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Posts Tagged ‘「資本主義からの逃走」’


『資本主義からの逃走』
 
*「資本主義の終焉は、
  ブログ形式の中に隠喩となっている」*


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:00 AM

2009年、歳末になろうとしています。
私にとって、この一年は、
教育・講演・研究・開発・提言すべてを
デザインで包み込んだ活動でした。
もっともちょうど60歳・還暦で生命はつながっていす。
ブログ本論のタイトルは、「華甲我之発言也」です。

華甲発言

「華甲」とは還暦・60歳を意味する
古代よりのレトリックとして美しい言葉です。
デザインの世界に入って、
ほとんど休日休暇は持たないデザイン連続でした。
ただし、時に、「死に際」に至ることや、
「死」の予感が私の生体を追い込むことはしばしばです。
そして、その「死線」から帰還すると、
必ず、私にはなぜか大きなテーマが振り降りてきます。
●「なぜ、このスケッチを描くのだろう」
●「なぜ、今こそ、どう非難されても発言しよう」と
なります。

日本のかたち

このブログで、とうとう「資本主義と民主主義」への
私の持ち続けてきた「歴史観、それも敗戦という軸」に、
知識を整理して、いわば暴論となろうが、
この思索は、私のデザイン手法での「日本のかたち」、
その試作だと思ってください。
●それは壊れかかっていたり、
●すでに壊れたり、失ってしまった「日本のかたち」を
デザインし直すこと。新たなデザインを生み出すこと。
この二つを差し出そうということです。
だから、このブログは、一度こうして掲載した後も、
さらに「校正」を何度もしているのです。
おそらく、ほとんどの読者の方々は一度読んで、
●「まぁ、そういう見方もあるか」とか
●「過激だな、何をそこまでも」とか、でしょう。

私は、ブログという形式がすべからく「日記風」の
感想報告文体であることを残念に思っている立場です。
残念であり、無念であり、
文体に載せる言葉の貧しさに、「不景気さ」=鬱を
見抜いてしまいます。

「不景気という不気味さ」

なぜなら、
私は確実にコンピューターのエバンジェリストでした。
だから、特にパソコンとネットワーク、インターネット、
それらの進化はつぶさに実体験し、そのシステム創りや
デザインに関わってきましたから、
ブログの形式が日記風・感想文風ということに陥っている
その「不景気」さは「不気味」さでもあるのです。
だから、この「不気味さ」を選んでいる社会は、
「不景気」だから、ブログという新たな表現形式にも
●「不景気」という「不気味さ」にすら気づかないほど、
●「不景気」、すなわち「bitな鬱病」だから、
「死線」が見えるわけがありません。

鬱病に死線は見えない

その「死線」とは、
「資本主義の終焉という死」の境界線です。


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『資本主義からの逃走』
 「景気循環論から離脱させるデザインをめざす」


   


     12月 22nd, 2009  Posted 10:00 AM

循環させるための付加価値

資本主義でほとんど完全防御されていた経済性の循環。
しかし、「循環」には、必ず、異変が起こります。
そのことは、マルクス以後、様々な経済学者によって、
また様々の資本の投機と回収、あるいは資本の貸借など、
その手法論や合理的な運用が論理化されてきました。
私は、「モノづくり」の初期段階で、
デザイン」を投機してきました。
それは「回収」されるべき利益構造が、まったく、
資本論はじめ経済的な論理では説明も解釈も困難でした。
そこで私が見つけたのは、「感覚」で受け止める「価値」、
モノの「存在」でした。
私の資本主義からの離脱はこの発見時から始まったのす。
まず、大きな疑問が常にありました。
「特殊解」と受けとめられる「かたち形態」には、
決して、「価値」、それこそ「付加価値」であろうが、
「全体価値」であろうがその「存在」が意識化されません。

