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Posts Tagged ‘「資本主義からの逃走」’


『資本主義からの逃走』
「相観論的に現代社会を見直せば、
        経済的景観がデザインできる」


   


     2月 12th, 2010  Posted 10:00 AM

physiognomy

相観=physiognomyという「学論」があります。
植物群落の外観的な検証であり、
これは群系=formationと言われる見方と、
そしてもう一つが群集=associationという見方です。
私は、現代社会、あるいは人間の集団性を、
生物・植物の生態群として、ある意味での景観論を
相観的なアナロジーをデザインに応用していこうと
考えてきました。
その根本は、エコロジーをデザインでどう解釈し、
なおかつ、
経済的なエコロジー論をデザイン背景にできるか、
ということを熟考してきました。
だから、いきなりここでも、
associationとformationについて記述してきたのです。
考えてもください。
企業名で「×××××アソシエーション」が、
資本主義企業では使われてきました。
そしてその時代の終焉の様相が進行してきたのです。
とりわけ、私は医療制度、医療環境に、
このことばづかいを援用しました。

群集と群系

つまり、
群集は、さらに細密的に、群系化することで、
それぞれの機能性が明確になると考えた結果なのです。
今、私は、「ビジネスモデル」がアソシエーション、
だとするならば、それはビジネスモデルが
「群集的」だったということです。
そこに、相観・あるいは景観、景気を再考するには、
「群系的」にビジネスモデルにデザインを付加すれば、
細分化した役割分担が明確になると判断しています。
もっと具体的に言えば、
「日本は群集=アソシエーション社会」だったのです。
日本が群系化していく方向を見いだせていない。
いつまでも単一民族だから、群集だったのです。
世代・男女・老若など、どの群系の生態国家だろうか、
という発想が必要になってきたと判断すべきです。
企業=アソシエーションが危機になっているなら、
それは群集的な活動統合体だったことなのです。
「企業をフォーメーション」とすればいいのです。
一時、企業グループではなくて、
企業内企業という分業化をしたことがありましたが、
生態系・相観に学ぶという視点は欠落していました。
私は、群系と群集という分類と概念での見直しを、
デザイン的景観手法として提案しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「社会保障としての医療制度は、資本主義では不可能」


   


     2月 11th, 2010  Posted 10:00 AM

医療というFormation
DynamicsとFormationを先行させてしまいました。
医療こそ、人間の「生老病死」への科学的対応です。
したがって、「生老病死」を経済論理では語れません。
生老病死
「生老病死」はまさに、Dynamics論理が不可欠です。
さらに、医療はFormationによって、
その解決を計れれば、「幸運」であり「幸福」です。
経済活動の格差が、
そのまま医療制度に反映されることになれば、
「生きる」という連続性は経済とはLogarithm的です。
無論、「死」は万人に平等です。
平等は、「生きる時間」が限定されていることであり、
その平等性は、Dynamicsであって、
いわゆる寿命には格差があることは明確です。
医療制度を社会保障する、というのは、経済論理が
まったく適合していません。
むしろ社会主義としての平等性を、
担保する必要があります。
それは、資本主義的な医療は「生死」すら経済性で、
決定づけてしまうということになります。
せめて、「生死」と医療を結合させる論理は、
Formationを社会構造に組み込んでいくことですが、
その論理あるいは制度設計の方法は発見不可能です。
したがって、
医療Formationを社会保障制度にするには、
それを医師・看護師・医療従事者だけに委ねることから、
決別する時になっているのです。
ましてまだ治癒不可能と言われている難病・癌などに、
「社会保障としての医療制度」は、
デザインが入り込んで、制度設計と環境設計に
「向き合う」必要性が見えています。
私は、デザインは、「命を護る・守る」ことまでは、
決して出来ないけれど、
いのちと向き合うデザイン
「いのちと向き合う」ことは出来るということを、
実践第一から制度設計へと、
向かわせることをめざしています。
Formationというのは、
本来自然の中での生物の「生死」競合性の制度です。


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『資本主義からの逃走』
  *「これだけ遅れてどうする、日本のケータイ!」*


   


