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Posts Tagged ‘体’


2月1日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 1st, 2021  Posted 12:00 AM

2月1日 先勝(庚辰)

『反戦としてのデザイン』

そのとき、
黒い砲筒は
やわらかく体を支え、
戦闘服の迷彩パターンは
樹々の葉、
木もれ陽の
原初的メタファに
復帰するだろう。

artificial heart:川崎和男展


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『ミルクは物であり、物は原意的には牛である』


   


     3月 29th, 2019  Posted 12:00 AM

牛乳=milkは、人類が5500から6000年前に乳汁として飲んできました。
日本では「日本書紀」に搾乳が書かれています。
牛はともかく、ミルクを飲んだら牛のようになるとかで、
織田信長が「牛になるかどうかを試した」という話もあります。
それこそ「種痘をすれば、牛になる」という
流言飛語にも人々は惑わされました。
ミルクは100gあたり87.4gが水分であり、
いつでも、脂肪やタンパク質、ビタミン、ミネラルが
体に良いと思っています。
しかも、低脂肪であり、ミネラルがいいと私は思っています。
乳製品は貴重で、軍隊から帰ってきた伯父さんは
家族のためにチーズを持って帰ってきました。
祖母はそれを石鹸と間違えて「まったく泡立たない」と
言っていたことを思い出します。
ミルクで私が子どもの頃、最初につくったのはアイスクリームで、
食欲のないときは、これに頼ったり、
またチーズはどんなモノも試しています。
瓶に入ったミルクは、
懐かしさとともに一層美味しそうに感じてしまいます。
「物=モノ・ブツ」が原意で、もとはいろいろな牛を表す漢字でした。
牛とモノ、そして牛年の私は欠かさずミルクを飲んでいます。


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02月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 18th, 2018  Posted 12:00 AM

02月18日 先負(辛巳)

人間は、
大きなリズム感によって
体内に満ちてくる熱エネルギーを
発散するために、
体を動かす。
自然と身体的な反応が生理的に起る。
この生理性を活用する。
それはひと味違った
プレゼンテーションになる。
「好、安、記」を支える音楽の
使用をぜひおすすめしたい。

『プレゼンテーションの極意』「好、安、記」のプレゼンテーション


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『HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」』


   


     7月 4th, 2016  Posted 12:00 AM

車イス生活を余儀なくされて来年は40年になります。
本当に正直よく生きながらえているものです。
すでに私の体型は変形が来ていて、
しかも今ではすっかり電動車イスを使用していますが、
自分にはとても幸運なことがあります。
美大時代同級生に、「シーティングエンジニアリング」を
打ち立ててきた親友がいるのです。
以前から、「体の変形を指摘して、俺が直す」と言ってくれていました。
彼はすでに身障者向けの様々な開発をしてきた日本ではトップクラスです。
彼を阪大の自分の研究室の特別研究員になってもらっています。
おそらくわが国では最初に
「身障者向けの家具から用品の開発」をしてきた男です。
彼に計測とシートの作成を頼みました。そして使い心地を確認して、
再度、また体型の変形を矯正する
「シーティングエンジニアリング」を適用してもらっています。
「シーティングエンジニアリング」はこれまでの人間工学を進化させている
新しいデザイン医工学のHUSATになろうとしています。
おそらくHUSATを知る工業デザイナーは
まだほとんど国内にはいないでしょう。
HUSAT=Human Sciences and Advanced Technologyです。
今、彼:光野有次と自分が組めば、最も強力で新たなHUSATとして
車イスは勿論、椅子そのものの設計を革新することができるでしょう。
何と言っても、自分が使用者のモデルになれること、
彼も自分も美大では徹底的に
モノづくりのトレーニングを体で覚えてきたこと。
ユニバーサルデザインは、自分が米国から持ち込んできましたが、
最早その時代は終焉していて、人間工学も不可能なことを
HUSATとしての「シーティングエンジニアリング」を
「コンシリエンスデザイン看医工学」に配置したいと考えています。

*『「座る」・人間工学からシーティングエンジニアリング』
*『車いすのレジリエンスとノルアドレナリン』
*『少数派のためのデザインから・再度、再検証』
*『公・自・単・情・安・省・空を暗記せよ』
*『インクルーシブデザインとは「人称デザイン」である』


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『サイエンスの限界にある美学性をさらに造語化』


   


