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Posts Tagged ‘科学’


「『学際化』によって危機管理デザイン工学をめざす」


   


     5月 10th, 2013  Posted 12:00 AM

4月から、大阪大学大学院を一旦退任し、
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」を開設しました。
その基本となるように危機管理デザイン工学を
定義可能かどうかを、どこか学会に論文提出を考えていました。
幸運にも、日本機械学会誌から依頼論文をいただきました。
私にとってと講座学生にも、
これは大きなチャンスになりました。
依頼論文は4頁でしたが、
デザインと機械工学、この二つの学域を「学際化」論にしました。
連休前には準備論文を殴り書きしたら6頁にもなってしまい、
大慌てでこれを削り落としながら、
かえって、論旨を短くすることが出来ました。
そして、その論旨を図解化することや、
図解をしながら、再度論旨の要点をまとめることに繋がりました。
韓国から帰国して、
あらためて、原稿締め切りを確認したら、
当日が締め切りということで、またもや大慌てになりながら、
自分を集中させて取り組みました。
まだ描き終えていなかった図解も、論旨検証をしてまとめました。
一応大学を退任して、特任教授という立場になったからこそ、
今年は正月から論文を書くことができたのかもしれません。
正直、大学退任時期になったこともあって、
いくつかの学会を退会しましたが、
残っておくべきだったかもしれません。
もっとも、今、寄附講座選任での博士後期課程学生もいます。
このところ、論文作成に向かいながら、
「デザイン」は、科学=知識体系=分科学の統合に対して、
学域の接着剤のようなものだと実感し直しました。
なんだか、落ち着いて、これまでのデザイナー・大学人、
この二つの実体験を「ことば」の集大成=論文化可能です。
私に残された時間を常に意識するようになりましたが、
かえって、次世代、次・次世代に書き残すこと、
本当に増え続けている気がしてなりません。
私のこれから大学での大きな役割は、
「学際化」するデザインの実務だと思っています。


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「博士号学位取得論文が一段落」


   


     9月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

昨日、いつものICD(除細動器)の定期検診を受けました。
エピソードと言われている心臓への機器異常は皆無でした。
良かった、というよりも、
今年度から博士論文指導では、
特に、Skypeで二人の学生はもとより、
研究室の学生までを罵詈雑言の限りでした。
「バカモン、何をやってる!」何度、怒鳴っていたでしょうか。
しかし、何も心臓異常は起こっていませんでした。
「パワーハラスメントでもなんでも構わん、
ヤレと言ったらやり通せ、その資料も読んでないのか」、
これをどれほど言うかというより叫んできたかわかりません。
『造形言語と形態言語によるデザイン造形の数理的解釈論の考察』。
『糖尿病を対象とした医工連携の問題解決による先端的デザインの研究』。
この二つが二人の学生それぞれのテーマでした。
デザインと言語的な解析を記号論と数理科学的な分析を試み、
もう一方では、
480万人の糖尿病患者はやがて2000万人と言われる健康問題へ、
医工連携への現実的な解決から未来的な解決のデザイン提案研究でした。
ようやく、私の研究室テーマである、
先端的かつ学際的なデザイン手法と医療系との融合を
二人の学生が専門家として、博士号学位論文にまとめました。
まだ、これからは博士前期課程の学生、その修士論文指導が始まります。
夜中であろうが、常に、
Skypeは繋ぎぱなしで私の怒号を彼らに与えてきました。
少なからず、私のデザイン活動はそろそろ幕を下ろす季節になりました。
私の社会的・教育的役割は、
これまでの知識と経験をできる限り語り尽くすことになっています。
これからこの準備原稿は
3名の副査教授のこれまた厳しい検閲が始まります。
それは主査である私自身が詰問されることです。


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「KAIST=韓国科学技術院の先生を招いて」


   