     2月 7th, 2010  Posted 6:00 AM

Japanese ケータイ
今、私は、若手デザイナーの仕事ぶり、
その評価や批判はしたくありません。
しかし、日本の文明や文化に影響があるとなれば、
やはり、評価を述べておかざるをえません。
なぜなら、それはデザイナーの責務ではないからです。
特に、日本のケータイ、ケータイデザインです。
もう、国際的にも日本のケータイは、「特殊・特別」。
特別といっても、特別に優れているわけでは無く、
特殊というのは、取り残されている特殊性です。
これは、日本のケータイ電話通信企業が、
完全な「鎖国」にならざるをえないほど無能、
そして追い込まれているからでしょう。
「デザイナー・ケータイ」は、
当初は、デザイナーの力量と技術がマッチして、
「国内的にだけヒット」しました。
私はすでに、そうしたケータイの世界的な通信環境や
通信ネットワークの選択と進化方法が間違っている、
という警告を、文章や講演で語ったので、
「嫌がられ」・「怖がられ」デザイン依頼は皆無でした。
大手の通信企業に、人間工学的(?不信工学)な検証での
設計基準づくりはしました。役だったとも思っていません。
なぜなら、それすら読み取れないデザイナーも多いのです。
それから、映像通信をケータイ化の技術開発は、
あまりにも管理職、その無能力さでお断りしました。
いや、「ヤーメタ!」という次第です。
その後は、ある企業トップから特別依頼を受けました。
まったく革新的ケータイ、
特に、INPUTディバイスを提案しました。
その直後に、iPhoneの登場です。
でも、まったく私のコンセプトや、
コンテンツが違うので、いつの日か、
この思考でのデザインは実現できると、思っています。
●問題は、若手デザイナーは「通信・ネットワーク」を、
「ケータイの形態」だけの発想は辞めるべきです。
●それを要求する通信企業のケータイキャリアに、
異論を言う勇気を持ってほしいのです。
●そのためには、日本発・日本初の「技術知識」への、
大きな夢を抱いてほしいのです。

私は、3月に「ケータイ国際フォーラム」で、
「消えていく、コンピュータと新たなケータイの形」を
提案してみるつもりです。

Mobile Phone

made in Japan


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『資本主義からの逃走』
 「iPadがまた拡大させる!?・批判or批評or非難、
               iMacの私の経験から」


   


     2月 5th, 2010  Posted 2:37 AM

iPadだ!
未来 見えているか?

iPadのNewsは様々な批評や期待で一杯です。
Apple社、ジョッブス氏の活発さに惹かれます。
そこには、いつも私たちは未来を見るわけです。
現代、こうしたNewsが、
多大な問題いっぱいの世界をやや救ってくれています。
それは閉塞感満ちあふれる日常での救いでしょう。
かつて、私はiMacを100人評価する雑誌で、
唯一、「ゴミだ!」って発言して、
ほとんど日本中から袋だたきに遭いました。
さらに、Gマークでも金賞候補からはずす主役でした。
問題点は、三つありました。
一つは、すでにあのモックアップは見ていましたから、
がっくりしたのです。
環境ホルモンと流行
ところが、
理由はそれが、ポリカーボネート製でした。
これが二つ目の理由でした。
ビスフェノールAという環境ホルモンの問題です。
今では、ポリカのリサイクルシステムもできましたが、
当時はビスフェノールAだ!って叫んだのは私だけ。
さらに、これがカラーで透明だったので、
おそらく日本の様々な文具から何にでも、
流行現象」が蔓延してビスフェノールAに無頓着、
というのを、一人でも食い止めたいと思ったからです。
まあ、脅迫メールは届くは、
ポリカ業界からも散々な目に遭いました。
この時にも、私は自分を「職能家・デザイナー」を、
絶対に押し通そうと言い聞かせて、耐えました。
結局、「流行」は去り、ポリカのビスフェノールAは、
WHOから、「懸念ある素材」となり、
産業界はリサイクルシステム無しには、
素材使用は自粛されました。
「川崎は理詰め」と言われますが、
理性と感性には、順位があります。
「理をつめなければ、けっして感性優位は排撃すべき」
というのが、私のデザイナーとしての信念です。

私は、iPadには、二つが無かったと思っています。

「新素材・made in Japanを知らなかったこと」
「清潔感をコンセプトにする」

ということです。これは「批評」です。
それでも、iPadが、「iPod」がデカイだけ、
というのは、非難であり、未来が見えていません。
これは駄目でしょう。
私は、私の批評ポイントをはずせば、
やはり、「やられた!」といわざるをえません。
そして、必ず、私の二つの批評が合体するモノを
最も希望しています。


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『資本主義からの逃走』
 「LISAからiPadはφ=MECCへ」


