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Posts Tagged ‘オリジナリティ’


「語り部仕草は、再出発するべきです。」


   


     5月 31st, 2012  Posted 12:00 AM

松岡正剛「連塾」、その他の舞台演出は、
いわゆる講演スタイルにオリジナリティが顕著です。
私は、彼の講演での話し方、語り部仕草は、
まったくのインプロビゼーションであり、
観客を引き込む術において、
あるいは、プレゼンテーションとしては、
世界的にもトップランクだと思っています。
故スティーブン・ジョブスがプレゼンテーターとして、
最高の人物評がありますが、
私は松岡氏の方がはるかに彼をしのいでいると思います。
なぜなら、製品を題材に語るより、
抽象論理を語ること、文化の根底を語ることは
とめどなく困難だからです。
頬に押し当てた掌は、思考を巡らしているわけではなく、
不安や欲求不満などありえず、
いわゆる心理学でのパフォーマンスに深層心理表現は
まったく当てはまっているとは思えません。
彼の言葉に、「読欲」があります。
ともかく「本を読む」という欲求が強い人なら、
多分、頬杖ではない頬に掌は、私にもその癖があります。
だから、読欲あれば思索サイクルの表出が舞台上に出る、
そんなことはありえません。
すでに反芻された思考結果を語るだけだから、
観客は引き込まれるのでしょう。
ひょっとすると、写真撮影禁止だったのかもしれませんが、
私は、私記録としてシャッターを押しました。
ここで「連塾・最終回」のレポートをしたわけではありません。
「九景」として構成された最終回は、
なぜ、九景だったのか、
それも私には推測がついています。
彼の「自叙伝」がどうだったのかは、
書物となって出版されるでしょう。
おそらく、その「語り」と「身振り」による空気感までを
編集されることはとても困難だと思いますが、
その記録、あるいは・・・
私はその出版を心待ちにしています。
男として惚れ込んでいる「ち」としての松岡正剛です。
「ち」とは、
私が常用する「いのち・きもち・かたち」の「ち」であり、
知・血・地・致・智・値・治・置・稚など、
日本の森羅万象を受け止める統合的な百科的認識を表してます。
10年に及んだ「日本という方法」、
その結論を師範として松岡正剛は最後に提示しました。
それらが何であったのかも、
是非に出版を待っていただきたいと思います。
私はその出版を待って、再び松岡正剛を伝承したいと考えています。
「グレン・グルードのごとくありたい」と、
松岡正剛は声を詰まらせたとき、私も同様に胸が詰まりました。
私はあらためて、10年の結論こそさらに「日本という方法」、
それが3.11からの復興と復活の「ち」ゆえに、
松岡正剛は、その師範役を引き受けるべきと伝えます。
「連塾」は、9.11をもって開塾されたのですから。


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4月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 12th, 2012  Posted 12:25 PM

4月12日 赤口(癸卯)

表面的な
技巧を凝らしたプレゼンテーションは
誰にでもできる。

しかし、
プレゼンテーターの持つ
アイデンティティやオリジナリティは
誰も真似できない。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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3月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 31st, 2012  Posted 10:00 AM

3月31日 赤口(辛卯)

表面的な技巧を凝らした
プレゼンテーションは
誰にでもできる。

しかし、
プレゼンテーターの持つ
アイデンティティやオリジナリティは
誰も真似できない。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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3月4日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 4th, 2012  Posted 10:00 AM

3月4日 先勝(甲子)

「わがまま」とは
オリジナリティあふれる発想の源である。
誰も思いつかないアイディアを引き出すのに
不可欠な要素なのだ。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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「最小リモコン=徹底的な黄金比の適用と実装設計」


   