     6月 23rd, 2012  Posted 12:00 AM

なんとしても風邪を治さなければ、
この想いを実現できました。
KAISTの先生お二人を招いて阪大での講演。
Prof.Kim Myung-Suk先生とはすでに20年来の友人であり、
Prof.Bae SangMin先生は、New York留学中に、
私の講演を聞いてもらったこともあるという仲です。
KAISTはおそらく、全世界的にみても、
最高級の大学・大学院であり、デザイン系でも筆頭です。
Kim先生は「環境デザインとしてのロボット」を
Bae先生は「国際貢献としての製品デザイン」、
それぞれが実現されているプロジェクトを語っていただきました。
私もKAISTで講義をしましたが、
この大学が世界からも注目されている「未来創生の発想」は、
いくつかの重要なキーワードでした。
Why・なぜデザインを、なぜ生きるのか、
Implement・必ずデザインを実現させて未来を創る、
Evolution・常に進化は「融合」=Consilienceを、
Donate=Sharingを、Passionを、と、
重大なキーワードを沢山いただきました。
しかも確実にコンセプトは製品形態に集約化されていました。
私は、3.11以後、デザインによる復興をと考え続けてきただけに、
改めて、デザインの理想主義を語る二人の教授に、
支え直してもらった気持ちでいっぱいになりました。
たとえば、家電は当然ながら、
造船もどれほど韓国は進歩させたか、
その事実を知っているだけに、韓国の勢いを体感しました。
日本も韓国もアジアの小国です。
これからはお互いの交流をさらに深めて、
世界の先導国になっていくべきだと思い直した次第です。
お二人に励まされたようで、すっかり、風邪から立ち直ったと思います。


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「蚕は自然・遺伝子操作の繭は『反自然』か」


   


     3月 4th, 2012  Posted 12:12 AM

アーティスト・角永和夫氏の作品「SILK」は、
自然と反自然を提示しています。
ここから私たちが学び取ることは、自然と人工の問題です。
文明=飢えと寒さへの人間営為は、
自然への人工的な制御技術の獲得でした。
人間が自然、その総体である地球環境で
生き延びるためには「自然」から科学を
そしてその具現化としての技術を進化させてきました。
結果、この作品が見事に提示してみせた人工とは「反自然」であり、
蚕が遺伝子操作によって平面繭を「美しく」吐き出して死を迎えます。
しかし、その労働を終えた蚕は産業廃棄物になり、
地球環境には戻せないという現実問題と直面したのです。
「反自然」=人工とするなら、
人工の成果は廃棄物になっていくことが決定しています。
それは地球に在ってはならない存在を生み出してしまうことでした。
自然と人工に循環という理想型を人間は未だに準備できていません。
これが現代の文明を呪縛し包含し解決不可能=アポリアとして
人間界を閉じ込めています。
この作品は、蚕と繭です。
この作品が自然保護団体から「反自然」と誹謗されている構造は、
「反原発」に重なります。
「反」を唱えることはアポリアを全面肯定している正義性に見えます。
が、人間が生きることを全面肯定するには、
「反」を掲げた問題設定では解決はありえないと私は考えます。
人類にとって、原子力・放射能に対しては、
「反原発・脱原発」・対・「原発推進」の構造ほど
アポリア全てを、実は、同一次元で全肯定しているのです。
原子力・放射能への「反原発」だけでは、
自然との調和などは智恵不足に他なりません。
自然との調和などありえないからこそ、
もう祈りにも通じる智恵が絶対に必要不可欠です。
人間は、生から死までを真剣に受け入れて
「生きがい」をもって自然なる死に至らねばなりません。
「反原発」というシュプレヒコールでは問題解決不可能なのです。
私は原発推進派と誹謗されていますが、
そんな立ち位置にいるわけではありません。
人工物・自動車による交通被災で歩けなくなり、
人工物・ICD=除細動器で心臓を護り抜いています。
私は、「反原発」ではなくて「範原発」です。
この根本は、「範自然」観を
デザインで創出することだと考えているからです。

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「安全と安心・日本語の対語的欠落性」


   


