8月 7th, 2018 Posted 12:00 AM
もう如何なる時も「読書」をしないと決めていました。
しかしこの「iichiko」(焼酎企業)なる本は季刊ということもあり、
どうしてもやっぱり読んでしまいます。
この本は藝大の河北名誉教授が、どれだけの人物をかかえている
完全なる哲学書だと思います。
今回も「述語的な展開」が述べられています。
私にとっては、故・中村雄二郎先生とはデザインの指導者でもあり、
先生の新聞連載でも、
私にイラストレーションを描かせてもらっていました。
そしたら、今度は矢野雅文先生の科学技術・技術科学でした。
これまでは、西田幾太郎を読み込んだ中村先生や、
「述語的な・・・・」は、幾人かの哲学者でもおられます。
そこで、最も主語というよりも
述語という論理の中には、デザインが明解です。
ともかく、こういう領域の本がある時期から、
日本では本当に数少なくなってきています。
これこそ、文化的な代表であるテキスト本が
無くなる事自体、私は「文化としてのデザイン」が、
未だに、経済産業省扱いになっていることです。
ともかく、もう読書はということよりも、
「述語的」という展開が、
デザイナーではきっと必要だと思うのです。
前回もある大きな国家的な行事をしましたが、
それこそ、やっぱり述語的な展開が生まれるべきデザインは
エンジニアと対立しました。
もし、この領域が読むことができる
デザイナー養成の「場」=大学があるなら、
そこでこそ「述語的な展開」でしかないことが
了解されるのかも知れません。
「iichiko」という場でその領域を表している
河北名誉教授の力量を見ることができます。
そういう意味では、
季刊であるからこそ、真の「読書」が可能です。
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6月 28th, 2014 Posted 12:00 AM
ワールドカップ「サッカー」への国益とも思える程の期待、
それは意図されていた資本主義社会の狂乱が日本を包みました。
私は「性愛と資本主義」その最終稿「サッカーと資本主義」によって、
サッカー競技での商業主義としての監督や解説者を批判しました。
それは、敗北を指揮したリーダー力の大欠落を象徴していました。
しかし、それはわが国のサッカーチームがシンボルだっただけです。
・政治における野次騒動においての議長も、
・期待していた現政権の大臣においても、
・地方行政での首長采配の無能さにおいても、
・大企業に及ばず、中小企業の経営者においても、
・学校の校長や学長においても、
・独立法人の理事長においても、
・すべからくの意志決定者指導者は当然として、
間近にいる補佐役でも、私は、指導力・采配力、
補完すべき立場人間にこそ、
いかに、日本の資本主義社会の収奪が露呈していたことです。
かくいう私はどうかということですが、批判者は論外を旨とし
批判すべき立場を棚上げにして陳述を明確にしたいと考えます。
つまり、それはなぜ、性愛と資本主義、それにサッカーが事例、
このことを「監督論・リーダー論」で批判から非難までを
書き留めておきたいからに過ぎません。
私は、資本主義社会でのプレーヤーは倫理的にも「納得と肯定」を
念頭にした諦観を基本とした性愛があります。
この性愛とは世俗的なエロス的ではなく、あくまでもリビドーです。
このリビドーの倫理的な真剣さと真面目さがあります。
比して、監督やリーダーが収奪している醜さには、
身を賭しての「強い反抗」があるべきだと考えています。
少なからず、私はワールドカップでの資本主義が明確に、
中南米やアフリカ諸国に移動あることに注視をと絶叫します。
そして彼の地には、リーダーがすべからく不在であることです。
すなわち、サッカー敗北のこの日本にも、
すべからくの領域でリーダーは不在だということは明化されました。
『サッカーは資本主義を象徴し収奪されたスポーツか?』
「大好きな画家・これが私のまなざし」
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6月 6th, 2013 Posted 12:00 AM
多分、私はこのままだとこの画家のことを書いていくだろう。
ニコラ・ド・スタールの人物ゆえに、彼の作品のことです。
忘れたように引っ張り出しますが、
有名になる直前に自死を選んだ性格が見いだしたことです。
彼は何を、見たのでしょうか?
観てしまったのでしょうか?
