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「モノの美しさにあるバランス性が決定要因」


   


     10月 19th, 2017  Posted 12:00 AM

デザインという言葉は至極一般化しました。
デザイナーにとっては嬉しいことですが、大誤解に包まれていると思います。
デザイン賞は、モノのデザインとコトのデザインがあり、これは当然です。
しかし、日本には大物主の神子と事代主の神子とがあり、
すでにモノの美しさがコトを決定しているという伝統性があるにも関わらず、
コトのデザイン優先主義が、センスの大破壊になっているようです。
そんなことを思っていたらしばらく会っていなかった人O氏が逝かれました。
この思い出は私には大きな人生観になっています。
おそらく金沢美大出身ならば、
私たちが鍛えられたレタリング=フリーハンド・デザインストロークでは、
キャスロンとボドニー(右はヘルベチカ)を徹底的に鍛えられました。
その最大が私にはこのアルファベット「X」のサンセリフ体とセリフ体です。
実際はこのクロスする部分には視覚補正がとても厳しい評価が入ります。
それはこのクロス部分が単純なクロスどころか、
ヘアーライン補正とまで言われている繊細詳細なバランス感覚が
何度も何度も求められて身体化するまで鍛えられます。
そのおかげで、後天的な造形におけるバランス感覚が要請されるのです。
最も、自分はデザインの教育者になって、
バランス感覚はすでに先天的なことと思っています。
理由は、造形されたいわゆる造形言語となっている形が意味されている、
その内容にはバランス性は先天的であり、
それが実際にはスケッチや造形訓練で身についていくものと思っています。
身についていくコトではないのです。
それを明確に知りたいのであれば、事代主の神子との存在意義を知れば、
私は全体に理解出来ると思っています。
こうした観点から、昨今のデザイン賞判断では、
審査委員にバランス感覚が全く無い人が増えていると言っておきます。
とりわけ、バランス感覚・センス、そしてモノの美しさは、
偏差値では決定することは絶対に不可能だと思っています。
「たかだかデザインが」、とかを何度言われて来たでしょうか?
それでも私には絶対的な先天性が後天的に、
たとえば、この「X」の訓練があったということです。
コトのデザインは、モノのデザインの美しさが決定しています。

* 「ヘルベチカは文字の結論になっている」
* 「ロゴタイプ書体その基本ルールには伝統がある」
* 『象形の姿形に潜む意味の吟味』
* 「日本語・『情報』はなぜ曖昧になってしまったのか?」
* 『工業デザイン教育での「手」のトレーニング』


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『ペリカン社の万年筆とそのインクについて取材から』


   


     10月 18th, 2017  Posted 12:00 AM

昨日はもう20年前にあるデザイン誌、
今もありますが、現在の編集長は彼女の存在、
その実質性や貢献性を知らないのではと私は想像しています。
その編集長だった人が、現在の大手出版社で私を紹介。
私は万年筆、それもドイツのペリカン社記事での取材を受けました。
以前、このブログでドイツにあるモンブランとペリカンを紹介しましたが、
改めてペリカン社の万年筆をこれを機にクリーニング。
それは2日がかりで先ずは水洗いして
万年筆タンクとペン先を調整することができました。
これは私が収集している万年筆がワイフに全て分かってしまうこと、
案の上、「なぜ、こんなに!呆れる」、仕方ありません。
ともかく、ドイツでは代表的な万年筆メーカーですが、
モンブランとの書き味を確認していくうちに、
こんなにも収集してしまった結果です。
取材では、通常は使うかもしれないそんなシーン毎のペンと、
最高級ペンと私が認めているペンを見せました。
これもと思ったのは、万年筆で商品化されている黒・ブラック仕上げ。
これらは気がついたらペンケースは、
ほとんどがペリカン社だったのです。
私が知っていることでは、作家の人は万年筆は結局、
ペリカンに戻るほど、ペン先の柔らかさは日本人には合っているようです。
そして、先般は終活と思ってインクを相当に廃棄しましたが、
ペリカンのインクは7瓶もありました。
それは万年筆インクの色彩は、すべからく私が最も気にいっていたから、
全く廃棄しなかったのだとこの取材で気がつきました。
それこそ、たとえば、青系=ブルー色は古代から難しかったのです。
青色は、海と山と空の色で色彩が区別出来るのです。
ウルトラマリンは海の色、スカイブルーは空の色です。
それこそ山・鉱物の色であるラピスラブリは素敵な色で、
江戸時代に加賀藩がもてなしの色にしたほどの色です。
だから青色LED がどれほど優れていたかを再確認できるのです。
正直、私は万年筆はほとんど黒色に拘っていて、これは万年筆インクを
決定的に確かめるには最適だとある理由するあるのです。
それでも、色彩的に気に入っているのはペリカンでした。
そして残念ながら、国内に万年筆メーカーはとても優れていますが、
海外メーカーほどの商品価値がありません。
そしてスマイソン社に特注したノートには、好きな詩を書いています。