     2月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

液晶TVやその周辺機器のリモコン=リモートコマンダーは、
複雑怪奇なモノが氾濫しています。
私は、リモコンは画面上に
オン・スクリーン表示のインターフェイスがあれば、
四つのボタンSWで操作可能だと考えています。
EIZOブランドで国内初のHD(High Definition)モニター、
PCと地デジTV・FORIS.HD用のリモコンです。
マウス機能と背面には音量・チャンネルセレクト、
その他最小限機能ボタンだけのリモコン。
正円マウスは成功しないというタブーに臨みました。
発売直後は商品批評でメチャメチャに叩かれました。
それはマウスだということと実機使用無しの批評でした。
無論、視覚情報で全てのデザイン機能性が伝わることが大前提ですが、
これはリモコンの特殊解でした。
特殊解商品が売れるためには、確かな広報広告が必要です。
この造形デザインにおいては、
黄金比・黄金分割の教科書になるほどの寸法決定をしています。
造形設計で最初に意図したわけでなく、
感覚的な設計をつきつめて実装設計との合理的な合致性を求めれば、
当然の結果となる筐体デザインの造形が決定されていくのです。
したがって、プラスチック成型においても、
実装性=回路基板や電池収納などには
徹底したオリジナリティを仕組む結果になりました。
現在、国内の液晶TVメーカーの衰退は著しく、
国際的競争力低下ゆえの減益報道がありますが、
基本は、徹底した「設計思想とその実務としての具現化」に
オリジナリティが欠落しているのです。
私自身、TV大好き人間ですから、
自宅の視聴覚システムは徹底的に最高を求めています。
その限りにおいては、リモコンに象徴されるがごとく、
国内外のメーカー、すべての商品には大不満です。
造形デザインは必ず徹底したサイズ決定と実装設計が必然だと考えます。

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「正直な造形をめざすことは裏表無し」


   


     2月 3rd, 2012  Posted 12:00 AM

60年も生きていると人には裏表あり、明確です。
けれども自分は裏表無しの人間でありたいと思ってきました。
それは随分と失敗し、裏切られ、批難悪口の対象になりますが、
自分自身には極めて正直です。
まして、私自身は正面切って好き嫌いは明前とすることを恐れません。
これは他人を傷つけることしばしばであり、
敵を相当に持つことにもなります。
それでも構わないという姿勢と態度が正直さだと確信しています。
そしてデザイナーというプロフェッショナル性にも
明快にそのことが反映すると思ってきました。
その一つが、EIZOでデザインした商品FORIS.TV=作品です。
ほとんどすべての液晶TVの裏面は、
デザイン無しばかりでまったく美学性ありません。
デザイナーはもちろんエンジニアも怠けています。憎みます。
このTV背面はアルミですがコードカバーはプラスチックです。
アルミにするとその重量で、
取り外しの際、万一落としたときのPLでの安全性を確保しました。
しかし放熱孔など皆無で冷却可能ですから塵吸引防止にもなっています。
このデザインを実現してくれた技術陣は素晴らしかったと
今も思っています。
裏面を見事に設計することが現在どれほど放棄されているでしょうか。
それも企業の裏表があることを暗示しているはずです。
裏面デザインがこれほど精確であるというのは、無論、
正面デザインにオリジナリティが具現化するのは当然の成り行きです。
造形形態とは、「かたち」=形の態度です。
私はデザイン、造形デザインの終着点は
「かたち」の態度だと思っています。
そしてそれはデザイナー自身の造形態度と連鎖していると確信しています。
正直な、裏表無き態度がそのまま「かたち」表現に連続しているのです。
この正直な態度は、企業のあり方にも正直さを求めることになります。
ともかく、裏面は正面を着飾っていれば見えません。
だからこそ、見えない裏面まで
正直な美学性が必然であるべきと考えています。
裏表ある人間にどれだけ出会い、そして裏切られてきたことでしょう。
だから、人間より正直に設計されたモノ=人工物の方が信じられるのです。

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「ここまで粘り、あきらめないこと・・・」


   


