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Posts Tagged ‘パソコン’


『資本主義からの逃走』
 「色彩感覚とCAD感覚・05」


   


     1月 23rd, 2010  Posted 6:00 AM

Claris CAD
ALIAS本社でのCGトレーニングと同時に、
私はパソコンをデザインツールにすることに没頭。
2D-CADを追いかけていました。
最初に福井キヤノン社長=高校時代親友が、
Canonのパソコンを持ち込み、
プロッターまでそろえてくれました。
だから、当時は、相当高額だった「ワープロ」まで、
彼は提供してくれました。
結局「Claris CAD perfect manual」を上梓するまで、
のめり込んでいたのです。
この本はすでに廃刊ですが、
日本で最初のCAD教則本であり、
当時のパソコンCADについて米日での私の比較論を
書き上げていると思います。
なにしろ、MS-DOSからMacでの2D-CADは、
私を3D-CADに、
今では4D-CAD開発にまでいたっているのです。
1984年のMacintosh以来、ズーッとMacですから、
一時期は、NeXTSTEPもありましたが、
Mac OS Xになって、EWSのUNIXも、
私の体験の中で培われたのだと思います。
今、bit世界に、「点・線・面」思考も、
bit色彩感覚論も、
私のデザイン手法を再構築し直してくれました。
よく、「コンピューターでデザインが変になった」、
とか言われる方々がおられますが、
それは「まったく間違っています」。
コンピューターに向かえば向かうほど、
そしてコンピューターでの限界を知り尽くせば、
「本来のデザイン」を二つの視点から捉え直すのです。
その結果が、
私が「手描きスケッチ」の重要さを主張するわけです。


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『資本主義からの逃走』
 「数理造形から見えてきたAtom時代の終焉 ・03」


   


     1月 21st, 2010  Posted 1:00 AM

MacWorld
SIGGRAPH
米国では、まずMacWorld(見本市)、
そしてSIGGRAPH(学会)に何もわからず、
ほとんど物見遊山感覚で出かけました。
1985年から毎年、夏と冬に出かければ、
車倚子で日本人、すぐに質問する人物として、
多少目立つようになっていたのでしょう。
ところが
帰国すると、日本はNECの98シリーズが、
圧倒的なパソコン社会になっていました。
この頃から、
日本のデジタル時代は良くいえば独自性、
悪くいえば、
このままでは必ず取り残されていく、
という予感が疼き始めました。
その感覚は現在、確実に明確なものになっています。
つまり、わが国は「まったくBit社会・Bit資本」は、
未だに見えていないと考えています。

ニュージャージーにALIASというCG会社のブランチを
訪ねたことがありました。
ちょうど米国のデザイン誌に私の名前と作品が、
掲載されるようになっていたので、
それだけが「自分を紹介」する手立てでした。

もう一つは、まさにバブル直前であり、
福井銀行がNew York支店を開設直後でした。
だから経済的な支援は「福井の情報化」ということを、
大儀として福井市の青年会議所へ提案していたので、
「IRIS 3030」を直談判で発注しました。
7000万円でした。相手もとてもびっくりしてました。
国内ではこの2倍だったのです。
そうしたら、
「君は、初めてやってきたクリエーターだから、
2台持っていっていい。日本は商社マンばかりで、
本当に我々のめざしていることが分かってはいない。
だから、カナダ本社でトレーニングを受けないか」、
という申し出を受けました。
私は、翌夏からトロントにて、CGの基本をUNIXで
学ぶようになったのです。
bit感覚の衝撃
そこでまず、
「色彩」表現のbit感覚に衝撃を受け、
デザイン世界に「ツール化」していくだろう予測は、
確実なことになっていきました。


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『資本主義からの逃走』
 「e-JAPAN、常に失敗する政治政策だから・・・・7」


   


     1月 14th, 2010  Posted 1:00 AM

e-JAPAN から i-Japan

すでにデジタル社会になった時から、
たとえば、Junetがすでに動き出した時にも、
わが国の政治は無関心でした。
その後、私はほとんどのパソコンからスパコンまで、
当時の政治が何を重要視し、
「遅れながらも追随」しようとしたか知っています。
中でも「出来るかも」と思ったのは、「Σ-Project」、
そして「e-JAPAN」がありましたが、
これはもうネーミングで大きな間違いがありました。
すでに、i-Macが、ある種のブームになっていました。
つまり、「e-冠詞」の時代から「i-冠詞」へと、
時代は志向して、社会は「i-冠詞」を希求する、
ということが見え始めていました。
「i-Article」の時代と社会がwebになっていたのです。
すなわちi=虚数=imaginary numberのように、
難しい表現では「フェーザ表示」が起動したのです。
私は、「i-冠詞」=虚数というバーチャル語彙表示、
だと言いたいのです。
だから、「i-Japan」構想が不可欠だったのです。
「e-JAPAN」から、日本の携帯電話、
その技術は「世界から取り残されました」。
ちょうどDoCoMoがFOMAを世界基準にという、
そんな企画に、私も参画したことがありました。
私の発想は、多分、理解されなかったのでしょうが、
プレゼンテーション中断し、その仕事を放棄しました。
以後、ケータイは日本だけの「特殊な文化」に育成。