このことに惹かれる生涯を選んだということかも知れません。
もちろん、私の「プラトンのオルゴール」作品の一つです。
ビートルズの曲は「JULIA」です。
5年ぶりに前回パリに行ったときも彼の作品集を探し求めました。
私は、画家という職能とその作品を、
なぜ、人間は知性と感性の最高感覚として、
知性が選ぶ才能として、絶対に受け止めない人物は貧しいのです。
しかし、最近では、
「デザイン」は、あたかも知性ある人間として、
安易にその指導者ぶりや商業を押し隠している人物を多数、
私は知り尽くしてきました。
アートではないけれど、これがデザインだという、
最も貧弱な知性ぶった人間を蔑んでいます。
高校時代だったら殴っていたでしょう。
それ以上の価値などはありませんから、
命を奪うことはありません。そんな価値も当然無いからです。
先般、現政権の「COOL JAPAN」が海外で受け止められている、
その商業主義の浅はかさを聞かされました。
デザインの職能団体が、
時代と共に衰退していく事を目の当たりにしました。
つまらないイベントに、日常から逃げ出している輩を見ました。
これが「人間界」だというなら、
生涯にその最も汚濁した部位を表現の一つにすること、
それは画家という職能の最大重要点だと断言しておきます。
なぜ、JULIAという音楽が彼の作品と同調するのでしょうか?
なぜ、彼の作品は、最期には色彩が無彩色=まるで墨絵、
白と黒の絵画世界観に達していくのでしょうか?
私は生涯、この気持ちを下敷きにして、
自分のデザインを、日常の汚濁には決して配置しないと思います。
彼の最期の作品(左)は私のPCの壁紙にしています。
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1月 4th, 2012 Posted 12:00 AM
ひょっとすれば、現代人、
つまり、20世紀後半を共時共有してきた全ての人間は、
重大な過ち、いや過ちと言うべきではなく、
生命の根源と、それを授けてきた「神」なる存在、
それは民族それぞれの信仰神への畏敬を勘違いしてきたのかも知れません。
私はここで宗教論的見解を記そうとは考えていません。
もっと簡潔に歴史における様々な「神」なる存在を、
オイコノミアを再読することで再思考したいと思っています。
それは「王座」、すなわち権威と権力は元来は「神」にあって、
その代行者である政治的なリーダーや、
さらにマクロな世界=業界や国際構造での指導者では無いということです。
わが国において、八百万の神は自然であり自然神を象徴化してきました。
あくまでも象徴です。
それはミッシェル・フーコーも読み解こうとした「印徴」=signatureです。
それはまさに、designareというdesign の原語と結びついています。
すなわち、今、designがその本質において、
復興と復活をさせなければならない問題が明確になってきます。
私は「オイコノミア」という
原始キリスト教の教典というより問題仮定書に心惹かれます。
それは、「権威」も「権力」も「神」への賞賛と喝采であり、
賞賛は、キリスト教ゆえの三位一体への畏敬となり、
「生きていること」への感謝が「神」への喝采になります。
やや短絡的な言い方をしてしまえば、
資本主義への清教徒的禁欲主義は忘却されたか、
あるいは廃棄されてしまったのかもしれません。
資本主義的な世界観・国際観である「グローバリズム」こそ、
「神」への冒涜行為だったかもしれないと、
私は考えるようになっています。
すなわち、世界の「王座」は唯一、経済活動の優位者、
その国家中心主義にしたことが冒涜だったのかもしれません。
しかも、それはもっと私たちを
大きな幻覚に引きずり込んでいたのでしょう。
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10月 27th, 2011 Posted 12:00 AM
日常性が忘却させてくれること、
それは、生きていることが死にむかっていること。
そして自分には起こらないであろう不幸さと歴史観です。
3.11は私たち日本人に、3万人の同胞の死と、
被災した人たちそれぞれの多様なる不幸な事件性でした。
ひょっとすると、いや実は、
人類は不幸さを引き込み始めているのかもしれません。
2012年には、世界的に「政治的な指導者」が不明です。
もっともわが国には政治的指導者を失ったままですが。
昨年9月に私は東芝の原子力研究所を見学しました。
「貿易立国日本は、20年は安泰」という確信しました。
つまり、私の生涯は安泰な日本国民という認識でした。
しかし3.11はこの思いを粉々にしてくれました。
幸運であることと幸福であることは、
中国の古典どおりに「幸不幸」の狭間にあることを、