特殊解的な形態

したがって、
そうした「特殊解」的な「かたち」には、
一般的な「価値」すら生まれず、「存在」させた、という
「事実」だけが残りました。
この「事実」だけがデザイナーの「労働対価」だとすれば
デザイナーには、
「景気」というある種の指標は無関係だということです。
この構造が、
とりわけ、日本の企業にとっては好都合だったのです。

景気からの離脱

デザイナーの存在、頭脳的、感覚的、時に芸術的労働者は
「付加価値を創出」する職能集団に仕立て上げることが、
最も容易に組織化することができました。
だから、デザインを「付加価値」と言い切ったのです。
その「付加価値」は、「欲望を刺激」して、
「欲しい」、「買いたい」、という、
流行ファッション・風俗・サブカルチュアに、
仕立て上げました。
私は、この一見、
文化へと交代させたかのような「循環」と「代謝」から、
私のデザインを離脱させることで、
「景気」とは無縁の「モノづくり」のデザイン職能を
めざしてきたと思っています。


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『資本主義からの逃走』
  「価値と存在、その装置化ループを仮説化」


   


     12月 20th, 2009  Posted 11:00 AM

「生産と消費」の構造は、特に第二次大戦後、
資本主義のサイクルで産業経済論的な効果がありました。
しかし、
「生産」と「消費」がいわゆる景気循環によって、
支えられてきた国家・社会体制は限られていました。
そして「不況」ともなれば、
その景気循環は、世界を飲み込んだ大問題となりました。
つまり、
問題が及ぼしてきたのは、「価値」と「存在」です。
価値」はまず経済価値からスタートし、
結果は、「働きがい」・「生きがい」へと連鎖しています。
「存在」は、
地球環境、自然環境、人工環境での人間への問題です。
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によって、
「生産」と「消費」の
point of contactへの関与性でした。
私はこれらをループ化することで、「デザイン」の位置が
きわめて明快になります。

情報化・・これは経済社会論を変貌しました。
存在化・・ontorogyの問題は価値観のレトリックです。
再生化・・いわゆるリサイクルの手法はまだ不完全です。
生態系化・地球環境全体への国際関係の「制度論」です。

このループを「資本主義」が支える困難さと可能性は、
ほとんど論理性すら発見できていません。
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ということは、
価値」と「存在」は、
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に対するサイクルループで、
システム設計とダイナミックス設計が、
人類に課せられている、「緊急かつ重大」な「問題」、
ということにほかなりません。
果たしてそうしたサイクルループに装備できる「装置化」、このデザインこそ、デザインによる人間と環境との
創出・代謝循環・交代、
それぞれの調和と存続につながっていると思います。


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『資本主義からの逃走』
  「資本主義構造化の破壊装置」


   


     12月 19th, 2009  Posted 10:00 AM

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デザインは付加価値ではありません。
私は「全体価値」と言い続けてきました。
「欲望の刺激装置」=デザインを破壊するなら、
その新たな革新的な装置化を提出することになります。
上記の図解が私の提示している「装置」です。
その装置は「AparatousからDevice」に変更します。
これにも意味があります。
創出・代謝・循環・交代
おそらく、「空間」・「情報」・「エネルギー」も同じです。
そして、この対峙しあう「価値」と「存在」は、
創出・代謝・循環・交代というサイクルに配置します。

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すなわち、サイクルと言ってもヘリカルなサイクルです。
実は、この背景・基盤には、
私が実体験を余儀なくされた、幾たびかの入院や手術、
それらを通して、「生」と「死」への想いがあります。
もはや人類の生存と存続が問われているという問題には、
ヘリカルなサイクルに、最も問われるのは「存在」です。
と言っても、
「実存」というやや古典的な思考からは離れた客観性に
「デザインの創出」が「存在」した「価値」だからです。
この提示した、ダイアグラムには、
明確に、「物質・情報・エネルギー」という
「時空間」性をイメージして、
感じ取ってもらいたいと望んでいます。
そのイメージを拡大してください。
世界の人口は、やがて70億人を超えるでしょう。
しかし、毎日、
10機のジャンボジェット機が墜落しています。
その機上に、
乳幼児から小児・子供たちが5000人乗っています。
地球・人間・世代交代に対して、
経済思想や資本主義では解決不可能の事態に、
価値」と「存在」の「装置」そのものを
デザインしなければならないのです。
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『資本主義からの逃走』
  「資本主義、自らが生み出したキーワード」


