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Posts Tagged ‘経済学’


7月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 9th, 2021  Posted 12:00 AM

7月9日 仏滅(戊午)

『美学としてのデザイン』

が、
インダストリアリズムの
終焉を導いた経済
あるいは経済学での
一般解から
デザインは
解放されなければならない
と考える。

artificial heart:川崎和男展


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9月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     9月 27th, 2015  Posted 12:00 AM

9月27日 仏滅(丙午)

インダストリアリズムの終焉を導いた
経済あるいは経済学での一般解からデザインは解放されなければならない。

Design should be liberated from
its general explanation derived from economy or
economics that led to the end of industrialism.

『artificial heart:川崎和男展』 美学としてのデザイン


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『統一、いや統合には四つの分類があるが気づくだろうか』


   


     8月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を定義化してから、
どうしても、私自身が説得不足を感じていたことがありました。
それは「統合」についての整理された論理が必要でした。
学術と芸術の統合というコンシリエンスの基底論理でした。
まだ30代の頃、CIブーム時にはCI=「企業イメージの統一」論へ
CIデザイン論の再構築という論文をデザイン専門誌に書きました。
「統一」から「統合」をW.S.ランデッカーの考察から学んだことが
私はとても気になり、その論文をバックナンバーから探しました。
しかしどうしても見つからずに、この専門誌発行元に問い合わせ、
それが見つかってきて、あらためて私はとても驚きました。
なんとそれはMacintosh 512KでMacDrawでの図解で描かれていました。
そして「企業イメージの統一」CI論を企業の戦略的効果の消滅として、
「社会は、いつの時代の変動もその局面を強調して、
将来への予測とその準備を強要するものである。」という書き出しは
今も健在であり、常套化したデザイン手法=企業イメージの統一から
いち早く逃れるべきである、ということを指摘していました。
企業イメージの統一=CI論はケインズの経済学を引きずっていました。
そのための統一から統合を、私は今なお主張し続けていることです。
W.S.ランデッカーは、「統合」を以下の四つで整理していました。
 ● 機能的統合
 ● 伝達網的統合
 ● 規模的統合
 ● 文化的統合 でした。
私はやっと思いだしてとても大きなヒントになる予感です。
この四つでアイデンティティ=存在性の再考が可能という予感。
それこそ今、話題騒然としている、オリンピックエンブレム問題も、
エンブレムデザインでは、東京オリンピックのイメージ訴求は
決して統一は困難であり、今なお著作権でベルギーが訴訟しようが、
東京は商標登録しているからという対決姿勢だけの不毛さは、
「イメージの統一」に寄りかかっているからに他なりません。
重大な事は、オリンピック・パラリンピックともに、
イメージの統合のために、そのエンブレムが、
機能的・伝達網的・規模的・文化的な四つの統合性があっただろうか、
この質問を投げかければ、
文化的統合はすでに壊れているということです。
それは、文化的統合とは、無知と差別を解消することですが、
エンブレムは、オリンピックとパラリンピックには、
差異性、いや差別性をデザインしたということです。
もっと、厳密に言うとケインズの経済学が亡霊だと気づかない、
そんな21世紀がまだまだ続いているということです。
ここまで気づかない能力だと思いますが書いておきます。

*CI=C.I.=コーポレート・アイデンティフィケーション


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「私の財布はネットワーク・マネーとでも呼ぼう」


   


     7月 16th, 2012  Posted 12:00 AM

車椅子生活になって以来、
私はお金を持ち歩くということが全く無くなったのです。
これがいいことか、悪いことかというと、
金銭感覚が無い私には最悪のことだと自覚しています。
買い物は大好きだから現代は「便利な時代」になっています。
最も買う物というのは、「本」です。
フリーになったとき、赤坂でデザインスタジオを持ちました。
その時、「私バブル期」だったと思い出します。
一度100万円を持ってすべて使ってやろうと思い銀座に行きました。
結局、丸善で思いっきり本を買ったら10数万円でしかなく、
「お金」ってそのようなモノと割り切れたことがあります。
もし、私が世界一の大金持ちになったとしても、
私は「歩ける身体にはなれません」し、
もうあの世の「父母には逢えません」から、
これがお金というモノの限界です。
今、とりあえずはedyを使っています。
写真のedyは二種類あって、
プラスチックカード入れで最高5万円、edyカードで3万円です。
ともかく、8万円は使えます。
それも一ヶ月に一度程度、コンビニで使うぐらいであり、
大抵はスタッフたちや学生にこれを渡して、
飲み物や軽食を買ってきてもらう程度です。
「貨幣」とは、資本主義社会における重大なメディアであり、
経済システムの要です。
クレジットカードにしても、
「貨幣」の形式と形態はネットワーク・マネーと呼んでもいいでしょう。
ただし、こうしたネットワーク・マネーが日常的な価値、
すなわち、コンビニやファーストフードで使う場合と、
企業M&Aにてビリングシステムではツールです。
この差異性こそ、新たな経済学、あるいは経済システム、
この再設定制度とする論理は見つかっていないと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「サーバーとクライアントの相補性が、
         ATOM社会から離脱する道筋」


