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Posts Tagged ‘世の中’


『デザイン思考には造形言語論と形態言語論が欠落』


   


     9月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

デザイン思考ということばと発想手法が普遍化してきました。
しかし、この普遍化でデザインの意味論は、
今回、あのエンブレムやコピー(盗作)で、デザイン界そのものが
大きな疑念に包まれてしまい、デザイナーとして大迷惑でした。
私は、すでにデザイン記号論として、
造形言語=デザイン意図=designing language=デザイン意味表現と
形態言語=デザイン内容=designed language=デザイン意味伝達を
コンシリエンスデザインとして論理構造化してきました。
つまり、デザインは、造形言語でデザイン意図の説明を
どれだけデザイナーがプレゼしたところでデザイン義務は半分です。
デザインされたモノやコトを受け取るのは形態言語です。
デザイナーはデザイン思考の二つを完備する義務があるのです。
デザインプレゼは、造形言語と形態言語を伝えないかぎり、
デザインとそれこそデザイン思考は納得されません。
それゆえに、私はデザイン思考の不完備性を主張してきたのです。
おりしも今回、大迷惑となってしまったエンブレムデザイン審査では
審査委員会の最初の応募者制限から審査委員長周辺の商業主義を
全面的に批判してきました。
だからそれが正当だったと言うわけではありません。
まして匿名投稿している電子掲示板などは、匿名に寄りかかっている
その本当のことが理解されていません。
匿名投稿者は、
匿名であることが真実無意味になっていることを知らずに
匿名だから個人情報が知られていないという認識こそ危険です。
私は美大卒業からプロとして,デザイン界で生きてきましたから、
デザイン界が汚れることには喧嘩を仕掛けてきました。
それは造形言語と形態言語、問題解決=デザインを糧にしてきたからです。
私はあくまでも世の中が性悪説になろうとも、
性善説=『デザインは社会に対する態度』で生きていく覚悟です。


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「景観への精神状況がそのままファッションに連鎖している」


   


     9月 2nd, 2013  Posted 12:00 AM

景観論をデザインの背後におくことに気づきました。
それも当時話題のファッション誌に連載を始めたばかりの時。
ともかく、読解困難な文章を書かないかぎり、
日本のデザインは時代遅れになり、
ことばからモノは遊離すると、30前の私は思い込んでいました。
モノの世界がことばから離れるほど、人は、その魅力を感じない。
この考え方は今も変わっていません。
なぜ、芸術も建築などその存在をことばで再度語り直すのだろう。
今もその考え方を私は強くひきずっています。
景観論の原点で、私は「光景・風景・情景」を書きました。
案の上、その連載から私ははずされました。
しかし、その頃の思考は若さがあって純粋だったと思います。
ところが、その文章に再び出会いました。
ある人のwebsiteにそれが掲載されていました。
以来、私が景観から「景気」を読み取り、
景気後退=不景気=depressionに辿りつきました。
景気や株価変動為替の動きほど世界を決定づけることは皆無です。
絶望を「死に至る病」と断言した哲学者を信頼すれば、
哲学が人間の精神をどれほど読み取り、
解説してくれるかを識ります。
結論は、不景気になれば、人は安物衣類を身に纏います。
それをmodeと呼ぶこと自体が、精神状況の表現に直結しています。
つまり景気あるいは不景気はファッションに連鎖しているのです。
世の中、世界、時代は、すべてが同義語です。
それを人は眺め、その空気に包まれるとき、流行に晒されます。
その流行を最も受け入れるのは若者の精神状況に限定されます。
ファッションが「モードの体系」でことばの中で解説されたとき、
私が驚喜したことは、そのままデザインとモノに繫がっています。
それはデザインとファッションの関係に連続し、
とりわけ、不景気とファッションの関係も、この関係だと、
私はひとまず書いておきます。


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「『最終講義』を告知させていただきます」


   