   


     12月 16th, 2009  Posted 9:44 AM

Service産業は第三次産業と呼ばれています。
第三次産業の「形式」と「内容」は、
次のようなキーワードで大きな変容をしています。
現代のキーワードは次の九つが思い浮かびます。
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です。

これらへ「資本主義」がどう影響・支配・制御したかと
いうことが、「現代問題」だと考えることができます。
それは、わが国の大学教育での学部の、
こうした言葉を、冠「学部・学科・講座」名が、
見事に増加していることに「現代問題」が重なっています。
正直、こうした言葉を「冠」としている「分科学教育」を
私はまったく信頼していません。
ある調査では、たとえば、「人間学部」などという学部に、
進学する学生の偏差値は大学学生になるべき資質は無い、
という調査さえあります。
高校での偏差値が、55以下は「大学進学」などは、
しない方が本来は、人生として「幸せ」なのです。
こうした価値観の「社会的評価」制度が必要です。
実際的には60が最低でも必要だというのが、
私が大学教授としての「判断」です。
● 私は、偏差値が若者の「評価基準」と言っているのでは、
決してありません。
●「資本主義」その「サービス産業化」しない大学には、
学部で「学ぶ」べき、真の倫理性と道徳性のある資質です。

なぜなら、
こうしたキーワードを生み出したモンスターとしての
特に経済的資本主義と政治的資本主義支配と制御下での
「次世代の存在性」を問い直したいからです。
つまり、
「資本主義自らが、生産と消費を破壊したこと」が、
こうしたキーワードを下意識主義としていけるだろうか、
ということに、「デザイン」・「かたち」で
応答・回答・解答したいからです。


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『資本主義からの逃走』
 *「かたち=か・かた・たち・かちという代謝性」*


   


     12月 15th, 2009  Posted 9:00 AM

かたち」という言葉を身体化する「いのち」が、
多分、私の生涯になるということは明確です。
次のマトリックスが、私の身体を包んでいます。
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そして、
重要なのは、「か」・「た」・「ち」という平仮名です。
これらの平仮名には由来の漢字=表音性と、
漢字=表意性が日本語には備わっています。
そうした、1文字の組み合わせが、
それぞれの意味と発音によって、
包括性=inclusive性があり、「かたち」の創出である
デザインの意図は、この「包括性」と「要素」に、
根源・由来・原義から効用と効果が求められています。
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「か・かた・かたち論」は、代謝建築論によって、
「かたち」、日本の美学機能を語られました。
私も、学生時代にこの「思考」によって、
デザインの「方」=方向を教えられました。
それからデザイナーとしての経験と医学にて、
「代謝」という「身体生理」で「かたち」の
隠喩性をすべて解放できたと考えています。
いわば「代謝デザイン論」がまとまりました。
結果、私のデザイン、デザイン造形での、
性能性・効能性・機能性を「実務」効果として、
究極の「人工臓器」にまで「かたち論」になりました。
「実務の無い」デザイン論は、「論」でもなく、
まして「学」でもありませんが、
昨今はそうしたことを「デザイン学」と言う傾向です。
こうしたことがデザイン教育だというのは、
「罪悪」であり、「美学」は決して生まれません。


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『資本主義からの逃走』
  「Serviceという経済のウロボロス化」


   


