kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘理解’


11月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 19th, 2016  Posted 12:30 AM

11月19日 大安(乙巳)

「広告」とは、
公に告訴していく行為である。
あらゆる人に、訴えて理解を
促すことである。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『花嫁と独身者たちへのデジタルアッサンブラージュ』


   


     8月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

哲学というと「機械について記せ」ということが浮かびます。
それは美大時代に哲学という一般教養の試験問題だったからです。
その正解が何であったかということよりも、
次に思い浮かぶのは「独身者たちの機械」とか、
それを題材にした大ガラス作品を芸術の一ジャンルというより、
芸術とは何か?を聞くよりも「何が芸術か」という接し方を教えられた作品。
「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という理解困難さです。
大ガラスは二分され、上部は花嫁であり下部は独身者たちの機械という対比。
これはコラージュより明らかにアッサンブラージュという形式でした。
少なからず花嫁と独身者は女と男であり、社会構造での人間の欲望装置。
花嫁と独身者たちの機械を結びつけているのはチョコレートです。
あたかも、女性が男性への恋の手続きとしてチョコレートは
独身者である男達のチョコレート粉砕の機械になっていることです。
自分は「デジタルアッサンブラージュ」を提案しています。
その根幹には、
これまでの芸術が幾たびも才能あるアーティストによって、
芸術作品は社会構造への訴訟を繰り返す表現で裏切りを重ねたことでした。
そして最も重要なことは、これまでのアーティストは、
まったく「デジタル」、まさにデジタル文明を知らなかったことです。
しかし数学者たちが気づく以前に点は限りなく正方形に近づいているとか、
色の多様性はアナログ的な理解よりもデジタル的な解釈が先行していたこと。
おそらく、デザインとアートの差異性から、
デジタル的な大ガラスの実体は自分にとっては、液晶画面に映し出されて
しかも動いているというデジタル性を語り切る必要性があるのです。
その表現性には主観性を残すことはあり得ないのでしょう。
デジタル機械としてマルセルデュシャンが、レディメイドを残し、
アッサンブラージュを残したこの大ヒントを引き継ぐことで、
「デザインとは何か」が終焉し、
「何がデザインとなるか」というデザイン解答を用意したということです。

* 『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』
* 『デジタルな火と水を傍らに置く重大さ』
* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 「モダンデザインへ、ロシア・アヴァンギャルドから」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


目次を見る

『マルセルデュシャンの立体化からアッサンブラージュ』


   


     8月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

芸術作品、特に画家はその表現対象を社会に向けます。
そしてアーティストという枠組みは大きな変化をしてしまいます。
芸術という主観的な造形言語がとてつもなく一瞬にして、
芸術の概念を破壊し、一般からは「なぜ、なんで、これが?」という
大疑問を投げかけられます。
マルセルデュシャンの作品は、彼の生きた時期に、その現実を
彼の芸術で社会構造までを破壊することで多くの表現者に
自分の造形言語=表現意志・意欲・意図を変革させてくれました。
彼の作品が及ぼした表現力については建築家の著作では見かけましたが、
建築家自身の講演会では敬愛する北川原氏が
講演の中でマルセルデュシャンの現実の社会構造を
彼の建築で示そうとしていたことが明白。
マルセルデュシャンと言えば、
市販されている便器に彼のサインをほどこし、
便器存在にサインがあることで、
芸術家作品のこれまでの認識を一辺に破壊。
これは立体的作品の立体性をアッサンブラージュ化させて
現代芸術そのものを提訴していました。
レディメイドでの作品によって、改めて表現者は自分の表現、
その社会性での位置を再確認させられたと自分は理解しています。
ところが、彼のアッサンブラージュは、
丸椅子に自転車の車輪を組み合わせることで
コラージュの限界を示しています。
続いてパピエ・プレでは
アッサンブラージュそのものを提訴しているのでした。
そのように思わせる作品を発表しましたがその作品は写真しか無く、
まったく現存していないのです。
自分はアッサンブラージュでの限界どころか、そのデジタル化、
すなわちその否定を提案していると思っています。
おそらく彼にはデジタル表現においての
芸術表現は想像不可能だったと判断できます。
そこで画面にある様々な映像化は、
デジタルコラージュ、デジタルパピエ・プレなどを引き継ぎ、
デジタル的な映像表現がさらに人間心情にまで
表現内容が伝わることとデザインで拡大を意図しています。

* 『「アプロプリエーション」という芸術手法はデザインに非ず』
* 『意識して見つめたい「光」を』
* 「絵画に惚れることの重大さ」
* 「大好きな画家・これが私のまなざし」
* 『介護看護環境のためのデジタルアッサンブラージュ』


目次を見る

5月29日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 29th, 2016  Posted 12:00 AM

5月29日 友引(辛亥)

デザインはイノベーションの源。
しかし、
それはデザインの理解、
その熟知性が必要である。
なぜなら、
すでに
イノベーションそのものが
イノベーションされる時期である。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る

『体内音が解説してくれる、聴診器にもっとデザインを』


   


