4月 15th, 2021 Posted 12:00 AM
4月15日 赤口(癸巳)
『誌論としてのデザイン』
現代、
ジャーナリスティックに
饒舌に記述され語られる
「かたち」が、
生活誌に安定した存在感を
与えないのは、
この態度、
多様性を収集したなかから
生み出されたモノの歴史に
ラジカルなモノが
余りに少ないからだろう。
artificial heart:川崎和男展
Tags: かたち, ジャーナリスティック, モノ, ラジカル, 収集, 多様性, 存在感, 安定, 川崎和男のデザイン金言, 態度, 歴史, 現代, 生活誌, 記述, 誌論としてのデザイン, 饒舌
Posted in APHORISM
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4月 14th, 2021 Posted 12:00 AM
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4月 13th, 2021 Posted 12:00 AM
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1月 17th, 2011 Posted 12:00 AM
応用・対応性と用途性
デザインが「応用美術」。
それなら「応用科学」が技術。
単純にこの断言から意識と意思の吟味をします。
ともに「応用」という対応性と用途性に注視することです。
「応用」とは、適応されたデザインなり工学の「多様性」を目論んだ、
ある種の社会的な制度化につながっていることは明白です。
特に、20世紀には、デザインも技術も産業・経済への大きな見返りが期待され、
なおかつこの応用は資本主義を最も支援したのかもしれません。
しかし、「応用」が社会的な善であったことは、
もっとも科学と技術への批判は原爆に象徴された懸念、
つまり、2度にわたる世界大戦と人類存続への問題意識になり始めました。
これは今なお最大の難問です。ついには1970年頃からその反作用としての公害や、
地球資源のあり方が科学と技術への問題意識として国際的にも共有されはじめました。
それでも、たとえば石油や化学的な応用から原子力などに対しては、
自由主義経済機構は、科学と技術の応用、その有効性や社会制度上では、
どのような非難や反撃も抑制してきたことは事実です。
応用ゆえ多様性にならず
デザインに至っても、まさに「応用芸術」でしたし、
産業デザインが大量生産と大量消費を完全に裏付けていたことも事実です。
私はひとまず、Art・Science・Technology・Engineering、
この四つの領域をインクルーシブすることで、
「応用」の革新が出来ないだろうかをテーマにしてきました。
私がデザイナーであるがゆえに、
「応用」の中心をデザインにし、なおかつ、「応用の拡大」をめざしています。
ただし、「応用の拡大」が「多様性」に連鎖しているとは思っていないことも付け加えておきます。
Tags: 1970年頃, Art・Science・Technology・Engineering, インクルーシブ, 世界大戦, 人類存続, 公害や地球資源のあり方, 原爆, 問題意識, 多様性, 対応性, 応用, 応用の拡大, 応用の革新, 応用科学, 応用美術, 産業・経済への大きな見返り, 用途性, 社会的な善, 自由主義経済機構
Posted in 063 「多様性」, 資本主義から逃走せよ!
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1月 5th, 2011 Posted 12:00 AM
民主主義の再熟考を
現代、普遍的正当性の言葉。
国際的な正義観のある言葉。
それは民主主義という行動原則性と理念です。
この民主主義には「多数決」という制度が確立しています。
しかし、私はこの言葉・原則・制度・国際的正義性に対して、
果たして「本当なのだろうか」という疑念懸念があります。
最大多数の最大幸福の下意識主義用語として、
私は再熟考すべきだろうと思いつつも、
これを超越する哲学理念が創れるわけでもありませんが、
とりあえず、この言葉に包括されている私自身の存在については
いくつかの懸念性は書きとどめたいと思っている次第です。
多数決と多様性
その一つに「多様」という言葉があります。
多様は、「多様性」と「多様体」という視界が映っています。
単純に言えば、
「多数決」とは、あくまでも「最大公約数的」な結論がベースとなった、決定論です。
しかし、「多様性」も「多様体」も、「最小公倍数」までを包括しています。
明らかに、「多様であること」は「多数決=民主主義」への再考性を投げかけています。
無論、
「多様性」、「多様体」という言葉=術語と主義主張への決定論用語には差違があるのですが、
少なからず、私は、「民主主義」と「多様性」から重ね合わせた思考の時代が、
今世紀の新たな「思考核心」の一つだと考えています。
Tags: 下意識主義用語, 哲学理念, 多数決, 多様, 多様体, 多様性, 普遍的正当性, 最大公約数的, 最大多数の最大幸福, 最小公倍数, 正義観, 決定論用語, 理念, 疑念懸念, 行動原則性, 術語, 言葉・原則・制度・国際的正義性
Posted in 063 「多様性」, 資本主義から逃走せよ!