     12月 13th, 2009  Posted 1:00 PM

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Serviceという言葉は、止めどなく拡大化してきました。
だから、その由来性は消尽してしまいました。
その由来性を辿ると、
それは「宗教」・「宗教性」と「経済」・「経済性」に、
「ウロボロス」という原始宗教的な、「善悪」の曖昧性を
歴史の中で消去しようというある企みが見えてきます。
その企みを主導したのは資本主義です。

断言をする時期がきています。
「サービス産業」とは宗教という労働集約性の欺瞞・悪が、
実は背後で蠢いています。
時にそれは、頭脳集約を目標化させる正当・善らしさに
変貌しています。
サービス語源の由来から判断すれば、
「サービス産業」とは新興宗教法人です。
あるいは学校法人という経済構造の制度です。

「サービス」は無財なる経済の対価制度として、
資本主義経済の中でその由来性を抹消できたのです。

● サービスが宗教音楽であったことをご存じでしょうか。
  バッハであれベートーベンであれ、
  serviceに頭を垂れて、音楽に対峙していたのです。
● サービスが軍事奉仕であったことをご存知でしょうか。
  愛国心に命を捧げることになぜ勇敢だったのでしょうか。

つまり、
人間は、人間界は「生きて」なお、
「神」それはあらゆる宗教神に、「奉仕=service」して、
「死」をむかえることになります。
私たちは、「神に頭を」垂れます。

「サービス産業」は、「頭を下げて」、
経済労働=感情労働の対価を得るのです。
日本の「サービス」という言葉は、
やはり米国からの外来語でした。
「サービス産業」は、感情労働の対価の区分を、
ようやく、わが国も制度化しました。
「サービス」、特に「情報サービス」は、
資本主義の頭で尻尾を飲み込む姿に変身し始めています。


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『資本主義からの逃走』
 *「学問が決着するべきは行学・実践でしょう」*


   


     12月 10th, 2009  Posted 9:00 AM

私は1994年に「PKD」を文章で提示しました。
大学人になってから、
この活動に取り組むには、まだ環境不足でした。
ようやく、阪大にて環境が出来て開始しています

その具体的なモノとして、
iPhone-アプリの三つ目を発売しました。
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この活動資金にしていくためです。
私はデザイナーだから、デザインを学問としてよりも、
実学としてのデザイン、
これを「行学」と称しています。
「行学」というのは、
日本では「道」という精神論と美学性があります。
したがって、デザイン道と言うのは、ややセンス無し。
大学人になって、多くの教授や准教授を見てきました。
退官したら、「大学という不可思議な場と人間」を
書き残すつもりです。
それこそ、人生最大の過激性と攻撃性でまとめます。
訴訟も辞しません。そのような覚悟もせずに、
自らの美学などは公表ならずが、
「行学の志」でしょう。

というわけで、今回は、
「黄金比を計算することができます」。
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http://www.design.frc.eng.osaka-u.ac.jp/info/iphoneapp/GRC.html

しかし、これを運用するには、「知識」が必要です。
その知識は学問という、問いかけの解答です。
設計する実学のツールに、是非傍らに置いてください。
何かモノを購入するときに、
「これって、美しいかな・・・」って迷ったら、
高さとか幅とかの寸法比を、このアプリで割り出せば、
「なるほど」ってことになればいいわけです。
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Peace-Keeping Designは徐々に拡大し、
今ではクリントン財団のプロジェクト・アフリカ支援
そのプロジェクトに一つになっています。

来年早々にアップルストア銀座(1月22日・無料)、
国際文化会館の支援事業で講演(2月26日)です。
「行学」・「学問」がめざすところ、
「1日に5000人の子供が死んでいます」という現状を
「ジャンボジェット機が毎日10台墜落しています」、
この直喩によって「問題解決」を実務実行のはずです。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵には、景観論の要因に花鳥風月あり」


   


     12月 8th, 2009  Posted 11:49 PM

私が、「花鳥風月」に心酔していくとは思わなかった。
「花・鳥・風・月」が、日本人デザイナーとして、
本当に真剣に取り組み出したけれども、
まだ、それらを自分のデザインに取り入れてはいない。