     2月 6th, 2013  Posted 12:00 AM

すっかり風邪を引き、点滴でなんとかしつつも、
実質的な阪大での講義も全てやり終えました。
それからまたふるさと福井での繊維産業の再活性化で帰省しました。
いつものごとく、親友がいつでも見まもってくれているので、
ふるさとは本当にありがたい場です。
このFBでも、BLOGを休筆すると先輩や後輩、
さらには教え子から元スタッフまでみんなに心配をかけてしまいます。
正直、まだ風邪は抜けてくれていませんが、
自分の身体がどうであれ、世の中は連日事件、
さらには、中国からのスモッグと大変な状況です。
昨夜北陸線でも事故があって、車中で従兄弟からも、
最終講義は聴きにいくからと嬉しいメールで、
「準備進んでいるか」とのこと。
やや焦っています。
スタッフや元スタッフ、学生たちが
最終講義の準備をしてくれていますから、
私としては、
本当に大学人最後の講義をしたいと思ってはいますが、
何をテーマにするかは日々変わります。
タイトルだけは、「・・・the Final」と決めました。
プレゼンテーションも、
Picture in Pictureという形式での講義スタイルを考えています。
デザイナーだから、
作品で語ることもできます。
デザイン史を、デザイン論を、
敬愛するデザイナーを、などなど語れるでしょう。
1996年に名古屋市立大学・芸術工学部新設から大学人になりました。
2006年に大阪大学大学院に移籍しました。
17年間、大学人とデザイナーという社会的な立場にありました。
阪大を退官とともに、
どのように今後のワークスタイルをここ数年常に考えてきましたが、
3.11によって、私は、最期の生き方を決定することができました。
あくまでも「行学としてのデザイン、デザイナーでいること」です。
それはおそらく、もし生まれ変わっても、
「デザイナーになる」ことは変わらないでしょう。
話せるかどうかはわかりませんが、
常に、自分を捉えて放さなかったテーマは、
「デザインでわび・さび観に近接できるか」でした。
直感的には、たとえ工業製品、産業的美学上の形態に、
「わび・さび」を配置することこそ、
日本のデザインテーマだと熟考してきたことです。
そんなことを最終講義に少しでも加味したいと考えています。

最終講義申し込みは以下です。
www.kazuokawasaki.jp/final.html


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「1949年生まれにとっての2050年未来は?」


   


     11月 11th, 2012  Posted 12:00 AM

1949年生まれの私にとって2049年は100歳です。
したがって、2050年にはすでに私の生涯は終わっています。
書店で、この本を見つけました。
2050年という未来予測です。
ともかく読んでおこうと思っています。
その時に、地球は、世界は、そしてわが国日本はと、
想像するヒントだけでも知っておきたい。
ワイフは生きているかもしれないし、
甥っ子や姪っ子には人生の中盤になっていることでしょう。
教え子たちには必ずやリーダーとして、
世の中を牽引していてほしいと思います。
まだこの本は読んでいませんが、
まず、同胞である日本人には幸運と幸福であるべきです。
世界で最も理想的な国家になっているべきです。
大学人になって17年ですが、
17年前に私なりに今日のあらゆる領域の脆弱さは想像していました。
そうしたら、なんと3.11という1000年に一度という大天災と、
またもや、
放射能と日本人は向かい合わなければならないことになってしまいました。
私に残された時間を毎日確認しています。
28歳で車椅子になったとき、
ドクターの宣告は40歳までの生涯のはずでした。
だから、せめて体力は衰えようが、気力だけでも健気に社会と向き合い、
私なりのデザインを残したいと願っています。
なぜなら、デザイナーという職能家として生きぬくことが、
私の天命であり、運命であり、宿命であり、だから使命だと思います。
幸運にも、デザイナーゆえに、「夢を創る」仕事で生きぬけるはずです。
読者諸兄にとっても、
2050年をどのように迎えることになるのかは問いかけておきます。
2012年もこれから歳末はすぐにやってきます。
来年、どう生きるか、それは2050年に連続していくことになるでしょう。
私は、学生たちに最近は、次のように伝えています。
「君が中年になって人生に成功している姿を、
私はみることができないことはわかるでしょう、
だからこそ、君の将来は、
君自身で自分の中から紡ぎ出すしかないんだよ」、と。
未来は常に、「夢を抱いて招来すること」、
これが全ての人にとっての使命だと思います。


