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Posts Tagged ‘意味性’


「イスで物語れること・メディアになるイス」


   


     2月 22nd, 2012  Posted 12:00 AM

デザインという手法は、言葉を持つことができます。
それは単なる造形言語、
あるいは記号論的な意味性という小難しいことではなく、
単純明快な比喩です。
これはその一つの商品にまでした作品です。
日本ではそれなりに商品になりましたが、
海外では大きな評価を受けました。
80年代、New Yorkのブルックリンは治安が悪く、
その再開発計画で、国際家具センターが新設されました。
世界中の家具取引をセンター規模でというきっかけを創った最初でした。
そのオープニングで、世界中から400点のイスが選抜されました。
日本からは、たった5点しか選ばれませんでした。
私のこのイスも選ばれ、
最終的にはグランプリ候補5点に入りましたが、
親友のイスがグランプリになりました。
このイスのテーマは「休息」でした。
休息の無い人、それは兵士です。
だから、まず兵士は迷彩服の戦闘着を脱ぎ捨てること、
そして、大砲や銃身をグニャリと曲げてしまうこと、
背もたれがその砲筒を曲げたことを比喩しています。
したがって、裸になった兵士と戦闘不能ゆえ、
兵士に休息があるということは「平和」に繋がるのです。
「譬」表現のメディア化を試みたイスです。
「平和」表現するポスターと
同等のインダストリアルデザインをめざしました。
そして、日本の座布団を積み重ねた形態です。
「TON TON」という商品名でした。
イスは、その造形によって物語りを用意すれば、
まさしく、比喩、直喩、換喩、隠喩によって
象徴的なメディアにすることができます。
次世代デザイナーに試みて欲しいことです。

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『資本主義からの逃走』
「日本語が曖昧になって現代認識の観念化を誤るかもしれない」


   


     5月 31st, 2010  Posted 7:17 PM

曖昧さ検証へ
私は次の言葉も、「情報」のように曖昧にしていると考えてきました。
福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学
しかもこうした言葉は、「現代」・「現代の問題」を抱え込んでいますから、
大学や行政でも、とても重要視される言葉です。
にもかかわらず、私は、こうした言葉が曖昧になってきたのは、
おそらく三つの理由があったのではないだろうかと推測しています。

■ まず、国際的に「英語」表記が拡大し、
 グローバル用語と日本語との対照訳語、その意味性に距離観がある。
 しかし、その検証を放任している。

■ すでに日本語として確立している言葉だけに、
 現代的意味性がどれほど付加しようと、
 こうした現代性を引き出してまで検証はしない。

■ 既知の意味性、その認識がすでに常識であるために、
 最も通用する、という大錯覚があるにもかかわらず、
 ラングでありパロールとして社会的、絶対的な信用語としている。

私は、すでに日本語として既知認識となっているこうした「言葉」こそ、
その意味性には慎重でなければならないと考えてきました。
特に、現代問題の核心となっている「言葉」は、まず概念よりも観念に直結しています。
したがって、デザインワークの前提には、
「コンセプトワーク」・「コンセプトメーキング」という段階があります。
あくまでも「コンセプト」ですが、
これは必ずしも「概念」で捉えるだけでは不十分です。
私は、「コンセプト」は日本語になっていると思います。
Conceptとコンセプトには距離観があります。だから「概念」より「観念」です。
コンセプトには「概念+観念+問題意識」が不可欠だと考えます。

「環境」という言葉を事例に
たとえば、『環境』という現代、最重要な言葉においても、
「環境=Envilonment」というわけにはいきません。
それは「環境」という言葉には、
日本語になるまで中国からの連綿とした歴史があります。
なぜなら、東洋では「元史・余闕伝」から周囲論という意味、この言葉から始まります。
そして西洋ではヒポクラテスの時代に、
「空気・水・土地」から生態論へ移行して意味の集約に入ります。
この二つの文脈から、「環境=Envilonment」この等式には無理があるようです。

曖昧さの利点と欠点
結局、現代問題の核心となる「日本語」、
そして国際的な英語の訳語としての隔たりと
漢字での表記意味の正確さを対照化するべきと考えます。
そこで、私はこれを「近さの概念」=トポロジー的概念として捉え直す、
その数学的手法も熟考方法になると確信してきました。
その具現化の応用も適用し、評価を受けてきました。
あらためて、日本語の曖昧さの利点と欠点に、
実は「観念」から「概念」
そしてコンセプト・Conceptの文脈があると結論化しています。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:01 AM

私は、「情報」という日本語が、
次のような意味合いを統合しているとしたら、
すでに曖昧な言葉に成り果てていると思っています。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