     1月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

オーディオの話ばかりで申し訳ありません。
やはり、私なりの根性の話は、
東芝時代から育まれたのだと思います。
インハウスデザイナーは、アノニマスでなければなりません。
これが嫌だったのです。
それは金沢美大入学直後に言われたことにつながります。
「君たちは芸大に入ったわけではない。だから無名で、
雑草のごときデザイナーになれ」
即刻、反論しました。
「昭和天皇は、雑草という草は無い、
雑木林というのも間違っている。すべてに “名前がある”」と。
結局、この反撃で4年間にらまれました。
だからインハウスデザイナーだけれど、
「自分の発想、オリジナリティは必ず実現!」。
したがって、バイノーラルLP、45回転LPを、
第一家庭電器で実現させたところ大ヒットしました。
したがって結局は、私のデザインしたSZ-1000、
エレクトレットコンデンサーのイコライザーAMPやカートリッジPRに、
45回転でバイノーラルLPは、東芝から出されることになりました。
車椅子になって、「諦めて=resign 生きる」=「諦観」を知りましたが、
自分の発想で、必ずオリジナリティを込めたことは、
絶対に「あきらめ=abandom」ないことです。
特に、次世代のデザイナー、
インハウスデザイナーには強調して伝えておきたいことです。
日本人には「あきらめる」美学があります。
それは「諦観」であり、
もう一つのあきらめは、投げ捨ててしまう怠惰さにすぎません。
この怠惰=なまけ心は、デザインを完成させません。
怠惰心でデザインに向かう性分があるなら、
デザイナーになってはいけない、
私が学んだのは、
この怠惰心からどれだけ距離を取るだけの真剣さを身につけることです。
と言いつつも、やはり怠惰心と諦観が、
私の精神の中ではまだまだこの闘争が続いています。
「喧嘩師であれ」とは、
自分自身に喧嘩を売ることです。
「やる!」と決めたら、
絶対に自分の怠惰心に
まず勝つことだと死ぬまで言い聞かせているでしょう。

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「BeginとOriginの区別が必要」


   


     5月 15th, 2011  Posted 1:33 AM

想像と創造の結びつき。
簡単に想像力と創造力と言うけれど、
これを結びつける大事な視点が必要です。
それは、「始め」と「初め」の区別をすること。
「始め」=Beginと「初め」=Origin、
その区別を分別させる思考力。
難しく言うと、
「始め」は相対的な出発であり、「初め」は絶対的な出発です。
これは私がコンピューター、
特にパソコンとの日常化がスタートした頃に定義したことです。
したがって、創造力によってOriginはオリジナリティを
生み出すことはできます。
しかし、想像力があったからと言って、
それはBeginにはなっても、Originにはならないということです。
まず、このことを断っておけば、
科学と技術の関係、あるいは科学技術の構造は、
想像力と創造力がどう結びついてくるかということが必ず、
私は明確になると確信しているからです。
それはエネルギーを再生するか新生するかという問題に対して、
新たな視点になると考える思考のヒントになります。

テーマは「太陽」です。
太陽をテーマ、あるいはアナロジーとした科学と技術の話、
この二つの視点からのアプローチでエネルギーに接近できます。
まさしく「近さ」の概念=トポロジー的視点でしょう。


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『資本主義からの逃走』
   「ケータイから消滅した「かたち」への総批判」


   