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12月 23rd, 2010 Posted 1:44 AM
ユーザーという三人称
三人称は、人々や人達のことです。
デザインの使い手の三人称、
それはユーザーや生活者と呼びます。
私は生活者とは呼ばずに、ユーザーと呼ぶことにしています。
理由は私なりのこだわりですが、いずれということにします。
さて、三人称である人=ユーザーの期待や希望は推測はできますが、
確信をもって彼らの価値観は分かりません。
しかも昨今の価値観は「価値感」と表現した方がいいほど、感覚的です。
しかも、価値感という言い方は現代的な表現です。
むしろ価値観というある種の呪縛が資本主義によって、
私たちすべてが洗脳されて価値感されてしまったのかも知れません。
価値の多様性など幻想
だから、価値の多様性などがあるというのは、
あってほしいという社会的、世界的、あるいは民主的な幻想にすぎないとさえ思っています。
私がもっとも懸念するのは、三人称であるユーザーを分別することが、
とても曖昧模糊になっているということです。
それなら、三人称であるユーザーに明確な区別が実は肝心であり、
それがまさにInclusiveとExclusive を定義づけると考えているからです。
それはInclusiveとExclusive入れ替えが起こっていることに無頓着になり、
Inclusiveを「包含してる」という安易な邦訳で定義していることにつながっています。
私は、「除外する」とか「独占する」ということが、
実は重大な意味性を指摘しておきたいと考えています。
商品の差別化
端的にいえば、デザイナーが「商品の差別化」というのは、
明らかにExclusiveな領域を設定しているということです。
Tags: Exclusive, inclusive, 三人称.ユーザー, 価値感, 価値観, 包含, 品の差別化, 多様性, 感覚的, 独占, 生活者, 除外
Posted in 060 「インクルーシブデザイン」, 資本主義から逃走せよ!
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10月 14th, 2010 Posted 12:00 AM
空間認識として
身体空間という一つが空間認識を指しています。
身体空間・空間認識いづれも小難しい表現ですが、
自分と空間との関係性あるいは構造性のことです。
空間認識というのは物の存在と自分の空間での位置、その物との関わり方に他なりません。
要はその物との距離と方向で認識することで、
物理的に、自分の体=身体がいわゆる空間のどこに位置しているかを認識できます。
この認識できる力があることから、身体空間と呼んでいます。
私は、デザイナーだから、ユーザーが私のデザインしたモノとの関係は、
結構、レトリックとして多次元的で多様性があるのだと思っています。
それは、E.T. Hallが言い出したプロクセミクス=proxemicsが整理してくれています。
ここから、レトリカルな日常感覚での身体空間、さらにはモノと身体の関係性が明快です。
彼は、「人間と人間とがどんな接触をし、その距離の取り方」を
本当にうまく分類したと思ってきました。
プロクセミクス=proxemics
● 密接距離(愛撫・格闘・慰め・保護する距離感覚)
● 個体距離(常に他者との分離していいる自己感覚的な距離感)
● 社会距離(社会的な用件を果たそうとするだけの距離感)
● 公衆距離(公的な場でとるべき距離感)
スープの冷めない距離
そして、今ではこれらもある種の情報の介在によって、
感覚、たとえば触覚や視覚などが操作されることで随分と変質してきていると思います。
よく「手のとどく空間」という言い方があります。
これは「スープの冷めない距離」という言い方にも通じます。
結局、「多次元」という言葉が、数学や物理用語を超えて多様な意味の拡大をさせてくれます。
だからこそ、回帰して数学での次元性や物理的な次元性を確認すればするほど、
身体空間という、距離と方向がレトリックにそれこそ肌感覚に捉え直すきっかけになります。
その動機づけこそデザインの大きな役割だと思っています。
私は、親近感・親密感・親和感と言いかえることで、
これらそれぞれの多次元性と多様性をデザイン造形にしています。
そして、今ではもっと重大な身体空間に行き着いています。
Tags: E.T. Hall, proxemics, スープの冷めない距離, プロクセミセス, レトリック, 個体距離, 公衆距離, 回帰, 多様性, 密接距離, 手のとどく空間, 物の存在と自分の空間での位置, 社会距離, 空間認識, 肌感覚, 親和感, 親密感, 親近感, 距離と方向, 身体空間
Posted in 054「多次元性への造形思考」, 資本主義から逃走せよ!
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7月 24th, 2010 Posted 12:00 AM
見過ごすデザイン?