     5月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

「衣・食・住」に対して「医・職・趣」を提案しましたが、
この提案の図解ブログは人気がありませんでした。
ブログのユーザーアクセスを読み解くことで世情人気を
明確に把握と理解することができます。
同様なこととして、身体の内部には様々な音が存在します。
それぞれの臓器や血管・呼吸の音を
いわゆる聴診器で聴きだして、
身体内部での異変を読み解くことが出来ます。
米国の医学書籍の書店では「聴診器」での判断根拠となる
その音のサンプルが
商品として売られていましたが、
国内の書店ではそういう経験はありません。
聴診器という発明は文明の利器でした。
昔はチェストベース(患部へ当てる)と
イヤーピース(耳に挿入する)が象牙であって、
それだけで診断をする名医がいたものです。
ヘッドホンをデザイン対象にしていたこと、医学系を学んだこともあり、
聴診器はほとんど触って聴いて見てきました。
それこそヒューレットパッカードが製造していた聴診器があったこと、
これはほとんど知られていませんが、
ゴム管が二本のモノはなるほどと思います。
しかし、最近では電子式が出てきていますがそれを使用しているドクター、
それほどのドクターは居ません。
また徹底したデザインが採用されているとは言いがたく、
カラフルな聴診器を指して、
デザインされているというセンスは大間違いです。
人体内部の音は、臓器、骨格への刺激、血管中の流動音など、
もう一度デザインによる問題解決が必要な分野です。
電子式聴診器では、とても精密な音が身体から聴こえてきます。
今や、聴診器は死を確認するだけの道具、
医師と判断するシンボルにすぎません。
ドクターはオーディオマニアであってほしいと思います。

*『書店の存亡・バーンズアンドノーブル』
*『災害時の衣・食・住・医・職・趣その不便と不安の解決』
*『看医工学としての介護のコンシリエンスデザイン』
*『ゴジラというアンプ思想はアンプジラ2000に継承』
*『講演テーマで最近もっとも多い医学とデザインの「範」』


目次を見る

『人口ピラミッド視覚化で明確な高齢社会の重石』


   


     5月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

わが国の少子高齢化は人口ピラミッドの視覚化により、
明白な事実が確認できます。
自分自身が「団塊の世代・s22・s23・s24」の一人として、
この図解はきわめて事の重大さを納得させてくれます。
高齢化というより高齢社会は人口の巨大な重石になっています。
少なからず、1949年生まれの私には2050年はありえないでしょうが、
少子化の重大さは、いくつかの国家的危機を明確にしています。
まず、防衛的問題が政治的にはトップ問題ですが、
経済システムの大変更は
2018年大学問題・国公立私立大学は半分になるでしょう。
入学者数の無い私立大学は不要です。
そしてこの教育問題が産業経済への多大な影響になることは
すでに一般的には暗黙の理解になっていることは間違いありません。
最も重大なことは「年金問題」と「介護問題」がこの少子化の
人口ピラミッドを見れば一目瞭然となります。
18歳からの投票が可能になりますが、彼らの「不安」の中心は、
「政治に荷担しても何も変わらない」という印象から
投票しないという発言です。
しかし、この不安感の実態は「年金」問題もさることながら、
実際は「介護者不足」は2025年には250万人の介護士が必要です。
この実態は18歳には届いていませんから、
彼らの投票参加がなければ「シルバーデモクラシー」になるでしょう。
しかし、もし、投票がインターネットであれば、
18歳人口は彼らのSNSネットワークで、
マスコミ操作不要の新たなデモクラシーが出来上がります。
その時には、ネットワークによる新たなリーダーが求められるでしょう。
その時には自分は逝ってしまっているはずです。

*『日本システムが壊れた理由のひとつ』
*『災害への勇気と希望の世代間団結』
*『世界・世界観変革が始まる』
*『2018年=日本の大学制度は崩壊するかもしれない』
*『忘れた頃にを想定内に!』


目次を見る

『伝統の革新は新素材開発と情報エンジニアリングを図る』


   


     5月 7th, 2016  Posted 12:00 AM

一般には陶磁器で一括りにされてしまいますが、
これは明確に素材から陶器と磁器に区別して理解しておく必要があります。
簡単には「陶器」は土器からの古代歴史性があります。
六大古窯は陶器の歴史として、縄文の時代が深く関与しています。
なぜなら「陶器」は土を粘土にして焼き上げた歴史が歴然とあります。
「磁器」の歴史は石の粉をさらには骨の粉を粘土状にして焼いたモノ。
しかし、陶磁器なるモノはありえません。
なぜなら、陶器と磁器になるように土と石それぞれの粉を焼き上げるには、
現代的なセラミックとしての工業技術が不可欠です。
したがって、今、最も注目出来るのは、
手前味噌ながら磁器にプラチナ釉薬での鏡面仕上げですが、
完全にこの製造方法はオープンゆえ、
あたかも自分たちのオリジナルという盗用がはびこり出しています。
しかし、六大古窯であった越前焼に、素材である青粘土と新技法での
革新的な陶器が若い作家から生まれました。
この越前焼が最高品になる可能性があります。そうするつもりです。
この技法によって、ようやく、デザイン的な解決を
自分の鍛え上げてきたタケフナイフビレッジとの協同をねらっています。
陶磁器にしてもすでに焼成温度の管理は不可欠ですが、
これだけではありません。
新しい素材の応用、技法としての加工エンジニアリングが決め手でしょう。
この革新的な素材開発と情報エンジニアリング、そのデジタル手法を
伝統工芸の伝統技の継承とその革新性に再配置していきます。
それは新デザイナーの登用とともに解決制作をデザインします。

