言葉です。
ひとつは、「宇宙船地球号」。
もうひとつが、「コンピュータ」です。
ともかくこの三つを置き換えると、

● 先進国と途上国の貧富格差とあらたな民族紛争。
● 地球環境問題、温暖化やCO2やサスティナビリティ。
● パソコンとインターネットでの情報意識社会化。

ということになるでしょう。
二つの現代アートが象徴しています。
まず、地球を象徴化した作品と、
tomas-saraceno・Universes in Universe : Tomas Saraceno

人間の生命を象徴化した作品です。
rafael-lozano-hemmer・Pulse room : Rafael Lozano-Hemmer

地球は、まさしくwebsite=蜘蛛の巣のように、
情報に包み込まれているのです。
包まれているのではなくて、
「包み込まれている」ことにこそ、
時代認識の象徴がある。
その時代認識は、
資本主義と民主主義に包まれているのか、
「包み込まれている」のかということは、
大きな差異があるということになります。

そして、
もう一つの、観客である人間の生命をそのまま、
脈拍を電灯の点滅で具体的に感じ取らせつつ、
空間、それは地球でしょう。
そこでの「自己の存在性」を再認識させる作品です。
私は、この二つの現代アートに具現化されている
「包み込まれている」という認識は、
ただただ、それこそ、Bottom of the Pyramidの
トップゾーンの1億人だけが、現代文化として、
平和に、いや平然と受け入れることが可能です。

結局、
「地球に存在、生きているすべて」の人々が、
認識=包み込まれているわけではありませんから、
そこに、資本主義って?、民主主義って?ということ。

「包み込まれているすべて70億人の認識」には、
決してならないとするなら、
Bottom of the Pyramidの根本や基盤や理念は、
再創生されるべきではないかと私は思います。

私は現代アートの象徴性を読み取りながら、
再創生のデザインがあるべきだと考えているのです。
しかし、哀しいかな、現代アートが示しているのを、
理解し、さらに「予見」できるのは、
トップゾーン1億人の中の、一握りの人たちだけです。


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『資本主義からの逃走』
 「資本主義という経済・済民という民主主義」


   


     10月 11th, 2009  Posted 5:00 AM

「資本論」との距離感をより明確にしていくには、
「経世済民」という
四字熟語にその理念は
詰め込まれているのではないでしょうか。

「経済」という語は、
中国東晋(w)の書「抱朴子・外篇」葛洪(w)から
発せられた言葉だと言われています。

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「経世済民」=世を治め民を助ける、
という意味から考えれば、
「経済」は略語です。
略語では、意味そのものを部分解釈に
押し詰められて、拡大解釈を意図したものになりがちです。
だから、
要は、価値の貨幣的、労働的、階級的なシステム化に、
切り詰めた意味の短縮化は、意味の解説が誤解されるはずです。
それこそ「資本主義という直・経済システム」の領域限界語と
なってしまうことは仕方ありませんでした。
この領域での意味づけだけでは「済民」を決定づけられません。
そこで思考と手法・理念と手続きに
「民主主義」は理に重なったのでしょう。
「抱朴子」と前述した三つのヒントから、
私は、さらに、自分が読みあさってきた書物から、
「私という日本人としての原点」はどこか、
それを問い直し、原点回帰が期待できると考えてきました。


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