   


     2月 6th, 2010  Posted 12:30 AM

sendmail by Paul Vixie

私たちが電子メールができるのは、
sendmailがPaul Vixieによって書かれたからです。
sendmail of Eric Allman

というより、Eric Allmanとの関係も知りおくべきかもしれません。
こうした人物の存在はほとんど忘れられています。
BINDというコンセプトに、
サーバーとクライアントの関係が語られました
しかし、それは相補性です。

相互性=インターラクションとは異なっています。
サーバー・クライアント=主従相補性は、
資本主義での主従関係論に近似していますが、
サーバーには五つの分類ができます。

BIND
Cache Server
Remote(Master) Server
Slave Server
Primary Server
Secondary Server

この統合化されたものがName Serverだと思います。
そしてこれらがOSにのって作動制御される時代は、
まさに、資本主義の主従関係=支配と搾取を、
一変する隠喩性が生まれてきたと考えるべきでしょう。
私は、サーバーとクライアントというネットワークを、
逆読みしていけば、ひょっとすると、
とんでもなく、経済学者が解明できなかった、
それこそ2進法的=binaryな経済学を示唆している、
とすら私は想像しています。
あるいは、資本主義を超越あるいは破壊するほど、
内在しているパワーがあるとも予想しているのです。
それは、サーバーを5分類して、
それぞれの効能が社会革新のトリガー機能だからです。

OSの融解

ここから、私はOSがこれまで、
産業経済の競合や差別化での利潤対象から「融解」し、
「雲」=クラウドの中に入っていくのでしょうか。
そんな問いかけの中で、もう一度、
コンセプトとしてのサーバーとクライアントを
概念の具現化として、
「形式」と「形態」をデザイン対象化しています。
それはATOM社会がBITSで包囲されて、
離脱していくことの「道筋を設計」しているのです。


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11月27日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 27th, 2009  Posted 9:00 AM

11月27日 友引(丙子)

「金は天下のまわりもの」という
景気循環論で
この現代が語れるはずがないと考える。
経済学は、そうした景気循環論を
十九世紀後半からさまざまに学説化したり、
理論としてテキスト化してきたらしい。
こうした予測論は、不況からの解放でも、
脱出、再生でもない。
不況からの逃走、逃避でしかない。

『プラトンのオルゴール』
不況解決のトライボロジー


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『資本主義からの逃走』
「資本主義という宗教・宗教としての資本主義・1」


   


     11月 14th, 2009  Posted 9:31 AM

宗教というものは、本当にやっかいなものです。
宗教に対して、客観性を冷徹に見抜く能力こそ、
「インテリジェンス」・「知性と感性」の力だと、
私は思っています。

「資本論」が宗教になって、
資本主義社会を封じ込めた時代が終わっているのです。
しかし、まだまだ、そのことに気づいていない人は、
資本主義がすでに宗教になっているのかもしれません。
たとえば、資本主義を正当化するには、
M.ウェーバーの倫理は宗教論と読むことも可能です。
industrialとは「勤勉と工業」の二重性の意味があります。
私はindustrial designerです。勤勉デザイナーです。
すべからく
日本の工業デザイナーは勤勉デザイナーでしょう。

さて、日本にはこの宗教改革が必要になってきました。
幸いにして、
日本には「宗教的」を改革してきた知恵があります。
まず、6世紀には物信仰から仏教による意識改革を
政=まつりごとにて、社会改革がなされました。
1549年にF.ザビエルがやってきます。
キリスト教がわが国に上陸しました。
この正当性は、
ハビアンが1605年(慶長10年)に
「妙貞問答」で、どれほど、
キリスト教が仏教と儒教より勝っているか、
ということが記し残されています。

私が、もし、資本主義という宗教から解放されるには、
この「妙貞問答」での理論闘争を再度試みる、
というのが、一つの方法だと考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「マスカレードとして、ペルソナとして、
  日本株式会社だったのか」


   


     11月 6th, 2009  Posted 10:00 AM

ロシア革命に、日本も相当に荷担していました。
さらに、ロシアを敵対した日露戦争は、
真逆に、
私はソビエト連邦の共産主義を強化したようです。
1917年から1991年にソ連は崩壊しました。
おおよそ75年間の共産主義が終わった、
と言っていいでしょう。

