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Posts Tagged ‘手法’


『レジリエンスデザインを熊本に差し出す』


   


     4月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を次世代デザイン手法として
取り組んできました。
Consilience=Con+silienceから、
ParasilienceとMetasilienceに論理展開を拡張しました。
それにはもっと重大な課題回答としてのResilience Designの実現があります。
地震大国であることは3.11で国民すべての経験になりましたが、
5年経過して、忘却の風潮にあったところで、
九州・熊本ではとんでもない大地震が、それも連続しています。
熊本の後輩はじめ友人たちは無事でしたが、
九州と言っても熊本の事態はとんでもなく、 
3.11の経験や教訓だけではとても対処できる天災ではありません。
レジリエンスデザインを教えている大学はほんの僅かです。
ある大学でその研究費が認められましたが、
「レジリエンスデザインって何ですか?」と聞かれたぐらいです。
人間の精神的強靱力をさらに向上させる、ということを
一言で言いきれば「ストレス=心的障がいを乗り越える」という
この問題解決をすることです。
レジリエンスデザインチーム」で、熊本・九州を支援する程度ですが、
3.11とは全く異なる事態が発生しています。
このチームを創ったら、いくつかのデザイン系大学から
参加の申し込みが来ています。
これは都市計画・建築・環境、そして自然と人工の問題があります。
それだけに、安全と安心、防犯と防衛が関わってきています。
とりあえず、websiteやFacebookなどのSNSでこの展開を開始しました。

*レジリエンスデザインチーム
*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『減災・防災・救災のために』
*『世界中が・March.11.2011ならば・・・』
*『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』


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『パノラマ的な拡大は詳細を見詰めることだ』


   


     4月 13th, 2016  Posted 12:00 AM

視覚として四方八方に視点を動かすことを
目配りが優れていると言います。
特に少林寺拳法では「八方目」といい相手やその周囲に目配りの技法です。
この目配り技法によって相手の攻撃を防止するとともに、
相手からの防衛法を先んじることが出来ます。
四方八方という視界を拡大する手法は18世紀末に回転画、
パノラマ=panoramaと呼ばれ、
一つの思考空間とすることが可能です。
これはより大きなパノラマ空間に
アスペクト比:画面に比率を与えることです。
目配りする空間の比率には、集中画面への焦点化が必要になります。
それは大画面に集中点=焦点を設置すれば、
全体把握とともに詳細部位把握が必要になります。
パノラマ的な思考とは、
「神は細部に宿る」
あるいは、「尺は寸よりも短し」=僕の先祖宮大工の言い伝えです。
つまり、パノラマな空間はその比率毎それぞれの画面に、
細部や詳細性への目配りになるわけです。
これは単純な焦点というよりは、concentrationという
集結性や収束力をもたらす結論=思考結果になると考えます。
本来、回転画という画面設定であったことから、
四方八方への目配りとは、
まさしく、人間が周囲=環境への「知」とその経験を
より拡大出来るかが問われています。
というよりは、四方八方への大胆な目配りが、
実はもっと詳細に隅の隅まで熟慮と吟味を重ねるということを
意図しています。
この意図ある思考方法を「パノラマ的な手法」と
呼ぶことが出来るということです。

*『絵画に惚れることの重大さ』
*『専守防衛が鉄則ゆえに護身効果大の手法あり』
*『最も、障がい者の存在を描いた画家』
*『コンシリエンスデザイン学域の統合図解』
*『乞食=こつじきの地になってならない! 造形美の神社』


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『空間へのdolly的な隠喩性という手法』


   


