kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘役割’


「 Facebook、ましてBlogにも未来はないだろう」


   


     6月 24th, 2012  Posted 12:00 AM

最近はすっかりTwitterを離れています。
やはり、信頼感ということではFacebookです。
基本は、Facebookの「実名主義」にありますが、
これとて、いくつかの名前を使い分けていることなど、
それは容易く見極めることができます。
少なからず、自分なりのコミュニティ設定は、
ハンドルネームで誹謗中傷する輩との厄介な接触は不能です。
Twitterという「ツブヤキ情報」=条件反射記述、
このいい加減さは、ハンドルネームにも顕れていますが、
要は人間性・人格性を、
この情報化社会=劇場社会での実際は、
自分自身の「存在性・アイデンティティ」を
ハンドルネームで自己否定する程度ゆえ、
ほとんど、社会的な発言性の重量感はあるはずがありません。
しかも、こうした発言者と発言内容などは、
ほとんど街中に氾濫している監視カメラ的に徹底監査されています。
私は、もうすでにBLOGという形式も「自己表現」としては、
時代遅れになりつつあることも自覚していますが、
どんなにバーチャル空間であっても、
そのバーチャル空間での「役割=自己存在」と「自己統一性」とは、
つまり、それは「誠実性」を自分自身へ問いかけるものです。
これこそ、
自分を決して見失わない最良(最適ではなく)の方法と手段でしょう。
国学の始祖である本居宣長にまで、
私たち日本人は、その人間的倫理性=誠実さの希求法が大事です。
本居宣長に遡及すれば、
「学問とは誠実さを鍛錬する最良の方法」ということになりますから、
現代、学問・知識・良識への情報化に差し向ける自分存在の確認、
すなわち、
自分への誠実さはSNSという形式にも埋め込めるかも知れません。
それならば、SNSという形式とは、まさにその内実・内容です。
だとするなら、「実名主義は確かにその一つに近接」しています。
けれども、
おそらくBBS(電子掲示板・Red Ryderが創設した理想はもう皆無)や、
TwitterそしてFacebookも形式でしかなく、
その内容はまだまだ
人生夢うつつ=空虚なる空間と断言しておくべきでしょう。
ましてこうしたBlogの形式もいわゆる自筆筆記ではなく、
記録された形式にはなりえないかもしれないと思い始めています。
こうした思いに囚われ出したのは、
すでに私に残された時間がささやいています。


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「『華麗なる賭け』のように・・・とはいかず」


   


     5月 6th, 2012  Posted 12:00 AM

小学校から、将棋・囲碁・麻雀を父から教わりました。
父はこうしたすべてのゲームをマスターさせたかったのでしょう。
ところが、この三つはどうしても好きになれませんでした。
将棋はそれなりに面白かったのですが、
負けると悔しいことや、もう一度生き返るゲーム性が嫌でした。
しかも囲碁も麻雀も座位でのゲーム性が好きになれませんでした。
映画の名作に「華麗なる賭け」があります。
原題の「トーマス・クラウン・アフェアー」でリメイクされた映画です。
スティーブ・マックイーンとフェイ・ダナウェイが、
チェスをする場面があります。
この映画での二人の取引をたまらなく象徴する場面です。
それを観てから、チェスにのめり込みました。
しかし、我ながら下手くそです。
パソコン相手だと、とてもかないませんが引きつけられます。
となれば、私の習性はチェス収集にも向かってしまいます。
これは携帯用ではおそらく最も工芸的な物だと思います。
エルメスの木工技術が駆使されています。
しかし、もう一工夫が欠落しています。
マグネットでチェス盤とコマがくっついてくれれば飛行機内でも遊べます。
あえてそうしなかったのだろうとも思いますが、
これでは「装飾的」にすぎません。
バウハウス時代のモダンデザインは、コマの役割を覚えるのが困難です。
最も使いやすいのは玩具になっているプラスチック製が機能的です。
しかし、本格的にそのゲーム性を楽しむには、
やはりアンティックな物を海外で探しています。
もう喫煙の時代ではありませんが、シガーやパイプタバコ、
そしてブランディが一番チェスには似合うのかもしれません。
ともかく、今ではチェスはMac上で戦っています。
かって、Apple社に「Mind Top」をプレゼンしたときに、
景品アイディアとして、
そのパソコンと同じ大きさのチェスセットも提案しました。
そして、プレゼン後の私の味方連中の評価では、
あのチェスセットまで周到なプレゼンが嫉妬になったということでした。
日本の将棋界でトップクラスのある人が、
世界でも5指内に入るスターだということはあまり知られていません。
「クゥイーン・ガンビット」=先手を打つ、
これは、私の著作タイトル
デザインという先手・日常的なガンビット」になっています。
「シシリアン・ガンビット」という心臓病の治療方法もあります。
チェスは上手くなりたいゲームです。

