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Posts Tagged ‘革新’


「秩序ある群衆=価値感は多様化しない」


   


     5月 24th, 2011  Posted 12:00 AM

少衆・分衆・個衆という呼称がありました。
大衆の価値感が分化していくという意味でした。
「価値感の多様性」というのは、
1980年代から、日本市場の読み方が始まったのです。
この当時私はフリーになったので、
時代的な特性の読み方をプロとして覚え始めました。
それはフリーランスデザイナーとして、
デザインを商品化していく上での市場分析でしたから、
記憶は今も連続しつつさらに時代を凝視してきました。
この読み間違えをしたデザイナーは消えました。
私がほぼ40年間、日本の市場には、
「価値感の多様性」は起こってこなかったと見ています。
「価値感の多様性」というのは、
マスコミの怠慢的な説明に過ぎなかったのです。
それを大手広告代理店が商品の「差別化」を、
アジテーション・プロパガンダする手段でした。
わが国日本は一言語一民族ということでは、
価値感がいつでもある方向に収束していく、
きわめて秩序ある群衆という大衆だと評価しています。
決して価値感は多様化などしていません。
むしろ、少衆化と分衆化は起こっていますが、
この分化も群衆化という無秩序性にならないという、
ある種の担保的な価値感枠組みに過ぎません。
結果、政治への不信感が高まれば、
決して群衆的な無秩序さで「革新」などには到りません。
「革新」というより、
今なお「維新」という呼び方が好まれる次第です。
秩序ある群衆には全く「価値感に多様性」は無いのです。
秩序ある群衆としての力は、
必ず、一方向へ収束するでしょう。
それでもこの力こそ、
国難を乗り越える底力になるのかも知れません。

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『資本主義からの逃走』
   「革新は、改革なのか変革なのか?」


   


     8月 3rd, 2010  Posted 12:00 AM

革新には二つの方向
「革」、特にクロコダイルとブリザードが大好きです。
しかし、クロコダイルの皮革商品はこれからは貴重品になるでしょう。
地球環境の天変地異が動物たちの存続を怪しくしています。
この地球環境を「変える」ことは、デザイン対象です。
私は「変える」、「変えたい」と常に思って生きてきました。
昨日は「変える」というのは、
対象に「恋する」意欲、意志に近いと記しました。
その理由も至極、語源的であり、
「變」と「戀」にその意味が覆い被さっているという私見です。
さて、革新とは、対象が「革」を木を切り倒した切り口のようにすることです。
それが二通りあります。
私は、「改革」と「変革」には大きな違いがあるから、
相当の吟味が必要だと考えています。
特に、政治家や企業家のリーダーはこの二つの大きな違いを無意識ですから、
決して実現などしないのでしょう。
私はデザイナーだから、デザイン対象を詳細に見詰めます。
結果、若い頃には、企業家=社長に向かって、
「この企業でのデザインは、改革ですか変革ですか?」
この質問をしたおかげで、
生意気という評価と仕事はいただけない経験をどれだけしてきたことでしょうか。
おかげで、私のこのデザイン対象の再認識手法、
それを支援していただいたリーダーの器量ある企業での商品開発は「革新」でした。
だから、失敗は皆無だと自負できます。
そして、革新をめざしてデザインしたモノは、
ロングライフ製品や、海外の美術館に永久収蔵されています。
私は「改革」は目指しません。
それは、改善、手直しただけであり、革新と言うほどのものではないからです。
変革をめざす
いつでも「変革」をめざしてきました。
対象は「革」です。ピーンと張った革にも関わらず、
その不安定な革、
いうなれば、ピーンと張っていても
まさしく時代の風の中で揺れているというより吹き飛ばされそうな状況を
「変える」のです。
「変革」に恋する自分でありたいのです。
「改革」ではもうはや本当の「革新」には至らないとすら思っています。


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7月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 12th, 2010  Posted 10:57 AM

7月12日 赤口(癸亥)

デザインも、
「品ある情報」のためのデザインへと
革新していくべき時期に来ている。

「品」について、
もう一度根底から考え直す時代に
入っている。

『デザインは言語道断』物品


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『資本主義からの逃走』
「# 25周年の経験なれど納得できないアスリートグラス #」


   