     4月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

日本語は、常に一語制に囚われています。
「感性」と「感情」
「優しさ」と「易しさ」
「科学」と「技術」などの対語がありますが、
一方だけの言葉を選んで、
もう一方の対語的な意味性を無視する傾向です。
これは意味の曖昧性を残しながらも、
いわば以心伝心的な日本風に寄りかかっています。
私は、常に、こうした対語的な意味性で、
一語選択言葉の相補性を確認して、本来の「ことば」原意によって、
「かたちとことばの相対論」をデザイン基底にしています。
なんといっても「安全」という言葉には、
この言葉の対語であるべき「安心」を対象化と対照化するべき、
このように考えています。
「安」はまさしく女性が屋根の下、空間の中に居る形象です。
これは女性の生命・次世代人間への連鎖性を保全する意味があります。
生殖連鎖の性である女性の保全が人類の「安全」という原意です。
一方の「安心」は、「安全」が確保されていることの安堵感です。
英語では、安全=safety・security・安心=Rilief・Reassure
フランス語でもドイツ語でも明確な対比性があります。
この対比・対照性を再確認していくとき、
「安全神話」という言葉は語りやすかったのでしょう。
曖昧性が虚仮になりました。
それこそ、聖徳太子の言「世間虚仮唯佛是真」を忘れています。
人間の世界では嘘と偽りでいっぱいだから、
その真実は仏様しか知らないのです、ということ。
なぜなら、英語でも安心をSecurity and Safetyとなり、
Security =外部からの攻撃を阻止保全し安全=Safety確保です。
したがって、安全を確保したとしても安心だというわけではないのです。
「安全」を神話として語っても、
安心という信頼は得られるわけはありません。
今、私は宇宙ステーション設計では安全工学ではなくて、
安全設計工学を担ってきた専門家からの指導と支援を受けています。
デザイン+設計に包含して、
いわゆる網羅性のデザインテーマ確立ということが肝要だと考えます。
「安全」で「安心」と
「安心」で「安全」、
それぞれの相補性が、
この網羅的なデザイン設計解を叶える企望だと期待しているのです。

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「資本主義からの逃走」
     「識ること、科学という訳語の原点視界」


   


     1月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

訳語「科学」の間違い
「科学」という訳語は大きな間違い。
哲学者N先生から私は学びました。
この指摘を受けられたことは私の幸運です。
したがって、デザインをあたかも支援している科学を吟味してきました。
さらに科学と技術、その認識デザインの関係に大きな誤りが最近ますます蔓延しています。
この蔓延状況に翻弄されているデザイナーへの忠告です。
「だから、あなた方のデザイン造形が美しくない」ということに至るわけです。
それは「意識」としての「識る」ことが、
ラテン語・sciusからフランス語・scienceに定着したことに関与していることです。
この原野から見直すべきでしょう。
それはScienceのことです。
scentia・良心的な知性の育成であるべき学域領域の訳語間違いに端を発しているのです。
日本語訳では、様々な「科目」=「分科している学域」、
これが「科学」となってしまったことをN先生は多くの著作で書かれています。
科学技術はもっと間違い
しかもこれが「科学技術」となれば、
原意・原点的な経緯と由来が正確に意思に反映された意識・意志にはつながりません。
もし、正確無比を目指すなら「科学」と「技術」です。
科学技術では、デザインの意思決定、すなわちデザイン意識の基盤ではありえないのです。
したがって、文明・文化の下敷きとして科学・技術をそのままデザインの背景とすれば、
デザイン表現である造形「美」の間違いが氾濫することになるわけです。
願わくば、意識=「識る意思と意志」がscienceという前に、
むしろ「芸術」からのデザイン意思が良心的な解釈だと考えてきました。
デザイン決定=造形への思索・意思が、科学あるいは技術で支援されるとするなら、
芸術・artと技術・technology/engineeringの意思を再度見渡しておくべきでしょう。
芸術原野への「意」
その視界には芸術でインクルーシブされた科学と技術、
この原野に取り囲まれている融合性へと、デザイナー意思を向かわせるべきでしょう。
あえて科学的な表現をするなら、
「学際的な統合」としてのデザイン、
デザイン造形への決定意志は「意」の原点にあるということを私は確信しています。


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10月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 2nd, 2010  Posted 10:00 AM

10月2日 友引(乙酉)

神学・法学・医学の分科学を
我が国は、「科学」という日本語で
曖昧にしてしまった、と思っている。

その曖昧さは、本来、
神学・法学・医学が統合学の根幹、
すなわち、学際性を持っていたことを
専門化ということで分化と分科してしまったことだ。

『デザインは言語道断』学際


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『資本主義からの逃走』
「ようやく、『メディア・インテグレーション』の到来!」


