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Posts Tagged ‘経済活動’


10月5日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 5th, 2013  Posted 4:16 PM

10月5日 甲寅(仏滅)

経済活動のための
欲望の刺激装置としての
デザインの時代は終わった。

『デザインの極道論』むなしい


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「翻弄停止せよ、自己決定意欲の再設定」


   


     6月 3rd, 2013  Posted 12:00 AM

5年3ヶ月ぶりの平均株価化で現政権は安定しました。
「March 11, 2011」は決定的に前政権が素人集団だと露呈。
わが国の政治異変時にはどういうわけか、
天災を受け国家は破滅して国難になります。
さて、政権は一応安定をしてくれましたが、
「アベノミクス」とまで呼称される経済活動の再興は、
このところ、大変な株価変動を起こしています。
「株高・円安」で、景気感はまさしく躁鬱病の繰り返しです。
私の経験実感では、日本の日経平均株価は13500円が順当です。
13500円の景気が、日本人全体に「中間層意識の安定」と、
保守性あるグローバル経済下での鬱病でも安心状態を維持。
これが私なりのデザイナーとしての経済不安感の抹消策です。
ところが、TVなどで見かける経済評論家の二分された、
アベノミクス肯定派と否定派の論説は下品な受け取りに終始だけ。
かつてのニューディール政策そっくり真似事だと言えばいいのです。
したがって、経済動向には確実な二つの読解能力が必要です。
  ● 平均株価の政治策略的な支配
  ● 平均株価の自然景気的な支配
この二つで、経済動向、経済動乱の距離感測定を
自己決定できる能力の養成プログラムが必要だと思っています。
比して、素人判断は政策餌食にすぎません、しかもです。
この動向・動乱に、知恵無きマスコミは扇動報道しか出来ません。
私は、デザインクライアントの経営方針と自社株変動には、
この二つの支配感覚と自社株との距離感測定能力を見詰めます。
つまり、
政治策略的な支配は明らかに「選挙資金の蓄積」だと割り切り、
自然景気的な支配は「国債持ち株の企業内戦略」の再整理が必要。
「お金のスピードと株売買スピード」、この速度ある流動感は
デジタル制御により「経済学」は慣れ不足と学域は破滅してます。
 ・選挙が近い、
 ・国難はさらに厳しい、
 ・待ち受ける天災には予知不可能、
 ・慣れすぎた鬱病国家経済体質は変わらない
 ・解放不可能な国家観意識は二分対立性を明確
こうした見方で平均株価の動向と動乱を自己意識で決定していく、
まさに「保守安定」の求め方、
そのシナリオデザインだと認識しています。


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「『突然変異』・決して起こってほしくないこと」


   


     4月 16th, 2013  Posted 12:00 AM

私自身、ウィルスの怖さは身体的に熟知していると思います。
だから、私が最初に懸命に読んだ論文は「狂牛病」でした。
英国の医学系論文誌にこれが掲載された3年後に、
日本で一般的な話題になりました。
それから、
『ウィルス発生の突然変異』が気がかりの一つになりました。
様々な『突然変異』が起こっています。
私のふるさと福井の海の越前クラゲも、
中国河口での工業廃水での変異現象でしょう。
そして、この『突然変異』は、
地球の温暖化や急激な経済活動での結果。
この二つに間違いないと私は判断しています。
なんと言っても、
日本列島に熱帯地方生息の生物が現れれば、
これは『突然変異』を必ず引き起こすものと考えています。
したがっておそらく、
私たちが知らないこの現象は、
増加していると考えておくべきでしょう。
最近、鳥インフルエンザが決定的な死因になってしまいました。
私もまさかと思っていたインフルエンザで2度も入退院をしましたが、
インフルエンザの起因菌は、一段と強化されているようです。
それが、中国で、確実に起こって、
死者が出てきているという報道は相当に疑わしいと思っています。
中国の報道にはまったく信憑性は皆無でしょう。
そして、私がこの鳥インフルエンザどころか、
かつて亜熱帯だった日本列島の自然気候現象が変貌したかぎり、
私たちが想像もしていなかった、
『突然変異』が発生する可能性は進化しているでしょう。
熱帯の蚊が北緯を上げ、その蚊などを媒介にしたり、
中国のスモッグが、
わが国の自然界で新たな『突然変異』を起こすと考えられます。
私が取り組み始めた「危機管理デザイン工学」では、
この想定が相当に大きな位置を占めていくと思っています。
新たなウィルスに対する危機管理は、
医工学と直結して「命の安全性」をデザインしていくことになるでしょう。
そういう意味では、書き切れないほどの『突然変異』を想像し、
必ず、想定内としての「危機解決」が望まれるものと考えています。


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「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」


   