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3月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     3月 9th, 2011  Posted 10:00 AM

3月9日 赤口(癸亥)

まだまだ、
デザインとは何か、
何がデザインかということや、
デザイナーの役割や職能は
理解どころか認知もされていない。

『デザイナーは喧嘩師であれ』あとがき


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『資本主義からの逃走』
「Master-SlaveとClient-Server、
    関係性の呼称が恣意し示唆すること」


   


     2月 8th, 2010  Posted 12:30 AM

呼称は時代を隠喩

前回に、Serverの種類について、一気に記述。
そうしたら、やはり、「超・突っ込み」を受けました。
スペル間違いや、人物特定などです。
でも、ここまでを批判できる人物はやはり専門家です。
それが学者にはなぜできないのでしょうか、
無視しているほど、見下げていると考えられます。
すでにこうした連中を学者というのは、
学者職能が大学内職名・TVコメンテーターだからです。
本当は知らない。わからない。使えないのです。
資本主義の限界は、明らかに言葉に表れてきています。
資本主義の支配・被支配関係、
つまり、資本家・労働者という富分配の格差関係です。
クライアントとサーバーという呼び名には、
統治と役割や依頼と受諾などなどの隠喩性とみれます。
マスターとスレーブは、私も、人工心臓の分散化に、
コンセプトとして、主機能統合と分散機能配分などで
呼称展開に引用しました。
主従関係や統合分配に、コンピューター用語ですが、
「分配」機能性を表現する言葉として、
この逆読みで、呼称意味の恣意性と示唆性を、
● 経済的な富の分配=利益構造の差異性
● 産業構造での役割=権限制御の効能性
● 文化格差の再構築=格差品性の表現性

として、
これらを資本主義の革新に差し戻すヒントです。
だから、私は、コンピューター技術、その用語・術語には
そのサイエンス性やユーザビリティ性から、
資本主義からの逃走どころか、
「解放」社会をなんとしても引き込みたいのです。
それを、いの一番に可能ならしめることが、
「日本だからできる」という
自負感覚を誇りにしていきたいと思っています。


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『資本主義からの逃走』
 「bit社会は空間的認識ー建築的思考結果だった」


   


     1月 27th, 2010  Posted 10:00 AM

CITY OF BITS
Bit=Binary digitalという認識は、
MIT建築学部長・William J. Mitchellの
「City of Bits」だった。
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私はこの翻訳本の書評を建築系雑誌に求められた。
工業デザイナーの私ではなくて、
これは「建築家」が書評すべきではと申し出ました。
ところが、これは「建築家」の役割が
大きく変革するという内容でした。
文章の一節一節にも、
タイトルはバイナリー(2行)という表現でした。
私は、大きなショックを受けました。
「私はこの文章をキッチンで書いている」
「私はこの文章を研究室で書いている」
・・・・・・などで、
その時、「空間は消滅していることを知る必要がある」。
この翻訳本は、日本建築学会でも確か「特別賞」を
受賞したと思います。
そして、著者は、MITに建築学部とは別個の学科を
創設するに至っています。
私は、空間論にbit思考がまとめられたことは、
まずBit資本−建築−空間-生活という脈略に
一つの思考の見解をまとめたものとして、
とても評価しています。
ところが日本の建築界には、
この著作内容をまともに受け止めていないから、
未だに、建築意匠・建築構造・建築計画・土木などが、
統合的にbitsへの取り組みは遅れてしまっている。
したがって、その結果がほとんど
「世界建築コンペに敗北している大きな要因かも知れない。」
「空間認識にBITS思考」は不可欠であり、
それがBit資本の一つであることは間違いない。


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『資本主義からの逃走』
  「日本の国際的立場、その再編にはNoblesse Oblige」


   