   


     2月 4th, 2010  Posted 9:37 AM

LISA to iPad

LISAというコンピューターが登場。
やがて、私の側にMacintosh 128kで、以来、
コンピューターはMac以外は認めてきませんでした。
ただ、UNIXでのEWSの世界で、
「光造形システム」=Rapid Prototypingを追いかけ、
トポロジー空間論から人工臓器デザインをしています。
Macの世界はApple社という新たな企業存在でした。
そして私も、スカリー会長時代、アラン・ケイ氏にも
自分のデザインがApple社プロジェクトになって、
様々な議論をした経験が、大きな生涯の思い出です。

Apple Consultant

Mind TopPopeyeSweatpeaJeepBrutus,etc
が当時のコードネームでした。実現はしませんでした。
が、デザインのモックアップモデルは手元にあります。
パソコンをツールとしながらも、
私には「デザイン対象」そのものです。
パソコンは、「クラウド型」となることは確実です。
「スマートフォン」と「ネットワークコンピュータ」
この形式がiPadに進化しました。
おそらく、この中のコンテンツも、想像以上に、
驚愕の進化を遂げるかもしれません。
また、iPadは、ユーザーそれぞれの使用用途での
エンハンスメントも、新しい才能によって、
拡大化と集約化し、その相互性でさらに革新が
希望になってくれれば、
現代までの様々な問題解決につながると、
私は確信しているのです。
キーワードは、
物質=Material
エネルギー=Energy
情報=Contents & Context

φ=MECC

だと宣言しておきます。


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『資本主義からの逃走』
 「ATOMがBITSを、BITSでATOMに、
        それは新素材開発での造形デザイン」


   


     2月 2nd, 2010  Posted 1:00 AM

FEP Front End Processor
ワープロは、日本独自の発明でした。
英・Word Processorとは異なるBits文字世界です。
さらに、日本語フロントエンドプロセッサーも、
日本語処理を可能とした大変な成果だと思っています。
だからFEPが無料である必要はありません。
しかし、そんな時代が近づいていると考えます。
日本語は、パソコンやケータイでは、
不利な言語体系であることがDigital技術で、
明白になりました。 
それは、BITSをコスト的に考えれば英字に比べれば、
コストは2倍です。
ハングルとも2倍差があります。
そこで、パソコンやケータイでは無くて、
電子ブック(これは変な日本語です)での日本語、
その進化を私は、これまで正確に追いかけてきました。
すでに確立しているFEP(IN PUT)が電子ブックでは、
「EFP」(OUT PUT)=日本語アウトプットが不可欠です。
「書籍(ATOM)」という形式の要素としての日本が、
電子ブック(BITS)形式にはもう目前です。
私はe-Bookが各種進化するたびに収集してきました。
しかし、これらはすべて英文字でした。
「青空文庫」が立ち上がって、なんとかMacで、
という発端時の様子も間近でみてきました。
今、私はKindleを、Kindleで購入したコンテンツを
iPhoneでも読むことができる時代になりました。
Kindle・iPhone
i-Pad
そして、とうとう大変な話題であった、
憶測や推測のiPadが商品化されました。
が、日本語処理=「EFP」は、
KindleもiPhoneもBITS技術は開発されていないので、
日本語電子ブックになる明確な日程は届いていません。
それはBITSの問題ですが、私は別の視点で、
大きな見落としを、デザイナーとして確信しています。
それは、電子ブックの「形式」ではなくて「形態」です。
「形態」=ATOMを決定づける素材が、
まったく開発されていません。
すなわちATOMとBITSの相互作用を忘却していす。
もうひとつ付け加えるなら、デジタル機器の機能です。
その機能の重大さは「清潔さ」です。
「書籍」を一ページづつ舐めた指先でという風景より、
「不潔さ」を解消しているATOM性が皆無です。
それはBITSを包んでいる形態の「素材」の進歩です。
私は、その「新素材開発」をベースに、
ATOMとBITSの相互作用性をデザインしました。
まもなく発表します。


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『資本主義からの逃走』
 *「無思考とは、思考無しではない、
   思考空であろう」*


   