     4月 11th, 2016  Posted 12:00 AM

コンセプトからの発想はすでに限界があります。
僕は「ライン」=lineという概念・観念・文脈の
統合的な手法を提案しています。
まず、その最初に「Scope」という思考空間の設定を行います。
現在のスコープはプログラミング言語としても、
変数や関数、言い換えれば変動、変異、関係、関与性を定義していますが、
それは思考空間を視覚化していく隠喩性の表現です。
まず、思考はどこ「から」どこ「を」を対象にしているかということです。
それは視点がふたつあることを示しています。
どこからというeye-pointがあり、
どこをみているかというview-pointがあります。
ところがこの点と点は視線:あたかも眼差しというview-lineができます。
そしてこの眼差しを動かしていくことをdollyという言葉を手にいれました。
dollyはComputer Graphicsで新しい用語になったのだと思います。
これは僕自身がトロント市でCGのトレーニングで
初めて知って驚愕したのです。
これは視覚化を一つの隠喩として、
聴覚・触覚・臭覚・味覚という感性に
性能と効能と機能を設計し企画・計画デザインになります。
以上のことからも、明確に思考空間・感性空間・論理空間、結局は空間への
接近性の定義化と考えていいものと思います。
手法として、デザインがモノ空間あるいはコト空間を
スコープはきわめてライン的な発想を隠喩として、
定義化そのものを変動:dollyさせていると考えています。

*『視覚空間は存在しないことを認識する必要がある』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』
*『デザイン対象としての空間に出逢う』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『やはり「かたち」に、これがデザインの鉄則』


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『イラスト・漫画はデザインスケッチでは無い』


   


     3月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

デザイナーにとってスケッチは明らかに一つの技能であり技術です。
ただし、僕は恩師・故柳宗理先生からは、
「レンダリングなんぞ上手くなるな」と教えられましたが、
僕はいつも反抗していました。
「レンダリングが描けないと企業入社は出来ない」と
たてついていましたし、実際はクラス(工業デザイン専攻)の中では
基本的な入試でのデッサン力も無くておそらく最低の下手くそでした。
だから社会人になって、レンダリングが上手くなることは
僕には義務でした。
実際、フリーランスデザイナーになってからも、
デザインスケッチとラフレンダリング、レンダリング技能を
日課として
自分精進の大きな目標でした。
それからパソコンの登場では、Macintosh 128kに、デザイナーの未来、
つまり、MacPaintとMacDrawに将来のデザイナー技能が見えてきました。
多分FullPaintで僕自身がトレーニングをして描いたのが
パソコンでのレンダリング、その最初のものだったと考えています。
今では、iPad Proで、かなり描ける時代になりましたが、
パソコン、EWSでのレンダリングソフトは全て追いかけてきたと思います。
しかし、最近はデザイナーがスケッチ技法での大きな間違いがあります。
簡単に言ってしまえば、
デザイナーにとってのスケッチ、それからレンダリングというのは、
あくまでもデザインスケッチであり、
その基本はデッサンでも「デザインストローク」での訓練が必須です。
それは、いわゆるイラスト描法でも、まして漫画描法でもありません。
なぜ、イラストや漫画では「デザインスケッチ」にはならないかを
書き残しておきたいと考えます。
すこぶる簡単です。
イラストにしても漫画にしても、そうした描画、特に漫画には
画枠があるのです。
つまり、画枠内でのイラストや漫画では、デザインの根本である
「発想の限界」を与えてしまうのです。
発想に限界を絶対に与えない手法である技能=技術がデザインスケッチでは
必ず求められなければなりません。
私はたとえばモレスキンにしても蛇腹の「ジャパニーズスタイル」を使い、
パソコンやiPadであれば、画面を相当に大きく拡大して使います。
デザインスケッチでは、
決して限界を与える画材や手法は使うべきではありません。
レンダリングを全否定していた故柳宗理先生には
描画に与えられる画枠からの解放を教示されていたのです。


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『商品である「デザイン思考」は経営論にすぎない』


   


