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Posts Tagged ‘コンシリエンス’


『「パラシリエンスデザイン」でのプライミング効果予測』


   


     4月 23rd, 2016  Posted 12:00 AM

「コンシリエンスデザイン」を提唱する基本として、
Silienceというすでに古語化している基本的なことばを調べました。
「無意識の知の核心」=silienceが自分なりの定義です。
そこから、コンシリエンス、レジリエンスは勿論のこと、
新たな展開としてパラシリエンスとメタシリエンスへと拡大しました。
パラシリエンスの具体事例として、
「動物実験」を取り上げてみます。
動物実験は、医学的な倫理に基づいて、動物を使っての事前調査です。
これはいわゆるプライミング=priming:実施事前の具体的な調査です。
しかし、動物実験にまでデザイン:問題解決・価値創出・未来創成は
まだまだ登用されていませんから、
この施設・環境にまでデザインは無適用です。
デザインによる医療機器・医療装置などは、
人間工学を超えて動物実験に必要だと断言しておきます。
これこそ、「パラシリエンスデザイン」という、
新たな倫理観によって
事前調査でのプライミング効果の最適性を検証します。
少なからず、問題提起と問題解決というデザインにとって、
この動物実験、新たな動物実験へのデザインを
「パラシリエンスデザイン」として提唱しておきたいと主張します。
実際、これはコンシリエンスデザイン看医工学としての実務として、
新たな医療機器、それも治療機器:
わが国では医療治療器は決して行わない、
この風潮・制度化現象がありますが、
「パラシリエンスデザイン」として、
治療器開発は当然だと提案しておきます。

*『コンシリエンスデザイン仮説をレジリエンスデザインから』
*『コンセプトからイノベーションは起こらない』
*『手の消毒、そんな時代になっている?』
*『IoTではなくIoMetというライン手法』
*『コンシリエンスデザイン事象を創出する職能』


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『silience=無意識だけれども重要な知的核心という解釈』


   


     4月 20th, 2016  Posted 12:00 AM

おそらく、「コンシリエンス」という新造語を作成した
ウイリアム・ヒューエルは「silience」という言葉を原型に、
con+silience=consilienceとしたのではと辿りつきました。
「silience」というすでに英語でも死語化している意味を探りました。
しかし、これは単なるデザイナーの戯言的な解釈と考えてください。
「silience」には、日常何も考えない、つまり無意識ながら、
あるとき、ハッとするほど重大な、
それこそ隠れていた宝石のようなキー単語に辿り着くことがあるという、
そんな発想の言葉が「silience」だということです。
たとえば、自分の進路がゴミだらけだとしても、
そのゴミの中に、突然キラリと光るダイヤモンドがある、かもしれない
そんな柔軟性をゴミだらけの道筋でも発見できる能力=言葉です。
だから私はデザイナーとして、
18世紀のウイリアム・ヒューエルからエドワード・オズボーンによって、
「知の統合」=コンシリエンスに至ったのなら、
paraとmetaを加えることで、さらにコンシリエンスとレジリエンスを
思考拡大していきたいと考えています。
これはかつて、アルキメデスが「メタ理論」をまとめたことを応用可能?
と考えているからです。
少なからず、レジリエンス=re+silienceとは、
redesignのごとく、silienceの否定ですが、
それこそ、積極的な否定という意味での、ストレスやプレッシャーを
「無意識の知性」で克己するという重大な意味になるからです。
パラシリエンスは、知的前提でのプライミング性があり、
メタシリエンスは、知的拡大を図ってエフェクト性があるということです。

*『芸術で学術は語り切ることができる』
*『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』
*『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
*『コンシリエンスデザインの基盤は危機解決学である』
*『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


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『デザイン領域の「統合」による安全・安心・防災・防犯』


   


     4月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

美大でデザイナーの教育を受けた自分にとって、
デザイナーにはデザイン技法の習得が絶対的な身体技命令でした。
社会人デザイナーとしては企業で、その身体技をさらに研磨され、
それ以上にモノづくりの技術と営業を仕込まれました。
やがて、国内外でそれなりのデザイン活動をしてきました。
大学人として、産業美術学科から芸術工学科へ、
デザイナーとして、時代と社会対応は、文理と学術・芸術の統合から
自分のデザイン領域を、大きく4つ生み出しました。
デザイン理工学・デザイン医工学・デザイン文理学、そしてデザイン政経学
幸いにして総合大学ではこの統合化を成し遂げることで、
産業・技術・環境・文化が明確に見えていました。
ところが、March.11 2011の天災と人災は、
さらにデザイン領域での目標と目的を詳細化してくれたのです。
それは、「安全」・「安心」・「防災」・「防犯」でした。
この四つを産業・技術・環境・文化に再配置するには、
文科系+理科系と学術系+芸術系を組み込まなければならないと気づき、
かつて「コンシリエンス」と「レジリエンス」を問いかけたことば、
それこそ「コンシリエンスデザイン」を定義化する必然性ができました。
すでに、美大系・工学系・教育系ではデザイナー養成は困難を知り、
世界や、地球、これからの社会や時代が、
デザイン、デザイナーへと要請する実務が見えてきたのです。
あらためて「コンシリエンスデザイン」が
「安全」・「安心」・「防災」・「防犯」を創出すると確信しています。