     6月 12th, 2010  Posted 2:01 AM

メガネデザイン25周年
メガネフレームのデザインに関わってきて、25年になります。
今年は、クライアントであるメーカーが、
「25周年記念」として復刻番や新作を発表してもらってます。
私のメガネフレームは、大勢の愛好者が支援していただいていて幸運です。
そして、私のブランドのみに、
大勝負をかけていただいている専門ショップもあります。
もうすっかりと、メガネに関わるほとんどの知識は身についていると自負しています。
しかし、メガネフレームは
「明らかにファッションであり、さらに、流行現象の中で翻弄される商品」なのです。

必需品だが
やがて、地球上の人口が70億人になります。
おそらく、人口統計学的な予測よりも早く、70億人に達するでしょう。
引き替え、わが国の人口は「少子化」とともに激減しています。
ともかく、35億人=メガネが不要です。
そして35億人=メガネは必需品です。
現在の調査では、12億人、メガネを所有していますが、
23億人はメガネを持っていません。
この23億人向けのメガネは根本からの「革新」をめざして開発を進めています。

アスリート用サングラス
ところで、メガネフレームには、「スポーツ向け」というのがあります。
プロのアスリートたちは決まって、
このスタイリングデザインをかけています。
しかし、このメガネフレームほど、
どんな人間、人種を限ってみても、
「似合っている」と思ったシーンはまったくありません。
もし、「まあまあ」というのは、スピードスケートや、
サンバイザーなどで、ヘアースタイルというか頭髪を隠してしまえば、
それなりのスタイルに「見える」だけです。
翻って言えば、スポーツ、アスリート、ゴルフなどにこのスタイリングを、
私に言わせれば強引に「商品展開」した企業のオリジナリティは評価できます。
25年の経験から、私は次の三つの方向をともかく道筋をつけたいと考えています。

メガネを必要とする人へのまったく「革新的メガネ」の開発
廉価なメガネへの「生体工学と人間工学」をデザインで導入
あの醜いアスリートメガネの「スタイリング一新」

果たして、ここまでやり切れるかと考えるとき、
私なりの経験と予測、
さらに造形シェイプ、
その創出方法は教育しておきたいということです。


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『資本主義からの逃走』
「 iPadを見つめて、かたち・きもち、そしていのちへ」


   


     5月 20th, 2010  Posted 1:11 AM

いのち
このところ私は、自分のデザインでも無いモノについて、
論理展開など無関係なスケッチ的エッセイを書いています。
というより、「吐露」していると受け取ってください。
20世紀、ほぼ50年を共時しました。
おそらく、自分の生涯は、20世紀後半から、
2049年(この時100歳)までの「いのち」を考えます。
この歳まで生きられるのか!なんてことも、
「憎まれれば」ですから、確実かもです。
ともかく、私はデザイナーという職能で生きてきましたから、
「かたち」を創ることを最も目指してきたことは自負できます。
そして、「かたち」・「きもち」・「いのち」という言葉に
自分の観念も概念も入れ込みながら、「形態」にしていくことでした。
様々な「形態」をデザインしてきました。
当然、自分のデザインしたモノが、何ゴトかに連続していったり、連鎖すること、
こうしたことは自分で語るコトは充分に可能です。
しかし、「時代を革新する」という明確な認識のモノについても、
語る義務があると考えてきました。

ささやかな義務とささやかな権利
それは、「創る」、「デザインする」という姿勢を保持しているからこそ、
それを義務と考えることにしているのです。
なぜなら、職能義務を尽くしきることに徹する姿勢や態度に懸命であれば、
必ず「何らかの権利」が「与えられる」ことを経験してきたからです。
今夜は、iPadをデザインしてきた人物自身から、
デザイナーとして、iPadでのスケッチ、その最良の方法を聞くチャンスがありました。
それは、私が危惧、つまり自分はその手法をマスターできないかもしれない、
そんな想いをいっぺんにかき消してもらえたのです。
つまり、そんなことを聞ける権利が手に入ったということです。
明らかに、「現代」は、まさに「今日」は必ず「明日」に繋がってほしいのです。
そして、明日は今日よりも素敵な1日であってほしいのです。
iPadの「かたち」で「きもち」がどう動くのかということでしょう。
サクサクと動くのか、
ザワザワと動くのか、
・・・・と動くのか、ということが「大切」なコトです。
たかだか、その程度の義務で、
スケッチの描き方の権利を大仰にと思われるでしょう。
しかし、デザイナーとしての「きもち」は、
そんなささやかなコトが私の「いのち」に直結しているのです。
確実に、新たな体験として、iPadでスケッチを描ける自分になること。
その「きもち」が、これからの「いのち」を日常支えてくれるでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「通貨制度の革新による『衡』平和信用度をめざす」