     3月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考=Design Thinking」は米国IDEOの商品です。
しかもこの商品は経営論の手法をそのまま商品化したにもかかわらず、
大学のカリキュラムに影響を与え、それを輸入した国家の大学にも
大きな影響を与えて、流石にIDEOのデザイン商品は成功をしました。
しかし、経営論にも関わらず、あたかも経済論として語られた
「イノベーション」は吟味されることもなく、
浅薄な知識人だけではなく、「実績の無いしかもデザイナー人」にまで
デザインの未来論のごとく宗教論化していることを嗤わざるをえません。
かつて、オックスフォード大学とIDEOと大阪大学大学院・私の研究室で
あるプロジェクトに取り組んだことがあります。
それは私のデザイナー責務にかけた「素材論」でもの別れになりましたが、
その時以来、IDEOらしさの仕事は見当たりません。
経営論でイノベーションを語っても仕方の無いことです。
が、「デザイン思考」では経済論で万一、イノベーションを語ったなら、
それは嘲笑されることになるでしょう。
経営論と経済論は
まるで異なっていることすら知らないデザイナーは不必要。
Design Twoから出発したIDEOで
今なお故・ビルモグリッジ氏が生きていたなら
この経営論である「デザイン思考」は
決して商品にはしていなかったはずです。
やがて「デザイン思考」が決して「イノベーション」を生み出すことは
絶対にあり得ないことが証拠だてられるでしょう。
実績ある革新的=イノベーション足る商品の経営論には
「デザイン思考」の逆説が見事に表現されています。
その最大の理由は、
イノベーション=出発はドイツ語のコンバイネーション、
「新結合」という経済論では、
必ず、「資本主義社会は破綻する」という結論を出していました。
「新結合」と言ったシュンペンターは1928年にこの予測を立て、
1929年には「大恐慌」が始まるのです。
そしてこの大恐慌が世界大戦を引き起こすことになるわけです。
僕は商品化された「デザイン思考」の代表作を読んでみて、
大恐慌とともに第三次の世界大戦にならないことを
心から願っています。
デザイナーなら、デザイン手法では思考を重ねているはずです。
にも関わらず、デザイン自らが商品化された「デザイン思考」に
これこそ待ち望んでいた手法と言いだし、
これに寄りかかっているのを見るとき、
彼らは元来才能が無かったことを自明しているのです。


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『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


   


     2月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」は米国のデザイン会社の商品であり、
それがそのまま大学教育に持ち込まれました。
そのまま、日本は早速、大学教育とビジネス経営論という商品化を実現。
これが今ではすっかり流行になっています。
もちろん、権威づけられたかのような「デザイン思考」も
専門家からみれば、この手法での成功例はまだありません。
私は、「コンシリエンスデザイン」という実際は歴史ある言葉から
「コンシリエンス」と「レジリエンス」を捉え直して、
看医工学の基本概念に「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」を
大阪大学大学院の医学系研究科に設置しました。
この設置にあたって概念整理の中では、
これまでの大きな概念がすべからく
後退していくことを追いかけてきました。
たとえば、Concept、Communication、IoT などは
やはりまだまだ20世紀を引きずってきた言葉、用語、あるいはすでに
デザインを取り囲むラングになっていると判断評価しています。
特に、Innovationなどは、元来の原意すら押し曲げられていることに
私は明確に気づくことができます。
それは「コンシリエンス」とともに意識されてきた「レジリエンス」に
全く新たなデザイン手法が当てはまりそうです。
確かに、これはまだまだパロールかもしれませんが、
新たな次世代手法の創造になっていると確信しています。
それはいつのまにか、何でもかんでも「ストレス」ゆえに、
健全性を創出する現代性病態は不況因にもつながっています。
「ストレス」に十二分に対抗出来うる強靱さは「レジリエンス」であり、
そのデザインこそ「コンシリエンスデザイン」が果たしていくこと。
これがより明快になることを「KK塾」で一般化してきました。
「コンシリエンスデザイン」はConceptでは語らずに、
これはLineで統合的かつ学際的な概念化が可能になります。
ストレスの呪縛から解放されることはWired offの情況を配置し、
まさにMagic Balletであり、No Brainerなデザイン、
つまり、「思考」=Thinkingという浅薄さではありません。
問題解決を成し、価値=望ましさと好ましさを創出し、
そして、未来を創成していくデザインの本質を手法化することこそ
「コンシリエンスデザイン」が明確に浮かび上がってくるわけです。
少なからず、Concept、Communication、Innovationからの解放こそ、
GroovyでCoolな次世代デザイン手法であり、
それは経済を超えた文化の体系創造に直結していることです。