*『有田プラチナ釉薬仕上げ工程デザイン』
*『六古窯・越前焼ー若い才能が復元から再興を始めだした』
*『最高級品・アストバリーの技法を超えるには』
*『陶磁器は進化も革新もしていなかった、私の判断』
*『陶磁器メーカーの相次ぐ倒産はやむなしかもしれない』


目次を見る

『デザイン言語表現がコンシリエンスデザインになる』


   


     4月 24th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインは表現営為です。
したがってデザインされた表現の形態は言語だと言えます。
そこで、デザイン形態=「デザイン言語」と呼びます。
そのデザイン言語は、意味する意図(intention)を
造形言語=designing language、
意味されている内容(contents)を
形態言語=designed languageと、その二つで成立しています。
そして最近、この言語の背景にある知識や知恵という根幹こそsilience、
いわゆる日常ではほとんど無意識である「知性の核心」だと理解しました。
この無意識である知性こそデザイナーの知的背景だと決定できます。
コンシリエンスデザインこそ、知性の統合されたデザイナー能力であり、
言語表現に込められた意図と内容は、
すでに目論まれていたプライミング効果、
すなわちデザインの効用と効果を成し遂げるものになると断言します。
自分としては、コンシリエンスデザインという位置づけは、
明確にデザイン手法、その論理を言語化して、
その意味論は記号論へと向かわせることが出来たと自負しています。
これまでのデザインはすぐに機能で語られ、
装飾ある形態論に終始していましたが、
ここから明らかに小論的な論理を持って、
記号学に向かってきていると明言します。
さらに、デザイン知性は必ずスケッチでその言語展開が必要です。
それは「手」で描かれた発想表現が
プライミング効果になるということです。

*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『記号論は脱構築に向かっていった「かたち論」』
*『アナログスケッチからデジタルスケッチへ・・』
*『Padスケッチにすっかり馴れ親しんだ!』


目次を見る

『デザイナー能力の格差が拡大している』


   


     4月 22nd, 2016  Posted 12:00 AM

デザイナーの能力が想像以上に低下しています。
これはデザイナー教育の教員能力が低ければそのまま学生に反映、
デザインコンペも審査委員能力が低いと、受賞は低レベルです。
ところが反対に、熊本の収束が見えない連続する大地震に、
直・現場の崇城大学のデザイン系教員と学生、
九州大学のデザイン系教員(レジリエンスデザインがテーマ)と学生は、
目の前で起こっている被災状況に必死で取り組んでいます。
あるデザイン系大学では「防災もデザイン?」とか、もう呆れかえります。
自分は「コンシリエンスデザイン」を昨年、正式に訴求してきました。
しかし、大企業のデザイン部門では、
「デザイン思考」が社内では理解されているわけではないけれど、
他部門は、企業ビジョンとか、イノベーションがデザイン思考で改善する、
かもという期待感が最もらしくブームになっているとのことです。
とても、造形言語=designing language、
形態言語=designed languageによる、形態デザインと制度デザインが、
デザイン意図・デザイン内容で、その社会的なプライミング効果がある、
このような論理展開はまったく通じないことだと思わざるをえません。
あるデザイン事務所が小冊子130号出版をやり終えていました。
この中身は、それこそ、言語論であり、記号論でした。
素晴らしい小冊子を発行されてきましたが、
この書籍を読了不可能なデザイナーがリスペクトされないのは当然です。
40数年デザイナー、そしてデザイン学者として生きてきて、
果たして、まもなく動物実験結果がわかり、
製品と論文と、そして制度設計が待ち受けている
プライミング効果としての期待をされるデザイナーが育成不足です。
デザイナー教育に大問題があるのでしょう。
デザイナー能力格差が激化しています。

*『記号論でのコンシリエンスデザイン』
*『かたちの意味・造形言語と形態言語』
*『『007』形態言語を変更した新たな造形言語の失敗事例』
*『『形と性能』・デザイン成果=造形言語と形態言語』
*『特別講義・多摩美術大学『制度設計と形態設計』』


目次を見る

4月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 14th, 2016  Posted 12:00 AM

4月14日 仏滅(丙寅)

解答的な発想には、
「一般解」と「特殊解」がある。

「一般解」とは、だれも理解できる
普遍的で理解可能なことであり、
「特殊解」とは。
理解するには困難性があるが、
やがて一般化する要因がある。

川崎和男の発想表現手法


目次を見る