*『何がデザイン思考かは終わったのだ』
*『危機解決学としてのコンシリエンスデザイン』
*『自分に何ができるかという死生観』
*『コンシリエンスとレジリエンス』
*『「ふだん」・「まさか」安全と安心は相対的でしかない』


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『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』


   


     2月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインはサイエンスだと公言する人は数多いと思います。
私自身もデザインをサイエンスと考えてきた一人でした。
しかし、それなら、なぜ美大=芸術の一領域で
デザインを徹底的に体で訓練されてきたのかと疑ってきました。
大学を退官して、ようやく、デザインは学際的な一領域に辿りつきました。
それは「Scientist」という職能を決めた人物、
ウィリアム・ヒューエルの存在がありました。
特にサイエンスを定義し、
なおかつその職能を決定した人物がいたことです。
「コンシリエンス」という言葉は彼の造語であり、
この言葉が復活をしてくるのは20世紀でした。
とりわけ彼がサイエンスの限界に美学性を持ち込んだことかもしれません。
私は文理融合とか学術と芸術の統合をconsilienceと断言した彼の造語から
「コンシリエンスデザイン」を再度定義づけています。
無論、彼の造語を再度学術性への芸術化を持ち込んだ人物も精査しますが、
やはり問題は科学では断言仕切れない芸術、特に美学性でした。
しかもcon-silienceとre-silienceに私は注目してきました。
とりわけ、なんでも精神的なストレスを理由にすることへの
いい加減さに辟易していた私には、
レジリエンスにもデザインが適用できると納得したからです。
コンシリエンスとレジリエンスが
対応できる新たなデザイン概念だと決定できたのです。
無論、サイエンス世界にも美はあります。
それどころかサイエンスは究極、美に繋がっています。
それはヒューエル自身もカントに大きな影響を受けたごとく、
カントは感性を極めて大事にし、
「直観の無い概念は空虚であり、概念の無い直観は盲目」とまで
断言を残してくれました。
私はあえて、デザインをサイエンスから分離させて、
むしろ学術+芸術はデザインによる、
すなわち直観による問題解決のヒント・価値創出のサイエンス性、
未来創出の芸術的表現を読み切る力はデザインにあると確信しています。
それだけに教育系や工学系では
デザインは元来つくれ無かったのかも知れません。
私は「芸術工学」での芸術と工学(サイエンス)を母体にしたからこそ、
「コンシリエンスデザイン」に辿り着いたのだと思っています。
したがって安易過ぎる「デザイン思考」などは
何の役にもたたないでしょう。
特にレジリエンスデザインはデザイン思考では解決不可能です。


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『思考無き概念解放無きデザイン手法ありえず』


   