* 『万年筆のミュージックタイプとインクで筆跡品格が可能』
* 『イコン=アイコンが明解なモンブランとペリカン』
* 『ペンホルダーある組み合わせの筆記具は自分表現』
* 『最高級品=最高価格であるべき万年筆の登場の意義』
* 『インク、インク瓶を初めて整理しました』


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『進化進歩するレプリカントは破壊された未来に存在』


   


     10月 17th, 2017  Posted 12:00 AM

久しぶりに「ブレード・ランナー」を観ました。
これはまず、私が最も大好きな映画監督リドリー・スコットの作品。
そしてまだ新作「ブレード・ランナー2049」は観ていませんが、
この作品では、監督が原作をどう捉えるかということと、
もう一つは工業デザイナー・シド・ミードの、デザインスケッチでの原作から、
いわゆるイラストレーションはレンダリングが映画の画面構成上では、
大きな影響を持っていることです。
そして私にはレンダリング表現ではいつも手本にしたいことが相当あります。
まず、この映画の根本から、
いわゆるSFとしては、未来の地球のそれも進化の怖さが明確にあります。
ブレード・ランナーが何を使命としていることになるというテーマ設定です。
アンドロイドどころではないレプリカントという細胞クローンが登場します。
これは決して未来が夢見るユートピアでは無いという不気味さがあります。
まさにアンドロイドは、友人でもある石黒浩教授から、
さらにクローン化までが表現されることです。
どう考えても、私たちの未来にはユートピアよりも、
地球環境は進化に進歩する限り、環境は破壊されていきます。
おそらくAD5000年には地球は消滅はやむを得ないことなのでしょう。
最も私自身1949年生まれは、なんとしてもきっと観ることが出来ない、
2049年がブレード・ランナーというレプリカントとの対決具合なのでしょう。
間も無く私を待ち受けている死はいつ来るのかは分かりませんが、
現代の想像力をリドリー・スコットとシド・ミードで確認したいのです。
細胞勾配でのクローンはアンドロイドをレプリカントにさせるでしょう。
それこそ、ネアンデルタール人とホモサピエンス人が進化して、
ホモサピエンスが我々の祖先となり、
「同情」という気持ちはネアンデルタール人から譲り受けたという、
こうしたことをともかくあと僅か、
平均年齢、私の生はあと20年余りです。
しかも決してそこには破壊だけの世界に投げ出されると自分は思っています。
最近は、「普通」が求められますが、私はこれは大間違いであり、
ホモサピエンスから現代人であることは絶対に進化し進歩なのでしょう。
「ブレード・ランナー2049 」、多分、その恐怖が楽しみです。

* 『ディスクールはアンドロイドロボットで消滅させられた』
* 「光造形から3Dプリンターへの系譜は人工人体へ繫がるか」
* 『現時点でのスタイラスペンの評価』
* 『イラスト・漫画はデザインスケッチでは無い』
* 『もう絶対に逢えない、今日は母の命日』


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『デジタルスケッチを学ぶためには書の世界から』


   