     2月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

デザインはサイエンスだと公言する人は数多いと思います。
私自身もデザインをサイエンスと考えてきた一人でした。
しかし、それなら、なぜ美大=芸術の一領域で
デザインを徹底的に体で訓練されてきたのかと疑ってきました。
大学を退官して、ようやく、デザインは学際的な一領域に辿りつきました。
それは「Scientist」という職能を決めた人物、
ウィリアム・ヒューエルの存在がありました。
特にサイエンスを定義し、
なおかつその職能を決定した人物がいたことです。
「コンシリエンス」という言葉は彼の造語であり、
この言葉が復活をしてくるのは20世紀でした。
とりわけ彼がサイエンスの限界に美学性を持ち込んだことかもしれません。
私は文理融合とか学術と芸術の統合をconsilienceと断言した彼の造語から
「コンシリエンスデザイン」を再度定義づけています。
無論、彼の造語を再度学術性への芸術化を持ち込んだ人物も精査しますが、
やはり問題は科学では断言仕切れない芸術、特に美学性でした。
しかもcon-silienceとre-silienceに私は注目してきました。
とりわけ、なんでも精神的なストレスを理由にすることへの
いい加減さに辟易していた私には、
レジリエンスにもデザインが適用できると納得したからです。
コンシリエンスとレジリエンスが
対応できる新たなデザイン概念だと決定できたのです。
無論、サイエンス世界にも美はあります。
それどころかサイエンスは究極、美に繋がっています。
それはヒューエル自身もカントに大きな影響を受けたごとく、
カントは感性を極めて大事にし、
「直観の無い概念は空虚であり、概念の無い直観は盲目」とまで
断言を残してくれました。
私はあえて、デザインをサイエンスから分離させて、
むしろ学術+芸術はデザインによる、
すなわち直観による問題解決のヒント・価値創出のサイエンス性、
未来創出の芸術的表現を読み切る力はデザインにあると確信しています。
それだけに教育系や工学系では
デザインは元来つくれ無かったのかも知れません。
私は「芸術工学」での芸術と工学(サイエンス)を母体にしたからこそ、
「コンシリエンスデザイン」に辿り着いたのだと思っています。
したがって安易過ぎる「デザイン思考」などは
何の役にもたたないでしょう。
特にレジリエンスデザインはデザイン思考では解決不可能です。


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『不細工なモノは不細工である』


   


     1月 18th, 2016  Posted 12:00 AM

僕が小学校4年生だった頃でした。
父から男はたわしで体を洗うべきだと言われて、
痛いのを我慢して洗っていた時期がそれこそ成人になってもでした。
ところが、それは皮膚を傷つけていると言われて辞めました。
しかし、父の皮膚は痛んでおらず、79歳で逝きましたが、
70代になっても、まだ50歳後半に見られると言っていました。
そんなこともあって、どうも束子の形態をドーナツ=トーラスにしたい、
その思いを海南市で、
海南の国際コンペの審査委員の頃、提案ができました。
いわゆる地場産業にも加わり、スポンジの素材形態を変えたり、
これ幸いとして、束子もドーナツ状の製品開発をしました。
確かに、当時は「RON」というブランドまでも開発して
その試作をしました。
が、つい最近、
シュロでそれも脱色した「ソックリ」が店頭にあってびっくりしました。
これを模倣だ、コピーだ、
やがては盗作だとかと言うことはすでに無理です。
なぜなら試作・製品開発発表しかしていません。
RONの他シリーズはデザイン賞を受賞しています。
先般も、僕のApple社提案モデルが
あるメーカーから商品発表になったときに、
「不細工」と所感を書いたら、僕がもの凄い非難を受けました。
著作権は、当然、すでに僕の作品集に図面があるわけですから、
現在は、デザイナーの盗作問題がトピックスどころか、
デザイン界の大問題になってきています。
非難する連中には、
 ともかく大問題になってほしい=事件興味だけ
 明らかに盗作だ=知り尽くしている人々
 いや、川崎が笑い飛ばせばそれでいい=私非難、などなどですが、
僕が「不細工」といっているのは、
現実にデザイン実現した企業デザイン部門が
「MindTop」を知っていれば、もっと確かな実現ができたでしょう。
ともかく、物真似、模倣、ついには盗作ということが
SNSなどで「本質を見失う面白さと不気味さと怖さ」の問題です。
明らかに盗作には、
これも倫理上の問題から知財権という法的制度問題が重要なことです。
翻って、この束子などは、僕が提示したときには、
試作は出来ても生産的には無理だと説明を受け納得していました。
工業デザインには、提示が時代的に早すぎたり、
MindTopはもっと重層化された複雑な問題、人種問題も当時はありました。
商業的な困難さもありますから商品化されないことなど一杯あります。
例えば、生産のシステム機械などは、メーカー依頼で商品化しても、
売り先では、それを元に決して一般人には目に触れないから、
それこそソックリどころか盗作など平然とやられています。
僕がグランプリ受賞しても、ある業界では平然と真似られるどころか、
ほとんど盗作だらけの世界もあるわけです。
せめて、オリジナルをやったデザイナーが、
真似られたモノを「不細工」というのは当然です。
そういう意味では僕自身、知恵不足だと笑い飛ばしていますが、
グローバル市場では国際問題化されることが出現してきましたから、
「ハーグ協定」がやっと始動してきているのです。


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『美大生1年のときに私の最初の社会的なデザイン』


   