私は「情報機器」という製品アイテムを対象として
デザイン成果も生み出してきたと自負しています。
それだけに、すでに新たな「情報機器」を概念と観念で再考しなければ、
次々と進化する機器設計そのものと、
人間との関係が成立しがたいのではないだろうかと考えるようになりました。
したがって、特に、デザインを職能とする人や、
情報工学、環境情報、情報制御、医療情報などすべてが、
「情報」の意味と意義がどこまで、
日本語ゆえに曖昧であるのかを検証するべきだと提言します。
企業情報戦略も国家情報戦略も、
これからのネットワークの進化に対して、
この日本語でいいのかどうか、
あるいは、日本文化が伝統としての「曖昧さ」が本質であるとするなら、
その曖昧さの再利用を創出する時期になっていることを提案したいと思います。
そうなると、「情報」だけではなく、
再考し新たな概念と観念の言葉そのものを探し出す必要があると考え提示します。

たとえば、次のような日本語が考えられます。
以下の言葉については、この20年ほどいつも熟考対象にしてきた言葉です。

福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学

などです。
そして、こうした言葉がもっとも多用され始めている大学、その学部名や学科名、
そのコンセプトやアジェンダやスキームなどに対する
大きな懸念性と疑念性を捨て去ることができないのです。
この懸念性は私に突然、襲いかかってきたある種の不安感でした。

「デザイン」提案の大前提
なぜなら、将来・未来は、「言葉」から始まります。
さらに、わが日本には、「大物主」「事代主」によって、
物質と情報は決定づけられた伝統の文脈があるからです。
決して、この論理は宗教論でも、神がかりな論法でもありません。
真摯に「未来づくり」へ文化への新しい文脈づくり、
すなわち「デザイン」提案の大前提なのです。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 29th, 2010  Posted 11:27 PM

曖昧性
ある有名情報機器メーカーがかつて、
「情報」とは、「情けに報いる」という広告コピーを出したことがありました。
なんとなく、人情味の交換という意味性を匂わせていますが、
厳密には、「情」は心の中の黒ずんだ感覚であり、
報はそのやりとりが縛り付けられていることというのが原意との解釈ができます。
それは、あまり良い意味性ではなく、
「情報」という表層的な意味の軽量観になっているということです。
したがって、「情報」というのは、四つの意味性で取り囲んだ核心に配置すべきだと考えます。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

以上のことを熟慮すると、「情報」という集約語には収束はしないのです。
むしろ、こうした「伝達性や伝導性の事項」の統合性を一言で言い切ること、
断言できる言葉が必要だったわけです。
「情報」という言葉に収束させて生まれてきた言葉、
「情報」が冠詞的となった、たとえば、情報工学や情報操作などがあります。
「情報」が結語的となった、個人情報やデザイン情報など、
すべからく、包含されている意味性が部分的であり、
なおかつ、誤解される要素に満ちていたものと判断します。
だからと言って、今さら「情報」を日常語から外すことは不可能かもしれません。
したがって、私は、情報を取り囲んでいるこの四つの意味性の総合化を諮るには、
「モノ」=物質=人工物が発明されなければならないと考えています。
この判断は、過去事例に明らかです。
「マルチメディア」という「マルチ情報」をコントロールするモノが結局は登場しなかったこと。
さらには、本来、Informationでしかなかったジャーナリズム思想は、
なんらメディア=新聞・雑誌・ラジオ・TVなどの
モノの形式から解放されなかったのです。

曖昧さからの解放と再利用
だからこそ、思想としての変革は置き去りになり、
電子書籍という形式とそのモノの登場がありました。
その発明とか登場によって、大きな驚愕とともに、
マスコミすら変質あるいは喪失すらするという不安が拡大しています。
私はあらためて「情報」という日本語に押し込められた意味性の曖昧さを指摘し、
この曖昧語からの解放、あるいはこの曖昧さの再利用が必要だと評価しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「# チュッパチャプス武器論・結論という展開へ #5」


   