     10月 15th, 2017  Posted 11:45 PM

あなたにとって何が美しいですか?、ともし尋ねられたら、
ここ2年ほどは空海の般若心経で、空海の書から編集された名筆集、
これをあげることにしています。
書く・描くという行為を私は職能にしてきました。
だから鉛筆から毛筆までは常に自分には修行のごとく取り組んできました。
それは私の生涯にとってとても幸運なことであったと思っています。
鉛筆、ボールペン、万年筆などは、私がよく言うのは、
ペン先は指を傷つけるほど硬いことです。
ところが毛筆は、指先には心地よいほど柔らかいのです。
幸いにして美大では鉛筆デッサンからあらゆる筆記具と対峙してきました。
それでもやはり書の世界観は、私自身が望んで永平寺第一道場:吉峰寺で、
中学・高校と学ぶことができたのです。だから、
これは私の手先指先の運動神経は鍛えられていると確信しています。
そして最近、私はデジタルスケッチも徹底して訓練してきました。
ところが、iOS11になって、私が最も訓練してきたSketchbook Expressが
もはや使えなくなってしまいました。
しかし今、もうや通常となっているSketchbook Proの訓練をしています。
そのためには、Apple Pencilに慣れなければと思って、
このトレーニングには、書の訓練が私は最適だと推薦もしているのです。
結局私は自分の最も持ちやすいApple Pencilにカバーを使っています。
それは毛筆ではそれこそ面相や矢立での筆の細さまで慣れていますが、
最も万年筆の太さで最適な経14mm、これに適合しています。
今しばらく時間はかかるかも知れませんが、年内にはプロとして、
さらにデザイナー教育者としても
紹介し手本になりたいと自分に言い聞かせています。
ともかく、理由は簡単なのです。それは空海の筆跡を学びとり、
それをデザインスケッチ、それもデジタルスケッチにしたいということです。
結局、自分にとって主観的にも客観的にも「美しい」ことは、
デザイナーあらば身体化することだともっと断言したいからです。

* 『美しい運筆を体現すれば美しさがわかりそうだ』
* 『書そして運筆なら空海がお手本になる』
* 『運筆練習に最適な学習ノートの充実ぶりに感嘆』
* 『私のデジタルアイディアスケッチとスタイラス』
* 『デジタル表現の基礎は、烏口や用紙感覚も必要』


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『デザインによる美はセンスとしてのテコが要る』


   


     10月 14th, 2017  Posted 11:00 PM

人には人間と人類が種別できます。
そして、人間である条件、人類である条件は極めて勝手気ままな無常識。
同じことが、能力あるいは力(ちから)にも反映しているのです。
私は力:ちからを懸命に追いかけてきました。
それこそ、ちからという日本語での区別・差別・分別全てでの定義です。
簡単に言ってしまえば、ち+からです。
ち+空=この仏教的解釈を自分に取り込んでいるのです。
つまり、「ち」とは知・血・地・値・智・致・治・・・・随分とありますが、
「空」という観念で無に帰すのです。
それがほぼ日本からの哲学的な解釈でしょうし、これを信用しているのです。
そして、力は作用点と方向と、その大きさがあるという物理性です。
従って、それこそ、商品力から開発力など形容される全ての力に、
これが運用されていることがわかります。
ここからさらに、力が能力とまでなってくれば、
まさに、人間・人類・人は個々人の能力を活用し拡大するのは「テコ」です。
これこそ、五大器械の根本にもなるのです。
テコには力が働く、支点と作用点だけが決定すれば、
それこそ、人類は地球でさえ、イラストのごとく、
人の能力で持ち上げることさえできます。
前段が長くなりましたが、テコのこの力を支点と作用点で能力、
それも「美しさ・美」を見極める能力のテコを考え出すこと、
これが真善美のその中の「美」判断力=能力を、
私はデザイン、デザインでのテコを追い求めてきたのです。
だからこそ、自分デザインには必ず、美しさをデザインに配置・配備する、
力の支点と作用点がある、
まさに美のテコを見いだすことでした。
美が創れる能力=美創出の力とは、
ち+空であり、その拡大のためのテコを
それこそデザイナー養成にはテコを自力、つまりテコあるセンスづくり、
これがデザインでの美づくり、美の判断力だったというわけです。

* 「『ち』は知の草書体になった理由に神髄がある」
* 「花綵の国のことばには「ち」、土地と価値がある」
* 『想像力を今また熟考を毎日繰り返している』
* 『芽生えることと確認すること、ライバルとジェラシー』
* 『人工知能には「ち」の思潮が欠落している』


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『神話性ナラシオンで富獄が語る空間・形態』


   