あらためて再確認させられたのです。
28歳で車椅子生活になった私が、
東京を離れる決心をしたのはジョンレノン暗殺でした。
「青春が終わった」という自覚を自分決着させたからです。
3.11以後、東芝にて「復興計画デザイン」に参画しています。
1000年に一度など自分の生涯に重ねたくもありませんでした。
この哀しみの想いにずーっと引きずられてきました。
「復興計画・25のプロジェクト」を書き上げました。
声高な脱原発論でこうしたプランが進行するわけがありません。
東京中心主義を離脱した「日本再生プラン」こそ、
「復興計画から未来デザイン計画」であるべきと考えています。
「幸」とは元来、両手を縛られた不自由さを意味しています。
しかも、私は「電池切れ」、「節電」どころではなく、
ようやくあと5年の「生」が最低保障されたところです。
1000年に一度の「幸不幸」の狭間をしっかりと体験すること。
これこそ「幸運」なことと考えるようになりました。
父母・恩師の死から、ジョンレノン、そしてジョブズの死、
私の生涯での「幸不幸」を、
大津波の廃墟写真を見つめながら勇気を抱いて、
慎重大胆に自分の生涯に引き込んでやろうと考えています。
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11月 6th, 2009 Posted 10:00 AM
ロシア革命に、日本も相当に荷担していました。
さらに、ロシアを敵対した日露戦争は、
真逆に、
私はソビエト連邦の共産主義を強化したようです。
1917年から1991年にソ連は崩壊しました。
おおよそ75年間の共産主義が終わった、
と言っていいでしょう。
そこで、私の見解は、
1991年12月25日のソ連崩壊は、そのまま、実は、
資本主義の勝利だったわけではない、という見解です。
ソ連崩壊とともに、対峙し対決してきた資本主義も、
終わってしまったのです。
むしろ、なんとか、資本主義では不可能であり、
共産主義では、ある種、
共産主義という宗教観にも似た制度では不可能という
その中庸性である社会主義的な
社会主義性を再考するという思考拡大が
世界観として、資本主義先進国家はできなかった、
ということに気づくべきだったのではないでしょうか。
そこには、
民主社会主義と言ってみたり、
自由民主主義での社会的公平性の不可能さを
世界観が、避けてきたのではないかとさえ、
私は思います。
私は、日本が資本主義を標榜していたのも、
敗戦での後遺症だったと思うのです。
「日本株式会社」は、「社会主義」を隠匿し、
隠避していた仮面国家が、発展したのです。
仮面劇・マスカレードとしての
「資本主義国家・日本」、
だったのではないでしょうか?
あるいは、
仮面・ペルソナとしての
「社会主義国家・日本」、
そのマスカレード・対・ペルソナを
見事に演じた民族性が
連綿としていたのではないかと私は考えています。
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11月 5th, 2009 Posted 11:36 PM
革命の指導者達がカリスマ性をもち、
英雄性をたたえられると、
歴史的には、必ずと言っていいほど、
指導者達の中に、さらに、
スターが求められるようになります。
結局、革命の「理想主義」は、
権力闘争となり、
純粋な理想主義の芸術家は、革命家には目障りな存在です。
ウラジミール・レーニン
10月革命時の演説には、カリスマ性があった。
ロシア革命も同じ展開を見せるのです。
しかし、ロシア・アバンギャルドの芸術家は
あくまでも「理想主義」を追い求めました。
なぜなら、
芸術=デザインの表現は、
理想主義を離れれば、
即、それは表現の美は、伝わることは無いと
彼らは確信していたからでした。
私はそうだったと信じています。
だから、
「我々に、新しい形態を!
号泣が聞こえてくる」と、
マヤコフスキーは自死して逝ったのです。
私は、デザインという職能が、
資本主義という、あたかも理想主義に
よりそった「造形形態の表現」であったかも知れないが、
私も、デザイナーという職能家として、
いつも、
「新しい形態を!」と
叫び続けてきた気がしてならないのです。
たとえば、秀吉に対して、
千利休が自死を求められたとき、
利休も、次のように叫びました。
「力囲希咄」と!
これこそ、
芸術表現者、あるいはデザイナーの
「理想主義」の破綻に対する、
憤りであり、美学の叫びだと
私は思い続けているのです。
「茶美会」裏千家への茶杓
「力囲希咄」
Kazuo Kawasaki Design
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