     3月 24th, 2010  Posted 12:01 AM


たかが、されどチュッパチャプス

たかだか飴ごときモノに私は囚われました。
自宅のあちこちに置いています。研究室にもです。
出張の時は「忘れないモノ」の一つです。
それは、されど飴なのに「チュッパチャプス」は武器。
武器になる飴=モノだと発見したことから始まりました。
さて、
武器は、ツールでありメディアなのです。
そして武器は、平和装置になるモノです。
威嚇性や抑止性というある種恐怖感への刺激装置です。
ところが、現代のモノには、根底では恐怖感があります。
私の生活はなるほど快適ではあるけれど、
これが地球的規模では大丈夫だろうか、などというのは、
恐怖感があると言うのは言い過ぎでしょうか。
すなわち、モノの、
実在性・機能性・構造性・象徴性 が変革し始めています。
たかだか飴です。
それが、ツールになったりメディアになったり、武器です。
結論は、
ツール+メディア=武器がもし成立するなら、
● 武器ーツール=メディアが成立するのでしょうか?
● 武器ーメディア=ツールが成立するのでしょうか?
という今後への展開を思考していく新たな問題です。
私は、「チュッパチャプス」を題材にしながら、
実在性・機能性・構造性・象徴性が
性能性・機能性・効能性・神話性へ
ツールであれ、メディアであれ、意味性=情報性が
大きく変貌しているということは確かです。
そして、この変貌への展開文脈=contextとsyntaxは、
「武器」の定義性では次の両面において
自己防衛モノもしく専守防衛モノということの論理の有無です。
それは実存化させている論理の再確認でした。
武器であることの実存性ということを結論と考えています。
武器=ツール+メディア、
その形式と内容が情報化されればされるほど変容は起こります。
それは存在していることの意味性の確認と、
今後への予測を明確にしないかぎり、
モノのデザインは不可能だということになります。
たかが「チュッパチャプス」でしたが、
武器・ツール・メディア、それぞれに、
されど「チュッパチャプス」を論理で舐め舐めしてください。
この「チュッパチャプス武器論」が、
デザインの下敷きになることを希望しています。


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『資本主義からの逃走』
 「ケータイを焦点化するエスノメソドロジー」


   


     3月 16th, 2010  Posted 1:56 AM

Ethnomethodology
「エスノメソドロジー」という学域を知ってから、
すでにどのくらいでしょうか。
人間が無自覚でも、認知と行為の接点ということを、
ミクロな社会学という観点は、デザインサーヴェイでしょう。
私はそうした接点を「Point of Contact 」と呼びます。
しかも、認知と行為を「会話」という関係論で、
ということは、まさに、Point of Contact=ケータイです。
「会話」は確実に、
人間関係=社会学的な存在関係を決定しています。
そのツールであり、メディアでもあるケータイを定義可能です。
現代、「無くてはならないモノ」がケータイであり、
「無くても一向に構わないモノ」もケータイといわれています。
つまり、日常生活での、関心と無関心との両面性あるモノです。
しかし、すでに現代人にとって、ケータイの存在は、
明らかに、自分の人間関係はもちろんですが、
PC機能も統合化されて、
自分の能力の支援すら果たしてくれるモノとなってきました。

● 実在性
● 機能性
● 構造性
● 象徴性

これは、ケータイが日常生活に登場し「実在性」となり、
さらに「機能性」の拡大が始まりました。
今ではすっかり、認知と行為の「構造性」が、
Smart Phoneに進化していると考えることができます。
今では、「どこのケータイを使っているか」という、
その使用者の「象徴性」に至ろうとしているモノなのです。
作法性
それだけに、モノとしての形態から、
所有性と使用性への、認知と行為、すなわち「作法性」は、
現代の民俗的意味性、「エスノメソドロジー」という社会学、
その代表的な対象になってきています。
したがって、ケータイの形態という意味性は重大です。


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2月20日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 20th, 2010  Posted 9:00 AM

2月20日 先勝(辛丑)

これをテキストにして、
私のデザインで生み出すかたちが
ある種の激しさを帯びたり、
過剰なまでの意味性を加え、
それを社会に対して
突きつけることを勇気づけてくれる。

『プラトンのオルゴール』
花鳥風月、風のごとくデザイン


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『資本主義からの逃走』
  「Bit資本主義の数式論「デザイン数理学」へ・2」


   


     1月 9th, 2010  Posted 9:00 AM

e-Management

AtomからBitへというのは、
パーソナルコンピュータが日常化した結果です。
そして、次のようなマネージメントの言葉、
その手法は戦略論になっていきました。
100109emanagement

すべてに「冠詞」=「e-」によって、
コンピューターをビジネスツール化したことです。
e-=electoronicsであり、
それはデジタル化という意味性を包含していました。

exponent

この「冠詞=e-」を私は、exponentという概念、
数理的な概念として理解していくことが正しいと
判断評価しています。
exponentは、数学術語では「指数」といいます。
そして、
数理論的には代表的には三つの思考算式があります。
私はこれらの思考をデザイン思考として援用する、
ということをめざしています。
「デザイン数理学」を、
大学人として提案するのが夢です。
それは、明らかに、Atom産業がBit産業として、
新たな経済イデオロギーへと向かうという予感が
あるからです。


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