   


     5月 13th, 2010  Posted 12:01 AM


私たちは円という貨幣単位で生きています。
円で生かされていると言ってもいいでしょう。
「円」=Yen (wen)です。
『¥』という記号に生活が在ると考えることができます。
中国は「元」です。
そしてこれも発音ではYuanですから似ています。
この円と元の貨幣呼びには歴史があります。
今、私たちの¥は、国際的な通貨制度の中では、
大きな信用力があります。
『¥』をここまでの信用力としてきた戦後、
いや明治維新以後の先達に感謝をしなければならないでしょう。
そういう意味では、
現状、わが国の産業経済力が脆弱になってきたことに対して、
日本国民は、大きな不安感の中にいます。
それを「不景気」と言って悲しいかな、かまいませんが。
¥の原点は、日清戦争後でした。
それは、日本の通貨制度を改めて見つめ直さなければならない歴史です。
私自身はデザイン界に身を置いています。
デザイナーとして、教育者として、そして日本人として、
『¥』の脆弱化を最も危惧しているのです。
とりあえず、大きなその危惧理由を二つだけ記しておきます。
言い尽くせない不安感は、まだ胸の内に留めておきます。
予知不安
● 中国の通貨制度は、
いきなり国際性での信用を無視するのではないだろうか、と予想するのです。
その背景には、彼らの「市場経済主義」という、かなり不明な背景基盤があるからです。
つまり、大戦後の国際的通貨制度は資本主義経済によって、
現代性の国家間信用に繋がっています。
明らかに、これは「通貨制度」での経済競合でした。
もっと言い換えれば、通貨制度を介在した経済戦争だったのです。
そして自国の信用は、その国の政治家に任せてきました。
この破綻が、欧州の法治国家では起こってしまっています。
中国は人治政治によって、この破綻はありえなくする力があるでしょう。
● それは明らかに通貨制度を超越した彼らが主導したい
世界支配の経済構造が動き始めているということが二つ目の予知です。
この背景基盤は、情報世界での「情報制御」と「情報操作」、
それは、「情報の無料化=Free」というビジネスモデルが
次々と登場してきたことです。
この世界構造に通貨制度を制御する「国際関係的な政治力」が
無効化し始めているという観想です。
私は、円と元とがやがて対立し、外圧で円の破綻があるかもしれません。
あるいは、現在の政治家の法治政治への不信を動機とした、
元による通貨制度で外圧度に、
日中の「衡」状況はありえるのだろうか、と考えています。
円と元はYenです。
許されるならば、全アジア統合的な、
新たな情報化された通貨制度策のデザインが必要だと考えます。
¥+?+$=?
それは欧州・?と米国・$をも統合するための、
新たな「国際的な平和信用度」を構築する「衡・世界観」です。


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『資本主義からの逃走』
「 Media Integrationの形式と内容での思考停止・9」


   


     5月 1st, 2010  Posted 2:51 AM

スーザン・ソンタグ
Media Integrationの内容と形式について考えています。
いつも、デザイン表現の「内容と形式」に引き戻される感覚があります。
私に、「内容と形式」を徹底的に意識させてくれたのは、
スーザン・ソンタグだったのではないかと思います。
彼女の解釈性や隠喩性の著作から離れられなくなっているのかもしれません。
いや、呪縛されたままなのかもしれません。

歌舞伎という形式
今、歌舞伎座が最終公演を行っていました。
ちょうど、親友の撮影監督が張り付いて記録撮影をしていました。
彼から、「歌舞伎」と「オペラ」の対比した話や、
最終演題「助六」が、いかに凄かったかなどを聞かされました。
つまり、「歌舞伎という形式」は、
演じる役者でその「内容」は格段の違いを見せるわけです。
「クラッシックやオペラの定番という形式」も、
「内容」は、その主体者によって、まったく異なった感動を与えるものです。