     1月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

ひょっとすれば、現代人、
つまり、20世紀後半を共時共有してきた全ての人間は、
重大な過ち、いや過ちと言うべきではなく、
生命の根源と、それを授けてきた「神」なる存在、
それは民族それぞれの信仰神への畏敬を勘違いしてきたのかも知れません。
私はここで宗教論的見解を記そうとは考えていません。
もっと簡潔に歴史における様々な「神」なる存在を、
オイコノミアを再読することで再思考したいと思っています。
それは「王座」、すなわち権威と権力は元来は「神」にあって、
その代行者である政治的なリーダーや、
さらにマクロな世界=業界や国際構造での指導者では無いということです。
わが国において、八百万の神は自然であり自然神を象徴化してきました。
あくまでも象徴です。
それはミッシェル・フーコーも読み解こうとした「印徴」=signatureです。
それはまさに、designareというdesign の原語と結びついています。
すなわち、今、designがその本質において、
復興と復活をさせなければならない問題が明確になってきます。
私は「オイコノミア」という
原始キリスト教の教典というより問題仮定書に心惹かれます。
それは、「権威」も「権力」も「神」への賞賛と喝采であり、
賞賛は、キリスト教ゆえの三位一体への畏敬となり、
「生きていること」への感謝が「神」への喝采になります。
やや短絡的な言い方をしてしまえば、
資本主義への清教徒的禁欲主義は忘却されたか、
あるいは廃棄されてしまったのかもしれません。
資本主義的な世界観・国際観である「グローバリズム」こそ、
「神」への冒涜行為だったかもしれないと、
私は考えるようになっています。
すなわち、世界の「王座」は唯一、経済活動の優位者、
その国家中心主義にしたことが冒涜だったのかもしれません。
しかも、それはもっと私たちを
大きな幻覚に引きずり込んでいたのでしょう。

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8月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     8月 27th, 2011  Posted 9:30 AM

8月27日 甲寅(仏滅)

経済活動のための
欲望の刺激装置としての
デザインの時代は終わった。

『デザインの極道論』むなしい


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『資本主義からの逃走』
「物質・形容されるモノの価値とモノの形容価値」


   


     5月 25th, 2010  Posted 12:01 AM

モノ価値
モノ=人工物質を私は意味しています。
が、このモノは製品もしくは商品です。
そしてこの製品価値・商品価値は、「形容」されること、
あるいは価値の形容というのは現代性の社会観、
その価値付けが最も重大になってきています。

かわいい
たとえるなら、「かわいい」という価値感があります。
私は「かわいい」というのは価値観にはまだ至っていない、
この認識が明確にあります。
つまり、「かわいいモノ」と「モノのかわいさ」が、
そのまま商取引・資本投下での投資効果になるわけです。
この投資効果こそ、経済活動の活性度になっています。
この活性度が、資本主義経済の現代性になっています。
特に、先進国家や自由資本主義経済体制が整備された市場では
顕著な価値感覚になっています。
まず、「かわいいモノ」というのは、
物欲に対して「好き」という感覚のある意味では、
直感的であり、幼稚さや、所有感覚の素直さに連動しています。
それに対して、
「モノのかわいさ」というのは、
そのモノと自分との対照性を顕示する物欲になっています。
そのモノを所有することで、
所有者自身にかわいさを反映・反射させることに連動しています。
あらためて、その「かわいい」という形容価値には、
モノ価値論を、「形容」という付加性があるということになります。
そこで、もう一つの「形容」をあげておきます。


それは「品のいいモノ」と「モノの品性の良さ」です。
これもほとんど、「かわいい」と「品」が、モノに対しての関わり方、
構造性につながっていることは明らかです。
この構造性こそ、デザインの本質につながっています。
そして、私がデザイナーとして目指すべきは、
「品」・「品格」ある品質を「形容」できるモノのデザイン。
デザイン設計による「品のあるモノ」・「モノの品格」です。
無論、「かわいい」という形容にも、
「品性」があることは充分に理解し容認する姿勢です。


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『資本主義からの逃走』
 「社会保障としての医療制度は、資本主義では不可能」


   


     2月 11th, 2010  Posted 10:00 AM

医療というFormation
DynamicsとFormationを先行させてしまいました。
医療こそ、人間の「生老病死」への科学的対応です。
したがって、「生老病死」を経済論理では語れません。
生老病死
「生老病死」はまさに、Dynamics論理が不可欠です。
さらに、医療はFormationによって、
その解決を計れれば、「幸運」であり「幸福」です。
経済活動の格差が、
そのまま医療制度に反映されることになれば、
「生きる」という連続性は経済とはLogarithm的です。
無論、「死」は万人に平等です。
平等は、「生きる時間」が限定されていることであり、
その平等性は、Dynamicsであって、
いわゆる寿命には格差があることは明確です。
医療制度を社会保障する、というのは、経済論理が
まったく適合していません。
むしろ社会主義としての平等性を、
担保する必要があります。
それは、資本主義的な医療は「生死」すら経済性で、
決定づけてしまうということになります。
せめて、「生死」と医療を結合させる論理は、
Formationを社会構造に組み込んでいくことですが、
その論理あるいは制度設計の方法は発見不可能です。
したがって、
医療Formationを社会保障制度にするには、
それを医師・看護師・医療従事者だけに委ねることから、
決別する時になっているのです。
ましてまだ治癒不可能と言われている難病・癌などに、
「社会保障としての医療制度」は、
デザインが入り込んで、制度設計と環境設計に
「向き合う」必要性が見えています。
私は、デザインは、「命を護る・守る」ことまでは、
決して出来ないけれど、
いのちと向き合うデザイン
「いのちと向き合う」ことは出来るということを、
実践第一から制度設計へと、
向かわせることをめざしています。
Formationというのは、
本来自然の中での生物の「生死」競合性の制度です。


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11月11日川崎和男のデザイン金言 Kazuo's APHORISM as Design


   


     11月 11th, 2009  Posted 12:00 PM

11月11日 先負(庚申)

経済活動のための
欲望の刺激装置としてのデザインの
時代は終わった。
そのことを、
プロであるデザイナーがまず
誘導し主導しなければならない。
もし、
経済や産業に
デザインが与するとするなら、
それは、わが国が
貿易立国として存続していく
戦略や戦術としての
デザインである。

『デザインの極道論』むなしい


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