   


     8月 12th, 2010  Posted 12:00 AM

マルチメディア
1990年代はじめは「マルチメディア」という言葉一色でした。
私は、直感的に「マルチ」という言葉に抵抗がありました。
マルチタレント、マルチ商法など「マルチ・multi-」という冠詞的な英語は、
ただ「多数の、多量の、複数の」などという言い方に過ぎず、
核心的意味は拡張していて曖昧なまま拡散しているだけでした。
当時はバブル期であって、特に東京の喧噪さが異様でした。
けれども私はApple社と契約をしていて、いくつかのプロジェクトに関わっていましたので、
この異様喧噪さを傍観し観察することができました。
「マルチメディア」という言葉も、コンピューティングの「中心相」でした。

「相」です。これは二つの意味があります。
aspectとphaseです。
aspectは、語源がロシア語(スラブ語系)であり、phaseは物理的な術語系からの言葉です。
ここから私のある意味では、他人から見れば誇大妄想に入っていきました。
つまり、自分には、道元の華厳経解釈につながっているというほとんど直感で、
マルチ化するメディアとメディアのマルチ化をaspectとphaseに配置してみると、
それはintegrationに至るのでは、ということに辿り付いたのです。
integration
簡単に言い切れば、multi-の拡散性よりは、
複数のことが結合したり統合したり総合化に秩序がなければ美学的なデザインではないということです。
それは道元の言う「総相・別相・同相」にヒントがあるはずだと直感的に納得したのです。
ただ、私にはどうしても道元はやはり宗教家という一般的認識があるはずです。
ところが、コンピューティングは科学であり、技術、社会基盤です。
私自身は、道元は哲学者であり、超宗教論者、超科学者と思っていましたが、
これらは風評=オカルト的評判をまともに受けることが予想されました。
したがって、「デザイン」の下敷き、
その基盤的考え方に、そのようなイメージは絶対に与えたくありませんでした。
「デザイン」は、ある局面をとらえると、
「直感」があり、「哲学」が歴然と在るわけです。それらを美学性で統合化しているのです。
そこで、「マルチメディアではない、メディアインテグレーションです」と、
様々な場で発言してきましたが、全く質問どころか反論も受けずに、
《まぁ、能書きつけてる》という気配を受け取っていました。
それでも必ず「時」が来るという自信がありました。
メディアインテグレーション
大学人となって、「メディアインテグレーションの研究」と掲げても、
美大卒・デザイナーの戯言扱いだったと思います。
今もそのイメージに包囲されていますが、「作品」=「商品」実相は歴史が裁決するでしょう。
その自負心があります。
大学人や研究者の、「学際性無き、貧相さ」は虚相だということが現実相では無分別です。
その後、「マルチメディア」の流行語の後には「ユビキタス」が来て、今は「クラウド」です。
私もこうした時流言葉は多用していますが、
根底には、「華厳経」があり(これも風評を招きます)、
aspect・phaseで論理化できる「相」があり、
そして「メディアの統合的な秩序としての美学性」に至るというmedia integuration、
その時代的諸相が時代・社会化が確実にスタートしてきました。
この「相」無き人は不運です。


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『資本主義からの逃走』
「日本語が曖昧になって現代認識の観念化を誤るかもしれない」


   


     5月 31st, 2010  Posted 7:17 PM

曖昧さ検証へ
私は次の言葉も、「情報」のように曖昧にしていると考えてきました。
福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学
しかもこうした言葉は、「現代」・「現代の問題」を抱え込んでいますから、
大学や行政でも、とても重要視される言葉です。
にもかかわらず、私は、こうした言葉が曖昧になってきたのは、
おそらく三つの理由があったのではないだろうかと推測しています。

■ まず、国際的に「英語」表記が拡大し、
 グローバル用語と日本語との対照訳語、その意味性に距離観がある。
 しかし、その検証を放任している。

■ すでに日本語として確立している言葉だけに、
 現代的意味性がどれほど付加しようと、
 こうした現代性を引き出してまで検証はしない。

■ 既知の意味性、その認識がすでに常識であるために、
 最も通用する、という大錯覚があるにもかかわらず、
 ラングでありパロールとして社会的、絶対的な信用語としている。