デザイン対象としての「形式」と「内容」
私は、デザインするモノが、「形式」としてMedia、
あるいはToolになることを記してきました。
Mediaであるべきモノが、Toolとなり、
Toolというモノが、Mediaになる時代を私たちが引き込んだのか、
または、科学や技術が、
そうした時代に私たちを生かしてくれているのかということです。
本来、Mediaという形式であっても、
その内容はということになります。
Toolという形式においても、同様のことが起こっていると解釈するわけです。
私は、自分がデザインという表現手法を、
職能にできたことはとても幸運だったと思います。
そして、デザイナーとして製品開発で終わったモノ、
商品化して、それなりの評価や投資効果を、
成功ならしめたコトも幸運だったと考えます。
そこで、自分がデザインしようとするとき、
常に意識してきたことは「形式」を変貌させてしまいたい、
欲張って言えば、
「形式」の革新を起こしたいと考えて続けてきたことです。
伝統工芸では、包丁という「形式」をこれが「キッチンナイフ」とか、
液晶TVでも「形式」の変更は無理であっても、
「内容」は変えることができる、という具合でした。

求・思考停止からの解放
今、懸命になっているのは、
すべからくMedia要素という「形式」化を、
「形態」という内容変異ができないかということです。
そのために、「述語命題」については、
10余年前に中村雄二郎先生に直接師事することができました。
先生の新聞連載でイラストを担当し、その都度、教えられてきました。
岩波新書の「正念場」を読んでいただきたいと思います。

しかし、まだまだとても、自分が講義できるまでには至っていません。
それは、特にデザインでは、「コンセプト」を命題としてか、
述語としてか、さらには形式としてか、内容としてか、を
自分につきつけているからです。
そして、正直、
ここで思考停止していることを告白しておきます。
この思考停止を解放してくれる唯一の手段は、
スケッチだということには気づいているつもりです。


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『資本主義からの逃走』
「 Media IntegrationはTool Integrationを励起している・7」


   


     4月 29th, 2010  Posted 12:05 AM

Media?Tool
MediaがToolとなり、ToolがMediaと化すのは、
ユーザーの使用観と所有感によって可変します。
この可変容性を与えたのはコンピューターの登場でした。
それは、MediaあるいはToolにCPUの内在性と、
Networkingによる連鎖性だったと考えます。
明らかに「パソコンから自動車」に至るまで、
ユーザーの意識は、Mediaとしてものモノであったり、
Toolと化したMedia、Mediaと化したToolになっています。
そこで、この分別が困難になってくるのは、
三つの原因があるようです。
年齢での興味・必要感覚・楽しみ方、です。
まず、高齢化することによって、
「わからないモノ世界」を時代が創っているという印象。
もう、自分の日常性では不必要ということです。
そして、最後には、「興味」の有無でしょう。
しかし、MediaとToolという区分を自由に取り替えてこそ、
新たな世界と「自分」が出会うことの「楽しみ方」があります。
簡単に言えば、
どんなモノを自分はToolとしているのかという
日常的な「モノ」の使い方にあります。
ところが、
モノへの興味がMediaだと考えられるかどうか
ということは重要でしょう。
Mediaとしてというのは、「自分らしさ」の顕示性がまずあります。
たとえば、車などは移動するToolに過ぎないから、
とてもMediaにはならない人がいます。
こうした人には、なぜ、車で自分の表現や存在性を重ねるのかは、
「価値性」がまったく異なるわけです。

ToolであってもMediaとして革新
まず、現代は、「革新されたモノ」はMediaとして登場します。
また、Media化しないモノには、
創出された「価値」そのものがありません。
したがって、このMediaを印象づけるのが「ブランド」、
あるいは「アイコン」としての視覚認識性であることは間違いありません。
要は、Media→Tool・Tool→Mediaへの
価値の自由な認識能力に関わっています。
TVには無関心という人にとって、
TV番組などまったく価値性がありません。

価値観の多様性などは起こっていない
パソコンが使えない=メールのやりとりも不可能、
こうした社会的な価値感を「多様化」というのは、
まったく間違っています。
時代や社会の「価値感・価値観の多様性など」は
本当は起こっていないのです。
私がMedia Integrationというのは、
実は、Tool Integrationと同値だとも考えています。
Integrationは、
MediaとToolに共時的な励起現象になっていることです。