政治ー産業ー消費ー制度ー風俗

私は、それはそれでいいと思っていますが、
私自身は、政治ー産業ー消費ー制度ー風俗を傍観です。
結局、もはや日本では、「スマートフォン」さえ、
技術開発とデザインは不可能産業になっています。
その発端は、政治政策「e-JAPAN」のかけ声だ!
と思っています。

e から i

なぜ「eからi」だったのかは、重大な課題です。


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『資本主義からの逃走』
  「Atom資本主義が終わって、Bit資本主義の数式・1」


   


     1月 8th, 2010  Posted 8:00 AM

Bit Capitalism Equation

Bit資本は、パソコンの出現時にスタートしました。
けれども、Atom社会が資本主義というイデオロギーと、
ともに終わっていったという意識は、
全世界が認識することができなかったのだと思います。
私自身,デザイナーとしてパソコンをデザインツールとし、
しかも、
研究対象から趣味対象としながら気づきませんでした。
光造形システムで、「トポロジー空間論」や、
3次元CADから4次元CAD=「遺伝子操作のデザイン」へ、
さらに、その医療=命と向き合うデザインまでを
「デザイン対象」にしてきました。
ところが私の脳内の一方では、
再びマルクスの「資本論」・「経済学批判」にもどりつつも、
「数式」に書き換えるということにまでは気づかないという、
まったく別次元でした。
しかし、やはり、
このAtomからBitへの時代転換を「数式」にしてみます。
「数式」などというのはブログではさらに「重い」でしょう。
ひとまず、
「アルゴリズム」、いや、「数式的記号」に表現してみます。
そうすると、



とてつもない「不思議さ・?」と「そうだったのか・!」が
結びついたのです。
それをこれから記録していくことにしたいと思っています。

exponent

exponent=「e」の世界観
そして

imaginary

imaginary number=「i」の世界観が、
ぴったりと、Bitの世界の冠詞になっていたのです。
この数式あるいはアルゴリズムの進化を見極めれば、
「資本主義から逃走」して、
新天地に入ることが可能だとわかりました。


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『資本主義からの逃走』
 
*「資本主義の終焉は、
  ブログ形式の中に隠喩となっている」*


   


     12月 23rd, 2009  Posted 10:00 AM

2009年、歳末になろうとしています。
私にとって、この一年は、
教育・講演・研究・開発・提言すべてを
デザインで包み込んだ活動でした。
もっともちょうど60歳・還暦で生命はつながっていす。
ブログ本論のタイトルは、「華甲我之発言也」です。

華甲発言

「華甲」とは還暦・60歳を意味する
古代よりのレトリックとして美しい言葉です。
デザインの世界に入って、
ほとんど休日休暇は持たないデザイン連続でした。
ただし、時に、「死に際」に至ることや、
「死」の予感が私の生体を追い込むことはしばしばです。
そして、その「死線」から帰還すると、
必ず、私にはなぜか大きなテーマが振り降りてきます。
●「なぜ、このスケッチを描くのだろう」
●「なぜ、今こそ、どう非難されても発言しよう」と
なります。

日本のかたち

このブログで、とうとう「資本主義と民主主義」への
私の持ち続けてきた「歴史観、それも敗戦という軸」に、
知識を整理して、いわば暴論となろうが、
この思索は、私のデザイン手法での「日本のかたち」、
その試作だと思ってください。
●それは壊れかかっていたり、
●すでに壊れたり、失ってしまった「日本のかたち」を
デザインし直すこと。新たなデザインを生み出すこと。
この二つを差し出そうということです。
だから、このブログは、一度こうして掲載した後も、
さらに「校正」を何度もしているのです。
おそらく、ほとんどの読者の方々は一度読んで、
●「まぁ、そういう見方もあるか」とか
●「過激だな、何をそこまでも」とか、でしょう。

私は、ブログという形式がすべからく「日記風」の
感想報告文体であることを残念に思っている立場です。
残念であり、無念であり、
文体に載せる言葉の貧しさに、「不景気さ」=鬱を
見抜いてしまいます。

「不景気という不気味さ」

なぜなら、
私は確実にコンピューターのエバンジェリストでした。
だから、特にパソコンとネットワーク、インターネット、
それらの進化はつぶさに実体験し、そのシステム創りや
デザインに関わってきましたから、
ブログの形式が日記風・感想文風ということに陥っている
その「不景気」さは「不気味」さでもあるのです。
だから、この「不気味さ」を選んでいる社会は、
「不景気」だから、ブログという新たな表現形式にも
●「不景気」という「不気味さ」にすら気づかないほど、
●「不景気」、すなわち「bitな鬱病」だから、
「死線」が見えるわけがありません。

鬱病に死線は見えない

その「死線」とは、
「資本主義の終焉という死」の境界線です。


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