     9月 7th, 2015  Posted 12:00 AM

美大生1年生の夏休みに、私は福井に帰省してアルバイトを探しました。
当時、福井市には唯一のデザイン事務所がありました。
グラフィック関係の事務所で、その頃でも、
パッケージデザインの依頼があると、
パッケージ年鑑をクライアントに見せて、
そこから「なんとなくこのような感じで・・・」という依頼に
学生だった私は激高して、アルバイト一日目で辞めました。
その時地元にUHSの福井テレビが出来て、
そのマーク募集がありました。
「道楽学校」という父に逆らって夜は、
このマークデザインをして金沢に戻るとき、
母に郵送での応募を頼んで金沢の下宿に帰ったところ、
私のロゴタイプが入賞して採用になりました。
このロゴタイプが私が社会へのデザインを提示した最初の仕事でした。
昔使っていた書籍にこの新聞切り抜きが入っていました。
1969年の私のデザインは
福井テレビ20周年で新しいマークに変わりました。
今では決して見ることができない「テストパターン」に、
私のデザインは、まだレタリング教育中でしたが、
社会への最初の提示作品になりました。
賞金も覚えています。10万円です。初任給が4万円の時代ですから、
私はこの賞金で
カメラ「ニコマートと三脚とマクロレンズ」を買うことができました。
東京で交通被災をして体はボロボロになって福井にもどりました。
その時には、東芝でC.I.を徹底的に学んでいたために、
福井テレビにCIの申し込みをしましたが、理解をえられませんでした。
ところが、テレビ局は今も2局しかありませんから、
福井テレビに私がCI提案をしている話が福井放送=FBCにも聞こえ、
福井テレビでは採用されなかったCIを
福井放送で新たなマークからCI全般を担当しました。
だから、当時は高校時代の友人には、
「お前は嫌なやつだ。深夜テレビ終了時に、
福井テレビも福井放送もお前のデザインで終わる」と言われる羽目でした。
2.3年前には福井放送も私のデザインしたマークは終わりました。
福井放送のマークを
私のデザインのままでと主張してくれる社員の方々もいましたが、
私は「時代とともにマークのデザインが変わって当然」と応えました。
グラフィックデザインでは決してやれないデザイン分野は、
今やユーザーインターフェイスや
エクスペリエンスデザインがあるように、
マークに動画性を持たせることだと思っています。
 FTB=ftbマークは、
最初のデザインから微調整的に変更されましたが20年使われました。


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7月23日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 23rd, 2013  Posted 7:07 PM

7月23日庚寅(先負)

相変わらず、
体を酷使しているのかもしれない。

今やっておかないと時間がないと、
何かが私にささやきかけてくるのだ。

『デザインの極道論』量感


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「読書の季節・ダイアグラム的な一つの論理かも」


   


     10月 14th, 2012  Posted 12:00 AM

昨夜は、久々に恩師と長電話で近況報告。
気がついたらブログアップをすっかり忘れていました。
急遽、漢字遊びを
図解=ダイアグラム化を思いついてそのままをアップしました。
そして、フッと思いついたのは「本」という漢字でした。
「読書の秋」です。
ともかく、読み残すことが段々と増えているこの頃です。
「ツン読」一方の寝室には、ワイフにいつも叱られてばかりで、
ついついamazonで本は買うだけツン読三昧なのです。

さて、昨夜の言い訳をまことしやかに語り切ります。
「体」かた横棒を一本抜けば「休」という漢字です。
「木」は素材とか対象物を表しますから、
その対象物に一本の極めつけが入れば「体」になり、
その一本を抜き取れば、「体」が「休」まるということ。
そうなれば、「本」は・・・となります。
きっと、故事づければ、こんなダイアグラムになりました。
休むために、抜き取った横棒一本が、
「木」=対象物(思考対象)に極めつけを入れてくれるのでしょう。
これこそ、私なりの「読書の秋」のダイアグラム的な解釈、
その視覚的な論理構造だと断言しておきます。


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「オーバー機能であっても、存在価値の美しさ」


   


     8月 18th, 2012  Posted 12:00 AM

プレゼントされたB&OのBeoTimeという目覚まし機器です。
久しぶりに、この機能を自宅内でどこまで可能化を試しました。
時計、アラーム、照明機器の設定、TV、オーディオまでが設定可能です。
しかし、これらを全て使うということはわが自宅ではできません。
アラームでオーディオシステムでアラーム・目覚ましになります。
だから、この機器はほとんどオーバー機能だと思います。
ところが、モノとしての存在感はとても美しい姿をしています。
形態=体と用(ゆう)、これは世阿弥の言葉ですが、
用を「ゆう」と呼びます。
これは体というのは本質を表し、
その本質に対して用=ゆうは、外にあらわれてきている働き、
まさに用途ということですが、用途を超えた姿存在があります。
これは、能における美しさは「体」と「用=ゆう」と呼ぶことで、
優美さが本質からあらわれてくる様のことになります。
この製品の本質に実装されている用途は、
現実的にはオーバー機能になっています。
そのオーバー機能を超えて、
製品存在が優美=用を成しているということになります。
現在、プロダクトデザインで、
ここまでの存在感が有るモノは見かけなくなってきたのが現実です。
私は、眠りの傍らに、このフルートのような形態を置くだけで、
目覚めの用=ゆう=優美さに繋がると思っています。


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