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『サッカー競技が露わにした資本主義社会の監督不在』


   


     6月 28th, 2014  Posted 12:00 AM

ワールドカップ「サッカー」への国益とも思える程の期待、
それは意図されていた資本主義社会の狂乱が日本を包みました。
私は「性愛と資本主義」その最終稿「サッカーと資本主義」によって、
サッカー競技での商業主義としての監督や解説者を批判しました。
それは、敗北を指揮したリーダー力の大欠落を象徴していました。
しかし、それはわが国のサッカーチームがシンボルだっただけです。
・政治における野次騒動においての議長も、
・期待していた現政権の大臣においても、
・地方行政での首長采配の無能さにおいても、
・大企業に及ばず、中小企業の経営者においても、
・学校の校長や学長においても、
・独立法人の理事長においても、
・すべからくの意志決定者指導者は当然として、
間近にいる補佐役でも、私は、指導力・采配力、
補完すべき立場人間にこそ、
いかに、日本の資本主義社会の収奪が露呈していたことです。
かくいう私はどうかということですが、批判者は論外を旨とし
批判すべき立場を棚上げにして陳述を明確にしたいと考えます。
つまり、それはなぜ、性愛と資本主義、それにサッカーが事例、
このことを「監督論・リーダー論」で批判から非難までを
書き留めておきたいからに過ぎません。
私は、資本主義社会でのプレーヤーは倫理的にも「納得と肯定」を
念頭にした諦観を基本とした性愛があります。
この性愛とは世俗的なエロス的ではなく、あくまでもリビドーです。
このリビドーの倫理的な真剣さと真面目さがあります。
比して、監督やリーダーが収奪している醜さには、
身を賭しての「強い反抗」があるべきだと考えています。
少なからず、私はワールドカップでの資本主義が明確に、
中南米やアフリカ諸国に移動あることに注視をと絶叫します。
そして彼の地には、リーダーがすべからく不在であることです。
すなわち、サッカー敗北のこの日本にも、
すべからくの領域でリーダーは不在だということは明化されました。

『サッカーは資本主義を象徴し収奪されたスポーツか?』
「大好きな画家・これが私のまなざし」


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『サッカーは資本主義を象徴し収奪されたスポーツか?』


   


     6月 26th, 2014  Posted 12:00 AM

「結果がすべて」と選手たちは述べました。
ワールドカップのサッカー競技は国家、民族を狂乱させています。
サッカー競技は、戦争終結、その起源の由来なのでしょうか、
人類の遺伝子に暴力性の狂乱性を引き継いでいるようです。
そして、この凶暴性は、見事に近代国家において、
「平和なスポーツ競技」への勝敗事に変革させられました。
スポーツ=勝敗事はさらに資本主義経済でのビジネスモデルです。
しかもワールドカップというフェスティバルに、
凶暴性は驚喜性・狂乱性でも法治化されたことは進歩でした。
この驚喜性が、情報時代、マスコミの淺智恵によって、
「興行的商業主義」に押し込められてしまった哀しさは明白です。
日本の敗北の理由を改めて問いただす理由などはありません。
しかし、サッカー競技を資本主義経済で「興行化」した無能さは、
グローバルで技術技能、心技体を精進させてきた選手には、
「敗北」その背景的実体は明らかにすべきだと考えます。
私は、実績無い指導者や解説者、まして監督は力量不足です。
今回の日本チームで私が認めるのはグローバルで、
精進と研鑽してきた選手たちのみであり、
国内ローカルチームでの選手は、経験で容認できます。
けれども、解説者、さらに監督は無能だと断言すべきです。
たとえば、大学人になって実績も無い教員が、
学生達に「課題や講義」することを徹底的に批判してきました。
「自分の経験に勝負で勝った経験の無い」人間と、
それを興行イベント化したマスコミの不純性は露呈すべきです。
「サッカーと資本主義」という、一文が日本にあります。
サッカー歴史の系譜が、資本主義経済化で驚喜性と狂乱性で、
社会の見せかけであっても正当性と平和性の意味は偉大でした。
グローバルな選手たちをさらに結束出来なかった監督、
そして、マスコミの手先にしかなりえなかった解説者によって、
日本の敗北は、国益勇気を穢した輩だと私は思います。
なぜならば、サッカー競技を資本主義の正当性をルール化した
「オフサイド」こそ、狂乱以前に驚喜性にした智恵でした。
中南米やアフリカ新興国からのグローバルな選手たちの存在、
それは、欧米の、あるいはアジア新興国、日本自体、
「未来の資本主義、そのあり方」を象徴していたものと、
私は、日本の敗北を位置づけています。
私のサッカー競技への思考を補完するならば、
是非とも、「性愛と資本主義」増版の最終稿には、
「サッカーと資本主義」は語られています。
この精読をしながら、今だからこそサッカーどころではない、
紛争・内乱・戦争はさらに拡大していることを意識すべきです。


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『ワールドカップは人類の驚喜構造が今なお連続している』


   


     6月 11th, 2014  Posted 12:00 AM

日本流呼称には「サッカー」があります。
今ではスポーツ競技が資本主義経済を背景とし、
資本主義経済国家でなくても、
この競技には地球人すべてが驚喜します。
その驚喜は好戦性と民族性を歴史的にも、
根強い心理構造をため込んできた、今はスポーツ競技です。
サッカー、絶対に手を使わない足だけでの競技は、
元々の歴史的な動機や系譜は抹消せざるをえないほどの好戦性を
見事に資本主義経済での商業化を成功させたと言えるでしょう。
おそらく、日本中の子ども達にはこの選手になる夢があります。
私世代では、小中時代は野球であり、高校あたりから、
このスポーツ競技を知りました。
私は、野球やサッカーのプロ選手たちはすべからく、
修練と精進を重ねているスゴイ人たちだと思っています。
そういう意味では、好戦的でフリーガンと呼ばれる連中が、
歴史的な系譜での驚喜の構造をいまだに残しているからこそ、
私は人類が驚喜性・狂気性までを閉じ込めたのは知恵だと思います。
間もなく、開催地そのものが超犯罪都市でワールドカップです。
願わくば、観戦に出かけた同胞には何の犯罪も無いことを祈ります。
このような犯罪都市に日本人が居るならば、
自衛隊員が守備すべきだとさえ思ってしまいます。
日本人は自国で国民を護り抜く、そんな国家であるべきです。
この競技で選ばれた選手たちは各国の商業チームのヒーロー達です。
このゲームの驚喜の構造こそ好戦的傾向を資本主義ゆえに、
進歩させた人類の方策として私は賛同しています。
Best8にまで到達し、観戦客の無事を祈るばかりです。

「絵画に惚れることの重大さ」
「なでしこJAPANと国民平等意識」
「新たな日本ブランド・なでしこJAPAN」


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6月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 13th, 2010  Posted 12:26 PM

6月13日 赤口(甲午)

若者たちよ、
君たちは彼らが生んだ債務を
背負わされるのだ。

リーダーシップを身につけるよう
錬磨してほしい。
ワールドカップで、
全世界が浮き足だっているときに、
世界の勢力分布の地図が塗り替えられている。

『デザインは言語道断』勢力


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