kazuo kawasaki's official blog

8月7日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design



     8月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

8月7日 仏滅(乙卯)

「殴る」という行為には
私は
二つの原理があると想っている。
・暴力として
・喧嘩道に行為として

しかし、
もはや喧嘩道の行為である
「殴る」ことは否定されている。

川崎和男「喧嘩道」

『バイブルとテキストでは著作権と商標権は闘えぬ』



     8月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「点・線・面」はデザイナーのバイブルです。
「造形思考」はテキストです。
「点は限りなく正方形になる」と記したカンデンスキーは、
現代の液晶ピクセルを予想していたと私は確信しています。
線と曲線の関係性は、カオスに響く音楽論で、
パウルクレーは、デザイナーの教科書にしてくれました。
幅ある縦線と円形には、「ヘアーライン」という視覚補正が必要です。
オリンピックのエンブレム、そのデザインは、
盗用という極めて失礼千万な批判あるいは非難が取り憑いていて、
デザインはその平面図形の比較で「似ている、似ていない」を喧噪。
そして盗用というのは何事でしょうか。
ベルギーの劇場マークは、デザインの「応答」作品にすぎません。
東京オリンピックのエンブレムデザインは、
デザイナーの言説から「回答」作品ですから、
盗用というのは職能への大侮辱です。
釈明という失敬さをマスコミは平気で乱用していることは許せません。
ただし、私はプロとして、「ヘアーライン補正」という技能を
それぞれに解釈と解説と批評を与えてしまえば、
ベルギーの単なる劇場名と場所名の組み合わせは、
確かに、ベルヌ条約の無方式主義の著作権で訴訟をしてくる事、
それは補償金目当てでしょうか。
エンブレムデザインをマドリッド協定議定書での
商標権と対決させるのではデザインを応答作品でしかない
ベルギーデザインの幼稚さを保護しただけに過ぎません。
比して、
わが国の回答作品を商標権で護ることには正直大きな不利があります。
著作権と商標権での対立は
八百屋と魚屋のどっちがおいしいかの議論でしかないからです。
が、応答作品と回答作品では
デザインの職能倫理性は日本に正当性があります。
無念なことは、釈明会見というマスコミの姿勢はデザイナー虐めです。
「盗作」とはもっと別次元にあることは確かですが、
日本のデザイナーの正当性を私たちは護り抜くべきだと、
私は思っていますし、ベルギーの言いがかりなど無視すべきです。
そして、日本もベルギーも、バイブルそしてテキストも勉強不足と
「ヘアーライン補正」訓練不足があることは否めません。
本来、デザインは解答作品を審査委員会のたとえギルド性があっても
日本人デザイナーを著作権から護りぬくべきでしょう。
なぜなら、世界中がローカルなマークを知ったと言う話題でしかない、
つまりベルギーの応答作品が告知広報しただけのことです。
この応答と回答の対立でオリンピックは遠くなっているのは事実です。

8月6日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design



     8月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

8月6日 先負(甲寅)