     12月 1st, 2010  Posted 12:46 AM

いわば言いがかり文句
日本のガラケーがようやく進展しました。
よかった、とひとまず安心です。
しかし、iPhoneの存在にこれほど影響されていて、
私は、「創造性」・「オリジナリティ」がまったく失われていく傾向を悲しく思います。
もっとも、私自身がデザイナーであるのだから、
本来なら、「私だったらこうする」ということが提示できないのに、
批判など出来るわけがありませんし、そんなことを表明すること事態を随分悩みました。
自分にまったくデザイン経験していないデザイナーはデザイナーでなく評論家ですから、
私も今回はその一人だと思っていただいて構いません。
けれども、私の教え子たちもケータイ・デザイン担当で苦労しているのを知るたびに、
何事かをサッゼッションしなければいけない、と思うのです。
煽動的表現・ブーメラン効果
だから、とても大批判的なタイトルでアジテーションを書きとどめておきたい、と考えてきました。
「ケータイからかたちが消滅している」とまで煽動的表現として、
結局は、天につばすることは百も承知です。
自分で投げたボールは、もっと高速度と質量で大きなエネルギーとなって、
自分に大けがを負わせることも覚悟しています。これは「傷つくブーメラン効果」です。
私はデザイン界に棲息してきてそんな経験ばかりしてきたと思います。
「あの時、あんな発言」をしたばかりに、いまなお、私自身がさらに深傷を負うでしょう。
ところが、実は、その当時の大問題は、経年ですっかりと解決がついてしまうことや、
その当時の大問題そのものが忘却されることも随分と経験をしてきました。
結果、私は発言した限りはその反発は当然だと覚悟していることも事実です。
多次元アイテムのかたち
さて、話をケータイに戻しましょう。
ともかく、デザイン=かたちに集約と収束する、このことを下敷きにして述べます。
断言すれば、「Smart-Phone」という呼び方をしないモノづくり、
そのデザインをすれば、必ず「かたち」が変わるでしょう。
変異し変位し転回し、そしてまったく変貌・変身してほしいのです。
理由は簡単です。
二つの断言
人間が「身につけるモノ」として、時計・めがね・指輪とかを思いつけば、
ケータイは身につけるコンピューターであり、
メディアであり、ツールであり、アクセサリーなのです。
それも大量の性能性・機能性・効能性を、しかも「現在の情勢報告の機器・機械・通信から、
まさにお財布でありIDカード」まで、これも多次元なモノとしてのファッションアイテムなのです。
とするなら、「ケータイのかたち・対・かたちとしてのケータイ」まで、
その次元のどこにポジショニングされているかということになります。
断言は二つです。
  ●「なんとかPhone」とアイテム名称は変えます。
  ● 「ユーザーセンスを表現・使い手個性」の演出カタチ。
この断言の意味づけから「かたち」・造形デザインを第一義にすることです。


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『資本主義からの逃走』
「# 25周年の経験なれど納得できないアスリートグラス #」


   


     6月 12th, 2010  Posted 2:01 AM

メガネデザイン25周年
メガネフレームのデザインに関わってきて、25年になります。
今年は、クライアントであるメーカーが、
「25周年記念」として復刻番や新作を発表してもらってます。
私のメガネフレームは、大勢の愛好者が支援していただいていて幸運です。
そして、私のブランドのみに、
大勝負をかけていただいている専門ショップもあります。
もうすっかりと、メガネに関わるほとんどの知識は身についていると自負しています。
しかし、メガネフレームは
「明らかにファッションであり、さらに、流行現象の中で翻弄される商品」なのです。

必需品だが
やがて、地球上の人口が70億人になります。
おそらく、人口統計学的な予測よりも早く、70億人に達するでしょう。
引き替え、わが国の人口は「少子化」とともに激減しています。
ともかく、35億人=メガネが不要です。
そして35億人=メガネは必需品です。
現在の調査では、12億人、メガネを所有していますが、
23億人はメガネを持っていません。
この23億人向けのメガネは根本からの「革新」をめざして開発を進めています。

アスリート用サングラス
ところで、メガネフレームには、「スポーツ向け」というのがあります。
プロのアスリートたちは決まって、
このスタイリングデザインをかけています。
しかし、このメガネフレームほど、
どんな人間、人種を限ってみても、
「似合っている」と思ったシーンはまったくありません。
もし、「まあまあ」というのは、スピードスケートや、
サンバイザーなどで、ヘアースタイルというか頭髪を隠してしまえば、
それなりのスタイルに「見える」だけです。
翻って言えば、スポーツ、アスリート、ゴルフなどにこのスタイリングを、
私に言わせれば強引に「商品展開」した企業のオリジナリティは評価できます。
25年の経験から、私は次の三つの方向をともかく道筋をつけたいと考えています。

メガネを必要とする人へのまったく「革新的メガネ」の開発
廉価なメガネへの「生体工学と人間工学」をデザインで導入
あの醜いアスリートメガネの「スタイリング一新」

果たして、ここまでやり切れるかと考えるとき、
私なりの経験と予測、
さらに造形シェイプ、
その創出方法は教育しておきたいということです。


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