しかし、私には独立すぐに、ある連載がありました。
「流行通信」でした。
二回で降ろされました。
MusicとAudioのページをいただいていました。
1980年です。
これを覚えていただいている人がいました。
当時は、赤坂にstudioがありました。
匿名的なデザインで、
かなりのヒット商品を出していました。
Musicもレコード会社から新譜が届き、
AudioはすでにMusic Synthesizerに取り囲まれて、
JBL4343も手に入れていました。
それは今も4回半、チューニングして使っています。
「流行通信」で、「景観論」を書いてしまい、
編集部から、すぐに、連載はストップでした。

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さてこの当時に私は「花鳥風月」に入っていきました。
景観は、「風」と「月」の異変に、
本来の意味があることに辿り着いたのです。
そこから、私は「景気」という言葉と「景観」に、
大きな「花綵の体系」が伝統美学となっていると
確信をしました。

「月」には満ち欠けがあります。
「月食」は、古代にはとても恐怖だったことでしょう。
「風」は、花綵の国には微風から台風まであります。

「景観論」と「景気論」は、
ある連関方程式があると思っています。
それを、「美しい方程式」とすれば、
私のデザイン造形=造形言語は、
「デザイン数理学」の一つになるでしょう。
もし、私がそこまで行き着ければ、
マルクスの「資本論」を絶対に、
「デザイン」という手法で
「モノのデザイン」で超越してみせます。


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『資本主義からの逃走』
  「花綵を断ち切った、都と鄙
           けれどもNetwork社会に希望」


   


     12月 8th, 2009  Posted 10:00 AM

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米国に従属してしまった日本は分断された。
戦後生まれの私には、
米国のあらゆるモノが眩しかったのです。
大きな冷蔵庫、自家用車、電化製品、・・・
そして、「アイビースタイル」で、ファッションを、
それこそネクタイの結び方まで学びました。
正直、60年代の「安保闘争」を田舎のTVで見つめる時、
日本が壊れていく、そんな東京でのデモ行進の異様さは、
とても、悲しかったのを覚えています。
70年代には、まさに、私も大学生になっていました。
完全なる「ノンポリ」でした。
むしろ、学生運動に走る連中を殴っていました。
それよりも、音楽やデザインに、心惹かれていました。

やがて、知るのです。
三島由紀夫の切腹が訴えようとしていたことに、
私は目覚めました。「日本が壊れていく」と・・・
明らかに、東京一極集中は日本を分断していきます。

私は、北陸の地方都市から東京を「対象化」しました。
そして、「雛美人文化論」を心底にしながら、
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伝統工芸産地に、「デザインの導入」に関わります。
やがて見えてきます。
「鄙」と「都」の関係です。
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明らかに、唯一の「都」=「東京」には、
「クロノフィリア(時間偏狂者)」が集中していきます。
一方、日本全国の地方都市は「鄙」と化します。
そこでは「トポフィリア(場所偏狂者)」で、
「土地自慢」こそ「地方の活性化」だという偏狂さです。
今なおこれは歴然とした、
「資本」としての「土地」感覚そのものです。
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「都」での金融資本と、「鄙」での土地資本が意識分断、
すなわち「花綵の国」は、金融資本も土地資本も、
価値を喪失して、私たちの心まで分断しました。

ところが、
情報時代=ネットワーク社会」は、この分断を、
新たな「花綵」にしてくれるのかもしれません。
すでに、「都」も「鄙」も、
ネットワーク社会=意識社会によって、
「bit資本」が、金融・土地・資材・食糧に至るまで、
「花綵ネットワーク社会」が創出されるでしょう。
私は「逃走」します。
それでも明らかに私の「希望」は、
このネットワークが、再び「花綵の国」へと、
デザインが導いていくものと確信している次第です。


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