正直、これがデザインされているのだろうか、
というモノが本当に氾濫し始めています。
私はすでに60歳を過ぎてからは、「見過ごすように」しています。
当然ながら気持ちは分断されます。
「明確に言うべきだ、いや見過ごそう」という二分化が内省で起こっています。
ただし、デザイン教育の現場で自分の教え子には、
「ここがデザインではない。デザインという大誤解がある」という理由を
説明し指導しておきます。
それは次世代には伝えるべきだと思うからです。
デザインはどうしても「感覚」で捉えられます。
したがって、私も価値感の多様性については、
「あってしかるべき」態度は正確に保持しています。
しかし、「デザイン価値がたとえ付加価値として目指されてことであっても」、
デザインの本質が問題解決や、新たな文化構築ではなくて、
破壊しようとしていることや、
迎合がみえみえのモノは、
デザインではなくてデコレーションという一言で片付けることにしています。
デフレスパイラルで、デコレーションをデザインと呼ぶモノが増殖しています。
でも、デコレーションといっても、
いわゆる加飾の極致である「絢爛豪華」なモノは、充分に受け入れます。
大誤解
さて、デザインの大誤解は二つあります。
▼ Simple is bestとless is moreのはきちがい
▼ Appropriation的が現代デザインだという非見識
この二つを、最近は見過ごすようにしています。
しかし、私が尊敬するデザイン界・学識界・美術界の先生方に、
自分はこうしたモノはデザインでは無いと考えますが、という質問をすれば、
必ずこうした大先輩も同じように「見過ごし」ておられます。
私もそろそろ、信頼する学生や次世代デザイナーには「聞かれたら正確に解答」する、
そんな態勢と態度になりたいと考えるわけです。
それでも、そんなことが出来ない自分がやはり存在しているようですから、
これを「実作デザイン」で具現化創造に、と意気込んでいます。
Tags: Appropriation, ess is more, Simple is best, デコレーション, デザイン価値, デフレスパイラル, はきちがい, 二分化, 付加価値, 価値感, 内省, 問題解決, 増殖, 多様性, 大誤解, 感覚, 文化構築, 氾濫, 破壊, 見過ごす, 迎合, 非見識
Posted in 039「デザインは全体価値」, 資本主義から逃走せよ!
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4月 29th, 2010 Posted 12:05 AM
Media?Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。
ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。
価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。
Tags: CPU, integration, KazuoKawasaki, Media, media integration, Media→Tool, Networking, Tool, Tool Integration, Tool→Media, TV, TV番組, アイコン, コンピューター, パソコンから自動車, ブランド, わからないモノ世界, 不必要, 使い方, 使用観, 価値, 価値性, 価値観, 価値観の多様性などは起こっていない, 共時的, 内在性, 分別, 励起現象, 可変容性, 多様性, 存在性, 川崎和男, 年齢, 必要感覚, 所有感, 日常性, 日常的, 楽しみ方, 自分の表現, 自分らしさ, 興味, 視覚認識性, 資本主義からの逃走, 連鎖性, 革新, 革新されたモノ, 顕示性, 高齢化
Posted in 025「Media Integration」, 資本主義から逃走せよ!
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4月 24th, 2010 Posted 12:01 AM
Aldusの存在
情報化時代、あるいはメディアのスタートに戻ってみます。
グーテンベルクにまで遡及してみます。
特に、日本ではメディア、その原点は印刷技術の発明が、
もっともよく語られてきました。
私は、グーテンベルクの存在をやはり大きく認めています。
しかし、グーテンベルクの印刷技術がハードウエアだとすると、
実際的には、
印刷していく形式の要素そのものを変えた人物の存在です。
この存在が忘れられていることです。
その人物とは、アルドゥス・マヌティウス
だと私は思ってきました。
正直、彼を知ったのは、DTPのソフトウエアで、
PageMakerが出てきたときに、初めて知ったのです。
そして、グーテンベルクは
いわばメインフレームのコンピュータを発明したような人物であり、
パソコンのように、モバイルの書籍や、ページや書籍形態から、
書体のバリエーションなど、形式の要素開発を成し遂げた人物だったのです。
パソコンとともに、DTPではPostScriptが登場して、
印刷技術は、レーザープリンターによって、
パーソナルな出版が可能になりました。
メディア・インテグレーションは、
この印刷方式の大変革が大きく作用していたのです。
つまり、アルドゥスになりうる人たちが、
どんどんとパソコン環境を変革してきたことだと思います。
メディア・インテグレーションにとって、「新しい形式」は、
その形式をさらに高密度にしていく要素開発と要素の多様性、
さらに小型化し、携帯できるということです。
こうした意味でも、アルドゥスの存在は、
グーテンベルクとともに語られる必要があったのです。
今、私たちが、メディア・インテグレーションにおいては、
マスメディアに多様性が皆無であり、モバイル性能などの
形式の多要素化とその高密度性が不可欠だということを、
印刷技術の歴史から、
もう一度、確認として学び直しておく必要があると、私は考えています。
Tags: Aldus, DTP, OS, PageMaker, PostScript, アルドゥス・マヌティウス, グーテンベルク, コンピュータ, ソフトウエア, ハードウエア, ページ, マスメディア, メインフレーム, メディア, メディア・インテグレーション, モバイル, モバイル性能, レーザープリンター, 人物, 印刷, 印刷技術, 多様性, 存在, 小型化, 情報化時代, 書籍, 書籍形態, 発明, 要素, 資本主義からの逃走
Posted in 025「Media Integration」, 資本主義から逃走せよ!
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