     2月 17th, 2016  Posted 12:00 AM

「デザイン思考」は米国のデザイン会社の商品であり、
それがそのまま大学教育に持ち込まれました。
そのまま、日本は早速、大学教育とビジネス経営論という商品化を実現。
これが今ではすっかり流行になっています。
もちろん、権威づけられたかのような「デザイン思考」も
専門家からみれば、この手法での成功例はまだありません。
私は、「コンシリエンスデザイン」という実際は歴史ある言葉から
「コンシリエンス」と「レジリエンス」を捉え直して、
看医工学の基本概念に「コンシリエンスデザイン看医工学寄附講座」を
大阪大学大学院の医学系研究科に設置しました。
この設置にあたって概念整理の中では、
これまでの大きな概念がすべからく
後退していくことを追いかけてきました。
たとえば、Concept、Communication、IoT などは
やはりまだまだ20世紀を引きずってきた言葉、用語、あるいはすでに
デザインを取り囲むラングになっていると判断評価しています。
特に、Innovationなどは、元来の原意すら押し曲げられていることに
私は明確に気づくことができます。
それは「コンシリエンス」とともに意識されてきた「レジリエンス」に
全く新たなデザイン手法が当てはまりそうです。
確かに、これはまだまだパロールかもしれませんが、
新たな次世代手法の創造になっていると確信しています。
それはいつのまにか、何でもかんでも「ストレス」ゆえに、
健全性を創出する現代性病態は不況因にもつながっています。
「ストレス」に十二分に対抗出来うる強靱さは「レジリエンス」であり、
そのデザインこそ「コンシリエンスデザイン」が果たしていくこと。
これがより明快になることを「KK塾」で一般化してきました。
「コンシリエンスデザイン」はConceptでは語らずに、
これはLineで統合的かつ学際的な概念化が可能になります。
ストレスの呪縛から解放されることはWired offの情況を配置し、
まさにMagic Balletであり、No Brainerなデザイン、
つまり、「思考」=Thinkingという浅薄さではありません。
問題解決を成し、価値=望ましさと好ましさを創出し、
そして、未来を創成していくデザインの本質を手法化することこそ
「コンシリエンスデザイン」が明確に浮かび上がってくるわけです。
少なからず、Concept、Communication、Innovationからの解放こそ、
GroovyでCoolな次世代デザイン手法であり、
それは経済を超えた文化の体系創造に直結していることです。


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『芸術で学術は語り切ることができる』


   


     12月 14th, 2015  Posted 12:00 AM

学術性と芸術性が分断されてきた教育について
私は長い間、大きな疑問をもってきました。
単純には、二つの現象があります。
主要五科目=国・数・理・社・英と音楽・美術・体育という
この対比に日本の教育は縛られてきています。
最も体育というのはすでに間違いであり、スポーツでしょう。
そして、主要五科目が学術性とされ、音楽や美術が芸術性です。
幸いにして、私は美術大学に進学し、就職ではオーディオを選びました。
そのおかげで、美学の世界(美術と音楽)から、
学術性を外側からみてきた気がしています。
しかも、私はすでに大学人になってあらためて学術性の世界にいますが、
正直、今頃になって、講義内容を芸術=美術や音楽、
それらの作品をヒントに語っていくことで、確実な学生たちへの
講義教育での説得性と納得性を感じています。
しかも幸いに私が大阪大学大学院の医学系研究科から与えられた
そのミッションは、「コンシリエンス」であり、
それには「レジリエンス」といういずれも18世紀からの、
学術性と芸術性の「融合・統合」化でした。
明確に見えてきているのは、
学術性を延ばせば、芸術性は確実的に落ち込みます。
同様に芸術性が伸びれば、学術性が低下することです。
そして、この元凶は明らかに主要五科目で緊縛してきた教育でした。
この図は見事に一般的な能力が教育的な緊縛に閉じ込められた、
結果でしかないと私は思っています。
おそらく、この図に人間の能力が落ち込まないことを
私は目指していきたいと考えています。
具体的には、学術性+芸術性=デザイン、
それもコンシリエンスデザインであると結論づけています。
ちなみに、私は「Concept」:概念を教えるときに、
ベラスケスの美術作品である「ラス・メニーナス:侍女たち」を教材に、
芸術から学術での概念と観念を明示することができます。
こうした自分が元来デザイナーであり、デザイン活動での
芸術+学術=デザインを
新たな統合性として「コンシリエンスデザイン」を語るには、
私は、この図のような能力の低下を防御することを
最大に考えています。
今後、私は、学術性を語るには、美術作品・音楽作品で
充分に講義することが出来ると確信を持っています。


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『「影向」は陰翳を超えた日本伝統の美学を再興した』


   