私は、すでに日本語として既知認識となっているこうした「言葉」こそ、
その意味性には慎重でなければならないと考えてきました。
特に、現代問題の核心となっている「言葉」は、まず概念よりも観念に直結しています。
したがって、デザインワークの前提には、
「コンセプトワーク」・「コンセプトメーキング」という段階があります。
あくまでも「コンセプト」ですが、
これは必ずしも「概念」で捉えるだけでは不十分です。
私は、「コンセプト」は日本語になっていると思います。
Conceptとコンセプトには距離観があります。だから「概念」より「観念」です。
コンセプトには「概念+観念+問題意識」が不可欠だと考えます。

「環境」という言葉を事例に
たとえば、『環境』という現代、最重要な言葉においても、
「環境=Envilonment」というわけにはいきません。
それは「環境」という言葉には、
日本語になるまで中国からの連綿とした歴史があります。
なぜなら、東洋では「元史・余闕伝」から周囲論という意味、この言葉から始まります。
そして西洋ではヒポクラテスの時代に、
「空気・水・土地」から生態論へ移行して意味の集約に入ります。
この二つの文脈から、「環境=Envilonment」この等式には無理があるようです。

曖昧さの利点と欠点
結局、現代問題の核心となる「日本語」、
そして国際的な英語の訳語としての隔たりと
漢字での表記意味の正確さを対照化するべきと考えます。
そこで、私はこれを「近さの概念」=トポロジー的概念として捉え直す、
その数学的手法も熟考方法になると確信してきました。
その具現化の応用も適用し、評価を受けてきました。
あらためて、日本語の曖昧さの利点と欠点に、
実は「観念」から「概念」
そしてコンセプト・Conceptの文脈があると結論化しています。


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『資本主義からの逃走』
「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」


   


     5月 31st, 2010  Posted 12:01 AM

私は、「情報」という日本語が、
次のような意味合いを統合しているとしたら、
すでに曖昧な言葉に成り果てていると思っています。

Information
報道・制度的な広報・私的あるいは公的事実性
Intelligence
秘匿事・隠匿事・企み事・戦略・策略
Knowledge
知識・経験事・生活の知恵・伝統伝承事
Consciousness
意識・見識・良識

私は「情報機器」という製品アイテムを対象として
デザイン成果も生み出してきたと自負しています。
それだけに、すでに新たな「情報機器」を概念と観念で再考しなければ、
次々と進化する機器設計そのものと、
人間との関係が成立しがたいのではないだろうかと考えるようになりました。
したがって、特に、デザインを職能とする人や、
情報工学、環境情報、情報制御、医療情報などすべてが、
「情報」の意味と意義がどこまで、
日本語ゆえに曖昧であるのかを検証するべきだと提言します。
企業情報戦略も国家情報戦略も、
これからのネットワークの進化に対して、
この日本語でいいのかどうか、
あるいは、日本文化が伝統としての「曖昧さ」が本質であるとするなら、
その曖昧さの再利用を創出する時期になっていることを提案したいと思います。
そうなると、「情報」だけではなく、
再考し新たな概念と観念の言葉そのものを探し出す必要があると考え提示します。

たとえば、次のような日本語が考えられます。
以下の言葉については、この20年ほどいつも熟考対象にしてきた言葉です。

福祉
機械
環境
人間
病院
医療
科学

などです。
そして、こうした言葉がもっとも多用され始めている大学、その学部名や学科名、
そのコンセプトやアジェンダやスキームなどに対する
大きな懸念性と疑念性を捨て去ることができないのです。
この懸念性は私に突然、襲いかかってきたある種の不安感でした。

「デザイン」提案の大前提
なぜなら、将来・未来は、「言葉」から始まります。
さらに、わが日本には、「大物主」「事代主」によって、
物質と情報は決定づけられた伝統の文脈があるからです。
決して、この論理は宗教論でも、神がかりな論法でもありません。
真摯に「未来づくり」へ文化への新しい文脈づくり、
すなわち「デザイン」提案の大前提なのです。


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