     10月 14th, 2017  Posted 12:00 AM

富嶽三十六景の中の代表的な浮世絵=風景画、作者は葛飾北斎です。
富士山にまつわる物語、
あるいは神話ともいえるナラシオンは識るべきでしょう。
私にとっては日本を代表する山は白山です。
だから富士山より白山なのですが、こんな話を聞いて愕然としました。
富士山と白山が喧嘩をしたのです。
だから、富獄=富士山・不死山が似合っています。
ともかく、どちらの山が高いかということで、
竹で雨樋を作って、水を流したら富士山から白山に流れたのです。
子ども心に富士山が嫌いになりました。
そして左は黄金比では必ず実証される構図です。
つまり、空間論の下敷きになる美しさがあるのです。
そして右はexponential curveそのままの形態論になっています。
まだ日本に透視図が浮世絵の構図ではないのに、
なぜ、北斎は知り尽くしていたのだろう天才であったという実証構図です。
そして、ほとんど日本人には識られていない、アルゴナウタイなのです。
アルゴナウタイというギリシア神話叙事詩でのメディアと同様の神話が、
この富獄の神話=かぐや姫・竹取物語と同じなことを、
私はメディア論:かぐや姫とメディーサ同一で追い求めたことがあります。
これは語り切れないほどのアルゴナウタイと富獄神話が同一であるから、
exponential curve=eXの解釈ができるとさえ思っています。
つまり、黄金比・exponentという構図は空間論と形態論で、
美しさを生み出しているのですが、
私の判断では、歌川広重の広重ブルーは北斎を超えていると思っています。
浮世絵にまつわるナラシオンは、広重も北斎も美しさの基本にあるのです。
結局、美学では語り切れない物語性が北斎にも広重にも見事なわけです。
したがって、デザインでの美しさには
明確な背景としてのナラシオンは必要条件なのです。
もっと断言すれば、ブランド価値や商品デザインでの美しさには
絶対的に神話的にもなりうるナラシオンが必須だということです。
デザイナーにとっての悟識=カント的にはその素養は浮世絵からも
後天的に確実に学べるということです。

* 『広報誌がまだジャーナリズムである』
* 『「形態学序説」からのデザイン原論思考が必要』
* 「どちらの『杖』を選ぶべきか、医学のシンボル」
* 『吟遊詩人の的確な叙事詩はロックにまで至った』
* 『透視図・次元的な隠喩としての焦点というイメージ点』


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『浮世絵を日常化すれば北斎知識から解放できる』


   


     10月 13th, 2017  Posted 12:30 PM

美しさを識ることと知ることには違いがあります。
知ることは先天性によってある種の宿命性があります。
後天的には識ることですから、これは認識という知識より認識です。
カントがこれを明解にしていますから運命化が可能です。。
パウル・クレーは知見であり先天的な見識がはたらいていると思っています。
手短で日本の浮世絵の理解度は、先天的には困難かもしれませんが、
浮世絵といえば、葛飾北斎がいの一番に語られます。
私はいわゆる見識があって認識にまで持ち込めるには、
和服が適切かもと先般から考えてきました。
それは東海道五十三次での物語性は歌川広重の方が明解です。
これは私が丁度30歳の時に、絵羽として歌川広重を選びました。
理由は思い出してみると、三つありました。
まず、歌川広重の版画は越前の国からの和紙であること、
絵羽としては多くが北斎を選ぶという大衆的な思い込みでは、
自分の個性が表示できないと思ったことでした。
さらに、この東海道五十三次には東海度膝栗毛での野次喜多道中との
ナラシオン性が入っていたことでした。
無論、葛飾北斎のなぜ彼は識っていたのかという黄金比・黄金律が
見事なことは知っていましたからこそ
和服と自分の関係を見直していたことです。
今では和服には茶道や華道のごとく、着づらい道理がかなりあります。
したがって、誰もが洋服の着やすさをルール化して、
着物の普及を目指していますが、私はこのブームは容認できません。
理由は、着やすさなどは伝統的に保守するには単純だと思うのです。
大学時代にはあえてネクタイをして大学に行き、
教授に怒鳴られたこともしばしばでしたが、
ネクタイは日本人が大学生でも遅いのです。
最近は市立学校のユニフォームでネクタイを見かけますが、
学校でしっかりと教えていないようです。
私が和服と書は絶対に小学時代にマスターすべきというのは、
この知識・見識・認識をモノ=和服・書という決して「道」とはしないこと。
これはカントの悟識に連鎖しているのです。
浮世絵のナラシオンは知ることから識ることまでの悟性を鍛えるでしょう。