     11月 6th, 2015  Posted 12:00 AM

「影向」:yow gowという松岡正剛の提示は、
流石と言わざるをえませんし、それは彼の膨大な認知力でした。
「かげ」には、光との関係が明白にあります。
それは私が「陰翳礼讃」では語りきれなかった不平不満を
全て取り出して、一挙にそれが、納得し解決しました。
陰翳とは、
確かに日本的な暗闇に存在する物への美学的アプローチでしたが、
私には、特に、デジタル化された光と、その影と陰には、
もっとその根幹であるひかりとあかりの翳りという動態こそ重要でした。
そこに、「影向」という言語が身体性で語り直されたわけです。
影にはあかりの翳り具合の形が、
それこそ夢幻抱影な印象解が必要でした。
それこそ薄暗闇にあたかも浮かび上がる世界観が「影向」だったのです。
しかし、影にはあかりに浮かびあがる形があっても、
陰には陰陽五行での遮断されている翳りだけでは、日本の美学は、
翳りのアナログ性を引き継いでもデジタルな翳りへの進化は
決して語り次ぐことは不可能なのです。
陰翳では日本の伝統へその美学性のコンテクストを引き継げません。
これが私的には不満足であり、大きなストレスでした。
デジタルサイネージが結局は電子看板という軽薄さでは日本流は不可能。
「影向」という、暗闇は翳り動態をしながらもあかりある影の形態こそ
抱影されたイメージそのものをデジタル変容させるのです。
だから私はサイネージを超えた「デジタルアッサンブラージュ」という
その新語による映像・照明・空調もデザイン表現を提案し始めました。
「影向」は、言語が場踊りという身体パフォーマンスを、
舞台芸術として革新するとともに私のデザイン表現そのものを
陰翳礼讃どころかデジタル光線の陰と影との翳り制御を発見させました。
私は「KK塾」第1回目の冒頭で「影向」にデザイナー感性を知り、
破壊されていた気分や気配でこの講座を始めることを宣言しました。
この一枚の演劇ポスターですら、
銀塩版での初期写真機撮影で、光の翳り具合撮影であったのです。
世界的なカメラマンが、群像写真撮影ならば絶対に断ったにも関わらず、
「影向」表現の演出には
ここまでのデザイン的な配慮があったと聞きました。
偶然といえば済んでしまう話ですが、
私は「コンシリエンスデザイン」を開始するにあたって
「影向」という、それこそイノベーションという誤解だらけの定義を
「コンシリエンス」=新結合=コンバイネーションを
手に入れることが出来たのです。


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『「KK塾」の対談と質問はイニシャルで方向決定』


   


     11月 4th, 2015  Posted 12:00 AM

「KK塾」スタートは米国から、すでに大阪大学招聘教授である
濱口秀司氏の講演と私との対談、観客からの質問により、
予定時間を大幅に超える熱気の中で行われました。
講演内容は、林信行氏が、
会場から同時間のままSNSアップをしていただきました。
この実況があったためか次回参加者の申し込みが殺到しました。
したがって、ここでは私が彼との対談や観客への回答を
記述しておきたいと思います。
私からの対談テーマというか質問は、
IoTの今後、特に人工知能の可能性でした。
私は彼のプレゼンテーション映像や彼が認知している、
特に彼は「Bias的手法での成功例」や、
阪大親友・石黒教授との合作である2体のロボット会話、
その会話に、人間が加わるだけで、
2体ロボットには、全く人工知能化はいらないことを説明。
そこで、私の持論となりつつある「人工知能無理説」、
つまり、DNAと神経がロボットに実装されない限り無理を
人工心臓デザインの実際や、エボラ出欠熱がRNA破壊など
そうした実例での人工知能の無理説、無謀論を述べました。
人間細胞を決定している遺伝子=DNAはすでに解釈されていますが、
DNAを制御しているRNAを破壊するエボラ出血熱は
ほとんど医療治療は不可能です。
これは100億人を地球環境がとても支えられないことへの
自然淘汰なのかもしれません。
濱口氏の回答は明解でした。
ともかく仕事としての問題があれば最適解を必ず出しますという姿勢。
これこそ、私がデザインを学術性と芸術性を統合出来る能力者、
こうした次世代を大阪大学大学院の私の講座、
「コンシリエンスデザイン」で育成したいテクノロジストです。
そのお手本がまさに濱口秀司氏でした。
観客からの質問は二つに集約できました。
濱口氏は「ともかく練習・訓練が必須」でありその方法論紹介でした。
そして、私にも向けられた質問は、
自分の提案が拒否された場合は?でした。
これは私がデザイナーとしての40余年間の生き様でした。
私の提案が拒否されたなら、
「拒否する人物の社会的存在そのものを総否定する」ことです。
この意見には濱口氏も賛同をしていただきました。
理由は簡単です。
私はデザインからのイノベーション定義こそ必要と考えます。
イノベーションの提唱者であった
「社会階級論」著者・シュンペンターは、
革新ではなく、コンバイネーション(独)、
「新結合」でした。
これこそ、コンシリエンスであり、
これも18世紀の造語であり、対語であったレジリエンスを
現在の大学機構、特にデザイン系大学では
この教育が無いことです。
だからこそ、
私は「KK塾」でも一般的な認知論を開講したのです。
次回からこの講演レポートを配布します。

講演実況 by林信行氏*http://togetter.com/li/893475


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『次世代デザインの「KK塾」スタートです』


   