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『資本主義からの逃走』
「AppropriationーDesignに紛れ込んできている危険性・1」


   


     4月 11th, 2010  Posted 12:01 AM

応用美術
DesignがArtの応用にすぎない、という見解があります。
あるいは応用美術という歴史上でデザインが存在してきた、
この解説も、ほとんどのデザイナーは熟知しています。
私自身も、美大の産業美術学科という領域で、学びました。
したがって、特に、現代美術の様々な展開や、
歴史的な事件は、デザイナーの基礎知識として重要です。
この現代美術、現代アートとデザインとの境界には、
大きな戸惑いや、アートとデザインの融合性を確認する、
そんな事態は常に発生していることは認めています。
しかし、問題は、
Designが職能として、「かたち=外観づくり」だけ、
そんな印象が今なお強烈に有る、いや残っているのです。
私も、デザインは「かたち」に終結するが、
「かたち」と言っても、「形式」や「制度」、「システム」、
しかも「インタンジブル」な設計や戦略や策略と連呼してきました。
「欲望の刺激装置」
歴史的に見れば、
確実に「欲望を刺激する外観創成」だったことは否めません。
ところが、
さらに、いわゆる商品形態の区別化を
「商品の差別化という付加価値論」に呪縛されてきました。
そこで、「盗用」です。
「盗用」という言葉は、反倫理性がありますが、
この反倫理性を滑稽さやパロディで回避し、
判断停止を意図した芸術が登場しました。1919年代です。
無論、それ以前も、「表現の多様性」として、
生まれたきたのが、マルセル・デュシャンアンディ・ウォーホルによる、
強力な引用性のさらに複製化ということでの著作権への抵抗です。
L.H.O.O.Q.

デュシャンのL.H.O.O.Q.という作品がもっともその事例でした。
確実な著作権という制度に対する表現性の確立でした。
「モナリザ」は万人が知っている絵画、アイコンです。
このモナリザに髭を書き込みました。当然、複製のはがきに書き込んだのです。
それが話題になると、今度は「髭の無いモナリザ」です。
初めからモナリザには髭がなかったのですから、
創作性を引用=(盗用)パロディ化し、また元に戻すことで、
その創作性への思考停止、制度混乱を意図しました。
伝統的となってしまったアイコンの複製での意識操作や
作品への新たな鑑賞方法を破壊して、これが革新的アートだと主張しました。

さて、私は、応用美術であるデザインが唯一、
「かたち創出職能」=「購買刺激装置という付加価値」へ閉じ込めたことは、
デザインにとってその本質性を失わせたことだったと判断しています。
そして最近は、実質のモノのかたち=アイコン性だけを引用、
というより盗用しているにも関わらずデザインの自由性の謳歌、
この流行、氾濫、さらには正当なデザインという主張を見ます。
盗用は破壊を作動する
それがデザインの多様性であり、それはデザインの否定によるデザイン、
すなわち「面白い発想」という評価にデザインが対象化されることは、
デザインの本質性を破棄し、破壊したものと考えます。
しかし、この判断には私自身も、「盗用か引用か」、
という曖昧性の判断停止が起こっていることは認めなければなりません。
もっとも端的には、ロボットなどのヒューマノイド系、
それはSFでも登場する人間クローンがロボットというのは、
借用・引用・盗用なのかという問題解決は、
緊急な解答が必要となっていることです。
しかも、もっと大きくて深刻な問題は、
デザイナーに「Appropriation」という芸術史での事件を読み込むことなく、
「差別化のために創造表現という勘違い盗用」をしていることが問題です。


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3月29日Staff Blog


   


     3月 29th, 2010  Posted 9:07 PM

3月29日

香蘭社の器のコレクション。
透き通るくらいの白に
ブランドカラー藍色の組み合わせ。
飲み口の薄さが口当りを絶妙に。

とくに昔ながらの藍色を選んでいる
BOSS(川崎和男, Kazuo KAWASAKI)
この器でお茶をいただけば、
自然と器への扱いが丁寧、
慎重になるスタッフです。

ピンク?いや桃色でしょうか。
常に新しい試みや革新することが
伝統を守り続けることになります。


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