kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘象徴化’


5月27日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 27th, 2020  Posted 12:00 AM

5月27日 友引(庚午)

ブランチは嗇薇の花に象徴化される。

倉俣史朗のデザイン『夢の形見に』19 ビュー・ポイントからのミス・ブランチ


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『甲州の印傳はもっと高額で構わない!』


   


     10月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

日本刀はその刀身も素晴らしいが、刀剣周囲の様々なモノは、
それだけで日本の美術工芸の名品そろいであることです。
甲州といえば、武田信玄の刀剣や甲冑などの見事な名品があります。
しかし、現代に語られる武田信玄の名刀の物語りは、
大誤解が余りに多く、武者人形に表れてくる刀は間違っています。
武田信玄を語る前に、「甲陽軍艦」という武田家の軍記物語、
さらには信虎であり、備前国長船住景光の一文字刀、
その刀装に私は偉大な理想的な美学性を夢見ることができます。
特に、それはインドから鹿革と漆での印傳の美しさです。
現代も印傳は財布・名刺入れにその美しさは伝統工芸になっています。
私は、皮革製の海外有名ブランド品はほとんど見ているだけでなく、
しかも所有もしていますし、皮革製品の現代製造方式には、
認めがたい方法にもかかわらずその市場価値づくりを知っています。
こうした、有名ブランドの皮革製品に競べて、
甲州印傳は、産地ブランドの国際的な訴求手法を保持していません。
印傳手法には世界的な工芸技が生きています。
にもかかわらず、市場価値づくりがとても不得手だと思います。
甲州印傳はかって馬具から武装具、日本刀剣すべてに、
その美しさは象徴化されていました。
それだけに私はもっともっと日本人ならではのブランドづくり、
その再興を心から願っています。
私は、日本の伝統工芸産地は今、二つ識別出来ることがあります。
「伝統工芸産地」・『伝統工芸士」という制度は一新すべきであり、
まして、知性無きデザイナーがかき乱すことは許されないのです。
「本物」とは、二重否定の論理である、ということの理解無き、
デザイナーが産地本来の美学性を、狂ったデザイン思考で、
破壊されないことを願っています。
したがって、時に、私は大広告代理店と美的知性なき行政には、
自分の厳格性を確実な伝統的格段の知識武装で立ち向かっています。

『30年前のデザインを伝統工芸産地で商品化して今なお・・・』
「造形言語と形態言語とcodeとmodeと、そして・・・」


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「算盤=知的道具に木の文化が息づいている」


   


     3月 20th, 2012  Posted 12:00 AM

私は幼稚園は二つ通いました。
最初は基督系でしたが、悪戯が過ぎたのでしょうか、
断られて仏教系になりました。
塾といえば、
算盤塾にみんなが行くので私も行かしてもらいましたが、
「もう来て欲しくない」と塾から三日目に断られ、
通っているふりをしましたが、母にすぐにバレました。
そんなこともあって自分流なので算盤は得意ではありません。
今回思いがけずプレゼントされた作品、
それはデザイナー・蛯名紀之氏の算盤に触って見て、
算盤ブームもう一度というより、
これは絶対に復活させるべき道具!と断定しました。
電卓も競技会がありますが、算盤には段位があります。
以前、「盤・盆・膳」という日本の伝統文化史を自分で構築したとき、
見えていなかったことをこの算盤で思い知らされました。
算盤という基本形態の完成度の高さです。
算盤玉と呼ばれる形態は玉ではないあの形に意味があること。
そして最大に重要なことは素材が「木」であるということです。
プラスチックのソロバンは、
やはり操作感、使用感が身体化されないのです。
これは盤(PAD or Plate or Board)の上にある
象徴化されている数字概念の表徴形態、
それは「木」と指との関係が無ければ成立しないということです。
伝統的な「盤」には将棋盤や双六盤、
今では制御盤や分電盤までありますが、
算盤というのは、計算する道具として、
最も簡潔な形態要素とその配置で計算性能があります。
この計算性能は、指先でトレーニングすればするほど、
暗算というイメージ計算を身体化させてしまう機能性を持ちます。
60の手習いということで、
昨年62の手習いでフランス語会話を大学以来にやり始めましたが、
算盤に向かってみるのも面白そうだという気分になっています。
電卓とはまったく異なるこの算盤は日本の伝統文化であり、
宝だと確信しています。
「算盤」教育は復活させてもいいかもしれない。
私はもう一度算盤を練習してみようと思っています。

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「グローバリズムは冒涜的な思潮だと思う」


   