     10月 20th, 2015  Posted 12:00 AM

阪大の医学系研究科に移籍してから、
文理融合や医工連携では限界があることを開発実務毎に
大きく感じてきました。
特に、「危機管理工学とデザイン」の関係には大疑問があり
それこそ3.11復興事態が危機管理工学中心主義は間違いです。
そこで、「危機解決実務としてのコンシリエンスデザイン」を
私は提唱するとともに、この後期から医学系研究科にて講義を開始。
と同時に「KK塾」を学術界や産業界での第一人者の専門家を
私の評価基準で
選びに選んでこの講座の講演者になっていただきました。
デザインは未だにデコレーションと同義ですし、しかも、
エンブレム問題や盗作問題でますますデザインの理解は下降しました。
私は、マネージメントやマーケティングが
デザインと同次元で扱われていることをズーッと批判してきました。
本来のマネージメントは短絡的な管理ではありません。
マーケティングはいつも儲け話が先行しています。
学術+芸術の統合=コンシリエンスと断言しても、
統合の概念がこれも問題解決=デザインを曖昧にします。
統合を
 ●「規模的統合」
 ●「ネットワーク的統合」
 ●「機能的統合」
 ●「文化的統合」
という四つの明確な方向性と統合力の大きさで、
問題解決=デザインを明確にしていく講座を開設します。
コンシリエンスデザインであるだけに、
私は講演者それぞれが第一人者である実例を大事に、
その根底思想や手続き、妨害事項、それでも成果評価を
語ってもらうつもりです。
講演者は全てが文理融合した頭脳と行動力で社会的かつ国際的な
実績者たちばかりです。
今、デザイナーの発想方法は「デザイン思考」として語られています。
しかしデザイナーにはセンスが求められていますから、
この講座では、まず、私たちが現代世相から未来創出の
問題点そのものを明白にすることから始めてもらうつもりです。
人類にとっての最大な問題は、「生き延びること」につきます。
しかし、私たち日本人は3.11で、天災と人災でもう一度、
自分たちの生活様式に対し、再熟考を要求されています。
私は敗戦を体験し、先進国家だけに未来をデザイン設計する立場なのです。
もはや、これまでのデザイン系大学では近接不可能な
次世代デザイン=コンシリエンスデザインがこの塾で社会化します。
この講座では、コンシリエンスデザインを
私は看医工学に向けてより正確な質問と対談を講演者とやってみます。

* Website-HP


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『安全と安心・防災と防犯は学際化デザインになる』


   


     10月 13th, 2015  Posted 12:00 AM

気候変動と感染症の増大は天災を我々に与えます。
決して自然とは調和など不可能ですから、
天災はすぐに人災になります。
危機は管理ではなくて危機解決を即、実行しなければなりません。
安全と安心・防災と防犯によって私たちの生活は強固に守られるべきです。
私はデザインを理工学・医工学・文理学・政経学に冠して、
設計学・計画学・編集学・情報学で取り囲んできました。
そしてその根幹には「学際化」=コンシリエンスを与えました。
安全と安心は、価値学・信頼学によって解決が可能です。
防災と防犯は、健康学・防衛学が解決を近接させるでしょう。
デザイナーの資質にはどうしても学術性と芸術性が必要です。
これまでのデザインではどこか文科系のような印象でしたが、
私は理科系が必須だと考えています。
それを端的に集約しているのは、人間学の根本です。
確かに人間学部とか人間学科がありますが、
よくよく人間学を問い詰めてみるとそれは保健学に焦点化できました。
その保健学と防衛学を計画学で医工学と政経学の均衡上に配置しています。
防衛学は70年間戦争をしてこなかった敗戦国だけに、
こうした学術+芸術=学際に位置させることは日本では異質ですが、
戦争というよりテロ社会は
防災と防犯にデザインでの問題解決が不可欠です。
一方で価値学と信頼学がデザインに関与することで、
安全と安心が人間社会に確約されることになることは間違いありません。
私は長年、デザインは学術+芸術・文科系+理科系の学際化が、
物事・事物の「学際的デザイン」がデザイナーには求められていることを
ことばとかたちの相対論で40余年語ってきたと思っています。
コンシリエンスデザインによる学際性を看医工学に集中させました。
それは明らかにデザイン医工学が人間学としての保健学を基盤にして、
具体的には、「完全無菌」=アレルギー・アトピー・感染症を無菌化し、
人間が無菌になればなるほど弱体化することは間違いありません。
よって、その防御を「抗体保健」=免疫学へのデザインアプローチを
私は次世代デザイン=コンシリエンスデザインと看医工学で具体化します。
「KK塾」ではこの次世代デザインを方向付ける講師陣を選びぬきました。
この講座には招聘教授は現在2名を配置しています。


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