そこで、私の見解は、
1991年12月25日のソ連崩壊は、そのまま、実は、
資本主義の勝利だったわけではない、という見解です。
ソ連崩壊とともに、対峙し対決してきた資本主義も、
終わってしまったのです。

むしろ、なんとか、資本主義では不可能であり、
共産主義では、ある種、
共産主義という宗教観にも似た制度では不可能という
その中庸性である社会主義的な
社会主義性を再考するという思考拡大が
世界観として、資本主義先進国家はできなかった、
ということに気づくべきだったのではないでしょうか。

そこには、
民主社会主義と言ってみたり、
自由民主主義での社会的公平性の不可能さを
世界観が、避けてきたのではないかとさえ、
私は思います。

私は、日本が資本主義を標榜していたのも、
敗戦での後遺症だったと思うのです。
「日本株式会社」は、「社会主義」を隠匿し、
隠避していた仮面国家が、発展したのです。

仮面劇・マスカレードとしての
「資本主義国家・日本」、
だったのではないでしょうか?

あるいは、
仮面・ペルソナとしての
「社会主義国家・日本」、
そのマスカレード・対・ペルソナを
見事に演じた民族性が
連綿としていたのではないかと私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
 「現代アートの象徴性からデザインでの創生へ」


   


     10月 28th, 2009  Posted 10:38 PM

資本主義の崩壊は、1927年に「予見」されています。
それは、「大恐慌」の2年前のことです。
それから20世紀の戦乱となり、冷戦につながりました。
共産主義・社会主義・資本主義・民主主義という
理念の崩壊は、1970年代からだと私は思っています。
なぜなら、時代変革の「予見」は、経済学・哲学などよりも、
「現代アート」にもっもと端的に、象徴されているから、
感覚、感性で「予見」の正当さを理解できてしまうのです。

その「予見成立」の理由は、単純明快にまとめられます。
ひとつ、「南北問題」、とてもなつかしい言葉です。
ひとつは、「宇宙船地球号」。
もうひとつが、「コンピュータ」です。
ともかくこの三つを置き換えると、

● 先進国と途上国の貧富格差とあらたな民族紛争。
● 地球環境問題、温暖化やCO2やサスティナビリティ。
● パソコンとインターネットでの情報意識社会化。

ということになるでしょう。
二つの現代アートが象徴しています。
まず、地球を象徴化した作品と、
tomas-saraceno・Universes in Universe : Tomas Saraceno

人間の生命を象徴化した作品です。
rafael-lozano-hemmer・Pulse room : Rafael Lozano-Hemmer

地球は、まさしくwebsite=蜘蛛の巣のように、
情報に包み込まれているのです。
包まれているのではなくて、
「包み込まれている」ことにこそ、
時代認識の象徴がある。
その時代認識は、
資本主義と民主主義に包まれているのか、
「包み込まれている」のかということは、
大きな差異があるということになります。

そして、
もう一つの、観客である人間の生命をそのまま、
脈拍を電灯の点滅で具体的に感じ取らせつつ、
空間、それは地球でしょう。
そこでの「自己の存在性」を再認識させる作品です。
私は、この二つの現代アートに具現化されている
「包み込まれている」という認識は、
ただただ、それこそ、Bottom of the Pyramidの
トップゾーンの1億人だけが、現代文化として、
平和に、いや平然と受け入れることが可能です。

結局、
「地球に存在、生きているすべて」の人々が、
認識=包み込まれているわけではありませんから、
そこに、資本主義って?、民主主義って?ということ。

「包み込まれているすべて70億人の認識」には、
決してならないとするなら、
Bottom of the Pyramidの根本や基盤や理念は、
再創生されるべきではないかと私は思います。

私は現代アートの象徴性を読み取りながら、
再創生のデザインがあるべきだと考えているのです。
しかし、哀しいかな、現代アートが示しているのを、
理解し、さらに「予見」できるのは、
トップゾーン1億人の中の、一握りの人たちだけです。


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『資本主義からの逃走』
 「吉凶吝悔を記憶から・・・」


   


     10月 6th, 2009  Posted 9:29 AM

「吝」と「悔」という古代中国の要素概念=易経がありました。
この概念は、半分のみ、わが国では利用されてきました。
「吉凶吝悔」という四句が分断されて、
日常化してしまったのです。

いわゆる使い慣れてきた「占い」です。
「大吉・中吉・小吉とか大凶・中凶・小凶」です。
つまり乾坤陰陽に「吝」と「悔」があります。

私は、資本主義と民主主義をこの乾坤陰陽、
この易経的な東洋思想で見つめ直す必要を
今、もっとも感じています。
民主主義の「吝かさ」(やぶさかさ)と
資本主義への「悔い」(くい)を
再検討するのが日本の役割だと考えるからです。


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