     1月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

ひょっとすれば、現代人、
つまり、20世紀後半を共時共有してきた全ての人間は、
重大な過ち、いや過ちと言うべきではなく、
生命の根源と、それを授けてきた「神」なる存在、
それは民族それぞれの信仰神への畏敬を勘違いしてきたのかも知れません。
私はここで宗教論的見解を記そうとは考えていません。
もっと簡潔に歴史における様々な「神」なる存在を、
オイコノミアを再読することで再思考したいと思っています。
それは「王座」、すなわち権威と権力は元来は「神」にあって、
その代行者である政治的なリーダーや、
さらにマクロな世界=業界や国際構造での指導者では無いということです。
わが国において、八百万の神は自然であり自然神を象徴化してきました。
あくまでも象徴です。
それはミッシェル・フーコーも読み解こうとした「印徴」=signatureです。
それはまさに、designareというdesign の原語と結びついています。
すなわち、今、designがその本質において、
復興と復活をさせなければならない問題が明確になってきます。
私は「オイコノミア」という
原始キリスト教の教典というより問題仮定書に心惹かれます。
それは、「権威」も「権力」も「神」への賞賛と喝采であり、
賞賛は、キリスト教ゆえの三位一体への畏敬となり、
「生きていること」への感謝が「神」への喝采になります。
やや短絡的な言い方をしてしまえば、
資本主義への清教徒的禁欲主義は忘却されたか、
あるいは廃棄されてしまったのかもしれません。
資本主義的な世界観・国際観である「グローバリズム」こそ、
「神」への冒涜行為だったかもしれないと、
私は考えるようになっています。
すなわち、世界の「王座」は唯一、経済活動の優位者、
その国家中心主義にしたことが冒涜だったのかもしれません。
しかも、それはもっと私たちを
大きな幻覚に引きずり込んでいたのでしょう。

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『資本主義からの逃走』
 *「無思考とは、思考無しではない、
   思考空であろう」*


   


     2月 1st, 2010  Posted 1:00 AM

無思考
私はほとんど外出してデパートやショッピングモールなどは、車イスになる前から、好きではありませんでした。ミッドタウンをワイフに車イスを押してもらいつつ、いわゆるデザイン系ショップを久々にのぞいて見ました。デザインは、相変わらず「進化」がありませんでした。学生たちが憧れているモダンデザイン系ショップに陳列されているモノに、愕然としました。1960年代よりは素材がカラフルだったり、プラスチックや電気回路が進歩したから、「ソレナリ」のモノがこれほどコピーされて氾濫しているとは、驚きでした。まるで、浦島太郎の心境になって、もう本当に目眩がしました。外出して、書店に行っても、あまりのカラフルさは、車イス視線からでは、目眩がします。まして、コピー製品があまりに「それっぽいデザインした風」なのですから、耐えかねます。また、店員さんの商品知識も格段に低いと思いました。せめて、これぐらい知るべきでしょう。カタログにも肝心な性能表が無くなってきています。それは駄目でしょう。企業の商品化能力を疑います。また、あるアイテムの展示会に招かれました。有明ビッグサイトでの見本市企画企業から、あらたな業種の展示会へのアドバイスを、ということでVIPカードで見て回りました。流ちょうな日本語の外人からいっぱい声をかけれられました。なんとしても商談!という意気込みです。比して、肝心な見本市担当者の無口なことにあきれました。これじゃ、凋落する産業のさらなる凋落が予知出来ます。ともかく、思考していない=薄思考です。これを私は、無思考とは言いません。無思考とは、思考が「無」の状況や事態を指示していると私は考えています。なんでもいいから、まだ一度も使ったことの無い、edyカードで買い物をしてみたかったのですが、「欲しいモノ」がありませんでした。いわゆる今、旬の若手デザイナーの作品である商品も、デザイン設計で、「金型チェック」もしていないのでしょう。3D-CADやCGレンダリングなら、多分、「カッコ良かった」のでしょうが、さらに中国製となると、成形精度も格段に悪くて、これは必ず経年変化を起こすと見抜けてしまいます。さらに、恩師の名作も、カーブや板厚も微細に変貌しています。もはや、高齢になられた先生の眼力チェック無しの復刻品も見かけました。これが、現代の日本の商戦現場だとするなら、どうやって、立て直すべきかと考えさせられました。明日、Gマーク賞制度審議委員会があります。この私が最年少ですから、今年の「Gマーク賞制度は、国際化戦略」の一つの核心となる「戦術」にしていきたいと考えています。私の発言が了承されるかどうかは不明ですが力説します。よって、審査委員も少数精鋭で海外審査委員を投入することを、私の私見として発言するつもりです。昨年のある事件見解も、公表すべきことは、審議委員会からだと私は考えてきました。ある種、審査委員がデザイン界のエリートならば、「敵前逃亡」や「自分勝手さ」はNoblesse Obligeも果たせなかった審査委員資格は審議委員会にての裁決をしなければならないしょう。なぜならば、「Design made in Japan」を象徴化しているGマーク賞制度は、一つの国家戦略です。だからこれは、日本の産業から現代文化の最前線でもあると考えるからです。「無思考」は「思考空」だとも考えています。思考結果がデザインとなり、無思考結果がデザイン効果であるとするなら、思考空は、デザインへの憧憬になります。憧憬は常に潔しが基本です。
思考空


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