権利の主張は喧嘩である。
だから「勝つ=克つ」
権利主張の論理構築が
必然である。

川崎和男「喧嘩道」

『音楽が終わった宣言は現代最も明確なデジタル改革論』



     8月 5th, 2015  Posted 12:00 AM

1980年、ジョンレノンが暗殺されました。
私は自分の青春を終えて福井に帰郷することを決めた一つの原因でした。
その時まだ大学人でもなかった私は新設された「日本記号学会」に入会。
以後大学人になってから色々と学会員になりましたが、
一旦、阪大退官時にはできる限りの学会員を辞めました。
しかし、今なお「日本記号学会」には入っています。
記号論・記号学は「意味すること」・「意味されること」を
あらゆる学問領域で扱われているおそらく最も学際的な学会です。
この学会誌が、とうとうこの結論を出してしまいました。
それはデジタル表現での大きな結論です。
「音楽が終わった」というのはセンセーショナルな問題ではなく、
それこそ、音楽という表現がデジタルで、
表現物を作品=内実的概要と、表現物の作家=外実的概要を、
「音楽」に喩えただけのことです。
それこそ、オリンピックとアスリート、スタジアム建築の問題、
さらには背景がすっかりギルド化された中での稚拙なエンブレムなど、
デザイン作品の内実性とデザイナーという外実性も同様です。
要は、21世紀に完結=終わってしまっているから、
単なる商売的なギルド感覚での資本主義体制にも決着が必要なのです。
この結論から、新たな21世紀の音楽から、スポーツと商売も、
デザインと商売、この商売感覚からの離脱決意を促しているのです。
この論理思考を記号学では「音楽」に喩えただけのことだと考えます。
要は、デジタルという文明は、
もはやこれまでの音楽・美術・芸術・スポーツ、そしてデザインも
デジタルで大変革しなければその解答はまだまだ不明だということです。
オリンピックをデザイン・建築で演出することの時代が、
まだ、商業主義的見栄の国家表現を停止すべきです。
明言すれば、もう音楽は作品も音楽家も不要なのです。
同様に商業主義に包まれたアスリートもオリンピックも不要、
さすれば、デザインもこれまでからの脱却論を開始すべきなのです。  

8月5日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design



     8月 5th, 2015  Posted 12:00 AM

8月5日 友引(癸丑)

かたちの変遷の運動の意識化はデザイナーの課題にすべきだろう。
「力学」としてのデザインは人とモノの相対作用としていきたい。

『映像と音像を変えるHDMIケーブルの進化』



     8月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

HDMIケーブルの進化は着実に進んでいます。
しかし、このことを詳細に検証したレポートを私は知りません。
自宅のTVが4Kになり、おそらくありえない配線を駆使して、
7.1chを実現しています。
そこで、HDMIケーブルも試しに4K用に代えてみたところ、
画像と音質が変わりました。
当然、現在のプレゼンテーションはMacからHDMIケーブルを使用。
そこで、このケーブルも替えてみましたところ、
画質は向上し、音質もよくなってきています。
オーディオ育ちの私には、スピーカーシステム用のコードも
それなりに選んでいますが、無論、否定派もいますが、
それはスピーカーでも何をつかっているかということになります。
当然、RCAコードもそれなりの品質が要求されていることは
試聴してみればすぐにわかることです。
正直、実際は老化により、左右耳聴覚には差が出てきていますが、
それは機械式の腕時計の音で簡単に確かめることができます。
そして最近はHDMIコードがどれほど良くなっているかということが
評論されていませんが、すでにWiFi環境では、
スピーカーコードも不要になってきていますが、
むしろ、ホームシアターとして、オーディオビジュアルをと考えれば、
TV映像は音楽コンサートとムービーは絶対にコントロールアンプで
音質を変えるべきだと思っています。
今では安易なスピーカーは、単なる拡大器でしかないモノもあり、
スピーカーシステムで周波数特性表も無いモノが氾濫しています。
それだけに、HDMIケーブルで映像と音像が変わるという事実は
見逃されていることは確かです。
多分、私も自宅での4K映像とオーディオシステムは、
スピーカーシステムも、さらにプリアンプ、メインアンプだけから
コントロールアンプ自体の新しい考え方が、次の三つで変革が必要です。
USB HDMI WiFi、この三つは確実に進化しています。

8月4日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design



     8月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

8月4日 先勝(壬子)