     1月 4th, 2010  Posted 8:00 AM

Noblesse Oblige

昨年は米国と韓国で、DESIGN made in Japanを
アピールとプロパガンダしました。
また香港投資銀行のあるファミリー企業から依頼されて、
Clinton Global Initiativeのプロジェクトに加わりました。
そして、グッドデザイン審議委員会にて2年間、
「日本のデザインをGマーク制度を運用しての国際化」、
その議論を相当にしました。
その視座から見えていたのは、
あらゆる「モノづくり」ほとんどすべての業態や産業が、
世界から注目されてはいないという現実でした。
大学では、「関西海洋教育アライアンス」を担当しました。
Ship of the Yearの審査委員にも推挙されました。
そこでも、日本の海事・港湾・造船領域が、
世界的立場を危うくしていることでした。
こうしたすべての現実に、産業界・経済界がともかく
国際化不能にしているものの正体を見たことでした。
それこそ、「日本の資本主義構造」を、
制度化と慣習化と革新化を怠ってきた問題が余りに多い、
ということでした。
この惰性的で怠惰性はデザイン界も同様でした。
昨年のGマーク賞の審査でもこの怠惰性が露見しました。
私は、デザイナーの美学は、
デザイナーの見識と良識だと思っています。
それはデザイナーという職能だけではありません。
まず、「自分の役割」とか「自分の責務」が前提です。
とても現代では死語扱いになっている「献身性」です。
たとえば、グッドデザインの審査委員は、
少なからず、建築・グラフィック・プロダクトなど
デザイナーとしては選ばれたある種のエリートです。
こうした人達に、まず求められるのは、Noblesse Obligeです。
それを尽くしてはじめて、
「わがデザイン」であるべきだと思います。
そんなことも欠落した者を
私は今後決して「デザイナー」とは呼ばないでしょう。
高校時代だったななら、
きっと、必ず、「殴っていたでしょう」。
そんな輩が、デザイン界だけではなく、
本当に、この日本中に増えました。
「この企業は、もう駄目だよ」って、スタッフに伝えると、
必ず、そんな企業は「倒産」=会社更生法適用となります。

Principle

日本は、まず「日本人であるPrinciple」あってこそ、
新たな「日本的な資本主義」、
それはきっと、「これまでの資本主義」を廃棄する勇気であり、
あらたなNoblesse Obligeだと考えています。


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『資本主義からの逃走』
 *「志」ある者たらんとすべし*


   


     11月 9th, 2009  Posted 9:57 AM

「新渡戸国際塾シンポジウム」に参画しました。
国際文化会館で開催されました。
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最近はなんといっても、
この会館は、私の東京の仕事場です。
ここは恩師の推薦で会員になりました。
もうすっかり、会館の方々とは仲良しです。
シェフは、私の「好き嫌い」も見抜かれていて、
深夜にたどり着けば、夜食をいただいたり、
風邪っぽいと、特製の飲み物をいただいたりという
とても心地よい場になっています。

東京の中心でありながら、すばらしい緑に囲まれ、
美しい庭園をながめてひたすらスケッチできる場です。
デザインの会議やプレゼンテーション、研究会議まで
お世話になっています。
この会館の生い立ちは、ともかく国際交流や海外からの
学者・芸術家のホテルにもなっている場所です。

「新渡戸国際塾」に入塾するには高度なテーマで、
その論文審査があります。さらに面接です。
そしてバイリンガルでなければ塾生にはなれません。

今回は、その第一期生企画のシンポジウムで、
テーマは「日本の突破口を探る」という難解な課題に、
まずパネリストとして、15分間議論への私論を
プレゼンテーションしなければなりませんでした。

いつもの私流のために、親友である撮影監督の柏原氏に
人工心臓3rd-Modelを撮影してもらいました。
もうたまらなく美しい映像を
撮影そして編集してもらいました。

ともかく、私は、PKDとBOPへのデザイン実務への「志」を語りました。
塾生は、これからのリーダーになっていくことを、
自らも自覚し、周囲からも期待されている世代です。

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につきると思います。
撮影監督の柏原氏は、
大事件でのスクープ撮影では、伝説をなし、
世界遺産を撮り、今、最も美しいCFは彼です。
その彼と私には共通することがあります。

http://frameof28mm.blogspot.com/2009/10/blog-post.html
撮影監督の映像制作ブログ Frame of 28mm
「図書館の人々」を読んでください。

彼は、独立して、どれだけ芸能関連やワイドショーに
関われば、プロダクションとして自立できるかを
知りながらも、一切、関わらなかったプロです。
私もこの仕事をやれば、金になるのだが・・・
ということを拒絶してきました。
私は、幾たびも、デザインが実現しなければ、
デザイン料をクライアントに突き返してきました。
今も、その信条はくずしたくありません。
「志」が狂えば、「美」は遠のいていくのです。
自分の役割と責務を放棄するデザイナーなどは、
殴り倒したいとすら思っています。
そんな勝手な輩がデザイン界にいることは無念です。

「新渡戸国際塾」のみなさん、「志」です!
自分には、嫌いで、嘘っぽくて、損をしても、
「正しい」ということに、
命をかけられるか、でしょう。
人道と人情の話、民主主義の正しい解釈と有り様を、
国際的に発言し、実行しているパネリストの方々から、
新たな勇気とかつてからの「志」に目覚めました。

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