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「ブライスというたかが人形に、されどの本質」


   


     8月 13th, 2012  Posted 12:00 AM

自分の生まれ年のモノこそ、
自分を重ねていく趣味性とオークション価値性が楽しめます。
学生たちにも、若いときに、たとえば生まれ年商品となった、
時計などを買っておくことは趣味の基本だと伝えています。
私は50代になって、
生まれ年の時計を随分探して買いましたがとても高額でした。
そうしたら、
ワイフはしっかりと生まれ年の人形をコレクションしていました。
多分、この人形は、「たかが人形」に過ぎないと思いますが、
これはとても価値あるコレクションだとびっくりしました。
しかも、ルイヴィトンの靴トランクに、
このブライス周辺の小物まで整理して持っていました。
今回も彼女のコレクションを借りてこのブログで、
「たかが・mere」?「されど ・just」という比較断定論を突き詰める、
その一例としてメモしておきます。
ブライスは、おそらく人形の中でも独特の表情とその存在感があります。
この人形の詳細についてそれほど私は語りきることはできませんが、
この人形を素材として
人形との関係が総合的に充実しているモノはないでしょう。
すなわち、「たかが人形」「たかがブライス」に過ぎませんが、
問題は「されど人形」「されどブライス」を
確認する要素がいっぱいあります。
私が「たかが」?「されど」の可逆論理は、
「たかがデザイン」ー「されどデザイン」という言い方で、
私は「デザインの重大性」をこれまでも、
これからも語っていくことになると思っています。
私にとっては、「たかがデザイン」と言われたり、
その程度の価値観を抱く人間には常に喧嘩をしてきました。
「されどデザイン」を実証するのが私の使命だと考えています。
「されどデザイン」の本質的確信は、
人間としての人格=美しさ認知力こそ、
その人の存在性に関わっていると断定しているからです。
真・善・美が人間の悟性であり存在性そのものの価値だとすれば、
この真・善・美においても最後の価値判断は「美」です。
結局は真であり善であっても、
美無くしては真善も成立はしないということです。
私は、このブライスという人形が世の中に登場して、大変なブームになり、
それがさらに「たかがブライス」なのに「されどブライス」になって、
しかも現代も「されどブライスの価値観」は高密度になっています。
ブライスの存在性が創り連続してきた
「価値」の真意は美に通じているのです。


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7月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 16th, 2012  Posted 11:50 PM

7月16日 先勝(戊寅)

人は、それぞれの感性や、
良いなあと感じる許容範囲が異なる。

だから賛否両論あってこそ、
それがまっとうな世の中だと思う。

『プレゼンテーションの極意』タブーの逆説「いい加減」なプレゼンの「良い加減」づくり


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4月30日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 30th, 2012  Posted 10:00 AM

4月30日 赤口(辛酉)

僕は、
このような夢を語るとき、
常々、自分が世の中に対して
夢を語れる権利を
持っているのかということを
あらためて考えてみる。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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4月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 27th, 2012  Posted 2:25 PM

4月27日 先負(戊午)

業界のデザイナーや
デザイナー志望の学生たちは、
世の中にあるものを
デザインで改善していきたいと
みんな願っている。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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4月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     4月 17th, 2012  Posted 10:00 AM

4月17日 大安(戊申)

確かに、この世の中を渡って行くのに、
まったく裏表がないというのは
なかなか難しいことだ。

しかし、
素顔と仮面の大きな隔たりは、
精神的苦痛だけでなく、
そのうち体調にも変調を与えるようになる。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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3月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 16th, 2012  Posted 3:49 PM

3月16日 先勝(丙子)

デザイナーにとっては、
これまで世の中に存在しなかった
新しい形態を生み出していく作業は、
「自分」とまったく正面から
向き合う作業である。

『プレゼンテーションの極意』「わがまま」と「誠実さ」


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