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2月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 16th, 2016  Posted 12:00 AM

2月16日 先負(戊辰)

権威と権力には、
真の影響力行使がある。
それは、横暴で乱暴さを
より強調して
権威否定と
権力破壊を
成し遂げるという手法である。

川崎和男の発想表現手法


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『まず、ニュートン的力学の隠喩としてのデザイン』


   


     12月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

学術と芸術が分離あるいは分担されてきた教育、
このわが国の教育システム・制度の歴史はとても長いと思います。
幸いにして、私は学術と芸術、それも芸術に派生してきたデザインを学び
プロのデザイナーになることが出来ました。
人はいずれ長じれば自分の職能的な経験値を伝える使命と義務があります。
このことは、すでに大学の恩師達には分かっていたのかも知れません。
私が想像もしていなかった交通被災で車イス生活を余儀なくされた時、
恩師たちからは、大学に戻れと言われ、その大学を辞した時には、
別の大学で、教育系では情報デザインとデザインを、建築系でもデザイン、
こうした教育側の訓練を受けていたのでしょう。
私が大学人を選んだ時には、「やっとその気になったか」と納得を受け、
大学人とデザイナーとして今日を迎えています。
そして、芸術と学術、文系と理系の融合化統合化によって、
私は「コンシリエンスデザイン」と「レジリエンスデザイン」を知り、
デザインを看医工学に焦点化した時には、
学域のデザインは人間の社会と時代、生涯に向かいました。
結果、健康と福祉は「命」=生きることを支えることを明確にしました。
これは私が芸術=美術大学時代の教授達が今なお私に、
プロとしてのデザイナー、その経験に基づく新たなデザイン、
その手法を発見させて、次世代への教育目標を創らせたのでしょう。
私は素直にニュートン的なベクトルの合力によって、
作用点に人間の思考・知識を置いて、その合力が人間に向かえば、
明らかに、健康と福祉が命を支えていること、
この支援力には、
レジリエンスという、例えば自然や社会からの
抑圧に抵抗する力をレジリエンスデザインとし、
レジリエンスデザインを充分に知り尽くしているからこそ、
コンシリエンスデザインが人間の支援力になるということを
明確に確認させてくれているのです。
学力・デザイン力を「コンシリエンスデザイン」とし、
まして私は、身体障害者であり心臓障害者ゆえに
「命」とデザインの関係を相反させて伝えていく使命と義務があるのです。
そして、すでに、このニュートン的な力、合力だけではなくて、
量子力学的な相互作用的、重力的、電磁力的な隠喩としての
新たな「コンシリエンスデザイン」を定義して、
次世代デザインを提唱していくことになるでしょう。


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『ベクトル論理では「何がデザインか」となる』


   