     2月 1st, 2010  Posted 1:00 AM

無思考
私はほとんど外出してデパートやショッピングモールなどは、車イスになる前から、好きではありませんでした。ミッドタウンをワイフに車イスを押してもらいつつ、いわゆるデザイン系ショップを久々にのぞいて見ました。デザインは、相変わらず「進化」がありませんでした。学生たちが憧れているモダンデザイン系ショップに陳列されているモノに、愕然としました。1960年代よりは素材がカラフルだったり、プラスチックや電気回路が進歩したから、「ソレナリ」のモノがこれほどコピーされて氾濫しているとは、驚きでした。まるで、浦島太郎の心境になって、もう本当に目眩がしました。外出して、書店に行っても、あまりのカラフルさは、車イス視線からでは、目眩がします。まして、コピー製品があまりに「それっぽいデザインした風」なのですから、耐えかねます。また、店員さんの商品知識も格段に低いと思いました。せめて、これぐらい知るべきでしょう。カタログにも肝心な性能表が無くなってきています。それは駄目でしょう。企業の商品化能力を疑います。また、あるアイテムの展示会に招かれました。有明ビッグサイトでの見本市企画企業から、あらたな業種の展示会へのアドバイスを、ということでVIPカードで見て回りました。流ちょうな日本語の外人からいっぱい声をかけれられました。なんとしても商談!という意気込みです。比して、肝心な見本市担当者の無口なことにあきれました。これじゃ、凋落する産業のさらなる凋落が予知出来ます。ともかく、思考していない=薄思考です。これを私は、無思考とは言いません。無思考とは、思考が「無」の状況や事態を指示していると私は考えています。なんでもいいから、まだ一度も使ったことの無い、edyカードで買い物をしてみたかったのですが、「欲しいモノ」がありませんでした。いわゆる今、旬の若手デザイナーの作品である商品も、デザイン設計で、「金型チェック」もしていないのでしょう。3D-CADやCGレンダリングなら、多分、「カッコ良かった」のでしょうが、さらに中国製となると、成形精度も格段に悪くて、これは必ず経年変化を起こすと見抜けてしまいます。さらに、恩師の名作も、カーブや板厚も微細に変貌しています。もはや、高齢になられた先生の眼力チェック無しの復刻品も見かけました。これが、現代の日本の商戦現場だとするなら、どうやって、立て直すべきかと考えさせられました。明日、Gマーク賞制度審議委員会があります。この私が最年少ですから、今年の「Gマーク賞制度は、国際化戦略」の一つの核心となる「戦術」にしていきたいと考えています。私の発言が了承されるかどうかは不明ですが力説します。よって、審査委員も少数精鋭で海外審査委員を投入することを、私の私見として発言するつもりです。昨年のある事件見解も、公表すべきことは、審議委員会からだと私は考えてきました。ある種、審査委員がデザイン界のエリートならば、「敵前逃亡」や「自分勝手さ」はNoblesse Obligeも果たせなかった審査委員資格は審議委員会にての裁決をしなければならないしょう。なぜならば、「Design made in Japan」を象徴化しているGマーク賞制度は、一つの国家戦略です。だからこれは、日本の産業から現代文化の最前線でもあると考えるからです。「無思考」は「思考空」だとも考えています。思考結果がデザインとなり、無思考結果がデザイン効果であるとするなら、思考空は、デザインへの憧憬になります。憧憬は常に潔しが基本です。
思考空


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『資本主義からの逃走』
 「資本、無なり。  されど無料にて主義の正しさあり」


   


     1月 31st, 2010  Posted 6:00 AM

「ことば」ありきの資本

資本は、土地であり、商品であり、
そしてそのメディアとしての貨幣であったり、
(メディアとして、というのは現代語だからですが)
極端には、命も資本というシステム=保険まで、
人間、資本主義は創生させてきました。
土地・商品・貨幣・・・命はまず「ことば」でした。
やはり、資本のはじめに「ことば」ありきでした。
なぜなら、
「資本論」も「ことば」ゆえに、
「ことば」資本を差異化、差別化の「差」に、
価値を乗せることや、価値を生じさせる、
そんなことができたものと考えています。
これはすべてATOMの存在=有理性の世界でした。
たとえ土地を最大にしようが、
商品販売での利潤を得ようが、
人間の存在は、絶対的に「無」となります。
もっと単純明快に断言すれば、「財成した人」も、
無=死
死を迎えます。
死は、いのちを無とします。
命が無となることは、避けられないわけです。
「去らぬ別れ」、結局、死して後、
資本は残ります。
資本の、その運用が入れ替わるだけです。
そこで、「資本は無に帰す」と考えることは、
決して「無理」ではありません。
「無理」という「有理性」から利益獲得すら、
「無」とすることへの抵抗感が消滅します。
消滅というより、利益や利潤から解放されます。
自由=無料