* 『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』
* 「加飾すること=ファッションスタイルは最初提示の効能」
* 『手稿は宝物である』
* 『「黄金比の計算機」アプリのグレードアップの意義』
* 「黄金コンパス・黄金比と白銀比を身体化するには」


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『デザインでの形態論・空間論は知見の極めつけである』


   


     10月 12th, 2017  Posted 12:25 AM

先般、AM社の新車が大阪にも運ばれてきて、AM車オーナーほぼ30名ほどが
副社長・デザインディレクター・Marek Reichman (マレック・ライヒマン)氏から
直接のプレゼンテーションとともに、
世界販売150台、日本販売10台の実物を触って見ることができました。
おそらくガソリン車では、これが多分最終になる車だと思います。
私はカーデザイナーを育成もしてきましたし、教え子は国内メーカーで、
ほぼ、デザインマネージャーにもなっています。
こうして、カバーで覆われた新車がもたらすデザイン事例を見ました。
そして思い返してみると、現在、デザインを取り囲んでいる言葉、
イノベーション、クリエーションなどを強く意識してきたのは最近です。
美大時代に、君たちはクリエーションの世界にいる、とか、
あるいは、イノベーションが必要と言われ出したのは、
いわゆるデザイン解釈が一般的にはほとんど間違っているからです。
デザイン=問題解決というのは、私はすでに美大時代には、
手の訓練で自然と身についたことです。
そして東芝に就職が決定しても、それはポスターでも描くのかと、
これは本当に良く言われたものでしたが、
改めてデザイン=問題解決とは言いませんでした。
未だにデザインとデコレーションの区別がついていません。
まして芸術工学部が新設された1996年でも
他学部にはデザイン=デコレーションでした。
ようやく旧帝大のほんの一部にだけ、
デザインの本質である問題解決や価値創出の理解が生まれてきました。
とりわけ日本は、服飾からデザインという言葉が一般化したからでしょう。
呆れかえる馬鹿さやセンス無しをどれだけ多く見てきたでしょうか!
そこにまたデザイン思考=design thinking が経営論として蔓延しています。
改めてクリエーションとイノベーションは語り直さなければなりません。
私は、形態論・空間論を知見で語ってきましたが
その理解まではまだまだあるようです。
極めつけで断言すれば「センス」で語るイノベーションが間違っているのです。
しかも、美しいというよりも「かわいい=kawaii」とかが蔓延っています。
イノベーションとはコンバイネーションであり、
イノベーションを技術革新と邦訳したときから間違いが発生していたのです。
そういう意味でも、この新車プレゼンテーションは面白い体験でした。

* 『製品記号論で語り直す時代がやっと訪れた』
* 『AM社のヴァブキュリーを見る夕食会に和服で参加』
* 『美しいデザイン成果が減少している気がする』
* 『「KK適塾」は日本からのデザイン思想と実務の発信』
* 「光造形から3Dプリンター時代に来ただろうか」


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『デザインでデザイナーが美しさをどう創るか』


   