喧嘩とは口喧嘩が源である。
ディベートというのは
あまりに良すぎる。

むしろ、
沈黙の喧嘩道を
私は追いかけている。

川崎和男「喧嘩道」

『象と蟻、その表現法はまったく変わってしまった』



     8月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

「ガリヴァー旅行記」を書いたジョナサン・スウィフト、
彼の書いた言葉に、
「象は実物より小さく描かれ、蟻は実物より大きく画かれる」という
的確な指摘があります。
なるほど、この写真も象は実物より小さく蟻は実物より大きいのです。
美大時代も、精密な鉛筆デッサンの訓練は、ほぼ実寸、
もしくは1.1倍で描かされたものです。
プロのデザイナーになってからは、小さなモノの図面は5倍図で、
できる限りモックアップモデルは実物大で制作してきました。
現在もモデルは実物大です。
デザインするモノは実物大を守っています。
しかし建築は縮小モデルが当たり前になっています。
絨毯などの下図は実物大であり、スウィフトの指摘は文明で
人間が人工化していくときに、人間という大きさから、
人工物の設計表現のあり方を指示していることを認識すべきです。
図面作成では二つの発見を書き残す必要があると私は考えています。
かつて私の祖先は、宮大工図面は縮小図であっても、発想のままに
用紙を継ぎ足して描いていました。
それは設計の想像力が用紙の大きさに囚われない考え方でした。
またCADシステムでは、それこそどんなに大きな建造物であっても、
拡大と縮小は自由自在になっていることです。
今、私は設計=デザインは、実物をコンピューター画面の中では
自由自在であり、3D-CADであれば、自在に描くことができれば、
それは今では3Dプリンティングや光造形で自在に実物の拡大化も縮小化も
極めて簡単になっているということです。
頭蓋骨を光造形で制作したときに2倍の大きさで制作して、
それを見た瞬間に、あらたな想像力を刺激されました。
また、同様にマイクロ光造形では、血小板サイズのロボット化も
可能になっています。
すなわち、私たちはコンピューター・デジタル設計で、
象は実物大以上が制作可能となり、蟻はマイクロ光造形まで
設計=デザインとモックアップモデルが可能になっていることです。

8月3日川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design



     8月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

8月3日 赤口(辛亥)

「喜怒哀楽」とあれど
怒りと哀しみは
その裏返しに
怒りと哀しみを喧嘩に代える、
それは可能である。
問題は、
この喧嘩が暴力化することだ。
そのために
「喧嘩道」が必要である。
日本では村町時代に出来ていた。

川崎和男「喧嘩道」

『ひかりをあかりには鏡面である』



     8月 2nd, 2015  Posted 3:22 AM

「ひかり」がLED光源となり、WiFi環境とスマホのアプリで、
確実に調光制御が可能になりました。
しかし、私は光制御では大きな限界があるということは確実です。
つまり、ひかりとあかりという文化体系を日本美学の
それも中核にしてきたことを私たちは受け継いでいく義務があります。
その一つの象徴が「陰影礼賛」で私たちに伝えられています。
私は、ショールーム設計、ショールームデザインで、
最も重要なことは、影と陰をつかいわけるセンスだと考えています。
まず、ひかりというのは、あくまでも照射速度があり、
「見詰めることが不可能な照射」であり、
センス無き、デザイナーや建築家になるとこの分別ができません。
かつて、極めて有名な照明器具メーカーで先端的なショールームで、
私は吐き気を覚えるほどの気分になりました。
それはただ現代的ショールームと言いながらも、最悪のデザインでした。
そのショールームには、まず、影が出来ないのです。
陰にまで知的センスは及んでいませんでした。
そこで、あかりというのは、「見詰めることが出来るひかり」です。
それは蝋燭のひかりを思い出せばイメージは明らかになると思います。
蝋燭の光は灯りです。また、日差しが室内に障子から注ぎ込むとき、
それこそまさに「陰影礼賛」の世界観になるのです。
LED光源は日本が発明した素晴らしい文明であったのですが、
文化になるためにはひかりをあかりにしなければなりません。
それを制御するのはたった一つの手段しかありえないと思っています。
それは鏡を使うという技法に集約されます。
なるほど、神道において、あるいは三種の神器においても鏡の存在は、
まさに鏡面での太陽光通信から始まり、鏡面での光通信技術にまで、
現代は至っています。
従って、鏡への照射と反射によって、光はあかりを陰影として制御可能。
しかし、このためにはデザインと技術、デザインと通信においての
新たな鏡面反射が求められていることに、
どれだけのデザイナーが注視し、LEDも電球も同じとする、
その実際を確認しているだろうか、と疑問です。