無料=自由を直視

自由=freeになったのです。
その経験が、資本主義社会で蓄積されました。
free=無料は、「正しさ」という力を持ちました。
人間は、自由でありそれが「正しい」こととして、
社会の基盤、意志の基盤、認識の基盤ということを
無理することなく、有理であると確信できれば、
人間は、そんな社会や時代に、
「死=無」となることを納得して「生きる」でしょう。
「無料」の尊大さを直視する時代になってきました。


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『資本主義からの逃走』
 「資本と利潤・無資本と無料のBits-System」


   


     1月 30th, 2010  Posted 1:06 AM

Maximization

or


Optimization

資本に対して利潤とは、循環性を構築します。
その循環の効率性を、
最大化するのが、企業的組織だという考え方、と
最適化するのが、組織的企業だという考え方は、
自由競争社会、その基準、資本主義の解釈論でした。
したがって、利潤の最大化も、最適化も、常に、
議論されながらも結論はまったく見つからないままに、
今日に至っています。
そして、現在、私なども資本主義の終焉とか、
資本主義から逃走や解放される時代を迎えていると
言い始めているわけです。
さらに、循環論としては、
社会的な生理や、時代的な生理は、
「景気」という「躁鬱病的」なことがしばしば起こり、
結果が、最大化も最適化も実際は曖昧でした。
少なからず、
この景気循環は「恣意性」が謀略化されてもきました。

from PROFIT

  to BENEFIT

ところが、
無資本と無料化というシステムがデジタル技術の中で、
頭脳集約労働としての成果から生まれました。
そして、この成果はAtom時代の核心であった、
Atom資本、資本Atomが
「情報化=ネットワーク」で、無資本的になったことです。
無料としての配布、その効果がこれからの社会構造です。
無料だからこそ、
BENEFITが社会文化を構成するパワーが生まれます。
無料=Freeこそ、自由につながっています。
それを可能にしているデジタル技術はBitの集合です。
その集合だから利益・利潤は社会的な恩恵、
すなわちBENEFITです。
新たな経常利益と言っていいでしょう。
これを創出する経済主義思想は、
もはや、資本主義思想でないことは確実です。


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『資本主義からの逃走』
 「貨幣感覚が地価からクレジットカード=Bitsへ、
  これが危ない!」


   


     1月 29th, 2010  Posted 1:01 AM

とち・かち・いのち

特に日本人は「土地」とち=に価値と命まで重ねます。
資本主義が利潤をなんらかの差異性や差別感覚に、
すっかりと置き換えたときから、
「伝統的な」、品格と美学性を失い始めました。
そしてそれが資本主義の自由競争だとさえ、
虚妄的に思い込みが正当化されました。
私が、デジタル社会orBits社会という制度生理に、
なんて思っていると、それはとてつもない蟻地獄です。
負債は土地価値=地価をつりあげます。
そして急転落を仕掛ける機関を政治も見逃します。
地価が暴落することは、この半世紀繰り返されました。

地価暴落は「変」!

しかし、これが「変!」ということも、
今度は時代生理になって、経験値が出てきます。
そして、債務・借金は、「見えなくて触れない」、
にもかかわらず、その正体はクレジット=Bitsです。
かつて古今東西、貸し手は借り手が返済可能な範囲で、
貸し手の利潤に論理性を品格・美学を持っていました。
それは、100円貸したら、
200円までを限界として、利息・利潤を、
時代生理と社会生理にしていました。
資本主義のスタート時には、
このルールはまったく健全だったと考えて正解です。
バブルがどうでした?
バブル崩壊がどうでした?
サブプライムはひたすらの利潤追求でしょう?
金融取引って?
自由資本主義社会に関わらず国営企業はつぶれない?
なぜ・・・・・?ですね。
こうした基本にBitsの計量経済が影響してたことは、
間違いありません。
クレジット金融は、スパイラルな蟻地獄です。
スパイラルな蟻地獄は、本来はアナログだったのに、
なぜでしょうか?
決して、
Bits社会とBits時代を信用=クレジットするなんて、
品格も美学も失います。

利潤限界と利潤限度の制度化=クレジット・リデザイン

利潤に「制度としての限度」をBitsで決定する、
それはもはや政治では不可能です。
デザインという職能だけが出来るはずです。


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