     10月 11th, 2017  Posted 12:00 AM

デザイナーにとって、私は最も難しい質問は「美しい」ってどういうこと?
この質問に一言で、体系的に、経験的に、学術的になど、
応答・回答・解答出来るかは本当に難しいと思います。
そして「美しさ」は美学という学術的な領域がその答を出しています。
それは音楽と美術が中核だったことは間違いありません。
私自身、「美しいってどういうこと?」という質問は、
福井伝統工芸産地、越前和紙に創ったオータキペーパーランドからでした。
思わず身構えましたしどう答えるべきか随分と逡巡した思い出があります。
私はまず、先天的に答えることができますが、
これをあたかも美学的に体系までは困難です。
そして後天的には、知識と経験で知見化することが可能です。
まず、美しいというのは景観での気分や気持ちよさでの一言です。
本当に気持ちいいほど空が青いとか、
夕焼けが綺麗という単純な景色感覚への評価です。
空・海・山の景観や景色が挙げられます。
これが先天的での景観評価が素直さでの感覚=センスだと思っています。
かって名古屋大学での講義で、自分が美しいものを上げてレポートを、
こんなカリキュラムを数年やったことがあります。
工学部相手でした。そうしたらなんと三分の一の学生が数学の美しさを
徹底的に分解してきたレポートには感動しました。
私はデザイナーとして、体系的には、二つあります。
その一つはパウル・クレーの「造形思考」でした。
もう一つはカントの代表作である「純粋理性批判」での
真善美と感性・悟性・理性での美の解釈です。
東芝時代はモーツアルトのピアノ協奏曲のスコアとその旋律再生音。
このマッチング性に美しさがありました。
登山懸命だった大学時代は山岳と空・夜空が私の美しさの根源でした。
今は自宅から望める夕方の夕闇の変化を眺めて、
自分デザインの美しさを綺麗さからも求め直します。
美術的や音楽的を離れた時には、デザインでの美しさは、
今ではかなりの制約が乗りかかってきています。
たとえば、PL法違反などは、現代的には当然であり、
重量なども、万一、落ちてきたら危険は美しさを語る以前の問題です。
デザインでの美しさは追い求める義務がデザイナーには不可分です。

* 『家具デザインの「家具」定義を変えるべきだ』
* 「伝統は熟知必然・実例としての和紙か和風紙か」
* 「若手芸術家の紹介から学ぶ『範・感性』の確認」
* 『ポケットブックになる「造形思考」が出版』
* 『月明かりの前の沈まない大阪、それは日本』


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『羽毛は徹底して廉価商品に騙されないこと』


   


     10月 10th, 2017  Posted 12:00 AM

子どもの頃には近所に綿を打ち直すお店というか工場がありました。
ともかくその工場は綿毛だらけという印象が残っています。
そして、布団は綿を打ち直して、母がコーナーは真綿で包み、
年に一度、仕立て直していました。
そんなことはもはや遠い思い出になっています。
最近では羽毛布団が全盛期ですが、
フェザーあるいはダウンという羽毛でもこの二種があることを知りました。
羽毛布団になっていることは当然であり、
それほど興味があるわけではありませんでしたが、
今ではインテリア用品でも寝具関係は市価があまりにバラバラであり、
羽毛布団と言いながらも、これほど市価に違いが多いのはインチキ臭く、
私にはデザインでの誤魔化しが絶対にあると思っていました。
一般的にはこうした情報不足がとても気になっていたのです。
私自身、寝ることから眠ることはもっと慎重であるべきと思ってきました。
そして、最高級品はいわゆるフェザーではなくてダウンであり、
私はすべてが鳥の羽=フェザーだと思い込んでいました。
先般、羽毛布団の最高級品を初めて知りました。
もう最高級品というと値段のつけようもないほど高額らしいのです。
羽毛布団のランクも次のようだということです。
ダック→グース→マザーグース→アイダーダウン。
このアイダーダックというのはアイスランドで、
卵を温めるアイダーダックの胸の毛を卵を温めるだけの
羽毛であり、アイダーダックの巣に残されたこれを越える羽毛は無いことを
生まれて初めて、しかも本物を触って実感したのです。
羽毛はフェザーで真っ白というイメージは、深夜のTV通販程度の情報で、
私たちは間違っているのです。
私にとっては、座るというのは毎日車イスなので、
そのシートデザインにはもう40年も拘ってきました。
そしてただウレタンフォームで包まれているだけのソファーが、
その製品性能が根本的に間違っていること、
ウレタンフォームは経年変化があって廉価なモノづくりではこうしたモノが
氾濫し過ぎていると思います。
こうしたことを特にデザイナーは要注意すべきです。
そうした意味でもアイダーダックの羽毛を触って実感したことは、
デザイナーにとって大変な経験でした。

* 『泡=うたかたの機能性には確約がある』
* 『経年変化無し素材開発と道具使用を次世代に』
* 『枕革新をねらう羽二重からの新素材デザイン』
* 『ブランドならばスター商品=カネのなる木商品です』
* 『ツバメの巣、それが福祉の象徴です』


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