     12月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

「力」という概念は「ち」と「から=空」だと考えています。
そして「力」の概念は単純にはベクトルで一つの理解点ができます。
ベクトルには、作用点・大きさ・方向があります。
そこで、医学と工学で作用点から医学と工学の合力ができます。
この合力の大きさはストレートにすでに「医工連携」になります。
同様に、文系と理系の合力が「文理融合」というわけです。
そこで、これらそれぞれの作用点に「デザイン思考」を置いて、
あたかもそれぞれの合力は、学域を拡大力化して大きな効果、
すなわち、イノベーションとなって変革・革新をしてくれるという
そのような錯覚あるいは錯誤感を与えていることは間違いありません。
これは私自身も「力」を概念化して発展的な希望論にするときには
利用・運用可能な手法であることは間違いありません。
こうした「力」=作用点・大きさ・方向はニュートン的な合力形成です。
私はこれが明確な誤りだと断言できるわけではありません。
しかし、「力」の概念が進化していることをさらに深度を深める必要を
私自身デザイン手法であるデザイン思考そのものの
進化と深化を提唱します。
あらためて、この図示を見比べてほしいと考えています。
二つのことに気づいて欲しいのです。
医学と工学で確かに「医工連携」力が出来上がります。
これにデザインが加わるとするなら
医工連携とデザインでの方向が必要です。
さらに、文系と理系で「文理融合」が出来あがり、
これにデザインが関与した場合の論理は生まれていません。
そこからが今年4月からの私のミッションでした。
そこで、この合力にそれぞれデザインとの合力では
「何がデザイン」になっていくだろうかがテーマでした。
つまり、「デザインとは何か?」ということの要素や要因が浮かびます。
これはすでにニュートン的な力学での合力である、
それこそベクトル的な論理では無理なことが明らかになりました。
そして私のミッションである合力ベクトルでの「力」は、
ニュートン力学から量子論的な力学での、
「強い・弱い、いずれかの相互作用」と
「重力」と「電磁力」のメタファー的な力学を関与することが必要でした。
相互作用は距離感や学域の効用効果の範囲を決定します。
同様に、重力的なことは時代性の影響力であり、
電磁力は、経済と文化と歴史がフレミング的な影響力を与えると思います。


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『論理性と感性の対称性の破れ=パリティ崩壊』


   


     12月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

一般的には、「論理性」と「感性」の対比あるいは対称性が、
人間の能力を分化していると考えられています。
つまり、論理性がある人間能力と、
感性能力のある人間を対称的にとらえることは長い間、
対称性よりも対照的に議論と考察されてきました。
たとえば論理性と感性とはお互いに人間の知性そのものを分断する、
このように考えられてきたときに、明快な解答を与えたのは
カントでした。
もっと簡単に言うと、論理性があればあるほど、
感性力の低下が起こります。
これは同様に感性があればあるほど論理性が欠如することも同次元です。
そこで、デザイン思考なる考え方があたかもこの対照性を破壊する手法、
このブームを生み出しました。
これはブームにすぎません。
だから私は、論理性のある人間も、感性のある人間も、
論理性があればあるほど、感性に近づき、
感性があればあるほど、論理性に近づくという手法が大事という、
これこそ「コンシリエンスデザイン」手法ということを
主張しています。
端的に言えば、感性と論理性の間にある完全円形は、
感性と論理性の対称性に対して、破れの現象を起こすと言ってきました。
もっと難しい表現をすると「パリティ崩壊」を起こさせる
感性軸と論理性軸が向かい合っているからこそ、
感性を論理性との対称軸に、論理性を感性の対称軸に置くことで、
感性が磨かれれば、磨かれるほど、論理性を失わせないこと。
論理性があればあるほど、感性を失わせないこと。
この両面、この対称性に決して「破れ」や「崩壊」を起こさせない、
この両対称性の軸からのパリティ性をより高度にしていくことが大事という
この教育こそ創造性での論理性と感性をより高度にしていく、
すなわち「コンシリエンス」な統合性の問題としてきました。
だからこそ、「コンシリエンス」を確約させれば、
「レジリエンス」=ストレスや敗北感以上に、
状況には決して負けない自己認識力の拡充さを創りあげると
主張してきたのです。
これこそ、論理的な思考に対して、感性、もっと端的には
直感が重要であると看破したカントの哲学的な提唱でした。
「直感なき概念は空虚であり、概念なき直感は盲目である」。
私は、この考え方こそ、
デザイン思考ではなくて「コンシリエンスデザイン」と呼んでいるのです。


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